湧々堂HOME 新譜速報:交響曲 管弦楽曲 協奏曲 器楽曲 室内楽 声楽曲 オペラ バロック 廉価盤 シリーズもの マニア向け  
殿堂入り交響曲 管弦楽 協奏曲 器楽曲 室内楽 声楽曲 オペラ バロック SALE!! レーベル・カタログ チャイ5



Tresures
(日本/CD-R)


CD音楽業界が売筋至上主義を爆進する中、その反動として、板起こしCDR復刻盤が増えているのは自然な成り行きと言えましょう。しかし、この復刻盤の内容には、首をかしげたくなることが多々あります。「レア音源使用」とか「CD化されていない」とか「資料的価値が高い」といった触れ込みは、音楽的な味わいとは直接関係がないことで、肝心なのは、製作者がその演奏の「どこが魅力的なのか」をきちんと認識し、あえて復刻する意義を聴き手に発信することではないでしょうか。その理想を追い求めるのが“Tresures”です。是非、「ここでしか味わえない感動」を味わってください!

■「王道」も「マニアック」もない!
“Tresures”は、決して一部のマニアだけを念頭に置いたレーベルではありません。「マニアックか王道路線か」、「知名度が高いかどうか」、そして「売れるかどうか」…、これらの線引きを極力取り除きたいと考えております。
「この曲はいろいろな演奏で聴いたけど、結局は昔聴いたあの演奏に行き着く」という経験をお持ちの方も多いかと思います。本当に感動した演奏というものは、録音の新旧を問わず、演奏家の知名度にも関係なく、長年聴き手の心に深く刻み込まれるものです。「ヒストリカルはちょっと…」と尻込みされていた方にも、演奏そのものが魅力的であれば、感動に出会える機会が増えるいうことを知っていただきたいのです。

■専らCDを聴いて育った方々へ
 長年音楽を愛されている方には勿論のこと、有名名盤をCDでしか聴いたことのない方々にも、「この演奏の凄さはこんなもんじゃない!」ということを是非して知っていただきたいのです。そのため“Tresures”では、何度もCD化された音源でも、あえて復刻することもあります。レコードをリアルタイムで聴いていない人たちにとっては、CDから出てくる音だけが演奏の良し悪し、好き嫌いの判断材料となるわけですが、その音を聞いても、高評価の理由が全く理解できなかったとしたら、こんな残念なことはありません。フルトヴェングラーやストコフスキー等の強烈な個性を持つ演奏なら、安易な復刻盤でもある程度はその雰囲気は伝わるでしょう。しかし、一見地味でひたひたと染みてくるようなタイプの演奏は、楽音の質感、量感が少しでも損なわれると、平凡な演奏にしか聞こえないことが多々あります。宇野功芳氏の推薦盤として知られるクリップスの「チャイ5」などはその良い例で、過去発売された正規CDは、どれも完敗です。
 また、こういったアナログの魅力に気付きつつも、底なし沼にハマるのを恐れている人が結構多い気がします。これまたもったいない話です。実は私自身、レコード盤との関わりを長年避け続けてきました。日々送られてくる新譜CDの魅力をお知らせする仕事が中心である以上、その存在がくすぶっていてはマズいと考えたからです。しかし、上記の通り、そうも言っていられない状況になったのです。

■制作ポリシー
1) 音源に使用するディスクは、可能な限り複数のディスクを比較視聴し、演奏の魅力を最も強く
  感じさせるものを選びます。初期盤絶対主義は取りません。
2) カップリングのオリジナル性を尊重しません。オリジナルを謳い文句にしている復刻盤もありますが、
  CD-Rで聴く時点でオリジナルではないのです。
3) 原則的に全て1枚あたり60分以上収録し、通常のコンサートのような曲順(小さい曲から大きい曲へ)に配置。

■音質処理
 音の印象に最も大きな影響を与える要因の一つが、背景ノイズ(チリチリ音)除去のさじ加減。これが過剰なために、実音のニュアンスまで削られている例が少なくありません。そこで“Tresures”では、ノイズカットを最小限に抑えています。そのため、盤質の優れているディスクを探す手間暇は不可欠となります。
 また、LPの出現からステレオ初期までは、プレスの不備、ピッチの異常、左右チャンネル逆転、回転ムラ等々により、そのまま再生すると違和感が生じる場合がありますが、そんなことは意に介さないばかりか、「オリジナル性尊重」を持ち出して、全く修正を施さないディスクに出会うことがあります。湧々堂ではそれらは全て「欠陥品」とみなします。万一このような現象が見過ごされていた場合は、必ず修正の上、再出荷いたします。

湧々堂創設以来、心底お薦めするディスクを“殿堂入り”と銘打って、できるだけ丁寧にご紹介してきたつもりですが、気がつけば廃盤だらけ…。“Tresures”が、そんな状態を少しでも解消できればと思っております。 【湧々堂】



「チャイコフスキー:交響曲第5番」特集



※「単価=¥0」と表示されるアイテムは廃盤です。

※表示価格は全て税込み。品番結尾に特に表記のないものは全て1CD-Rです。
品番 内容 演奏者
ヴィトルド・マルクジンスキ
TRE-001
マルクジンスキ〜ショパン・リサイタル
ワルツ第1番Op.18「華麗なる大円舞曲」*
夜想曲第13番Op.48-1*/夜想曲第5番Op.15-2*
スケルツォ第3番Op.39*/バラード第2番Op.38
夜想曲第15番Op.55-1/夜想曲第7番Op.70-1
ワルツ第11番Op.64-1/ワルツ第6番Op.54-1「小犬」
マズルカ第21番Op.30-4/マズルカ第45番Op.67-4
マズルカ第25番Op.33-4/即興曲第1番Op.29
スケルツォ第2番Op.31
ヴィトルド・マルクジンスキ(P)

録音:1958年3月&5月*、1955年6月-7月
※音源:英COLOMBIA 33CX-1639*、33CX-1338(全てモノラル)
◎収録時間:67:29
“ステレオ再録音では感じられない漆黒の色彩!”
■音源について
2枚の「ショパン・リサイタル」から、「ピアノ・ソナタ第2番」以外の全てを収録。2枚ともオリジナルのモノラル録音で、ステレオは存在しません。スケルツォ第2&3番と夜想曲第5番&13番は、8枚組CDボックスにも収録されていますが、マルクジンスキ特有の打鍵の色彩も深みも減退しています。

★ポーランドには名教師と言われる権威あるピアニストが多く存在しますが、マルクジンスキほど、教条的なアカデミズムを感じさせず、ショパンの音楽の有り様を芸術的な香りとともに示してくれるピアニストはいないのではないでしょうか?
1曲目の「ワルツ第1番」は可憐なニュアンスを引き出そうとしますが、マルクジンスキの構築力は厳格そのもの。しかしそこから音楽自体に宿っている華やぎが丹念に紡ぎ出されます。「夜想曲第15番」の低音域は、まさに漆黒の艷!「バラード第2番」は1963年にステレオでセッション録音を行っていますが、冒頭アンダンティーノから突然プレストに転じる衝撃と迫力の差は歴然。「マズルカ」も、後年の再録音より表情がアグレッシブ。
最大のお薦めは、「夜想曲第7番」。腕が立つだけではどうにもならない大曲で見せるマルクジンスキの自然な構成力と感情の制御力にはあまりにも素晴らしく、中間部の高揚が力尽きた後の左手オクターブのレチタティーボから、冒頭主題に戻る間合いに良さは、マルクジンスキの真骨頂と言えましょう。【湧々堂】

TRE-002
メンデルスゾーン:華麗なカプリッチョ.ロ短調Op.22
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調Op.1*
 ピアノ協奏曲第2番ハ短調Op.18
モーラ・リンパニー(P)
ニコライ・マルコ(指)
フィルハーモニアO

録音:1953年2月2-3日、1954年4月30日* (全てモノラル)
※音源:MFP 2035、HMV CLP-1037*
◎収録時間:66:48
“ラフマニノフの甘美さと一定の距離を保つことで生まれる気品!”
■音源について
ラフマニノフの「1番」は、最も音のニュアンスが良く出ている初期盤、ラフマニノフの「2番」とメンデルスゾーンは、良質なMFP盤を使用。ジャケット表紙には、その初期盤であるCLP-1007をベースにしています。

★ラフマニノフの「第1番」は、冒頭のホルンのファンファーレから釘付け!デニス・ブレインを含む名手達が放つ確信に満ちた響きは、この名演を象徴するかのようです。そこへ阿吽の呼吸で峻厳なリンパニーのピアノが飛び込みますが、そこまでの間合いの良さは古今を通じて屈指の絶妙さ。
広いレパートリーを誇るリンパニーにとって、特にラフマニノフはその中核を成す存在ですが、強固なフォルムと闊達な打鍵を崩さないリンパニーのピアニズムは、ラフマニノフ特有の抒情性にキリッとした品格を注入していることを、この「1番」で特に痛感させられます。第1楽章後半のカデンツァなど、ロシア的な民族色に拘泥せず、まるでリンパニーのために書かれたように高い求心力で迫ります。
「第2番」は、ステレオでサージェントとステレオで再録音していますが、オケの表現力も含めて、断然このモノラル盤が素晴らしい!そのオケのニュアンスを引き出しているのは、ニコライ・マルコ。フィルハーモニア管と多くの録音を残していますが、マルコ自身のアグレッシブなニュアンス注入力とオケの反応の良さという点で、この伴奏指揮はトップクラスの出来栄えと言えましょう。【湧々堂】

TRE-004
バッハ:管弦楽組曲集
第1番BWV.1066
第3番BWV.1068*
第4番BWV.1069#
エドゥアルト・ファン・ベイヌム(指)
アムステルダム・コンセルトヘボウO

録音:1955年5月31日〜6月2日、1956年4月3日*、1956年4月10日# (全てモノラル)
※音源:仏Philips 700064 - 700055
◎収録時間:61:43
“香り立つエレガンス!ベイヌムのかけがえのない遺産!!”
■音源について
この演奏の雰囲気にぴったりな音がするフランス盤を使用。モノラル後期の録音ゆえに古臭さはなく、耳にに吸い付くような感触が魅力。
残念ながら全4曲の演奏時間は80分をわずかに超えるので、「第2番」はTRE-076に収録しました。
★往年のスタイルによる「管組」としては、リヒター等と並んで忘れる訳にはいかない名演。ピリオド奏法が主流の昨今でも全く古さを感じさせないのは、ベイヌムの清潔なフレージングと各声部を統制して見通しの良いハーモニーを生む出すセンスの賜物。第1番の「ガヴォット」のようにリズミカルな曲調でも鋭利な響きを避け、慈しむようなフレージングを保持することで、全体を典雅な雰囲気に包み込みます。第3番の冒頭は、なんという節度ある造形美!ベイヌムというと、ブラームスの交響曲第1番やブルックナーでのパワーの噴出をイメージしがちですが、この抑制の美学と音楽に無理なく推進性を与える力量の両立技は、もっと注目されるべきではないでしょうか。そして有名な「アリア」は、純潔の極み!古今を通じ、これほど心を打つアリアに接したことはありません。もちろん、これは当時のコンセルトヘボウ管のずば抜けた巧さなくしては実現しなかった響きでしょう。【湧々堂】

TRE-005r
ベートーヴェン:「プロメテウスの創造物」序曲*
交響曲第9番「合唱付き」
アルトゥール・ローター(指)
ベルリンSO*、ハンブルクPO
ハンブルク・ジングアカデミー
エディット・ラング(S)、
マリア・フォン・ロスヴァイ(A)
ワルター・ギーズラー(T)
フランツ・クラス(Bs)

録音:1960年(ステレオ)
※音源:独PARNASS 61-423,424*、日COLUMBIA MS-8-9(全て独Opera原盤)
◎収録時間:70:24
"ただの音圧ではなくドイツ精神の重みで聴かせる古き佳き「第9」!!"
■音源について
「第9」は、以前にはLP1枚半を割いていた70年代の独PARNASS盤を採用していましたが、1960年代の日本盤でも3面使用盤が発売されており、これが期待以上に一皮剥けたハリのある響きで再生できたので、2020年以降は音源をこちらに差し替え、ジャケットも変更いたしました。ご了承ください。
※旧盤と区別するために、新盤の品番結尾に"r"の一文字を付します。
※「序曲」は、同じくPARNASS音源を使用します。

★名カペルマイスター、アルトゥール・ローター(1885-1972)の職人気質と気高いドイツ精神を徹底注入した、感動的な「第9」です。ローターは、活動の場がほとんどが歌劇場であったため、管弦楽曲の録音は非常に少なく、ましてやステレオなると、テレフンケンの小品集や独OPERAのベートーヴェン数曲など数える程度。その中でもこの「第9」は、合唱の巧妙な扱いも含め、音楽をガッチリと構築するのみならず、劇場的な空間表出力が独特の熱気を生んでいる点が特に注目に値します。ティンパニ・パートをかなり改変しているのも特徴的で、第2楽章の最後にも打ち込まれますが、その音色のブレンド感が、燻し銀の味を湛えたままに迫るのがたまらない魅力!
独唱陣は、発声自体は実に大らかですが、「こう歌うしかない!」という確信力に恐れ入るばかり。自分たちの音楽だという誇りが宿ったパワーは合唱にも共通しており、この作品から、派手さではなく精神の叫びを感じたいと願うファンにとっては、聴き逃せない演奏です。【湧々堂】

TRE-006
スメタナ:交響詩「モルダウ」*
チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」#
ドヴォルザーク:スラブ舞曲Op.46(全8曲)**
カレル・アンチェル(指)
ウィーンSO

録音:1958年2月8-10日*、1958年3月29日&4月2日#、1958年11月5, 6, 26-29日&12月2-4日** 以上ウィーン・ムジークフェライン大ホール(全てステレオ)
※音源:Fontana SFON-7519 、蘭700.158**
◎収録時間:66:18
“チェコのオケのように郷愁を滲ませるウィーン響の佇まい!”
■音源について
アンチェル&ウィーン響は、1958年に、チャイコフスキーを中心に集中的にレコーディングを行っていますが、全てがアンチェルの芸術の粋を集めたものであるにもかかわらず、多くがFontanaで発売されたせいか、不当に軽視されているようです。「ロメ・ジュリ」は、アンチェル唯一の録音。「スラブ舞曲」も、曲集としてまとまったセッション録音はこれが唯一。スメタナとチャイコフスキーは60年代の日本盤、ドヴォルザークは、最も音に芯を感じる60年代のオランダ盤を使用。

