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旧譜カタログ チャイ5 殿堂入り 交響曲 管弦楽 協奏曲 器楽曲 室内楽 声楽曲 歌劇 バロック



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チャイコフスキー:交響曲第5番
ロジャー・ノリントン(指)SWRシュトゥットガルト放送交響楽団
第2楽章ホルン・ソロ:
Hanssler
93-254
録音年:2007年9月20&21日シュトゥットガルト・リーダーハレ・ベートーヴェンザール【デジタル・ライヴ】
演奏時間 第1楽章 15:31 / 第2楽章 12:15 / 第3楽章 5:59 / 第4楽章 12:13
カップリング/「くるみ割り人形」組曲Op.71a
“独自カットも出現!何があっても終楽章までお聴き通してください!!”
先にCD-Rでも発売されていた録音の正規発売。CD-R発売時にコメントしようと思いながら遂に今まで腰が引けたままでした。というのも、よくも悪くも問題提起する箇所が膨大で、しかもネガティブな印象だけならまだしも、ここでしか味わい得ない魅力も気づくにつれ、ノリントンの真意、ノン・ヴィブラートの功罪等々、悩ましい事態が続出したせいなのです。今、無理やりこの演奏を結論付けてコメントしようとしていますが、ノリントンがベートーヴェンやシューマンの交響曲とどうレベルの共感を持ってこの作品に接したのか、それは未だ確信がもてないことをまず告白しておきます。
ピリオド・アプローチによる「チャイ5」は、これ以前にもCD-Rでアイヴァー・ボルトン盤が出ていましたし、ノリントンの今までの傾向から大まかな想像はできていましたが、演奏の全体像を一言で言えば、極めてデジタル的で知性の優った演奏、ということになると思います。どこか感情を作品に投入し切れないもどかしさが付きまとい、ノリントンともあろう人が自分で納得いかない作品を安易に取り上げることはないはずですし、そもそもなぜこの作品を取り上げたのか、いまひとつ理解できないのです。ただ、チャイコフスキーの中に入り込むのではなく、自身の感性と方法論に作品を引きつける事に重点を置いたことは確かなようです。
まず第1楽章。副次主題の長い音価を引き伸ばす箇所は、さすがにノン・ヴィブラートは不利。単に耳に違和感が残るという意味からではなく、情緒が伝わって来ないで、チャイコフスキーとノリントンの趣味の乖離ばかりが目立つのです。展開部最後のフォルティッシモも血の気が欠如。ここまで聴き終えた時点では、ノリントンがこの作品をどう捉え、どういう感銘を聴き手に与えたいのかがまったく見えません。
第2楽章は、ピチカートが始まる直前の99小節からの運命動機のトゥッティで、チューバの合いの手がなんと貧弱ななこと。チューバという楽器にも、このカロリー価の高い音の作りにも、ノリントンには受け入れがたいものがあるのでしょうか?ところがこの直後嬉しい発見が!ピチカート以降の弦の切ないフレージングで、今度はノン・ヴィブラートがそっと独白するような孤独感を表出するのです。この箇所を聴いて、用いる演奏スタイルが的確なものであるかどうかは、結局は作品によるのだということを強く感じました。つまり、自分のスタイルに固執するなら、そのスタイルにマッチしない作品は取り上げるべきではないし、逆に作品の持ち味によって自身のアプローチを柔軟に変化させるしか方法はないと思うのです。ただ、こんなことは昔から言われ尽くされてきたきたことで、バッハにはバッハの、ショパンにはショパンの様式というののがあるのです。ただその枠組みを超えて、バッハをショパンのように演奏しても説得力のある演奏が生まれる場合もあるのはご承知のとおりです。しかしここでのノリントンの演奏は、チャイコフスキーに埋没せず、かといってノリントンのスタイルに作品を完全に引き寄せ切れてもいない、その点が問題のよな気がするのです。楽器の奏法にせよ声の出し方にせよ、曲想にマッチしたものを選択することがまず肝要なのではないでしょうか。なおこの第2楽章では、理解不能の3小節のカットが出現!これは、チャイコフスキー特有の執拗なまでのロマン性から少しでも逃げたかったのか?と勘ぐりたくなります。
第3楽章は、冒頭から誰も思いもよらないアーティキュレーションやアクセントを施して興味深い現象を生んではいますが、オケの音色を限りなく単色にしてしまう手法のせいで、作品の味が半減。
終楽章は冒頭から確信犯的なノン・ヴィブラートの応酬。伝統的なイメージに縛られないのは大いに結構ですが、自身の手法をそこまで押し通さなければならない必然性が感じられないので、「なんだか面白い響き」という以上のものが伝わって来ません。ところがなんとその後、今までのほとんど負のイメージを反転させる事態が出現します。声部バランスの良さ、オケの機能性を最大限に発揮した雄渾な響きの素晴らしさは、前3楽章からは信じられないほど。70小節からの木管のアンサンブルの見通しの良さも、誰も気に止めない74小節冒頭の木管の急速な3連音の駆け上がりの生かし方も、チャイコフスキーが聴いたら狂喜することでしょう。テンポこそ中庸ですが、ふっきれたような推進力にも満ちており、これはノリントンがその信念を曲げたわけではなく。まさに作品とがっちり握手ができた至高の音楽です!その証拠に、全休止以降の後半部分は、そこまでやるかと言いたくなるほどノリントン流の強弱法を徹底するのです。その純真さには思わず吹き出してしまうほどですが、それでも曲が死なないのは、まさに前3楽章との楽想の違いではないでしょうか?。
ノリントンはこの曲を愛していることは確かのようですし、作品によって独自のイマジネーションを封じ込めるような愚かな指揮者でもないいということを再確認できただけでも、これは意義深い録音でした。
第1楽章のツボ
ツボ1 クラリネットの冒頭は心を込めているように聞こえるが、ノン・ヴィブラートの弦や、テヌートの記号が付いたクラリネットの下降が機械のスイッチを押すように無機的なことによい、このテーマ全体がフレージングとして生きてこない。現に入念な強弱の指示を与えていることから。決して共感していないわけではないと思うが、音楽的な魅力につなげるに至っていないようんだ。
ツボ2 テンポは標準的なもの。最初の弦の刻みにクレッシェンドとディミニュエンドを盛り込むのが画期的。しかし、音の強弱以上の音楽的な感興が伝わってこないのが残念。管の音色は限りなく無色。
ツボ3 スラーは全く意に介さない。
ツボ4 エネルギーの減衰もトーンの変化も示すことなく、説明的な音の運びに終始。
ツボ5 デリカシーは感じるが、スラーの分割を介さず、その背後に隠れた心のひだにも触れることない大まかなフレージング。
ツボ6 ノン・ヴィブラートの致命傷が露呈。ヴィブラームスーとを用いずにこのアニマート部分の切実な焦燥感を再現するためには、よほど特殊な手法で音に思いを込める必要があるのではないか?
