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名指揮者との対話 |
青澤唯夫:著 |
春秋社 |
税別\2100 |
“著者の鋭い突っ込みによって引き出された巨匠たちの芸術観!” |
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青澤唯夫氏は、1969年代の後半から雑誌、新聞等を通じて音楽評論を続けた人ですが、この本の中で今まで知遇を得たアーチストたちを振り返り、自身の音楽観も交えながら、今の時代に本物の芸術とは何か、ということを問い直そうとしているように感じられます。登場する指揮者は全部で18人。本人への取材、記者会見での発言などを盛り込みながら、各指揮者の音楽観の核心に迫ろうとするスタンスで一貫しており、特に自ら本人に取材した時に会話のやり取りの生々しさは、単なる聞き役ではなく、どこまでも食い入って本心を聞き出そうという一貫した姿勢は、執念のようなものを感じさせ、どの章も興味深いものばかりですが、特にインパクトが強いのはチェリビダッケ。読響に客演した際のインタヴューが中心になっていますが、この巨匠の音楽的な信念に共感しつつも、晩年になるに従い「やってはいけない」と語っていたことを自ら平気でやっていたことへの疑念を正直に綴っているのが印象的です。また、ほとんどの指揮者に対して、作曲者と自分の個性との両立のさせ方や、古楽器派の演奏に対する意見を引き出しているのも、著者の最大の興味の対象なのでしょう。その話題の場面は特に、指揮者の本音がぽろりと飛び出したりもします。その中で、ショルティはそんな話は興味ないとばかりに話題を変えようとする場面は、思わず吹き出ししてしまいましたが、逆に「作曲者のイメージは決して作曲後でも決して固まっているわけではない」と熱く語るロストロポーヴィチの話は、ショスタコーヴィチとの実体験を交えて話しているだけに説得力があり、楽器の選択にしても、「作曲家は未来を想定して作曲するもの。だから現代ピアノでソナタを弾くのは正しい」という発言は、マルケヴィッチが「作曲家というのは楽器の改良に後からついていくものです」という考えと面白い対を成していますが、両者とも後か先かの違いだけで着地点は同じで、むしろ、古楽器派人たちとのこの距離感はいったい何なのかと改めて考えさせられました。そんな中、ホグウッドの「バッハの本質についてなど考えません」という発言が目に飛び込みました。思わず目を疑いましたが、さすがに青澤氏も明確にこれに反論しています。カール・リヒターの「音楽的能力のない音楽学者が多すぎる」という苦言に対し、自分はそうではないと言い切れる人は今どれだけいるでしょうか?これこそが、青澤氏がこの本で一貫して言いたかったことのように思えてなりません。ちなみに、青澤氏はジュリーニ信奉者であることが随所に窺われ、コリン・デイヴィスが指揮したメンデルスゾーンの第4交響曲を例に出して、コリン・デイヴィスに比べたら、ジョージ・セルなど決して完成度は高くない言い切ったり、ゲルギエフを「野放図」と言い放つなど、自身の主張もかなり強固に打ち出しています。 |
〜本文中の名言〜 |
●「よい指揮者、悪い指揮者とかいったものはない。悪い指揮者は既に指揮者ではないのだ」-チェリビダッケ(3頁) |
●「それは特殊な人がやる」-ショルティ(73頁) ※「小さな編成のオケを振ることもあるのか?」という質問に対して、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトではやるが、それ以前の曲は別世界の人がやる、または興味がないという意味だろう。 |
●「指揮者の役割は、聴衆を未知の世界に誘うこと」-ゲルギエフ(83頁) ※圧倒的力感を誇る点でショルティと比較したうえで、こういう発言をするのは野放図だと青澤氏は言い切っている。 |
●「ドイツ音楽の最盛期は19世紀だ。現在は枯れている」-ケーゲル(107頁) ※多くのドイツの現代作品を初演した人の言葉だけに重みがある。新ウィーン楽派の音楽は必ずルネサンスが来る、とも言っている。 |
●「バッハの魅力は、カンタータに尽きる」-カール・リヒター(113頁) ※1979年の来日時、青澤氏の取材での発言。 |
●「私は料理人であって、コックというのは卵について精神的に考えるのではなく、割って料理するだけです」-クリストファー・ホグウッド(115頁) ※これに対し青澤氏は、優れた料理人は一片のパンにも背後に文化や精神を見ているはずだ、と彼に言葉に疑問を投げかけている。 |
●「カザルスみたいな人は出てくるでしょう」-ロストロポーヴィチ(126頁) ※個性的な大物が少ない中、そういう偉大な才能が今後登場する可能性があるか?との質問に対する答え。これは期待値を込めすぎているようだ。というのも現代はコピー人間ばかりだと嘆いているのだから。 |
●「ショスタコーヴィチは作曲した時の意図というよりも、私のテンポを楽譜に記していた」-ロストロポーヴィチ(128頁) ※楽譜を神聖化しすぎることの危険性と、演奏家の心の躍動を理解できない批評家への批判が込められているようだ。作曲者との共同作業の中で次第にテンポが変わっていったことなど知る由もない批評家は、「作曲者の意図を汲んでいない」として、彼の演奏を当初は評価しなかったそうだ。そのテンポを他の人が真似しても作曲家は満足しなかっただろうとも述べている。「自分にとっての正確なテンポ」を持つことの重要さを語っている。批評家に限らず、「モーツァルトにしてはテンポは速すぎる」とか「こんなのブルックナーじゃない」とか簡単に一蹴する人が多いが、そういう固定観念こそが演奏をますます平均化させているのではないだろうか? |
●「作曲家自身も気付いていない要素を引き出すよう努力しています」-マルケヴィチ(187頁) |
●「演奏している人自体が音楽であるともいえるわけです」-マルケヴィチ (193頁) ※指揮者によってテンポが違うのは当然という意味を込めている。 |
●「音楽の深いところにあるものを聴こうとしない傾向が出てきていると思います」-ジャン・フルネ(219頁) ※「情報の発達によって演奏者のキャリアも作りやすくなり、それが内面的な集中力を欠くことに繋がっている。これは聴き手にとっても危険なこと」と警告を発している。フルネは、現代の作品に対しても、外面的な効果に傾いたものが多いと言っている。これらの危険性については、他の演奏家も指摘している。時代の趨勢に抗ってでもその危機を脱する具体的方策を早急に取らなければならないと思うのだが…。 |
●「伝記もいらない。評論家の作曲家論もいらない」-朝比奈隆(224頁) ※とにかく「楽譜が全て」という朝比奈のモットーを反映した言葉。しかし、情報を詰め込むことに余念がない人が多いのが事実。宇野功芳氏も「音楽は知りすぎることは良くない」と言っている。 |