「モルダウ」は、何と言ってもこの5年後のチェコ・フィルとの「わが祖国」全曲録音が有名ですが、どちらの録音においても透徹したテクスチュア、テンポ設定など、ほとんど同じアプローチを貫徹している点に驚かされます。かつてヴァーツラフ・ノイマンは、「ウィーンのオーケストラには、チェコ独特の情感をなかなか理解してもらえなかった」と語っていましたが、ここではまるで自分達の音楽のように迫真の演奏を展開しており、そう仕向けたアンチェルの手腕に改めて脱帽。
「スラブ舞曲」は、共感の熱さ、設計の巧みさ、色彩イメージの統一感など、他のチェコ人指揮者の中でもダントツの魅力を誇ります。例えば、第6番(Op.72-6)。スッキリとした音像を保持しながら、リズムの弾ませ方は、郷愁で一杯。意外なのは中間部の2:25での、あからさまなクレッシェンドのドッキリ!これが何とも粋なのです!作品72を録音してくれなかったのが、残念でなりません。【湧々堂】

TRE-007
リスト:交響詩「前奏曲」
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」
フランツ・コンヴィチュニー(指)
ウィーンSO

録音:1961年(ステレオ)
※音源:独PARNASS 61438、70003*
◎収録時間:76:46
“「素朴」の一言で片付けられない、美しい響きの融合!”
■音源について
元々はOPERA(Eurodiscの前身)音源ですが、マスターの劣化をさほど感じさせず、音に瑞々しさがあるPARNASS盤を採用。但しジャケット・デザインはただの風景写真ですので、ここではETERNA盤を用いています。

★コンヴィチュニーのブルックナーは、「素朴」とか「渋い」といった通り一遍の評価で済まされがちですが、このウィーン響との4番は、コンヴィチュニーのステレオの中でも傑出した名演であるばかりか、ブルックナー演奏の理想郷とも言える佇まいを表出しています。コンヴィチュニーが振ったオケはどれも機能性を売りにしたオケではないので、まず感覚的な渋さが印象づけられるのは当然ですが、ここで特にご注目いただきたいのは、オケの持ち味だけで勝負しているような自然体を貫きながら、内面から沸き立つ力感と、美しいハーモニーのブレンド感を湛えている点。第1楽章再現部や第2楽章冒頭の木管のユニゾンはその典型で、純朴の美徳をこれほど確実に伝える演奏も稀でしょう。5:31からのホルンと弦が織り成すたおやかな風情は必聴!
終楽章は、拍節から滲み出る微妙な「雑味」が、音楽的な味わいに大きく作用していることをますます痛感。曲の後半へ向け、響きの凝縮度も、ニュアンスの煌めきも、ますます高まります。7:59からの得も言われぬ幽玄さ、16:06からのトリルの末端まで音化し尽くした意志力…。どれもがビートをスパッと刻む指揮法では成し得ないニュアンスばかりで、いかにこの演奏がかけがえのないものであるか、実感いただけると思います。
リストの「前奏曲」も、音楽を作り込み過ぎない潔さで、聴き手を唸らせます!【湧々堂】

TRE-010
アンチェル〜チャイコフスキー:バレエ音楽集
組曲「白鳥の湖」〜情景(第2幕)/ワルツ(第1幕)/小さい白鳥の踊り(第2幕)/情景(第2幕)/ハンガリー舞曲(第3幕)
組曲「眠りの森の美女」〜序奏とリラの精の舞い/バラのアダージョ(第1幕)/長靴をはいた猫と白い猫(第3幕)/パノラマ(第2幕)/ワルツ(第1幕)
組曲「くるみ割り人形」*
「眠りの森の美女」〜ワルツ(第1幕)#
カレル・アンチェル(指)
ウィーンSO

録音:1958年2月8-11日、1958年3月27日#
以上、ウィーン・ムジークフェライン・ザール (全てステレオ)
※音源:英Fontana SFL-14054、蘭Fontana 875002CY*,#
◎収録時間:65:18
“実用的なバレエ音楽を超越した、透徹した音彩の追求!!”
■音源について
*と#は、プラム地・銀文字の完全初出盤を使用。このレコードには、チャイコフスキーの「くるみ割り」組曲+スラブ行進曲+「弦セレ」ワルツ+「眠りの森」ワルツが収録されており、その「眠りの森」ワルツは、組曲録音とは別の演奏であることに気づきました!資料によって録音データが異なるのですが、演奏のニュアンスは明らかに異なります。
「アンチェル&ウィーン響」のレコード・ジャケットは、どれも面白みに欠けるものばかりですが、そんな中でも最も雰囲気のある、日本の10インチ盤のジャケットを使いました。

★全てが、アンチェル唯一の録音。もちろんバレエの舞台の動きに則したアプローチとは違い、あくまでもアンチェル持ち前の透徹した響きを土台として、各曲の雰囲気が最も際立つニュアンスを注入しているのが特徴。
「白鳥の湖」“ワルツ”の颯爽としたイン・テンポ進行は、いかにもアンチェル節。“情景”(トラック[04])は、とかく冗長に流れがちな曲ですが、この比類なき素晴らしさ!冒頭を神妙なスロー・テンポで滑り出しすのが意外ですが、その後の楽想も含め、ウェットな空気を持ち込まず、目の詰んだ表情をここまで徹底的に炙り出している演奏に出会ったことはありません。
「くるみ割り人形」“花のワルツ”の第2ワルツヘ移る直前に、ルフト・パウゼが入るのは珍しいですが、これも音楽の流れにメリハリをきちんと付けるアンチェルならではこだわり。
最後に収録した「眠りの森の美女」の“ワルツ”は、「音源について」に記したように、トラック[11]とは別の録音。組曲録音のほうが、男性的な力感が勝っています。【湧々堂】

TRE-012
J・クリップス〜ハイドン&ブラームス
ハイドン:交響曲第94番「驚愕」*
ブラームス:交響曲第1番ハ短調
ヨーゼフ・クリップス(指)VPO

録音:1957年9月9-14日*、1956年10月7-8日(共にステレオ)
※音源:DECCA SXL-2098*、LONDON STS-15144
◎※収録時間:65:18
“鎧で武装した演奏では味わえない音楽のエッセンス!”
■音源について
ブラームスは、米LONDONの"Treasury Series"盤ですが、プレス自体はもちろん英DECCA。コシがあって実に良い音がします。SXL未発売。1950年代のウィーンフィルのDECCAのステレオ録音は、段ボール箱の中で鳴っているようなクセのある音が玉に瑕ですが、クリップスの録音は、「チャイ5」も含めて、わずかにそのクセが軽減されている気がします。

ハイドンは、クリップス&VPOの信頼関係を象徴する、全く力みのないたおやかな風情が魅力。拍節を丹念に刻むながらも音楽は自然に息づき、ハイドン特有のユーモアが素のままで表出されます。
更に素晴らしいのがブラームス!もちろん、ウィーン・フィルの自発的な表現力を最大に尊重してはいますが、決して「おまかせ」ではなく、クリップスならではの強固な意志も張り巡らることで、優美さ一辺倒ではない凝縮力の高い名演を実現しています。声部のバランスを分解し構築力で圧倒する演奏とは一線を画し、阿吽の呼吸と気力で押し切った潔さはかけがえのないものです。第1楽章再現部に差し掛かる前のイン・テンポで畳み掛ける気迫の凄さなど相当なものですが、威圧感を与えずに燃え盛る精神の高揚をぶつけるあたりは、まさにこの名演の象徴と言えましょう。第2楽章は、昨今では透明な響きを目指す演奏が多いですが、この中低域をたっぷり効かせた深淵なニュアンスは格別。中間部のオーボエ、クラリネット・ソロの味わいたるや、古今を通じて比類なしと言いたい程です。終楽章は、指揮者としての統率力とオケの潜在能力が完全一体化した究極芸!全ての楽器が各楽想において、その美感と力感を最大限に伝える鳴らし方を心得ているということの凄さ…とでも言いましょうか、とにかくすべてのニュアンスの結晶度が尋常ではありません。第1主題など素っ気なく通り過ぎるだけですが、逆に今までの流れからして、これみよがしに歌い上げることなど考えられません。
なお、ブラームスは、後にコンサートホール・レーベルに再録音していますが、同じくコンサート・ホールへ再録音した「J・シュトラウス作品集」共々、全く別のニュアンスを醸し出しているのも、興味深いところです。【湧々堂】

TRE-013
パウル・クレツキ〜ベートーヴェン:「運命」「田園」
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
交響曲第6番「田園」*
パウル・クレツキ(指)
バーデン=バーデン南西ドイツRSO
フランス国立放送局O*

録音:1961年頃(全てステレオ)
※音源:英Concert Hall SMS-2341、日Concert Hall SMS-2239*
◎※収録時間:72:19
“フランス・オケの起用が大正解!「田園」の魅惑のニュアンス!!”
■音源について
この2曲のステレオ盤の発売は、年代はまちまちながら米・英・独・仏・日本の各国で見られ、中でも優秀だったのが独・英・日本盤。ここでは定位感のふらつきが最も少なく、プレス状態も良い'60年代の英国盤を採用。コンサート・ホール・レーベル(C.H)につきまとうモヤモヤとした音のイメージは消え、音楽的な情報量の多さを実感していただけると思います。使用ジャケットは日本盤。

★クレツキは、この後1964〜1968年にかけてにチェコ・フィルとベートーヴェンの交響曲全集録音を行っており、それらはチェコ・フィル特有のタイトで端正な響きを生かした佳演ながら徹底して楷書風で、クレツキならではの解釈の妙味を味わう点で物足りなさを感じる方も多いことでしょう。C.Hには「1番」「3番」「5番」「6番」を録音しており、そのどれもがクレツキの独特のこだわりと共感が色濃く反映されており、改めてこの指揮者の芸の細やかさに感服するものばかりです。
まず、「田園」のなんと素晴らしいこと!4つの交響曲の中であえてこの曲だけフランス国立放送管を起用しているのも大正解。明るく透明度の高いオケの響きを十分に活かしながら丹念に楽想のニュアンスを紡ぎ出します。特に魅惑的な管楽器の響きを埋没させず、しかもデフォルメすることもなく活用して、音楽に華やぎを与えるセンスに惚れ惚れするばかりです。第1楽章展開部2:48から背後の木管が完全に弦と一体化してクレッシェンドする箇所などは鳥肌モノ。1960年代まで全盛を誇ったフランス特有のホルン(フレンチ・コル)の響きもお聴き逃しなく。第3楽章、終楽章においてその魅力にイチコロ!終楽章3:52からの弦のピチカートの瑞々しい弾け方も、絶叫したいほどの素晴らしさ!インパクトの点で、あのクレンペラー盤と双璧と言えましょう。チェコ盤でも同様のアプローチを行ってはいますが、訴え掛けの差は歴然。
「運命」におけるクレツキも、チェコ・フィルのとことは別人のよう。盤石な中低域をの上に構築する響きには満遍なく熱い精神が注入されており、しかも単に荒くれた表情を引き出すだけでなく、一定の均整美を保持している点が流石です。【湧々堂】

TRE-014
シューベルト:「ロザムンデ」〜序曲/バレエ曲第1番/間奏曲第3番/バレエ曲第2番
交響曲第9番ハ長調「グレート」*
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン祝祭O(ウィーン国立歌劇場O)

録音:1950年代中頃、1955年1月*(全てモノラル)
※音源:WORLD RECORD CLUB TT-17、T-25*
◎※収録時間:75:36
“スワロフスキーの穏健なイメージを払拭する、テンポに込めた強い信念!”
■音源について
WORLD RECORD CLUBは、EMI傘下の通販会社(1965年にEMIに買収された)ですので、当然EMI音源が最も多く目につきますが、米WestminsterやEverestのライセンス音源も発売しており、それらには「○○ Recoring」という表記あります。しかし、ここで使用したディスクにはその表記がどこにもないことから、全てこのレーベルのオリジナル音源なのかもしれません。全て明快なサウンド。

★スワロフスキーは、アバドやメータを育てた名教師としてしられますが、指揮者としての芸術性についてのきちんと論評に出会ったことがありません。録音は決して少なくないものの、殆どがマイナーレーベルへの録音なので、注目されないのも無理からぬことですが、少なくともこのシューベルトを聴けば、「穏健で無難にまとめるだけ」という評価は的を得ていないことに気づきます。
「グレート」第1楽章序奏部は素朴な田舎風とは異なり、やや速めのイン・テンポ進行自体に明確な意志が貫かれており、そのまま主部へ移行するという洗練されたアプローチに、思わず身が引き締まります。コーダでも慣習的なテンポの落とし方には敢然と背を向け、颯爽と締めくくる手法は、まさに現代を先取りしたかのよう。第2楽章も、ウィーン的な温かみのある音色は生かしつつも響きの凝縮力は常に高く、情に流された停滞感など皆無。洗練されたアプローチが瑞々しい情感表出に大きく作用しているのが第3楽章。中間部でもテンポを緩める素振りさえ見せず、それでいて純な歌心が満遍なく浸透しているのです。ウィーンのオケが陥りがちなリズムの甘さながない点にも、スワロフスキーの制御力の高さを窺わせます。終楽章は、自然体の推進力が魅力。快速テンポの演奏はいくらでもありますが、この「自然体」を感じさせる演奏は決して多くないでしょう。しかも、その中でも声部のバランス配慮が行き届いており、単に主旋律主導でやり過ごした演奏とは格が違います。
この演奏の非凡さに気づくと、スワロフスキーの他の録音も色々聴いてみたくなること必至。しかし、これが曲によって、あるいはオケによって、全く違ったスタイルを覗かせるので、スワロフスキーという人、本当に一筋縄では行きません。【湧々堂】

TRE-015
ワルター・ゲール〜グノー、ビゼー、チャイコフスキー
グノー:「ファウスト」〜バレエ音楽
ビゼー:組曲「美しきパースの娘」〜行進曲/セレナード/ジプシーの踊り
 「アルルの女」*〜前奏曲/メヌエット/アダージェット/メヌエット/ファランドール
チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」#
ワルター・ゲール(指)
コンセール・ド・パリO
コンセール・パドルーO*
フランクフルト歌劇場O#

録音:1950年代中期
※音源:独Concert Hall SMS-2146、日Concert Hall SM-6109#(全てステレオ)
◎収録時間:67:48
“クナもびっくり!? ドイツ訛り丸出しの「くるみ割り人形」”
■音源について
単に盤面の綺麗さだけでなく、最も「良い鳴り方」をするプレス盤を探し当てるまで、何度も買い直しすることはザラですが、このコンサートホール盤ほど骨の折れるレーベルはありません。プレスした国や年代によって音質が代わるのは他のレーベルと同じですが、その差がとても大きく、ステレオ録音の方式自体(詳細説明は別の機会に譲ります)がメジャー・レーベルのそれとは根本的に異なるため、各楽器の定位が不安定で、音が曇って聞こえることも珍しくありません。かつて出回った出所不明のCDは、そこへさらに板起こしであることを隠すように強烈なノイズカットを施されていて、布団の中で聞くような耐え難いものばかりでした。
Tresuresでは、モノラル&ステレオ共に存在する場合は通常はステレオ盤を採用しますが、コンサートホールのステレオ盤に関しては、そのような事情から、音楽的なニュアンスが素直に伝わるモノラル盤をあえて採用することもあります。他にもコンサートホールには謎や問題点が多いのですが、それらは個々の「音源について」で触れることにします。
そんなコンサートホールのステレオ盤の中でも、ここに収録した録音は、音の明瞭さ、自然なステレオ感という点でトップクラスで、使用レコードの盤質についても最良のものと言えます。
なお、「グノー&ビゼー」のステレオ盤の単独発売は、日本盤とこのドイツ盤だけと思われ、「くるみ割り」のステレオに至っては、
日本のセット物以外で見ることができまんでした。
また、組曲「美しきパースの娘」は通常は4曲から成りますが、ここではなぜか3曲しか収録されていません。

