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クラシック/評伝・エッセー 【ア行】
朝比奈隆・追悼特集〜最後のマエストロ
河出夢ムック 河出書房新社 税別\1,143
“朝比奈芸術の全てが、これ一冊でわかる!”
特に朝比奈ファンというわけではない私が一気に読んでしまったほど、興味尽きない一冊。朝比奈隆の芸術性の根底にあるものを改めて思い知らせれます。最初に掲載されている、息子の千足氏が父へ送るメッセージ「父へ」では、仕事が忙しくて、幼い頃はなかなか遊んでもらえなかったことや、クラリネットを与えられて、そこから音楽に目覚めたことなど、偉大な音楽家の息子に生まれたことの悲しさと感謝の念が入り混じる文章が心を打ちます。各紙に発表したエッセイからのセレクションも豊富に掲載していて、フルトヴェングラーやカラヤン(特にBPOのティンパニ奏者テーリヒェンが、著書の中でカラヤン批判を繰り広げているのに対して同情的なのが面白い)との有名な思い出話をはじめ、あまり注目されることのない、ハイドンの作品に対する一貫したビジョンを知ることが出来る点でも貴重です。若手指揮者への厳しい警告も印象的。また、歴史考証的な演奏に対して、「私は専門が違うので、やりたい方にお任せする」と言い切ってしまうのも、実に痛快!TVインタビューでもかなり歯に衣着せぬ、しかし全く嫌味でない発言に、ついつい引き込まれたものですが、文章になるとさらにヒートアップして、こだわりの職人気質が炸裂です!
〜本文中の名言〜
・きたない棒の方が、オーケストラ鳴るんじゃないかなあ。-朝比奈隆(58頁) ※佐渡裕との対談のひとこま。こう言いつつも、齋藤秀雄の業績は讃えている。
・pをfに書き直したりすることは、演奏家の恥だと思うんです。-朝比奈隆(105頁) ※バランスをとるというのなら頭の中で操作すべきで、書き込んでしまうと嘘になる、という朝比奈らしいこだわり。
・感動しなきゃ芸じゃない。-朝比奈隆(153頁) ※宇野功芳氏とのの対談の中でのひとこま。本番は、オケと討死に覚悟で臨んで初めて感動が得られるという、朝比奈ならではの無骨なまでの精神論!

いいたい芳題
宇野功芳:著 学習研究社 税別\1,600
“今の日本の現状を憂える宇野氏の叫び!”
読響の機関紙に連載してきた宇野氏のエッセイを中心にまとめたもの。まず、今まで様々な形で主張してきた音楽家の素晴らしさを、ここでは別の角度から掘り下げているのが特徴的。例えば、ハイドシェックは、フランスでの歓談のひと時の光景から、彼の人柄と、フランス人の「粋」についても語り、ムラヴィンスキーについては、その時(1998年)に出たばかりのビデオの映像から、、彼の偉大さに改めて光を当てる形がとられています。他にもヴァントワルター朝比奈といったお馴染みの顔ぶれが登場(クナ、シューリヒトは出てこない)しますが、ファジル・サイインマゼール諏訪内晶子といった、一見宇野氏の趣味ではなさそうな現役演奏家にも光を当て、個人的な好みを超えて、芸術的な説得力を持つアーチストについては広く知らしめるという評論家としてのバランスもしっかり保たれています。音楽以外の話題も豊富で、落語戦時歌謡、電車の話題に加え、四柱推命に凝っているという意外なネタまで披露。しかし何といってもこの本を通じて音楽ファンに伝えたかったことは、序文と最後の章で述べられている、音楽の本来のあり方に今一度気付いて欲しいという熱い願いでしょう。特に序文は、CDの売れ行きが落ち込み、コンサートでも空席が目立つようになった現状を説明した上で、今の音楽業界(クラシックに限らない)のビジネスライクな発想によって垂れ流される音楽(らしきもの)に騙されず、自分の審美眼をしっかり携えて音楽に対峙すべきだと説き、その音楽環境の低迷の原因を決して時代のせいにしてはならないと警告しています。隅から隅まで完全に賛同です(このサイトを立ち上げた最大の動機もこの辺りにあるのです)。送り手も聴き手も、その意味どおりのことを続けていれば、何も問題はなかったのですが、それを維持できなくなってしまった現実があるのです。その現実を生み出した根本原因を断ち切らない限り、状況が良くなるはずがありません。それは「商業主義」。しかも、過剰な利益至上主義です。究極的には「全く売れなくてもいいから良いものを発売する」のが理想ですが、それでは大企業が成り立ちません。せめて「内容重視型」の音楽に関しては、儲けよりも使命を優先させるべきなのです。では、一方で聴き手はどうすればよいか?“批評とは”という章で、以前に宇野氏が「批評は主観でよいのだ」と書いたことに対して、「批評を好き嫌いでするとはけしからん」という反論が読者からあったということで、改めてその言葉の真意を丁寧に説明し直しています(よほど不本意だったのでしょう)が、そもそもそういう反論をする感性自体が、良い音楽に触れたいという感性とは異質なのではないでしょうか?批評するからにはまず聴かなければ話になりません。聴いたら「感じる」という心理作用が働くのですから、「主観」であるのは当然です。一般の音楽ファンならば、その主観にどっぷり浸って気持ちよくなっていればよいのです(それができずに、変に屈折している人も多い)が、評論となると文章化するという知的な作業がそこに加わり、ここで初めて「客観性」が必要になるのです。第一、好き嫌いは言葉で説明できません。執拗なまでにクナやシューリヒト等の素晴らしさを伝え続けているのも、他にそれを感じて、客観的にその魅力を説明できる人が居ない現実を見据えてのことではないでしょうか?最後の方に“自虐史観からの脱却を”という、これまたSAPIO的な意外な章が登場しますが、これなども結局、日本人の感性低下の問題に行きつくのではないでしょうか?そしてそれを生んだ原因こそが、物を過剰に溢れさせてあとは知らんふりの商業主義だと思うのです。
〜本文中の名言〜
・われわれは、音楽のことしか考えていないのに。-宇野功芳79頁) ※宇野氏本人や、藍川由美が戦時歌謡をテーマにした演奏会を開くと、軍国主義者のように言われることについての嘆き。こういうことを言う人も、音楽とは縁のない人なのでしょう。本当に戦時中の歌謡曲は、宝の山です!
・それは僕を誤解しているのだ。-宇野功芳(119頁) 諏訪内晶子を素晴らしいと言ったことを意外に思った人へ。
・知識や情報がありすぎると、それにしばられ、作曲家が暗号に託した想いを感じられなくなってしまう。-宇野功芳(136頁) ※これも、以前から宇野氏が言い続けていること。しかし、音楽をまず「頭」で認識したがる人は後を絶たない。

