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クラシック/評伝・エッセー 【マ行】
ムラヴィンスキー 楽屋の素顔
西岡昌紀:著 リベルタ出版 税別\2,000
“初来日時から日本に惚れ込んだ巨匠の知られざる素顔!”
西岡氏の父君は、新芸術家協会でムラヴィンスキーの来日に尽力された人。その関係で、少年の頃からムラヴィンスキーの来日のたびにこの巨匠夫妻と家族ぐるみで親しく接してきた西岡氏は、ここで改めてその思い出をひも解き、ムラヴィンスキーの知られざる素顔と芸術の真価を伝えています。冒頭部分で、自分は評論家でもないし、この本はムラヴィンスキーを知らない人に向けて書いた、と言っていますが、これは謙遜で、ムラヴィンスキーの凄さを知って読むからこそ、ワクワクするというものです。1970年の大阪万博で初来日するはずだったのが、州共産党本部の嫌がらせで中止となったときのショック、その後の2年ごとの4回の来日公演を通じての感動体験をストレートな文体で綴っているのがまず印象的です。当時の評論家の言葉をを引用しつつ、自身の考えを述べるスタイルが中心ですが、言葉や表現は実に平易ながら、どれもがポイント突いていて、端々に西岡氏の並々ならぬ感性を感じさせ、実際にどういう音が鳴っていたのかが容易に想像できるのです。夫人の姿が見えなった途端に不安がったり、祝い事が嫌いだった巨匠に黙って誕生会を開き、大喜びだったという舞台裏の様子を知ると、極限の厳しさを誇る指揮姿とのギャップに一瞬戸惑いますが、そのギャップがあったからからこそ、その両面が光り輝いたのだと思えてきます。チャイコフスキーの5番の出だしに一度も満足したことがないという言葉もにも、改めてこの巨匠の謙虚さと芸術へ賭ける意気込みの凄さを痛感させます。なお、この本には、ホーミン著の『評伝ムラヴィンスキー』が随所に引用され、その訳者にして、ムラヴィンスキーの通訳として身近で接してきた河島みどり氏のことについても触れられており、この2冊はお互いに補完し合う関係にあると言えます。合わせて読むことで、いっそう裏の真実が解き明かされます。
〜本文中の名言〜
・人間にとって音楽は、どうしても必要なものではない。しかし、音楽がないことは不幸なことだ-ムラヴィンスキー(201頁)

名指揮者たち
デイヴィッド・ウルドリッジ:著、小林利之:訳 東京創元社 税別\2,800
“イギリスの指揮者、ウルドリッジが全音楽人生を投入した入魂作!”
ウルドリッジは、イギリスの指揮者、作曲家で、アイブズの伝記の著者としても知られる人で、この本は1970年にイギリスで発売されたものの翻訳。。ハンス・フォン・ビューローから、戦後派の指揮者にいたるまで、鋭い考察と見識で、その魅力と人柄について、時系列に沿って詳細に語られています。残っている文書や証言などから類推するだけではなく、自身の指揮者としての経験と、実際に自分自身がその指揮者に会い、演奏に触れた上で、芸術性、指揮者としての資質の評価がなされているので、文章の説得力が並ではありません。特に演奏を通じて評価をするとなると、個人的な趣味や主観を完全に排することは不可能ですが、ここでも、ウルドリッジ自身が知遇を得て、人柄、芸術性ともに感化されたエーリッヒ・クライバーの評価はひときわ高く、登場する指揮者達も、クライバーとの関わり合いを通じて語られている箇所が多く登場します。その指揮者同士の関わり合い、確執についても赤裸々に説明がなされており、そうなると当然その指揮者の人格面についての説明と、ウルドリッジの印象が添えられることになるのですが、その観察眼が実にも鋭く、人権問題にならないかと心配になるほど、あからさまに事実を伝えることに徹しているので、単なるドキュメントという以上に手に汗握ります。それでも、一人の指揮者の存在をどう位置づけ、格付けするかは、その人間性とスコアの読みの深さ、洞察力、演奏の感銘度などから総合的、客観的に判断する配慮がなされているのも特徴ですが、その結果、日本で必ずしも評価が高いとは思えない、クーセヴィツキーやスココフスキーの評価が極めて高く、シェルヘンやモントゥー、オーマンディなどに対しては、はっきりと二流の烙印を押しているのが印象的です。クーセヴィツキーの関しては、啓蒙・教育面での功績を高く評価し、ストコフスキーの関しては、アイブズの第4交響曲の初演の素晴らしさ、古典音楽に対する様式の確かな把握の点で絶大な評価をし、カラヤンのモーツァルトの価値を認めるなど、日本の評論家の傾向とは異なり新鮮です。