★まず注目すべきは、フランス最古のオーケストラ、パドルー管による「アルルの女」。この第1組曲を1872年に初演したのは、このパドルー管の前身であるコンセール・ポピュレールでした。ステレオ期以降すっかり存在が薄くなってしまいましたが、アルベール・ヴォルフ等の薫陶を受けたこのオケの、甘味料をたっぷり含んだ豊麗な響きが味わえます。サクソフォンの響きなど、とろけそうなほど魅惑的。
ゲールの解釈のユニークさという点では、「くるみ割り人形」が聴き逃せません。まずテンポ設定の絶妙さ!最初の“序曲”は、小気味よく進行しつつも表情は濃密。続く“行進曲”は、リズムの重心を徹底して低く保ってドイツ訛り丸出し!トロンボーンの張り出しの強さといい、クナも顔負けです!この調子で“花のワルツ”を振るとどうなるか?これが、その期待を裏切るように、粋なイン・テンポを押し通します。3:47からのテンポの落とし方など、惚れ惚れするばかり。こんな親分肌でカッコいい“花のワルツ”など、他にないでしょう。【湧々堂】

TRE-016
パリキアン〜モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲集
ヴァイオリン協奏曲第1番*
ヴァイオリン協奏曲第3番
ヴァイオリン協奏曲第4番
マヌーグ・パリキアン(Vn)
ワルター・ゲール(指)
アムステルダム・フィルハーモニー協会O*
ハンブルク室内O

録音:1959年頃(モノラル)
※音源:独CONNCERT HALL MMS-2206*、MMS-2092
◎※収録時間:68:34
“名コンマス、パリキアンの並々ならぬ音楽への奉仕力!”
■音源について
コンサート・ホール(C.H)が1950年代に行なったバイノーラル・ステレオ録音の少なくとも協奏曲作品は、ほぼ全てNGと言えそうです。左右のチャンネルが離れすぎていたり、ソリストとオケが別の部屋で演奏しているような距離感だったり、オケの音が急に前にせり出したり引っ込んだりと、とにかく聞き苦しいものばかりです。パリキアンのC.H録音には全てステレオ盤が存在しますが、全てを聴き比べた結果、そんな状況が全てに見られたので、迷わずモノラル盤を採用しました。
一方、そのC.Hのモノラルの音は優秀なものが多いのですが、このパキリアンの録音によって、ドイツ盤(またはスイス盤)に限ると痛感させられました。当初は非常に盤質良好な英国盤を採用するつもりでしたが、その後に偶然聞いた独盤は、更に一皮剥けた鮮やかな音で驚愕した次第です。

★マヌーグ・パリキアン(1920-1987)は、フィルハーモニア管のコンサートマスターを務めたアルメニア出身の名手。ドブロウェン指揮による「シェエラザード」等でもソロ演奏を聴くことができますが、C.Hに遺したバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの主要作品は、彼のハイセンスな音楽性を知る上でどれも不可欠です。
ここでのモーツァルトは、小細工を一切用いずに、音楽が持つ表情の明暗を自然に表出した逸品揃いです。中でも「第3番」の素晴らしいこと!第1楽章冒頭主題から、陽の光を一杯に浴びた抜けるような音色とフレージングで魅了しますが、感覚美で訴えるのではなく、常に古典的な造形の中でニュアンスをを制御することを忘れません。カデンツァでも自己主張を抑えるのではなく、作品にと一体化させた絶妙なニュアンスを引き出しているのです。第2楽章も過剰な泣きなど見せず、淡々と進行しているようでいて、心の中で慈しみ抜いたニュアンスが満遍なく浸透。ソリストである自分だけにスポットが当たるような振る舞いが一切見らないのは、コンマスとしての姿勢が大きく反映していると思いますが、それは一歩間違えば、無味乾燥な演奏になりかねません。パリキアンの凄さは、終楽章で顕著なように、音楽自体が自発的に鳴っているかのような雰囲気を確実に醸し出している点。
ゲールの指揮も、そんな虚飾のないパリキアンの演奏に俊敏なレスポンスで応えて見事なサポートぶり。【湧々堂】

TRE-017
リヒャルト・クラウス〜ワーグナー他
グリーグ
:「ペール・ギュント」組曲〜アニトラの踊り/アラビアの踊り/ソルヴェイグの歌
リスト:ハンガリー狂詩曲第1番/第2番
ワーグナー:「タンホイザー」序曲*
 「さまよえるオランダ人」序曲*
 「ローエングリン」第1幕前奏曲*/第3幕前奏曲*
 ワルキューレの騎行*
リヒャルト・クラウス(指)
バンベルクSO、
ベルリン市立歌劇場O*

録音:1958年、1962年頃*(全てステレオ)
※音源:独DGG 136020、独PARNASS 61436*
◎収録時間:77:44
“ワーグナーの真の権威者、リヒャルト・クラウスの無類の共感力!”
■音源について
グリーグ以外は、本家レーベルからCD化されていないと思われます。ここでは良質なドイツ盤を採用。ワーグナーはOPERA(Eurodisc)原盤ですが、ここでは音に安定感のあるPARNASS盤を使用しています。

★リヒャルト・クラウス(1902-1978)は、ドイツ出身の典型的な劇場叩き上げの指揮者で、1923年にE・クライバーの助手を務めて以降は、ハノーファー、シュトゥットガルトなど数々の歌劇場の指揮者を歴任。その経歴を象徴するように、芸風は極めて堅実で強烈な個性を放射するタイプではありません。しかし、ワーグナーだけは別格!1942年にはバイロイトで「タンホイザー」を上演していますし、父エルンスト・クラウスも、テノール歌手としてバイロイトに出演していましたので、ワーグナーは特別な存在だったはず。その思い入れの強さはこの録音にもはっきり刻印されており、内面から溢れる共感の熱さが渋味満点のオケの音色と一体となって、強烈な印象を与えます。
「タンホイザー」の冒頭からアレグロに差し掛かるまでの深遠な佇まいは、昨今ではもう耳にすることはできませんし、アレグロ直前で、巡礼が遠ざかる様子が音楽的な余韻を伴って感じ取れる演奏など、そう多くはありません。ヒュンヒュンと唸りを上げて奏で尽くす弦や、粗野のようでいて腹の底から咆哮する金管の魅力の魅力に加え、“ヴェーヌスを讃える歌”が再現される直前(9:06)では、テンポをガクッと落として強烈なメリハリを付ける熟練技にも唖然。そして、コーダでの遠吠えのようなホルン!!単に明瞭に強奏させただけの演奏とは次元が違います。「オランダ人」も全ての音が必死の鳴りっぷりで、感動せずにはいられません。コーダで一瞬静まる箇所の得も言われぬ余情には、ため息が出るばかり。「ローエングリン」第1幕前奏曲に至っては、何度聴いても涙を禁じえません。少なくともセッションで録音された同曲で、これ以上の演奏がありえるでしょうか?是非フル・ヴォリュームで堪能いただくことを願ってやみません! 【湧々堂】

TRE-019
ヘンリー・クリップス〜スッペ&J・シュトラウス
J・シュトラウス:ワルツ「芸術家の生活」
 ポルカ「雷鳴と電光」
 ヴェルディの「仮面舞踏会」によるカドリーユ Op. 272
 トリッチ・トラッチ・ポルカ
 皇帝円舞曲
スッペ:「軽騎兵」序曲*
 「スペードの女王」序曲*
 「ウィーンの朝、昼、晩」序曲*
 「詩人と農夫」序曲*
 「タンタロスの苦悩」序曲*
 「幸福への旅路」序曲*
ヘンリー・クリップス(指)
フィルハーモニア・プロムナードO(フィルハーモニアO)

録音:1960年1月14-15日、1956年1月日*(全てステレオ)
※音源:英EMI SXLP-30056、SXLP-30037*
◎※収録時間:78:37
“自らは酔いしれず、聴き手を酔わす望郷の指揮!”
■音源について
シュトラウスもスッペも、SAX規格ではなくSXLPでの発売。意外と安定感のあるSXLP規格の"CONCERT CLASSICS SERIES"は侮れません。ジャケ写真は独盤。

★ヘンリー・クリップス(ヨーゼフの弟)というと、日本ではセラフィムの廉価LPを思い浮かべる人が多いと思います。私もその一人ですが、それを聴いた時には耳が未熟だったせいか、オーソドックスな佳い演奏という印象しか残りませんでした。しかし今回、ヘンリーの一連のEMI録音をを聴き直して仰天!こんな“いなせ”な棒を振る人が他にいるでしょうか?ヘンリーはウィーン生まれながら、ナチの侵攻でオーストラリアへ亡命。それ以降は、ウィーン情緒に縛られない、もっと洗練された突き抜けた芸風を着実に身につけたのだと思われます。ここでも、ウィーン風3拍子に固執しないばかりか、J・シュトラウスでは通常ヴァージョンとは異なる粋なアレンジもさり気なく盛り込みます。そんな抜群にカッコいいヘンリーの最大の武器が、ここぞという瞬間で見せる音の引き伸ばし。特に「皇帝円舞曲」は、その必殺技が随所に顔を出し、シンフォニックに肥大化した演奏に慣れた耳には、この小粋にな推進力を湛えた演奏は嬉しい衝撃。テンポ切り替えの鮮やかさも、古今を通じてトップ・クラス。
スッペの序曲集は、まとまった録音としては、これを超える演奏はないと信じて疑いません。オペレッタとしての「軽み」を常に忘れず、各楽想の表情が最も生きるテンポと響きの厚みを徹底注入した演奏には、そうは出会えません。「スペードの女王」でフルートが活躍する4:57からのアゴーギクのセンスには、全身がとろけそう。そこには持って回ったようないやらしさがないので、可憐さが一層引き立つのです。「詩人と農夫」も、まさに愛の結晶!これを知ってしまうと、他の演奏が全て小手先の演奏に思えてきます。
それにしても毎度ながらフィルハーモニア管の巧さには舌を巻くばかり。そして、「タンタロスの苦悩」の後半のマーチ調の後の弦の細かい音型、最後の一糸乱れぬ高速の凄さ!単に縦の線が合っているという意味だけでなく、オケがクリップスの音楽性に心酔していることを示す本気の音です!「幸福への旅路」は超、希少録音。【湧々堂】

TRE-020
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
スメタナ:「売られた花嫁」*〜序曲/ポルカ/フリアント/道化師の踊り
ブラームス:交響曲第2番#
アルフレッド・ウォーレンスタイン(指)
ロスアンジェルスPO

録音:1955年頃、1953年頃*(全てモノラル)
※音源:米MUSIC APPRIECIATION RECORDS MAR-5613、英Brunswick AXTL-1063*、英WORLD EECORD CLUB T-6#
◎※収録時間:71:39
“作品の生命力を徹底抽出するウォーレンスタイン の巧みな棒!”
■音源について
MUSIC APPRIECIATION RECORDSは、指揮者のトーマス・シャーマンによる曲のアナリーゼ解説レコードと全曲演奏のレコードをセットにして販売していたアメリカの教育用レーベル。ブラームスもM.A.Rから発売されていますが、W.R.Cがオリジナルと思われます。スメタナは、元々米DECCA音源。ジャケットには、M.A.Rを用いました。

★ここに収録したのは、全てウォーレンスタイン がロスアンジェルス・フィルの音楽監督時代の蜜月ぶりを示す名演ばかり。ウォーレンスタイン は、ピアニストのルービンシュタイン等から厚い信頼を寄せられながらも、伴奏以外の指揮では「幻想交響曲」が名演として一部で話題になった程度で、殆ど忘れられたまま今日に至っています。特徴は、一言で表せば健康的。虚飾を排して作品の生命力を一途に引き出すことが指揮者の最大の使命と確信していたことが、ここに収録された全ての曲から窺えます。
モーツァルトは、作品の祝典的な持ち味をストレートに伝えるとともに、古典的な様式美を決して置き去りにしません。第2楽章など単に綺麗に流しただけの演奏も多い中で、清楚でありながら心からウキウキした情感も兼ね備えた絶妙なニュアンス!本物のモーツァルトを聴いているいう確かな実感を得ることができます。終楽章、そして、続くスメタナは、トスカニーニの影響(ウォーレンスタイン は1930年代にニューヨーク・フィルのチェロ奏者だった)が強く反映されており、向こう見ずな推進力が瑞々しくはじけます。“道化師の踊り”は、まさに息もつかせぬ緊迫感!
そして、繰り返し聴きたくなるブラームス!ここでも何一つ変わったことはしておらず、伸び伸びと音楽の謳歌に徹しているので、忘れかけていたこの曲の素晴らしさを再認識させてくれます。些細な事ですが、第1楽章再現部、10:43からの弦のフレーズの繋げ方を聴けば、ウォーレンスタイン がいかに明確なアーティキュレションを心がけていたかが窺い知れます。11:40からのホルンを中心とした温かな風情も聴きもの。第2楽章も過度な深刻さを避けることで丹念な歌心が豊かに浮上し、心に染みます。終楽章は全ての楽器が心の底から鳴りきり、スタジオ録音とは思えぬ熱く凝縮した音楽が全開。ここでは見せかけの「煽り」など無用です。
また特筆スべきは、ロスアンジェルス・フィルの巧さ!メータが音楽監督になるまではまるで「鳴かず飛ばず」だったように言われがちですが、単にメージャ・ーレーベルから紹介されなかっただけで、これらの演奏を聴けば、当時から高い技術と表現意欲に溢れた素晴らしいアンサンブル能力を誇っていたことが分かります。【湧々堂】
マルクジンスキ
TRE-021
マルクジンスキ〜ショパン&リスト
ショパン
:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調*
リスト:ピアノ・ソナタ.ロ短調**
 ピアノ協奏曲第2番イ長調#
ヴィトルド・マルクジンスキ(P)
ワルター・ジュスキント(指)
フィルハーモニアO

録音:1952年1月1日*、1953年3月7-11日**、1953年3月2日&4日#(全てモノラル)
※音源:伊Columbia QCX-194*、仏CLUB NATIONAL DU DISQUE CND-585**,#
◎収録時間:74:20
“詩的ニュアンスを確実に引き出すマルクジンスキの美学貫徹!”
■音源について
マルクジンスキによるショパンの第3ソナタは、EMIへはこの録音と後年のステレオ録音の2種があるのみ。リストの2曲は、CLUB NATIONAL DU DISQUE盤を採用。英COLUMBIAやVOXなどの音源をリリースしていたフランスのレーベルですが、実に良い音です。ICONシーリズのボックスに収録されているものとは、音の奥行き、豪華さが全然違います。ジャケ写は、フランス盤。