イスラエル・フィル誕生物語
牛山剛:著 ミルトス 税抜\1500
“音楽を生み出す根源的な力について考えさせられます!”
1936年に第1回の演奏会を開いてから今日(20世紀末)に至るまでのイスラエル・フィルの変遷を、様々な巨匠のエピソードを交えながら綴ったもの。イスラエル移民によるオーケストラを何としても立ち上げたいというチェリストのワイスゲルバーの熱意と、ユダヤ人が劣等人種だという偏見を打ち砕くためにも、ユダヤ人のオーケストラを作りたいと願っていたヴァイオリニストのフーベルマンの夢が合致して、めでたくパレスチナ交響楽団の名で誕生することになるのですが、その後現在のような世界レベルのオーケストラになるまでの道のりは決して平坦なものではなく、常に戦争と隣りあわせで、それに立ち向かう熱い信念を持った巨匠たちの尽力がこのオケを支えられてきたのでした。これを読むと、本当の感動的な音楽というものは、平和な中からは生まれないのではないかとさえ思えてきます。設立当初の団員、そして指揮者、聴衆(全くクラシックを知らない兵士なども含め)にとっても、音楽がほとんど唯一の生きる糧であり、命そのものだったのです。つまり、音楽を通じることで自我を確認するしかなかった、そういう時代だったのです。オープニング・コンサートを振ったトスカニーニは言うに及ばず、設立功労者のフーベルマンは異常なまでにテンポにうるさく、戦後の窮地を救ったモリナーリは団員をぞうきんのように罵倒しながらも技術を向上させ、いつまでも慕われ続けたという話なども、「良い音楽を奏でる」という言葉の重みが、平和の中でぬくぬくしている状態でのものとは根本的に違うということを思い知らせれます。演奏とは、演奏者の人間性とは切り離せないものですが、民主的に皆と仲良くやることが大前提で、下手なことをすればすぐに組合から敵視され、それを恐れなければ小さくまとまっていては、自身の全てを捧げて良い音楽を育むことなど、本来できないはずです。しかし今の私たちはそんな中から生まれた音楽を聴くしかなく、その範囲内で感動を探すしかありません。しかも聴衆の側も、音楽を生きるか死ぬかの次元で位置づける人もいないでしょう。従って、トスカニーニのような演奏は、今後聴くことは不可能なのです。しかしだからと言って、激しい戦禍の中で音楽を聴くことなど誰も望みはしません。その辺の微妙な兼ね合いをバランスよく取っているのが、ズビン・メータなのでしょう。第3次中東戦争時にオケの危機を救ったり、ワーグナーの再演を果敢行うなど、初期の巨匠たちと同等に偉大なヒーローとして扱われ、聴衆も彼の登場を常に待ち望んでいる、という記述もありますが、ここまで皆から指揮を熱望される理由は、彼をヒーローにする「国内情勢不安定」という環境と、その地で自分が本当に必要とされているのだという実感が一体となったから、と考えるのは軽率かもしれませんが、何かそこには音楽的な感動とは違うものが入り混じっているような気もします。いずれにしても、物が溢れ、何でも簡単に手に入る環境の中からは本物は生まれない、ということを感じずにはいられません。
〜本文中の名言〜
・ここでテンポを決めるのは私だ-イグナッツ・ヌマルク(47頁) ※ポーランドの指揮者ヌマルクは、フーベルマンのテンポに対する注文の多さに辟易していた。これは、ヌマルクがトイレで用を足している時に、フーベルマンが無理矢理ドアを開けようとした時に言った言葉。
・アラブ人がそれほどの音楽センスを持っていたとは知らなかったよ。-トマス・ビーチャム(54頁) ※パレスチナ響に客演していたマルコム・サージェントが、イギリスに戻って、アラブ人たちから攻撃されそうになった、というのを聞いて、ビーチャム卿が痛烈な一言。
・指揮者の言うとおり、自分のセンスを使わずに、同じパートを専門家らしくそつなく弾いている他のオーケストラとは違う。-ズビン・メータ(138頁) ※イスラエル・フィルを指して言った言葉。




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