モントゥーは、うぬぼれ屋で自己顕示欲の塊で、どう考えても「音楽的人格者」と呼べない、という判断も強烈なインパクトがありますが、ここで象徴されるように、どんなに音楽性が優れていても(実際、モントゥーはクーセヴィツキーよりも音楽的技巧は優れていると認めている)、指揮者としても使命感、オーケストラと対峙するに相応しい人間性というのが、ウルドリッジが指揮者の格付けを行う上での最大のポイントとなっているのは明らかです。これらが、ワイドショー的な皮相なものにならず、生きた証言としての説得力を誇っているのです。ウルドリッジは、最後の章で、名声も才能もある指揮者(ここではシッパース、マゼール)が、その義務を放棄しているとしか思えない演奏をした場合でも、評論家たちが当然のように高い評価を下すことに対して、「恐るべきは印刷された言葉の力である」と怒りをあらわにして、全体を締めくくっています。ウルドリッジはこの本を通じ、現役のプロの指揮者が今一度自分を見つめなおし、それを取り巻く音楽環境のなかに居る人に対しても、本質を見落とさないようにと警告を発したかったのではないでしょうか?指揮者の存在について、様々な角度から考えさせられる「生きた文献」としては、これ以上のものに出会っていません。
〜本文中の名言〜
・常に100%実行せねばならない。75%くらいではいけないのだ。-ウィレム・メンゲルベルク(222頁) ※オケの中で伴奏フレーズを奏でるときは少し控えめに、ソロを演奏する時は目立つようにしろという忠告。
・では泣くのだ!神の御名において泣くべきなのだ!-アルトゥーロ・トスカニーニ(238頁) ※トスカニーニがある奏者に、楽譜に何て書いてあるか詰問し、「ラメントーソ(悲しげに)」と答えると、このように言った。ウルドリッジは本文の中で、トスカニーニはオケに歌わせたのではなく、「歌うことを強制した」人、才能はあるが決して大指揮者ではない、と言っている。
・ここにトスカニーニが居合わせたらよかったのに…-ミヒャエル・ギーレン(435頁) ※1955年のミトロプーロス&NYOのウィーン公演で、「運命の力」序曲が演奏された時の感想。トスカニーニは、ミトロプーロスを日頃から罵っていた。
・指揮者としてもう一つ必要なものに恵まれていない-デイヴィッド・ウルドリッジ(448頁) ※ゲヴァントハウス管時代のノイマンを指している。


名指揮者との対話   
青澤唯夫:著 春秋社 税別\2100
“著者の鋭い突っ込みによって引き出された巨匠たちの芸術観!”
青澤唯夫氏は、1969年代の後半から雑誌、新聞等を通じて音楽評論を続けた人ですが、この本の中で今まで知遇を得たアーチストたちを振り返り、自身の音楽観も交えながら、今の時代に本物の芸術とは何か、ということを問い直そうとしているように感じられます。登場する指揮者は全部で18人。本人への取材、記者会見での発言などを盛り込みながら、各指揮者の音楽観の核心に迫ろうとするスタンスで一貫しており、特に自ら本人に取材した時に会話のやり取りの生々しさは、単なる聞き役ではなく、どこまでも食い入って本心を聞き出そうという一貫した姿勢は、執念のようなものを感じさせ、どの章も興味深いものばかりですが、特にインパクトが強いのはチェリビダッケ。読響に客演した際のインタヴューが中心になっていますが、この巨匠の音楽的な信念に共感しつつも、晩年になるに従い「やってはいけない」と語っていたことを自ら平気でやっていたことへの疑念を正直に綴っているのが印象的です。また、ほとんどの指揮者に対して、作曲者と自分の個性との両立のさせ方や、古楽器派の演奏に対する意見を引き出しているのも、著者の最大の興味の対象なのでしょう。その話題の場面は特に、指揮者の本音がぽろりと飛び出したりもします。その中で、ショルティはそんな話は興味ないとばかりに話題を変えようとする場面は、思わず吹き出ししてしまいましたが、逆に「作曲者のイメージは決して作曲後でも決して固まっているわけではない」と熱く語るロストロポーヴィチの話は、ショスタコーヴィチとの実体験を交えて話しているだけに説得力があり、楽器の選択にしても、「作曲家は未来を想定して作曲するもの。だから現代ピアノでソナタを弾くのは正しい」という発言は、マルケヴィッチが「作曲家というのは楽器の改良に後からついていくものです」という考えと面白い対を成していますが、両者とも後か先かの違いだけで着地点は同じで、むしろ、古楽器派人たちとのこの距離感はいったい何なのかと改めて考えさせられました。