ショパンでは、マルクジンスキの大きな構成感と深い打鍵に宿る毅然とした精神力によって、独特の格調美を確立。第1楽章第2主題でもアゴーギクを最少に抑えることで、安易な甘美さとは無縁の緊張が維持されます。第3楽章は、イン・テンポを基本としつつも微妙に音価を伸縮させているのは、まさに血の為せつ技。後半の再現で、主旋律の濃密な歌い口に低音部が確実に密着しながら盤石の下地を敷き詰める様も流石。このソナタの終楽章は、特に最初の導入が、どんな演奏でもやや安直な音楽に感じてしまうのは感じてしまうのは私だけかもしれませんが、主部直など嘘のように消え去ります。
同じロ短調のリストのソナタは、悪魔的な雰囲気を煽ることのない純音楽的アプローチに徹していますが、ここでも全体を大きく俯瞰する持ち前の包容力が発揮し安定感抜群の妙技を披露。特に“アンダンテ・ソスティヌート”での気品溢れるレガート、漆黒に燐くタッチの妙味は聴きもの。
協奏曲では、華麗なグランド・スタイルの雰囲気を湛えながらも、アクロバット的な誇張とはきっぱり決別した辛口の表現を貫徹。タッチの美しさそのもので聴き手に訴えかけたり、視覚的なニュアンスをそのまま音にするような手法は、どんな作品であっても決して採用しません。それでいながら、理で固めたような窮屈さにも陥らず、内面からの詩的ニュアンスを確実に抽出するというのは、まさに奥義と呼ぶに相応しいものでしょう。チェロ独奏との対話を交える“アレグロ・モデラート”(トラック11)や、終盤のグリッサンドでも全くこれ見よがしのポーズを取らない点などで、そのことを痛感する次第です。【湧々堂】

TRE-022
アンチェル&ウィーン響〜チャイコフスキー
チャイコフスキー:スラブ行進曲*
大序曲「1812年」#
交響曲第4番ヘ短調Op.36
弦楽セレナード〜ワルツ*
カレル・アンチェル(指)ウィーンSO

録音:1958年3月29日-4月2日*、1958年11月-12月(*以外) 全てステレオ
※音源:Fomtana 875.011 (SCFL-103)、SFON-7519#、875.002*
◎収録時間:67:52
“潔癖さの極み!土臭さを排したアンチェル芸術の結晶!”
■音源について
これとTRE-006、TRE-010で、アンチェル&ウィーン響のチャイコフスキー録音の全てが出揃いましたが、これら一連の録音の中で、その存在すら忘れられそうなのが、チャイコフスキーの第4交響曲。アンチェルにとって唯一のチャイコフスキーの交響曲録音です。使用したのは、初期オランダ盤。終楽章冒頭に若干ヒズミがありますが、再度入手した盤も同じ状況でした。何卒ご了承下さい。

スラブ的な土臭さを排し、見通しの良い清潔なハーモニー表出を再優先させた、アンチェルならではのチャイコフスキー。その潔癖な音作りの追求ぶりは、ジョージ・セルをも凌ぐとさえ思えるほど。例えば、「スラブ行進曲」の最後は、テンポの切り替えが曖昧なまま進行してしまう場合がほとんどですが、アンチェルは8:22からガクッとテンポを落とし、イン・テンポのまま終結部に進めるような厳格な配慮を見せます。しかも、そこには無理強いしたような不自然さや冷たさが付きまとわないのですから、流石と言う他ありません。
不純物を省き、作品のエッセンス抽出を妥協なく敢行する姿勢は、交響曲において最大に開花。第1楽章の金管のテーマのアーティキュレーションからして制御が行き届き、室内楽的な明瞭さをもって作品のありのままの姿を現出させます。第2楽章も媚びるような表情は一切なし。作品への真の共感が確信に満ちたニュアンスに直結しているので、音楽の魅力を再認識させてくれます。終楽章は、まさにアンチェの芸術の結晶!2:26できっちりルフト・パウゼを挿入して音楽が漫然と流れるのを避け、3:17からの運弓にも制御を効かせるなど、タイトでスタイリッシュな音像を引き出すための配慮が満載。コーダに至っても音圧で圧倒せず、音の緊張感を高めることだけに集中。わかりやすい爆演を聴いた時の爽快感とはまた違う、他に真似のできない職人芸に触れたような確かな手応えを感じていただけることでしょう。
ちなみに、終楽章開始直後(2:13〜)、テーマを吹くチューバが妙に不安定な音を発するのでドキッとしますが、潔癖なアンチェルがそれを見逃しているのは謎としか言いようがありません。【湧々堂】

TRE-023r
ベートーヴェン:「エグモント」序曲
ハイドン:交響曲第94番「驚愕」*
ベートーヴェン:交響曲第7番#
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
バンベルクSO、LSO*

録音:1950年代後半(全てステレオ)
※音源:独PARNASS 61-424、米VOX STPL-512510*、独OPERA ST-1987#
◎収録時間:69:09
“自然体を通しながら、作品の核心を外さない名人芸!”
■音源について
ハイドンのVOX盤は比較的容易に入手できますが、ベートーヴェンの2曲のステレオ盤は,極めて入手困難。特に、人間味溢れる音の温もりと芯を見事に捉えたOPERA盤は、これ以上に上質なものはもう入手不可能と思われます。

ドイツの名指揮者として認識されることの多いルートヴィヒは、実は生まれはチェコのオストラヴァ。その音楽作りも、ガチガチのもドイツ流儀と思われがちですが、ロマン派以降の作品では結構過激なアプローチも見せ、決して一言では片付けられない幅広い芸風を持った指揮者でした。しかし、ここに収録した古典は作品においては、まさに作為性の全くない堅実路線を貫徹し、「ドイツ音楽はかくあるべし」といった教条的な押し付け感のない、音楽の自然な流動性を生かした音楽を生み出しています。
そんな中で、テンポや音価の保ち方などには、職人的なこだわりがキラっと光るのです。例えば、「驚愕」の第3楽章。こんな遅いテンポは昨今ではすっかり廃れてしまいましたが、その確信に満ちたリズムからハイドンならではの微笑みがじわじわ滲み出ます。
ベートーヴェンの「第7番」では、中低域の安定したいかにもドイツ的な声部バランスが、充実の響きを導きます。ルートヴィヒは、そのオケの持ち味と作品の力を信じ、必要以上にリズムの躍動を強調したり激情を煽ることもせず、道を外さないように温かい眼差しで見守っているだけのようでいて、第1楽章冒頭のスパッと切れるスフォルツァンド、第2楽章の心の奥底からの呼吸深さ、主題結尾をきっちり末端まで引き伸ばす(8:35、8:43)など、ニュアンス形成の肝をしっかり踏まえた解釈に、この指揮者の見識の深さを痛感。終楽章は、演奏時間が約6:50とかなり速目ですが、高速で飛ばす痛快さ以外の含蓄がいかに多いか、是非体感して下さい。【湧々堂】

TRE-024
デニス・ブレイン/モーツァルト&R・シュトラウス(ブライトクランク版)
モーツァルト:ホルン協奏曲第1番〜第4番
R・シュトラウス:ホルン協奏曲第1番*
デニス・ブレイン(Hrn)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指)
ウォルフガング・サヴァリッシュ(指)*
フィルハーモニアO

録音:1953年11月12-23日、1956年9月22日*
※音源:Electrola 1C 0663 00414、HMV HLS-7001*(以上,ブライトクランク擬似ステレオ)
◎収録時間:69:50
“ブライトクランク版で再認識する、D・ブレインが放つ奇跡のニュアンス!”
■音源について
「疑似ステレオなんて邪道」と見る向きが多い中で、独エレクトローラが開発したブライトクランクだけは別格扱いされているのは、その質の高さというより、フルトヴェングラーの存在ゆえでしょう。しかし、ブライトクランク処理がなされたのは、フルトヴェングラーの録音だけではありません。ホルンの響きは、自然な空間的な広がりを持つブライトクランクの特質と見事にマッチ。不世出の音楽家の魅力を再認識させてくれます。なお、このモーツァルトは、SMC品番(ジャケ写に使用)も存在しますが、やや音が遠くマイルドでしたので、上記品番レコードを採用しました。

今さら説明不要の名演中の名演ですが、このモーツァルトを聴くたびに痛感するのは、ブレインの一途な音楽への奉仕ぶり。何の気負いもなく楽々と吹きこなしていながら、巧さを誇示する素振りが皆無。オケの団員として吹いているならまだしも、堂々とソロを務める協奏曲であるにもかかわらず、まるで自身の存在を消すことが至上命題であるかのよう。そんな融通無碍な佇まいから無限とも思えるニュアンスが繰り出されるというのは、本当に信じ難いことです。「第3番」第2楽章に象徴されるように、自身の解釈のあり方を聴き手に全く悟らせない中から浮上する音楽の無垢の美しさ!この感動に匹敵するのは、リパッティが弾くショパンのワルツくらいしか思い当たりません。
そして忘れてならないのが、カラヤンのカラヤンらしからぬ指揮。ブレインの突き抜けた天才技に自然に触発されたのか、これほど心からリズムを感じ、純粋な歌を投影し尽くした例を他に知りません。【湧々堂】

TRE-025
サージェント〜シューベルト&J・シュトラウス
シューベルト:交響曲第8番「未完成」*
J・シュトラウス:ワルツ「ウィーンの森の物語」
 皇帝円舞曲
 ワルツ「美しく青きドナウ」
 ワルツ「酒・女・歌」
 ワルツ「芸術家の生活」
マルコム・サージェント(指)
ロイヤルPO

録音:1960年10月*、1961年5月(全てステレオ)
※音源:英HMV SXLP-20029*、SXLP-20041(全てステレオ)
◎収録時間:73:20
“サージェントの品格美の中に宿る一途な表現意欲!”
■音源について
当時のEMIらしい、自然なバランスで鳴る録音の特徴が良く出ています。シューベルトは御大ビーチャムの死の5ヶ月前、J・シュトラウスは死から2ヶ月後の録音。サージェントが、ビーチャムの影を殆ど感じさせない独自のニュアンスを引き出している点にご注目下さい。

★その人間性も含めて、あまり肯定的な意見が聞かれないサージェントですが、このシューベルトとJ・シュトラウスを聴けば、サージェントの音楽への純粋な向き合い方を感じていただけるのではにでしょうか。
「未完成」は、第1楽章から響きの求心力が高く、やや速めのイン・テンポ進行により、男性的な決然とした音楽として再現。第2主題でも全く媚びず、静かな闘志すら感じられます。展開部は更に表現に力感が増し、オケも積極的にその要求に応えます。第2楽章の静謐美も格別。微妙な強弱のニュアンスまで配慮が行き届き、クラリネット、オーボエの各ソロのセンスの高さにも心打たれます。サージェントとビーチャムが犬猿の仲だったことは有名(ビーチャムは、自分の死後にRPOを託すシェフとして、サージェントだけは困ると言い残したとか…)ですが、この録音はビーチャム存命中に行われており、それでこれだけの説得力の高い演奏を成し遂げている点も、興味深いもところです。
J・シュトラウスは、バルビローリが沸き立つような楽しさを際立たせていたのに対し、サージェントはあくまでも品格重視。例えば、通常は弦の弓をグワンと跳ね上げる箇所でも、フワッと奏でる程度に抑えるなど、勢いに任せる素振りは皆無。「ウィーンの森」のツィターは、ハープと弦に変更して、淡い色彩を表出。「皇帝円舞曲」後半の独特のテンポの溜め、「青きドナウ」序奏部のきめ細かい強弱設定なども、英国風の優雅さを地で行くようなスタイルが心を捉えます。ボールトの真価が正当に認識されるようになったのはCD時代に入ってからのことですが、そろそろサージェントにも名演発掘の機会が与えられてもよいのではないでしょうか?【湧々堂】

TRE-026
エゴン・ペトリ〜バッハ&ブゾーニ:ピアノ曲集
バッハ(ブゾーニ編):トッカータとフーガ.二短調BWV.565*
 トッカータ,アダージョとフーガ.ハ長調BWV.564*
 前奏曲とフーガ.変ホ長調BWV.552*
 前奏曲とフーガ.ニ長調BWV.532*
 コラール「目覚めよと,われらに呼ばわる物見らの声」BWV.645
 コラール「汝にこそ,わが喜びあり」BWV.615
 コラール「われ汝に呼ばわる,主イエス・キリストよ」BWV.639
ブゾーニ:対位法的幻想曲
エゴン・ペトリ(P)

録音:1956年6月22日(モノラル)
※音源:Westminster XWN-18910*、XWN-18844
◎収録時間:79:06
“バッハの精神とブゾーニの意思を具現化した、ペトリの圧倒的なピアニズム!”
■音源について
2011年に発売された「リスト・レガシー」と称する10枚組のCDボックスには、このペトリを含む5人のピアニストの初CD化音源が収録されていましたが、肝心のリストの曲はほどんどなく、各ピアニストの音楽性を味わう上でも中途半端な印象を拭えませんでした。ここでは、ペトリがバッハの音楽をどう捉え、師匠ブゾーニのピアニズムの何を守ろうとしたかを十分にご理解いただけることでしょう。かなりヘヴィーなラインナップですが、間に収録したコラール前奏曲集でいったん心を和ませてから、是非ブゾーニの大曲「対位法的幻想曲」を!