ツボ7 弦の質感はそれなりに伝わるが、パッと花開くような閃きに欠ける。
ツボ8 丁寧に歌ってはいるが、ここには憧れもメランコリーもない。
ツボ9 明瞭に聞こえる。
第2楽章のツボ
ツボ10 この冒頭の弦も第1楽章副次主題同様にノン・ヴィブラートの限界を感じるばかり。とにかくフレーズが横に流れないないので、音の強弱の振幅も、水道の蛇口を締めたり緩めたりしているような操作性しか伝わらないのだ。ホルンは技巧は万全だが、ところどころで先走ったり、気軽に流れがちになるのが残念。
ツボ11 ティンパニの強固な打ち込みがずしんと響くが、それは一瞬の出来事で、大柄なフレージングには血の気が感じられないので、聴き手の心に届かない。
ツボ12 極めて正確かつ明確な吹き方。全くロマンの欠片もない!クラリネットもファゴットも同様な吹き方なので、これもノリントンの感性が徹底的に浸透している証だろう。
ツボ13 第1楽章主部冒頭と同様に、細やかに強弱を付加。ここでは不思議な余韻を残す効果をもたらしている。それのみならず、これ以降の副次主題の再現シーンは、訥々としたオーボエと弦のノン・ヴィブラトも含めて、切ない心情がひしひしと伝わって来る点に御注目。やはり楽器の奏法の選択とは、あくまでも楽想によって決定付けられるべきではないか、と改めて痛感。
ツボ14 新たなカット出現!145〜147小節に繰り返し部分をごっそり割愛。編集ミスでもないようなので、この改変は全く理解に苦しむ。フォルテ3つの頂点に至るまでの距離が短くなってしまったために、そこに至るまでのチャイコフスキー特有の粘着質のゆらぎが完全に抹殺されてしまっている。
ツボ15 デリカシー満点。ノリントンが目指しているだろう「ピュアさ」が曲想と意外にマッチしている。
第3楽章のツボ
ツボ16 冒頭で若干テンポを落とす。フレーズ結尾のアクセントを忠実に守って効果を挙げている。
ツボ17 カップリングの「くるみ割り人形」もそうだが、アンサンブルは精妙にもかかわらず、細かい走句で音楽がウキウキと沸き立ってこないのはどういうわけか?
ツボ18 かなりむき出しで明瞭に聞こえるが、橋渡し部分まで露骨に聞こえてしまい、一本のラインになっていない。
第4楽章のツボ
ツボ19 爽快なテンポで開始するが、ノン・ヴィブラートを誇示するかのようにぽつぽつと音を切るので、息切れしている子供のような妙な印象を与える。しかもテヌートの指示がある音符まで短く切り詰めるのは、どういう意図があるのだろうか?
ツボ20 ホルンは最初は完全に裏方で、木管のみがピコピコと頑張る。後にホロンも浮上。注目すべきは、テーマに含まれる2つの16分音符の吹かせ方。32分音符の縮め、それによって、テーマ全体が軽くスウィングする。古いスタイルの録音に稀に聴かれるスタイルだが、ここでは時代のなせる技というよりも、ストコフスキーの明確な意図を感じさせる。ちなみに、その徹底ぶりに差こそあれ、これは後年の録音においても見られる現象である。
ツボ21 冒頭にティンパニの一撃。後はスコアどおりのクレッシェンド。テンポはカラヤンに近い。
ツボ22 完全に履行。
ツボ23 明瞭に聞こえるが、室内楽的で力感には欠ける。
ツボ24 主部冒頭と同じテンポ。
ツボ25 ほとんど聞こえない。
ツボ26 そのままイン・テンポ。
ツボ27 直前で大きくテンポを落として、再び主部冒頭のテンポ。
ツボ28 8分音符は完全にスコアどおり。最後のティンパニの響きの素晴らしさ!
ツボ29 これも前代未聞!1小節ごとにアクセントをつけて、あからさまに拍節感を強調。後に登場するトランペットが高らかに動機を吹くシーンでもこれを実行しているがノリントン的過ぎて笑える。弦の運命動機は当然ながらノン・ヴィブラートの特色が全開となるが、これを聴くと、このような開放的な楽想にこそ相応しい奏法に思える。但し極度に清潔な響きと勇壮な推進力にギャップを感じることも確か。
ツボ30 トランペットも弦もレガート気味に演奏。
ツボ31 意外にも改変型!
ツボ32 実に明瞭。
ツボ33 ここに至っても拍節感を遵守。潔癖の極みとも言えるイン・テンポで締めくくる。


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