そんな中、ホグウッドの「バッハの本質についてなど考えません」という発言が目に飛び込みました。思わず目を疑いましたが、さすがに青澤氏も明確にこれに反論しています。カール・リヒターの「音楽的能力のない音楽学者が多すぎる」という苦言に対し、自分はそうではないと言い切れる人は今どれだけいるでしょうか?これこそが、青澤氏がこの本で一貫して言いたかったことのように思えてなりません。ちなみに、青澤氏はジュリーニ信奉者であることが随所に窺われ、コリン・デイヴィスが指揮したメンデルスゾーンの第4交響曲を例に出して、コリン・デイヴィスに比べたら、ジョージ・セルなど決して完成度は高くない言い切ったり、ゲルギエフを「野放図」と言い放つなど、自身の主張もかなり強固に打ち出しています。
〜本文中の名言〜
●「よい指揮者、悪い指揮者とかいったものはない。悪い指揮者は既に指揮者ではないのだ」-チェリビダッケ(3頁)
●「それは特殊な人がやる」-ショルティ(73頁) ※「小さな編成のオケを振ることもあるのか?」という質問に対して、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトではやるが、それ以前の曲は別世界の人がやる、または興味がないという意味だろう。
●「指揮者の役割は、聴衆を未知の世界に誘うこと」-ゲルギエフ(83頁) ※圧倒的力感を誇る点でショルティと比較したうえで、こういう発言をするのは野放図だと青澤氏は言い切っている。
●「ドイツ音楽の最盛期は19世紀だ。現在は枯れている」-ケーゲル(107頁) ※多くのドイツの現代作品を初演した人の言葉だけに重みがある。新ウィーン楽派の音楽は必ずルネサンスが来る、とも言っている。
「バッハの魅力は、カンタータに尽きる」-カール・リヒター(113頁) ※1979年の来日時、青澤氏の取材での発言。
●「私は料理人であって、コックというのは卵について精神的に考えるのではなく、割って料理するだけです」-クリストファー・ホグウッド(115頁) ※これに対し青澤氏は、優れた料理人は一片のパンにも背後に文化や精神を見ているはずだ、と彼に言葉に疑問を投げかけている。
●「カザルスみたいな人は出てくるでしょう」-ロストロポーヴィチ(126頁) ※個性的な大物が少ない中、そういう偉大な才能が今後登場する可能性があるか?との質問に対する答え。これは期待値を込めすぎているようだ。というのも現代はコピー人間ばかりだと嘆いているのだから。
●「ショスタコーヴィチは作曲した時の意図というよりも、私のテンポを楽譜に記していた」-ロストロポーヴィチ(128頁) ※楽譜を神聖化しすぎることの危険性と、演奏家の心の躍動を理解できない批評家への批判が込められているようだ。作曲者との共同作業の中で次第にテンポが変わっていったことなど知る由もない批評家は、「作曲者の意図を汲んでいない」として、彼の演奏を当初は評価しなかったそうだ。そのテンポを他の人が真似しても作曲家は満足しなかっただろうとも述べている。「自分にとっての正確なテンポ」を持つことの重要さを語っている。批評家に限らず、「モーツァルトにしてはテンポは速すぎる」とか「こんなのブルックナーじゃない」とか簡単に一蹴する人が多いが、そういう固定観念こそが演奏をますます平均化させているのではないだろうか?
●「作曲家自身も気付いていない要素を引き出すよう努力しています」-マルケヴィチ(187頁)
●「演奏している人自体が音楽であるともいえるわけです」-マルケヴィチ (193頁) ※指揮者によってテンポが違うのは当然という意味を込めている。
●「音楽の深いところにあるものを聴こうとしない傾向が出てきていると思います」-ジャン・フルネ(219頁) ※「情報の発達によって演奏者のキャリアも作りやすくなり、それが内面的な集中力を欠くことに繋がっている。これは聴き手にとっても危険なこと」と警告を発している。フルネは、現代の作品に対しても、外面的な効果に傾いたものが多いと言っている。これらの危険性については、他の演奏家も指摘している。時代の趨勢に抗ってでもその危機を脱する具体的方策を早急に取らなければならないと思うのだが…。
●「伝記もいらない。評論家の作曲家論もいらない」-朝比奈隆(224頁) ※とにかく「楽譜が全て」という朝比奈のモットーを反映した言葉。しかし、情報を詰め込むことに余念がない人が多いのが事実。宇野功芳氏も「音楽は知りすぎることは良くない」と言っている。




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