★バッハ=ブゾーニのピアノ曲は、現代ピアニストの必須レパートリーとも言えますが、それらの多くは、その超絶技巧ぶりが目立つ演奏ばかりのような気がします。しかし、ブゾーニの弟子で、その教えを忠実に継承したペトリの演奏で聴くと、ブゾーニがバッハの作品を編曲したのは、決して派手なヴィルトゥオジティを誇示するためではなく、ピアノの機能性を最大限に活用することで、バッハの音楽の構成美と精神を現代に息づかせるためだった、ということがひしひしと実感できます。
また、エゴン・ペトリというピアニストに対しては、厳格な学者肌というイメージを持たれる方が多いようですが、細部に囚われたチマチマした演奏とは正反対。音楽を根底から大きく呼吸させながら、聴き手の感情にストレートに訴えかける人間的な包容力を、ここに収録した全ての作品から体感することができます。
技巧的な素晴らしさは言うまでもありませんが、それは正確さを目的としたものではなく、あくまでも音楽表現の手段として活用されているので、無機質な印象を与えることがありません。例えば、BWV.552のフーガ後半における怒涛の轟音!造形の破綻寸前まで音楽を肥大化させながら、強固な集中力と気力で高揚させる手腕は、ペトリの真骨頂と言えましょう。また、BWV.564のアダージョで明らかなように、過度なロマン性とも無縁で、近年のピアニストで技巧派と呼ばれる人たちでも、これよりよほどロマンティックに歌い込んでいる例が少なくありません。しかし、全音域に緊張感を漲らせたペトリの打鍵の魅力は、安易なフレージングとは全く次元が異なる荘厳な世
界に誘ってくれるのです。バッハ=ブゾーニのピアノ作品の醍醐味は、エゴン・ペトリの演奏抜きには語れません!【湧々堂】

TRE-027
ホーレンシュタイン〜プロコフィエフ作品集
交響曲第1番ニ長調「古典」
交響組曲「キージェ中尉」*
交響曲第5番変ロ長調Op.100
ヤッシャ・ホーレンシュタイン(指)
コロンヌO、パリPO*

録音:1954年、1955年*(全てモノラル)
※音源:VOX PL-9170、PL-9180*
◎収録時間:71:24
“ホーレンシュタインの「陰」な性質がプロコフィエフと完全合体!”
■音源について
2つの交響曲は、英プレス(ブラック/ゴールド)、「キージェ中尉」は、米プレス(ブラック・ラベル)を使用。共にモノラル後期の録音で、彫琢豊かな音がします。ジャケ写は、PL-9170。

★私はかねがね、ホーレンシュタインが導き出す音楽の最大の魅力は、「暗さ」だと思っています。それも、性根の底からの暗さ!音色は漆黒をも拒否したような鉛のようで、音楽の組み立て方にもどこか陰鬱感が漂い、J・シュトラウスのワルツなどを聴くと、ホーレンシュタインは人生のどこかで喜怒哀楽の「喜」を完全に捨て去ってしまったのでは?とさえ思ってしまいますが、逆に、マーラーやR・シュトラウスの「死と変容」などには見事にはまり、独特の重みと説得力を持つ名演に結実したと言えましょう。
ここに収録したプロコフィエフも、ホーレンシュタインのそんな資質が満遍なくプラスに作用しています。最大のドッキリ・シーンは、第5交響曲の第2楽章!通常は低速から次第に加速する箇所で、いきなりゼンマイが外れたように疾走。この人間味を完全に放棄したメカニカルな進行は、まさにプロコフィエフのモダニズムを象徴するかのよう。
また、全曲フランスのオケを振っている点もポイント。軽く明るい筆致のフランス風の音色が、完全にホーレンシュタインが志向するサウンドに変貌しているのには、驚きを禁じえません。
古典交響曲も、テンポは決して遅くなく、リズムも立っていますが、通底する暗さが独特の峻厳さを醸し出すのです。プロコフィエフ・ファンは、特に必聴!【湧々堂】

TRE-029
マルクジンスキ〜ブラームス&ショパン
ブラームス
:ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24
 6つの小品〜間奏曲変ホ短調Op.118-6
 ラプソディー第2番 ト短調Op.79-2
パデレフスキ:幻想的クラカウ舞曲Op.14-6#
シマノフスキ:練習曲変ロ短調Op.4-3#
ショパン:マズルカ第47番イ短調Op.68-2#
 ワルツ第14番(遺作)#
 ワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2#
 ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」*
ヴィトルド・マルクジンスキ(P)

録音:1954年、1954年6月9-11日#、1953年3月5日*、(全てモノラル)
※音源:米Angel 33549、、日COLUMBIA XL-5229#、伊Columbia 33QCX-194*、
◎収録時間:77:01
“マルクジンスキによる「葬送ソナタ」の最高名演!”
■音源について
マルクジンスキは、ショパンの第2ソナタをCOLUMBIAへ少なくとも5回(1943年,1947年,1953年,1958年,1961年)録音していますが、最も傑出しているのはこの1953年盤(ICONボックスは1958年盤を収録)。ブラームスもショパンと並ぶ重要なレパートリーでしたが、Columbiaヘのソロ作品録音はこの3曲のみ。軽視されがちなAngel盤を用いましたが、ICONボックスのマイルドな音とは大違いです。アンコール・ピースを収めた日本Columbia盤は、当時のプレス技術の高さを窺わせるもので、打鍵の芯のニュアンスまでしっかり感じさせます。

★まずは、ブラームスのヘンデル変奏曲のなんと素晴らしいこと!さり気なく口ずさむような主題のニュアンスは、一見リラックスした雰囲気を持ちつつも、作品のフォルム内にカチッとニュアンスを凝縮し、各変奏を緊密に連携させる手腕は見事という他ありません。第4変奏や第10変奏で見せる、中低音を基調とした響きの豊かさと意味深さ、第5変奏の可憐な歌の呼吸感など魅力満載。第15〜第16変奏は、俊敏なレスポンスを見せながらも決して腰が浮くことのない盤石の安定感で、これぞブラームス!と叫びたくなること必至。
マルクジンスキが繰り返し録音したショパンの第2ソナタは、どれもが独自の魅力を誇りますが、あえて一つ選ぶならこの1953年盤!第1楽章の導入の底なしのような闇の深さに、まず息を呑みます。第1主題の音価を若干詰めてリズムを際立たせ、悪魔が忍び寄るような不安を煽るという生々しさ、第2楽章の第1音の後に一呼吸を入れる意味深さなど、明らかにこの録音が最も顕著。しかし、ドロドロの感情で塗り潰して終わるのではなく、全ての響きに高雅な精神が宿り、芸術的に昇華し尽くしている点に、マルクジンスキの偉大さを感じずにはいられません。【湧々堂】

TRE-030
O・レヴァント〜ショパン、ドビュッシー他
ショパン:夜想曲Op.9-2 /Op.15-2
 練習曲Op.10-3,4,5,12
 子守唄/軍隊ポロネーズ
 ワルツOp.70-1 /Op.64-2
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ*
 「クープランの墓」〜フォルラーヌ*/メヌエット*
ドビュッシー:「子供の領分」〜人形のセレナード*/小さな羊飼い#/ゴリーウォーグのケークウォーク#
 亜麻色の髪の乙女#
 映像第1集〜水に映る影#
 沈める寺#/月の光#/レントより遅く#
オスカー・レヴァント(P)

録音:1946年頃(ショパン)、1944-1947年
※音源:COLUMBIA ML-4147、ML-5324*、CL-1134#
◎収録時間:76:44
“気負わず繊細に歌い上げる、O・レヴァントの知られざる音楽センス!”
■音源について
オスカー・レヴァントのピアノ・ソロ録音のLPは、それほど多くありません。ML-4147はショパンの作品だけで構成されたLP。他はオムニバス的な内容。ここではそれらの中から、3人の作曲家の作品をチョイスしました。

★オスカー・レヴァント(1906-1972)は、『アメリカ交響楽』、『巴里のアメリカ人』などの映画に出演したことから、まず俳優として認識されがちですが、幼少期からピアノの才能を見せ、シェーンベルクにも師事。20代後半からはガーシュウィンとの親交を深め、映画やTVへの出演で広く知られるようになりましたが、あくまでもキャリアの出発点はクラシック・ピアニストであり、演奏を聴けば明らかなように、その芸は、決して趣味の延長で器用にピアノを弾きこなしているだけの代物ではありません。ピアニストとしての録音では、オーマンディと共演した「ラプスディ・イン・ブルー」が有名ですが、レヴァントの音楽センスの素の部分をよりダイレクトに感じさせるのが、これらの小品。クラシック作品としての様式感を踏まえつつもアカデミズムに縛られず、引き出されるニュアンスには羽が生えているかのよう。気負いを感じさせないタッチは、作品の持ち味を優しく引き出し、ハリウッド的な派手さとはかけ離れたエレガンスを醸し出すのです。
つい遊び心を出したくなる「軍隊ポロネーズ」でさえ、いたって誠実なアプローチ。ラヴェルでは独特のアゴーギクを見せながらも音楽の根幹を歪めることなく、淀みない歌心が素晴らしい求心力を持って迫ります。最大の魅力は、弱音のセンス!「ゴリーウォーグのケークウォーク」のフレーズ結尾に置かれる可憐なタッチは、決して作り込んだものではなく、レヴァントの繊細な感性の賜物と言えましょう。
レヴァントは、一見華やかな活躍ぶりとは裏腹に、本質的にかなりナイーブな性格だったらしく、後年は精神的に病み、薬漬けとなったそうですが、演奏にもそういう資質が少なからず影響しているように思われます。自信満々にパフォーマンスに耽るのとは違う、音楽に対する真っ直ぐな慈しみがここにはあります。【湧々堂】

TRE-031
ニコライ・マルコ〜ボロディン&チャイコフスキー
チャイコフスキー:大序曲「1812年」
ボロディン:交響曲第3番(未完)*
 交響曲第2番ロ短調#
ニコライ・マルコ(指)
フィルハーモニアO

録音:1953年2月6日、1955年9月24日*、1955年9月23日#(全てモノラル)
※音源:HMV XLP-30010*#、M.F.P MFP-2034
◎収録時間:61:12
“土俗性を煽らず一途な共感で描き切ったボロディンの素晴らしさ!”
■音源について
「1812年」はOPUS蔵からもCD化されましたが、なぜか音がマイルドでした。ボロディンは、マルコ&フィルハーモニア管コンビの最後期の録音。国を離れたマルコの郷愁が心を打つ逸品です。

★爆発的な感情表現を嫌うマルコの芸風は、お国物のロシア音楽でも一切変わりません。「1812年」のような作品は、どんな指揮者でも少なからずスペクタクルな興奮を煽るものですが、マルコは最後まで端正な音楽作りに終始。そこへ丁寧に詩的なニュアンスを注入することで、大音量に頼らない風格美を醸し出します。もちろん最後での大砲実音などなし。第4主題(10:57〜)の清らかな歌心は特に聴きもの。
あらゆるデフォルメを遠ざけるマルコの芸風は、土俗性の強調とも無縁であることを痛感させるのがボロディン。作品自体が十分に土臭さいのだから、それ以上の上塗りは一切不要とばかりに、熱狂を目的とせずに一途な共感だけで歌い上げた交響曲第2番は、フィルハーモニア管の見事な協調とも相まって、マルコのこだわりが最も美しく結実した最高の名演と言えましょう。第1楽章第2主題でわずかにテンポを落としますが、その恣意的ではない郷愁の炙り出しは、何度聴いても感動的。更に涙を禁じ得ないのが第3楽章!広大な自然の静寂と郷愁をこれほど見事に音像化した演奏を他に知りませんし、マルコが例外的に生の感情を吐露した瞬間としても、忘れることができません。そして、その感動に拍車をかけるのが、デニス・ブレインが奏でるホルン!他の録音と同様にソリストのような目立ち方はしていませんが、その慎ましさが、この空気感と見事にマッチ。ブレインがソロを吹く録音としても、これは傑出しています。【湧々堂】

TRE-032
ニコライ・マルコ〜ベートーヴェン他:序曲集
ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
 「プロメテウスの創造物」序曲#
 序曲「レオノーレ」第3番
スッペ:「詩人と農夫」序曲*
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」*
 序曲「ルイ・ブラス」**
エロール:「ザンパ」序曲#
ニコライ・マルコ(指)
フィルハーモニアO

録音:1953年1月28日、1956年2月17-18日*
1956年3月1日**、1953年1月29日#(全てモノラル)

※音源:HMV DLP-1061(ベートーヴェン)、M.F.P MFP-2034
◎収録時間:60:47
“意地貫徹!品格重視のアプローチが作品の素の姿を再現!”
■音源について
ベートーヴェンは10インチのフラット盤。他の序曲は、マニアが見向きもしないmfp盤ですが、これがLP初出。

★シルヴェストリの音楽作りを公然と批判していたことでも明らかなように、マルコにとって極端な感情表現など、断じて許しがたいことだったのでしょう。ここでも、そんなマルコのこだわりが徹底的に注入されており、意図的な演出や声部のデフォルメとは無縁の高潔な指揮ぶりによって作品をありのままの姿で再現し、新たな感動を呼び覚ましてくれるのです。
ただ、その音楽作りの根底にあるものは、「楽譜に忠実に」とか「作曲家の意思を最優先」といった理想の実現というよりも、「何が何でも品格を通す!」という意地のようなものが優っており、それが演奏にも独特の緊張感を与え、結果的に不思議な後味を残すという点で、マルコという指揮者は、ちょっと他に類を見ない存在だと思うのです。
テンポの設定も常に中庸。決してオケが弾きにくいテンポは採用しないところにも、頑固なだけではない温かみが滲み出ています。例えば「ザンパ」の7:28から弦の細かい動きが続きますが、ここでは無理なく表情が浮き立つようなテンポを明らかに意識しており、その配慮が透けて見えるところがなんとも人間臭いのです。
名手揃いのフィルハーモニア管は、どんな指揮者に対しても反旗を翻すことなく、常に高水準の演奏を聴かせてくれましたが、そんなマルコに対して、「うるさいオヤジだけど憎めない」といった雰囲気で接しているのが目に浮かぶよう。
そんな「頑固だけど憎めない」マルコの性格を更に印象付けるのが、「レオノーレ」3番!ベートーヴェンといえども、ドイツ的な重厚さとは異なり、ここでもスッキリとした音像で描いていることには変わりないのですが、最後の追い込み方があまりにも意外!品格重視のはずが、さすがに音楽の力に負けたのか、妙にエキサイティングしているのです。あまりにも予想外で、私は思わず苦笑してしまいました。 【湧々堂】

TRE-033
ノヴァエス〜ショパンのマズルカ&前奏曲集
マズルカ〜Op.33-2/Op.41-1
 Op.33-4/Op.17-4/Op.24-4
 Op.56-2/Op.59-1/Op.33-3
 Op.63-1/Op.59-2/Op.24-2
24の前奏曲Op.28*
ギオマール・ノヴァエス(P)

録音:1954年、1953年*(全てモノラル)
※音源:米VOX PL-7920、独OPERA-PANTHEON XP-2150*
◎収録時間:70:12
“ノヴァエス天性のリズムと色彩感覚が織り成すの豊穣なショパン!”
■音源について
VOX時代の2枚のLPの全てを1枚に収録。「前奏曲集」は、良好なOPERA-PANTHEON盤(ドイツ初出)を用いました。

★ノヴァエスは、ショパンの主要作品のほとんどを録音していますが、特に傑出して素晴らしいのが「マズルカ」と「前奏曲集」!同じショパンでも、「練習曲集」などはノヴァエスと作品の一体感がやや希薄だったのに対し、ここでの収録曲には、確実に入念にノヴァエス独自の世界感が投影されています。最初のマズルカOp.33-2では、単純な楽想による主題が、人間味溢れるリズムと絶妙なスイング感によって華やぎを持ち、フレーズ結尾の0:17では微妙にタッチをずらし、更に芳しい香りを添えます。この「ずらし技」は、ほとんど気づかない程度のものも含めて他の曲でも随所に聞かれますが、それによる色彩の広がりには是非ともご注目を。Op.33-4は、憂いの表情を湛えながらそれに埋没せず、些細な装飾音の意味まで直感的に捉えたニュアンスが素晴らしく、これほど内容が詰まった演奏は滅多に聴けません。Op.59-1もノヴァエスだけが可能なエレガンス!フレーズ末端でフッと肩の力を抜くことで気品が一気に醸し出されるのがたまりません選曲も配列も当然ノヴァエス自身が決めたのでしょうが、個々の作品に「これしかあり得ない!」という表情を与え、克明なタッチで再現し尽くした感動的なマズルカ集です。
「前奏曲集」は、この先どんな名演が誕生しても、当方が推奨盤のベスト5から漏れることは決してないでしょう。これはまさに、全24曲で構成される壮大な人間ドラマです!まず第1番。一見何の変哲もない演奏ですが、この先どこへ向かうかわからない幻想的な空気感に一気に惹き付けられます。第2番は、ボソボソと繰り返される左手の分散和音に対して微妙にエネルギーの増減を加味し、上声部との絶妙な緊張感を形成。そしてコーダの意味深な余韻!有名な第7番では、ノヴァエスの天賦の感性を端的に実証!この間合いの絶妙さは、古今を通じてダントツでしょう。打鍵の威力で圧倒するのではなく、またプレストの性格だけを際立たせることなく、精神の飛翔力で勝負する第16曲も必聴。何度聴いても目頭が熱くなるのが、第17番!第1主題から第2主題へ移る際の恐るべき呼吸の浸透力!というように、魅力は尽きませんが、技巧と感性の絶妙なバランス、どんな弱音でも音像を決してぼかすことなく多様な色彩を表出するタッチも魅力をとくとご堪能ください。【湧々堂】

TRE-035
モーラ・リンパニー〜ベートーヴェン&フランク
フランク:交響的変奏曲*
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
モーラ・リンパニー(P)
ワルター・ジュスキント(指)フィルハーモニアO*
トーマス・シャーマン(指)スタジアム・コンサートSO

録音:1949年6月20日*、1957年ニューヨーク(全てモノラル)
※音源:RCA LHMV-1013*、Music Appreciation Record MAR-5713
◎収録時間:69:42
“気高い推進力!、リンパニー絶頂期の貴重なベートーヴェン!”
■音源について
米Music Appreciation Record は、1960年代にアメリカの出版社Book of the Month社が会員に頒布していた教育用のレコードで、同社の社長でもあるトーマス・シャーマンによる楽曲解説を収録した10インチ盤とのセットでの発売がウリでしたが、このベートーヴェンは、12インチのみの発売。LHMV-1013(フラット)は、英国ではCLP-1002(CLP規格の第2号)で発売されましたが、両者に音質的な差は殆どないので、盤質良好な方を選択しました。

★リンパニーのベートーヴェンの録音は、他にはデジタル録音で小品が2曲ほどあったのみ。少なくともベートーヴェンの全協奏曲をレパートリーにしていたようですが、協奏曲もソナタもこれが唯一の正規録音です。その「皇帝」の素晴らしさには、絶句するしかありませんし!リンパニーに対して清楚なイメージを持たれている方には、構築を歪めることなく、速目のテンポで敢然と突き進む姿勢に驚かれることでしょう。気品に溢れながら、決して上品に仕上げることを目的とせず。まさにジャケット写真のイメージそのもののニュアンスが広がります。この作品の命とも言えるトリルの輝きとその放射力、第1楽章展開部でもほとんどテンポを伸縮させず、息の長い呼吸で高い集中力を堅持。その呼吸力を生かして、艶やかなタッチを敷き詰める第2楽章からは、得も言われぬ余韻を引き出し、終楽章に至ると、オケと熱い協調は最高潮に達し、まるでライヴ一発録りのような気迫と閃きで溢れかえるのです。ツボを押さえて頑強な造形力を示すシャーマンの指揮と、オケの技量の高さも特筆もの。
「悲愴」も、大変な名演奏!第1楽章主部に入る直前の休符から立ち昇る豊かなニュアンス、芯を湛えたタッチが全声部に渡って淀みなく配置された主部には過剰な力みはなく、内面から溢れる揺るぎない共感が、作品に凛とした佇まいを与えます。その声部のバランス感覚は、第2楽章でさらに際立ち、ベートーヴェンに相応しい歌を確保。もしもソナタ曲録音を遺していたなら、後世への絶大な宝となったとことでしょう。【湧々堂】

TRE-036
ウォーレンステイン〜シューベルト他
ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」〜ラコッツィ行進曲/鬼火のメヌエット/妖精の踊り
スメタナ:交響詩「モルダウ」
シューベルト:交響曲第5番*
 交響曲第4番ハ短調*
アルフレッド・ウォーレンステイン(指)
ロスアンジェルスPO

録音:1953年頃、1950年代中頃*(全てモノラル)
※音源:英Brunswick AXTL-1063、AXTL-1059*
◎収録時間:78:47
“シューベルトを堂々たるシンフォニストに引き上げた画期的名演!”
■音源について
ベルリオーズの曲順は、レコード収録のまま。特にシューベルトの良質盤は入手困難ですが、奇跡的にノイズカットを最少に止めるだけで良好な結果が得られる盤に出会えました。

★シューベルトの交響曲は、豪快すぎたり、構成をガチガチに固めすぎると音楽が死んでしまうと思い続けてきましたが、そうとも言い切れないということをこの演奏は教えてくれました。響きは厚く、テンポにも表情にも確信が漲るウォーレンステインのアプローチは、それだけなら単に大味なものになっていたことでしょう。肝心なのは、そこに常に歌が寄り添っていること。それも尋常ではない渾身の歌!そこにフレージングの美しさも相まって引き出される楽想の華やぎ方は、他に類を見ません。
「第5番」第1楽章、第1主題直後のバスの張り出し方にまずギョッとしますが、それが大げさに陥らず、「さあ行くぞ!」という推進力を生み、1:26からの弦のテヌート処理は、胸焦がすシューベルトの心理を映すかのよう。第2楽章も希望に満ち溢れ、フレーズ全体が大きな弧を描く演奏を聴いたことがありません。終楽章は相当速いテンポですが、重心が安定しきっているので、空虚に流ることなど皆無。穏やかでほのぼのとしたイメージのこの作品に、ズバッと風穴を開けた画期的名演です。
よりシンフォニックな「第4番」は、そんなウォーレンステインの音作りに更にピタリと嵌ることは容易に予想できましたが、ここまで凄いとは!まず第1楽章が猛烈な速さ!確かに楽譜の指示は「アレグロ・ヴィヴァーチェ」。しかしそれを身を持って体現した演奏が他にあったでしょうか?しかも「一気呵成」と「歌」が同居し得るとは思いも寄らぬことです。第2楽章は、なぜか涙を誘います。悲しい要素など殆どないのに、聴き手の心を心底から勇気づけるような空気感は、何物にも代えがたい魅力。相変わらず世間には「癒やし」や「慰め」を謳ったCDが横行していますが、この10分間に優るものなどあるのでしょうか?【湧々堂】

TRE-037
パリキアン〜バッハ&モーツァルト
バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調
 ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調
 ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 BWV 1023#
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」*
マヌーグ・パリキアン(Vn)
アレクサンダー・クランハルス(指)バーデン室内O
ワルター・ゲール(指)アムステルダム・フィルハーモニー協会O*
アレクサンダー・モルツァン(Vc)#、
ヘルベルト・ホフマン(Cemb)#

録音:1959年頃(全てモノラル)
※音源:独CONCERT HALL MMS-2148、MMS-2206*、
◎収録時間:77:30
“地味な佇まいから引き出される作品の様式美!”
■音源について
TRE-016で記したとおり、ここでもあえて楽器が美しく融け合うモノラルの独盤を採用し、ハリ艶のある音を再現。バッハは、同じモノラルでも、流通量の多い米盤は、音がシャリシャリして趣きを欠きます。モーツァルトは、TRE-016に収録した3曲と合わせて、これでパリキアンがC.H.Sに録音したモーツァルトの全てが揃います。

★バッハは、理知に傾いたり、エキセントリックな刺激を突きつける演奏にはない安心感の中から、バッハ本来の佇まいがじんわりと迫り、何と良い作品かと感慨を新たにするばかり。特に協奏曲第1番は、イ短調という調性が持つ悲痛さを強調せず、歌い込み過ぎず、作品と一定の距離を置いたアプローチが完全にプラスに働き、バッハの息吹が直に伝わります。その魅力は、第2楽章で最も顕著に花開。これほど煩悩を感じさせず、無私に徹し、結果的に美しいフォルムを確立した演奏も珍しいでしょう。
モーツァルトも、喜びを発散するような演奏に比べると地味に聞こえますが、その要因は強拍が目立ちすぎることを避けているせいだとも思われます。これは、ややもすると平板に流れがちなスタイルですが、作品への敬意だけを頼りに愚直に奏でる「嘘のなさ」が、音楽に独特の説得力をもたらしています。杓子定規に楽譜を追っているだけではないことは、展開部を聴けば明らか。一弾強い意志を投入して、更にグッと踏み込んだ表現に変化しており、全体的に自然なメリハリを音楽に与えているのです。終楽章ももっと露骨に楽しさを演出したり、美音を武器とした演奏はいくらでもあります。パリキアンにとっとは、それら全てが無縁。なのに、何度も繰り返し聴きたくなるのです。【湧々堂】

TRE-038
フランツ・アンドレのベートーヴェン
ベートーヴェン:交響曲第4番
交響曲第7番*
フランツ・アンドレ(指)
ベルギー国立RSO

録音:1953年10月2日、1952年10月3日*
※音源:日KING RECORD MPT-45、英Telefunken GMA-7
◎収録時間:64:11
“小品集だけではわからない、フランツ・アンドレの度量の広い芸術力!”
■音源について
Telefunkenでは、カイルベルトがドイツ系の作品を担当していた一方で、アンドレは主にロシア、フランス系の作品を担当。日本では、小品ばかりを録音した人だと思われがちですが、それは、小品集しか日本で発売されなかったからではありません。現にこうして、演奏も音質も見事な10インチ盤(当時1000円)が発売されているのですから、不当に軽視されただけなのです。英Telefunken盤も、やっと発見できた良質な逸品です。ジャケ写には、Telefuken Radiola LSK-7023を使用。

★フランツ・アンドレ(1893- 1975)は、ベルギーが生んだ真の名指揮者。よく知られる小品の類いでも、そのハイセンスな芸術性は確認できますが、このベートーヴェンでは、自然な造形力と音楽を大きな愛で包み込む度量の広さを実感。特に「第4番」の素晴らしさは、比類なし!かつては「3番と5番挟まれた柔和な作品」とされましたが、アンドレにはそんなことは眼中に無なく、作品を大きく捉えることで、愛の衝動をストレートに音化し尽くします。まず、第1楽章の序奏の響きから衝撃的!神妙になりすぎて音楽を萎縮することなどありえない、なんどハリのある音!この物怖じしない懐の深さ、大きさが全編に貫ぬかれる様は、ビーチャムを彷彿とさせます。第2楽章も同様で、弱音で繊細さを装う素振りさえ見せません。第3楽章のトリオ直前できちんとフルト・パウゼを挟み、場面転換をキリッと際立たせる配慮も、アンドレの芸術力の表れ。そして圧巻の終楽章!後にムラヴィンスキーやC・クライバーなど、高速の名演は数々あれど、その速さそのものから多彩なニュアンスが沸き立つ演奏は、聴いたことがありません。それを可能にしているのは、オケの尋常ではない技量の高さ。特に弦楽器群の素晴らしさには唖然とさせられ、この16分音符の細かい音型を刃こぼれすることなく弾き通しているのは驚異的。また、そうでなければ表情が浮かび上がらないことを痛感。
一方の「第7番」も生命力溢れる演奏ではありますが、さらに作品の造形表出に重点を置く解釈で、そこには、リズムの熱狂を強調しすぎると音楽に内在する楽しさが死んでしまうという確信が宿っているかのよう。音楽を生かすのに最適なアプローチを直感的に見極める能力は、それこそ小品を指揮する際には欠かせないセンスですが、それがここでも十二分に発揮され、独特の説得力を生んでいるのです。【湧々堂】

TRE-039
ジョージ・ウェルドン〜「水上の音楽」
(1)E・コーツ:行進曲「ロンドン・ブリッジ」*
(2)グレインジャー:モック・モリス#
(3)V=ウィリアムズ:グリーンスリーヴズによる幻想曲#
(4)ディーリアス(フェンビー編):歌劇「コアンガ」〜ラ・カリンダ#
(5)E・ジャーマン:「ジプシー組曲」〜メヌエット*
(6)V=ウィリアムズ(ジェイコブ編):イギリス民謡組曲〜行進曲「サマセットの民謡」#
(7)A・コリンズ:「虚栄の市」*
(8)R・クィルター:組曲「虹の終わる場所に」〜“Rosamund”*
(9)F・カーゾン:小序曲「パンチネロ」*
(10)ウェールズ民謡(ウェルドン編):Suo-gan#
(11)ハーティ:アイルランド交響曲〜定期市の日#
(12)ヘンデル(ハーティ編):水上の音楽**
  王宮の花火の音楽**
(13)アイルランド民謡(グレインジャー編):ロンドンデリーの歌#
ジョージ・ウェルドン(指)
(1)(5)(7)(8)(9)プロ・アルテO
(2)(3)(4)(6)(10)(11)(13)フィルハーモニアO
(12)ロイヤルPO
(3)ジョージ・アクロイド(Flソロ)

録音:(1)(5)(7)(8)(9)1963年2月18-19日、 (2)(3)(4)(6)(10)(11)(13)1962年10月、 (12)1960年11月30日(全てステレオ)
※音源:(2)(4)(6)(10)(11)(13)HMV SXLP-30243、 (1)(3)(5)(7)(8)(9)SXLP-20123、 (12)SXLP-20033
◎収録時間:73:40
“これこそが、個性を誇示しないとう個性の魅力!”
■音源について
ここに収録した「水上」&「王宮の花火」は、演奏のニュアンスと音楽の持つニュアンスに完全に寄り添ったサウンドを実現しているという意味で、ステレオ初期の名録音として真っ先に挙げたい逸品。もっと早く復刻したかったのですが、運悪く強音でビリつくレコードが多く、数回買い直しでやっと満足できるディスクを入手出来ました。曲順にも配慮しましたので、是非最後まで通してお聴きいただければと思います。

★J・シュトラウスの作品集でさえ、ニューイヤーコンサートのライヴ盤くらいしか発売されない昨今、スッペの序曲やシューベルトの「ロザムンデ」、そしてこのヘンデル=ハーティの「水上&王宮」等々、かつてカタログで多く目にした愛すべき作品達は、もはや“絶滅危惧曲”となってしまいました。発売する意味を見出だせないレコード会社も問題ですが、曲に共感でき、持ち味を生かせる指揮者が存在しないという事態は深刻です。それだけに、これらジョージ・ウェルドン(1906-1963)の指揮芸術の素晴らしさは、今しっかりとご紹介しなければなりません。
その「水上&王宮」は、演奏・録音ともに素晴らしいことはもちろんのこと、余分な味付けを施さずに作品の姿を等身大のまま再現したほとんど唯一の録音である点で、絶大な価値を誇ります。これを聴けば、この典雅さと人間味を兼ね備えた雰囲気を醸し出せる演奏などもうありえないことを実感していただけることでしょう。
ちなみ、ウェルドンの師であるサージェントも、これらの曲をこの録音の前年に、同じレーベル、同じオケで録音していますが、格の違いは明らかで、師匠の面子は…。
他の作品も、有名無名作品を取り混ぜて収録しましたが、初めて聴く作品でも確実に心に染み入ること必至。中でもお勧めはは、指揮者としても有名なアンソニー・コリンズの「虚栄の市(Vanity Fair)」。他愛もない曲想から浮かび上がるチャーミングな微笑みは、大曲にしか興味を示さない指揮者には望めません。「イギリス民謡組曲」は第3曲のみなのが残念ですが、全曲であったなら、ボールトと並ぶ名演として認識されたことでしょう。ウェールズ民謡の「Suo-gan」は、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『太陽の帝国』の挿入歌としても使われました。
イギリスに行ったことがないのに、懐かしさのあまり涙したくなる…、そんなアルバムとなれば幸いです。【湧々堂】

TRE-040
ヴォイチャッハ他〜ドイツ行進曲集
(1)P・ヴィンター:ベルリン・オリンピック・ファンファーレ
(2)G・ピーフケ:行進曲「プロシァの栄光」
(3)ヴァルヒ:行進曲「パリ入場」
(4)A・ラインデル:エルファー行進曲
(5)J・フチーク:行進曲「剣士の入場」
(6)C・タイケ:行進曲「旧友」
(7)C・フリーデマン:フリードリヒ大王行進曲
(8)A・ユレックス:ドイツ騎士団行進曲
(9)M・ツィーラー:シェーンフェルト行進曲
(10)H・ニール:行進歌「楽しき兵隊」
(11)H・シュタインベック:」行進曲「連隊の挨拶」
(12)L・フランケンブルク:行進曲「勇躍戦線へ」
(13)O・マイスナー:行進曲「楽しき行軍」
(14)H・フースアーデル:行進曲「リヒトホーフェン爆撃隊」
(15)C・シェスタック:行進曲「ハイル・ヒトラー」
(16)W・ティーレ:行進曲「若き勇士」
(17)C・フリーデマン:提督行進曲
(18)L・ジルヴァール:ドイツ艦隊行進曲
(19)G・フェルスト:行進曲「兵士の歓喜」
(20)A・レオンハルト:アレキサンダー行進曲
(21)H・リヒター:行進曲「ドイツ万歳」
(22)J・フチーク:フローレンス行進曲
(23)ゾンタルク:ニーベルンゲン行進曲
(24)F.V.ブローン:行進曲「戦から勝利へ」
(25)ラウキーン:行進曲「闇から光へ」
(1)オリジナル版
(2)-(4)(10)(15)カール・ヴォイチャッハ(指)テレフンケン大吹奏楽団
(5)(6)ベルリン・フィル団員
(7)(13)クーアマルク吹奏楽団
(8)(9)レオポルド・エルトル(指)南オーストリア歩兵隊第14連隊「リンツ」軍楽隊
(11)(14)フリードリヒ・アーラース(指)ベルリン防衛連隊付軍楽隊
(12)ヘルマン・ミュラー・ヨーン(指)アドルフ・ヒトラー親衛隊付軍楽隊
(16)ヴィリー・ティーレ(指)ポツダム騎兵隊付軍楽隊
(17)(18)フリッツ・フーブリヒ(指)海軍第三重砲隊スヴィーデムンデ大隊軍楽隊
(19)ゲオルグ・フェルスト(指)ミュンヘン歩兵隊第19連隊付軍楽隊
(20)(21)ヘルマン・リヒター(指)ベルリン警察隊大吹奏楽団
(22)-(25)アドルフ・ベルディーン(指)ドイツ陸軍軍楽隊

録音:(1)1936年、(2)(15)1933年、(3)1929年、(4)1932年9月、(5)(6)1934年8月、(7)(13)1936年12月、(8)(9)1938年3月、(10)1938年4月、(11)(14)1938年2月、(12)(22)1938年12月、(16)1935年、(17)1934年9月、(18)1934年9月、(19)1934年12月、(20)(21)1933年9月、(23)-(25)1930年11月
※音源:King Record SLC-2302-2303
◎収録時間:77:53
“行進曲はかくあるべし!誕生の背景と関係なく心揺さぶる逸品揃い!”
■音源について
独テレフンケンは、ナチス・ドイツの国策会社として多くのドイツ行進曲を録音していましたが、大戦中にその原盤のほとんどが焼失してしまい、新たな復刻は絶望視されていました。それが、1972年にキングレコード(1936年から独テレフンケン盤を発売していた)の倉庫から大量のメタル原盤が奇跡的に発見され、翌年にLP4枚分が発売されて話題となりました。ここではその際「第2巻」として発売された2枚組LPのほぼ全て(3曲のみ割愛)を収録しています。1930年代とは思えな瑞々しい音に驚きを禁じえません。ほとんどノイズ・リダクション不要の良質盤を使用。

★曲が生まれた背景はともかくとして、ここには行進曲の演奏スタイルの理想形、いや音楽から得られる感動の原点がぎっしり詰まっていると言っても過言ではありません。「シェーンフェルト行進曲」や「兵士の歓喜」などに象徴されるように、重すぎず軽すぎず、絶妙に弾むリズム、楽想が万遍なく生かされる色彩が、夢中になって演奏することで、怒涛のように溢れ出すのです。
有名なタイケの「旧友」は、当時のベルリン・フィルの巧さが全開で、推進力と共に流麗さも兼ね備えた超一級のニュアンスが放たれ、こんな惚れ惚れするような演奏は他にないでしょう。眉をしかめずに、純粋に音楽を聴いていただきたいのが、ナチ党員でもあったシェスタック(作詞、作曲)による「ハイル・ヒトラー」。バス・ドラムの一撃だけをとっても鉄壁の入魂ぶりで、鳥肌必至!なお、中間部でドイツ魂とヒトラーを賛美する合唱が加わりますが、内容は過激すぎるので知らない方がよろしいかと…。
こういう体全体を高揚させるような演奏をさせたのも、ショスタコーヴィチが数々の名作を生んだのも、「戦争」という悲惨な現実があったからですが、だからといって戦争を再び起こしたい人などいないでしょう。「仲良く楽しく」演奏するだけでは、人を心底感動させる演奏にはならないことは知っています。だからこそ、平和な現代において音楽で人を感動させるには、戦争に取って代わる、音楽家を夢中にさせる何か強烈なモチベーションが求められるのではないでしょうか?【湧々堂】

TRE-041
アルジェオ・クワドリ〜エキゾチック・コンサート
サン・サーンス
:「サムソンとデリラ」〜バッカナール
 交響詩「死の舞踏」
レブエルタス:センセマヤ#
 クァウーナウァク#
R=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」*
アルジェオ・クワドリ(指)
ロイヤルPO、ウィーン国立歌劇場O*

録音:1950年代中頃、1953年*(全てモノラル)
※音源:Westminster XWN-18451、W-LAB7004#、仏VEGA C30S124*
◎収録時間:78:29
“作品の内側から歌と色彩を徹底抽出する、名匠クアドリの驚異的センス!”
■音源について
アルジェオ・クワドリ(1911-2004)はイタリアの名指揮者。1951年にミラノ・スカラ座で指揮者デビュー。1950年代中頃からウィーンを中心に活躍し、その頃Westminsterに「シェエラザード」や「ローマの松&噴水」といった名盤を遺しました。音の筆致を明確に捉えたWestminsterの録音は、色彩的な作品でその効果を最大限に発揮しましたが、ここでも各曲のエキゾチックな空気感をたっぷりと堪能いただけると思います。仏VEGAはWestminsterのライセンス盤ですが、厚手のフラット盤で、流麗さと強靭さを兼ね備えた素晴らしい音がします。

★オペラ畑の指揮者で歌心に溢れた人は多いものの、どんな作品でも歌わせ方がワンパターンな人もいます。クアドリの素晴らしさは、曲の構成感をしっかり捉えた上で、楽想のニュアンスを引き出すのに最適な歌わせ方を心得ている点だと思います。
まずご注目頂きたいのは「死の舞踏」で、これは今までに知り得た演奏のベスト1です!打楽器をクローズアップ(特にシロフォンが超リアル!)した録音と、8分半にも及ぶスローテンポが少しもあざとさを感じさせず、微妙に劇画風の面白さを醸し出します。中間の4:07辺りからは更にテンポを遅くして、束の間の陶酔的な空間を演出するのは、クアドリ特有の歌心の象徴と言えましょう。レブエルタスの2曲は、否が応でもエキソシズムを強調したくなるところですが、クアドリはそれをわきまえ、作品自体に孕む魅力を信じることで、自然と底光りする色彩を獲得。「シェエラザード」も同曲を語る上で欠かせぬ大名演!オケの美観を最大限に生かしつつ、アンサンブルを温かみを持って制御し、立体的でカラフルな大音像を敷き詰めます。楽想が代わるごとに結構頻繁にテンポを変えていますが、それが注意深く聴かないと気づかないほど自然な流れのうちに結実し、ニュアンスが連動しているのです。オケも、クアドリの自然な牽引力に対して全面的に献身していることが手に取るようにわかり、特に、管のソロが活躍する第2楽章ではそれを痛感。各奏者のイメージに任せてそれらしく歌わせるのではなく、クアドリがそうあるべきニュアンスへと優しく導いていることをお感じいただけることでしょう。第3楽章は、小手先ではないシルキーなレガートの美しさに涙!中間部での、打楽器と他の楽器とのブレンド感も理想の極地。終楽章も、馬力で誤魔化す安易な演奏とは次元が違います。もちろん最後の難破シーンも、音量だけではない、飽和尽くしたニュアンスの炸裂!なんと含蓄豊かな演奏でしょう。
こういう作品は、ステレオ以降の録音でないと楽しめないと思っている方も、これを聴けば、要は「演奏次第」だとということにお気づきいただけるのではないでしょうか。【湧々堂】

TRE-042
ホーレンシュタイン〜ベートーヴェン:「英雄」他
ベートーヴェン:「エグモント」序曲
「プロメテウスの創造物」序曲
交響曲第3番変ホ長調「英雄」*
ヤッシャ・ホーレンシュタイン(指)
ウィーン・プロ・ムジカO

録音:1953年
※音源:仏VOV PL-8020、独Opera 1015*
◎収録時間:68:06
“異常暴発!苦悶を発散できないホーレンシュタインだからこそ成し得た凄演!”
■音源について
ホーレンシュタインのVOX録音は、モノラル・ステレオを問わず出来不出来のムラが大きいと感じるのは、録音方式の不安定さに原因があるのかもしれません。このベートーヴェンは、そんな中でも演奏内容、音質の安定感共にトップクラス。「英雄」は、史上最も優美なバウアー=トイスル盤を既に復刻しましたが、このホーレンシュタインのモノラル盤(ステレオ再録音は別人のように平凡な演奏)は、その対極に位置する凄演。かつて正規にCD化されたものはノイズ皆無ながら、音の切れ味ばかりが印象に残り、メラメラと噴き出す情念は綺麗に削ぎ落とされていました。米.英.仏ではVOX-8070で発売されましたが、ここではそれと同等の音質で、歪が少ないOpera盤を採用しました。ジャケは仏盤。

★こんな異様なテンションで貫かれた「英雄」は、他にありません!第1楽章冒頭の和音の威力は古今を通じて比類なく、ミュンシュやバーンスタインのようなストレートに情熱をぶつけたものではい、怒りを封じ込めすぎて異常暴発したような怖さ、不健康さ!ホーレンシュタイン特有の「屈折した暗さ」がブチ切れた瞬間と言えましょう。音楽自体の構えも尋常ならざる巨大さですが、その底辺には健全で強靭な精神とは異なるやるせなさが常に付きまとい、単にティンパニ強打だけの効果ではないことは明らかです。こんな非情なまでの音がウィーンのオケから出てくるのも驚きですが、第2主題のふとした瞬間などにウィーンらしい柔らかいニュアンスが顔を覗かせるのも興味深いところです。その異様なテンションは、第1楽章再現部に至って更に激化し、超強固な造形美で聴き手を打ちのめします。第2楽章では、怒りと不安がマックスに!4:38からの木管の身を裂くような絶叫といい、8:17からのトリオ主題が地獄絵図のように増大する様といい、なぜこれだけの演奏が一般に評価されないのか、全く理解に苦しみます。
この演奏をきっかけに、ホーレンシュタインの魅力に目覚める人が増えることを願って止みません。【湧々堂】

TRE-044
シューマン:交響的練習曲*
ショパン:24の前奏曲集Op.28#
 ワルツ第3番Op.34-2/第7番Op.64-2/第8番Op.64-3/第9番Op.69-1
モーラ・リンパニー(P)

録音:1949年6月16日*、1954年11月18日#、1958年8月15日(全てモノラル)
※音源:RCA,HMV LHMV-1013*、HMV CLP-1051#、CLP-1349
◎収録時間:74:52
“絶頂期のリンパニーを象徴する二大名演!”
■音源について
シューマンは米初出LPを使用。APRの2枚組CDでも良い演奏だということは伝わりますが、この演奏の命ともいえるフワ〜ッと一瞬で包み込むような空気感が半減しています。ショパンのワルツ集はステレオも存在しますが、ここではアンコール代わりにモノラル・バージョンを収録。ジャケット・デザインは、「前奏曲集の豪初出LP。

★シューマンもショパンも、これらの曲の最高位に位置する大名演!あくまでもロマン派作品であることにこだわり、微妙な感情の揺れを確信を持って注入している点で共通しています。
「交響曲練習曲」は、主題の第一音から実に霊妙なオーラが漂い、一気に惹き込まれます。第2練習曲のアゴーギクや、第3練習曲の憂いに満ちたフレージングに触れると、「交響的」な「練習曲」と呼ぶに相応しい立派な造形を優先し過ぎる演奏が多いことに気付かされます。フィナーレで、これほど心の奥底から歌を感じた演奏も稀でしょう。
「24の前奏曲」でも、リンパニーは自身が感じた詩的なニュアンス注入は、一切揺るぎません。第2番の左手声部のやるせなさと、コーダでの一瞬のアルペジョの余韻、第4番の最後の最弱音や、第8番コーダのさりげない転調のニュアンスを生かし切った究極バランス美は、絶頂期のリンパニーを象徴するもの。プレストで猛進する第16番も声部バランスが絶妙で、アクロバット的な物々しさとは無縁の品格が滲みます。第17番は43小節以降の呼吸の妙味といい、終結で低音変イ音を持続して響かせる技といい、全く苦心の跡を感じさせず自然な佇まいを維持しているのには驚きを禁じえません。【湧々堂】

TRE-045
ビーチャム他〜エルガー:管弦楽曲集
3つのバイエルン舞曲Op.27*
序曲「コケイン」/弦楽セレナード
エニグマ変奏曲
ローレンス・コリングウッド(指)LSO*
トマス・ビーチャム(指)ロイヤルPO

録音:1954年2月11日*、1954年11月-12月(全てモノラル)
※音源:英COLUMBIA 33CX-1030*、PHILIPS ABL-3053
◎収録時間:70:21
“ビーチャム唯一のエルガー録音で痛感する人間と音楽の大きさ!”
■音源について
ビーチャムのディスコグラフィには、お国物の英国作品はほとんど見当たりませんが、たった1枚エルガーのメジャー作品のレコードを遺してくれました。エルガーとビーチャムには不仲説もありますが、その真偽はともかく、演奏に掛ける意気込みは尋常ではなく、バス・ドラムの衝撃までしっかり捉えた録音の凄さも特筆もの。カップリングには、ビーチャムの録音にもプロデューサーとして深く関わった、コリングウッドの演奏を併録。コリングウッドの指揮者としての録音は、バイエルン舞曲の第2曲を含むエルガーの小品集(ステレオ)などごくわずかしかありません。なお、トラック16冒頭に消去しきれないノイズが混入しますが、あらかじめご了承下さい。

★ここに収録したビーチャム指揮による3曲は、ビーチャムの音楽性を再認識する上で欠かせない逸品。「ウィットに富んだ表情が魅力だがスケール感に乏しい」という紹介文をかつて目にしたことがありますが、少なくともそのイメージは打ち砕かれます。まず衝撃的なのが、「コケイン」の緻密で壮麗な造形美!各場面を「つぎはぎ」しただけのような曲に貶めることなく、緊密に連動させながら壮大なパノラマとして再現しており、しかも各場面がまさに今眼前に広がっているような実在感を持って迫るのです。
「弦楽セレナード」も小さくまとまることなく、弦の厚みを十分に生かした陰影の濃い表情を湛えます。特に第2楽章中間部の、ビーチャム特有の語りの妙味は必聴。2:23からの心の奥底からの共鳴を聴けば、エルガーとの不仲説などどうでもよくなります。
「エニグマ」では、「コケイン」で示した楽想連動力を更に拡大。第6変奏で、音符の少ない簡素な音楽から煌く色彩を引き出すのは、さすがビーチャム。ヴィオラの余韻にもうっとり…。第7変奏は、ティンパニの衝撃が激烈。肉感的な迫力に圧倒されます。第12変奏は、いらにもエルガーらしい中低域のハーモニーがあまりにも沈鬱に傾きすぎる例もありますが、ビーチャムの包み込むような指揮にかかれば、そんな危惧は無用です。そして、終曲の猛烈な歓喜の雄叫び!
「3つのバイエルン舞曲」は、休暇で過ごした土地の思い出として書かれた合唱曲「バイエルンの高地から」より3曲を管弦楽に編んだ作品。コリングウッド(1887-1987)は、録音プロデューサーとして著名ですが、ロシアでN・チェレプニン等に音楽を学んだ後はサドラーズ・ウェールズ・オペラの首席指揮者となり、多くのロシアオペラを紹介した実績の持ち主。第2曲ではチャーミングな楽想にも媚びることなく、ハイセンスなフレージングで愉しませ、第3曲では確かなバトン・テクニックを窺わせる確固たる造形力を発揮。【湧々堂】

TRE-046
コンスタンティン・イワーノフ/豪快名演集
チャイコフスキー:スラブ行進曲(改竄版)
 大序曲「1812年」(改竄版)
プロコフィエフ:スキタイ組曲「アラとロリー」*
グラズノフ:交響曲第5番変ロ長調Op.55#
コンスタンティン・イワーノフ(指)
ソビエト国立SO、モスクワRSO#

録音:1964年頃、1964年*、1962年#(全てステレオ)
※音源:Melodiya C-0959-60、C-1024221-009*、DG 2530-509#
◎収録時間:72:56
“改竄版の異常さだけでなく、イワーノフの音作りの御注目!”
■音源について
イワーノフ指揮による改竄版「1812年」は、1960年のライヴ録音がVista veraのCDに収録されていましたが、演奏が散漫で、音も定位が不安定な上に、ノイズを消し過ぎたすぎたため全休止が完全無音状態となるなど、散々でした。ここに収録したのはセッションによる良好なステレオで、イワーノフの芸の一端を示す録音として絶対に外せないものです。グラズノフは、あえて良質なDG盤を採用。

★幸か不幸か、私がチャイコフスキーのこの2作品をを初めて知ったのはまさにこのレコードで、後に様々な「まともな」演奏を聴いて、イワーノフの演奏の異常さに気づいたのでした。シェバリーンによる改竄(ソ連政府の意向によりロシア帝国国歌の部分がグリンカの楽曲の一部に差し替え)だけでなく、今は昔のソ連流の耳をつんざく金管咆哮、快速テンポでひたすら猛進する音楽には、品格の欠片もありません。しかし、ゴロワーノフの血みどろの演奏を知った上で聴くと、それを爽快にさえ感じるのは気のせいでしょうか?とにかく、当時のソ連のオケが最高のヴォルテージを発揮した時の凄さを知るのに、これ以上のものはないと思います。初めて聴く方は、腰を抜かさないようご注意を!
「スキタイ組曲」は、イワーノフの向こう見ずな迫力を正常なフォルムの中で大発揮した、紛れもない名演奏。第1曲の「太陽神ヴェレス」の凶暴さは常軌を逸しており、理性や恥じらいが邪魔しない音の凄まじさを思い知ります。忘れてならないのは、第3曲「夜」における神秘的で潤いたっぷりの音色。線の細さなどどこにも垣間見られない肉厚な響きから湧き出る妖気に、一瞬で吸い寄せられます。終曲最後の眩さも、空前絶後!
イワーノフが交響曲を演奏する際には、迫力でねじ伏せるだけでなく、全体の構成を踏み外さない配慮を感じさせることが多いですが、そのせいでベートーヴェンなどでは煮え切らない演奏に帰結してしまった感が拭えません。しかし、このグラズノフは違います。ドイツ流のソナタ形式から大きく外れることのなかったグラズノフの作風を念頭に置いた上で、ロシア的な情感を確信を持って敷き詰めています。第1楽章第2主題の木管にヴィブラートを利かせたホルンが被さる瞬間の風合い、第3楽章冒頭の静謐から原色のハーモニーが優しく立ち昇る様など、心を捉えて離さないシーンの連続です。【湧々堂】

TRE-048
ベートーヴェン:三重協奏曲Op.56*
ヴァイオリン協奏曲(カデンツァ;ヨアヒム作)
マヌーグ・パリキアン(Vn)
マッシモ・アンフィテアロフ(Vc)*
オルネッラ・サントリクイド(P)*
ワルター・ゲール(指)ローマPO*
アレキサンダー・クランハルス(指)フランクフルトRSO

録音:1950年代後半(モノラル)
※音源:Concert Hall MMS-2159*、MMS-2124
◎収録時間:79:57
“個性をひけらかさない表現から漂う作品の魅力!”
■音源について
採用した2枚のレコードは共にチューリカフォン(TU)盤で、これ以上にハリとコシのある音質はまず望めません。ヴァイオリン協奏曲はステレオ盤も存在しますが、例によって音が溶け合わずに違和感が拭えません。サントリクイド・トリオは、C.H.Sにベートーヴェンのピアノ三重奏曲全集を録音していますが、この三重協奏曲では、そのメンバーをそのまま起用せず、あえてヴァイオリンはパリキアンが受け持っています。なんとかギリギリ1枚のディスクに収録できました。

★三重協奏曲でのソロ奏者3人は、清潔な音色と自己顕示欲を見せない真摯なアプローチで共通しており、この作品の純朴さをありのままに届けてくれます。終楽章に至っても謙虚さを維持。派手なパフォーマンス合戦に陥っていない分、何度でも聴きたくなる魅力がここには宿っています。
ヴァイオリン協奏曲は、既に復刻したバッハやモーツァルトと同様に、パリキアン自身がその存在をいかに消せるかに挑んだような、全面的な音楽への奉仕ぶり。音色の点でも技巧面でもドキッとするようなインパクトを与えることがないので、感覚的には至って地味で、クライスラーよりも技巧的なヨアヒム作のカデンツァも燻銀のような風合いを醸し出します。そんな姿勢が最大に功を奏したのが、終楽章第2副主題(3:10〜)。一切媚びずにイン・テンポを守りつつ、心の襞に優しく語りかけるのです。ハイフェッツのような誰が聴いても凄いとわかる演奏とは対極に位置しますが、決して見捨ててよい演奏ではないことを実感していただければ幸いです。【湧々堂】

TRE-049
メンデルスゾーン:華麗なるロンド
 ピアノ協奏曲第1番ト短調 Op.25*
トゥリーナ:交響的狂詩曲Op.66**
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調Op.16#
モーラ・リンパニー(P)
ハーバート・メンゲス(指)LSO
ラファエル・クーベリック(指)フィルハーモニアO*
ワルター・ジュスキント(指)フィルハーモニアO**
ハーバート・メンゲス(指)フィルハーモニアO#

録音:1952年6月3日、1948年10月3日*、1949年6月20日**、1954年11月4日#
※音源:RCA.HMV LHMV-1025、HMV CLP-1037#
◎収録時間:64:34
“リンパニーの十八番、グリーグにおける結晶化されたタッチ!”
■音源について
メンデルスゾーン&トゥリーナは、米初出LP。グリーグはリンパニーにとって、1945年、1952年に続く3度目の録音で、この後にステレオ録音も行うほどの十八番作品。

★これを聴くと、1950年前後がリンパニーの絶頂期であったことを痛感します。トゥリーナのなんという艶やかさ!オケは弦楽器のみの編成ですが、リンパニーの確固とした芯を湛えたタッチと気品溢れるフレージングの融合によって、管楽器を欠く編成であることを忘れるほど豊かな色彩が広がります。
グリーグの協奏曲をメジャー作品に引き上げたピアニストとしてはルービンシュタインが有名ですが、リンパニーの存在も決して無視できません。その解釈は、実に直截。もったいぶったアゴーギクなど必要としない決然とした推進力が魅力です。第1楽章第2主題(2:32〜)からのタッチの粒立ちの美しさ、何もしていないようでいて音楽を淀みなく呼吸させるセンス、第2楽章の下降音型で強拍にしっかりとアクセントを配置し、ムードに流されない配慮、常に張りを保持した弱音の魅力などは、まさにリンパニー節!
更に忘れてならないのは、メンゲス&フィルハーモニア管の伴奏の見事さ!同じグリーグでソロモンの伴奏も担当していたコンビですが、随所で聴かれるデニス・ブレインのホルンも含め、ピアニストを縁の下で支えるスタンスと音楽表現の両立、アンサンブルの結晶度の高さにおいて傑出しています。【湧々堂】

TRE-050
ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス ワルター・ゲール(指)
ハンブルクNDS響、北ドイツ放送Cho
ウタ・グラーフ(S)、グレース・ホフマン(A)
ヘルムート・クレシュマール(T)
エーリヒ・ヴェンク(Bs)

録音:1950年代後半(ステレオ)
※音源:VANGURAD SRV-214-215(コンサートホール原盤)
◎収録時間:71:35
“権威に立ち向かったベートーヴェンの精神が宿る名唱!”
■音源について
ステレオ・ヴァージョンよる本家コンサートホール盤による良質盤になかなか出会えません。このVANGURAD盤はプレス状態、盤質とも極めて良好で、ジャケット・デザインも素敵なので迷わず採用しました。なお、ジョン・ハントのディスコグラフィでは、オケ名が“NDR”となっていますが、どのレコードを見ても“NDS”と印刷されているので、ここではそのまま表記しました。

★独唱陣も含めて演奏スタイルこそ時代を感じさせますが、綺麗事を寄せ付けない生身の人間の叫びが素朴なオケの響きにも全身全霊を込めた合唱にも反映されています。特に合唱の素晴らしさは特筆もので、全パートが自然なバランスで調和し、指揮に合わせて歌っているという印象を与えない自発性が説得力に拍車をかけます。「キリエ」のコーダなどまさにその典型。「グローリア」も、スマートさとは程遠い民衆の叫び!「クレド」は野武士風の勇壮さを持ちながらも、第2部での純真な響きが印象的。第3部の壮大なフーガに至っては、こうでなければ!と思わせる迫真のハーモニーの塊!緻密に作品の構築を露わにするアプローチとは一線を画す、愚直な音の積み上げが琴線に触れるのです。「アニュス・デイ」は、感情過多に陥らずに切々とからり掛けるヴェンクのバス独唱が絶品。第2部の平和の祈りは、この演奏の性格を象徴するもの。
録音も上々。ワルター・ゲールのステレオ録音の中でも、「チャイ5」と同等かそれ以上の良好なバランスで全パートがブレンドされています。【湧々堂】

TRE-054

ティボール・パウル
Tibor Paul
ティボール・パウル〜ハンガリー名曲集
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番*
ブラームス:ハンガリー舞曲集(7曲)#
 第5番(パーロウ編)/第6番(パーロウ編)
 第7番(ハレン編)/第10番/第1番
 第2番(ハレン編)/第3番
バルトーク:2つの映像Op.10
コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
ティボール・パウル(指)
ウィーンSO

録音:1959年11月15-21日*、1959年1月5-8日(*以外) 全てステレオ
※音源:PHILIPS 857-027CY、700-158WGY#、Victor SFON-7521*
◎収録時間:76:10
“厚塗り厳禁!誰も真似できない庶民的なリズムと歌心!”
■音源について
ハンガリーの指揮者、ティボール・パウルのステレオ初期のフィリップス録音のほぼ全てを収録。これ以外には、リストの「前奏曲」と「ハンガリー狂詩曲第1番」がありました。ハンガリー舞曲の曲順は、レコードの曲順のままです(米EPIC盤は番号順に収録)。

★ティボール・パウル(1909-1973)は、シェルヘンやワインガルトナーに師事したハンガリーの指揮者。祖国を離れた後にスイス、オーストリアで活躍し、1954年にはニュー・サウス・ウェールズ州立音楽院の指揮科教授に就任しています。録音には恵まれず、ステレオ初期にフィリップスにハンガリーの名曲を集中的に録音したのがほぼ全て。日本では、少なくともここに収めたハンガリー狂詩曲を含むリストの管弦楽曲集は発売されましたが、きちんと紹介されなかったせいか、完全に忘れ去られた指揮者です。
パウルの芸の最大の魅力は、「庶民感覚」。先ずハッとさせられるのがハンガリー舞曲。何と軽妙で飾りがなく人懐っこいこと!今まで聴いた全ての演奏は、立派な芸術的な衣装を無理に纏っていたとしか思えません。小細工のないストレートなアプローチが、曲の愉しさを余すところなく引き出しています。「第10番」冒頭は恰幅良く開始しますが、決して威圧的な雰囲気に傾かず、これぞ素朴の美!全曲録音でないことが悔やまれます。
更に痛快なのが「ハーリ・ヤーノシュ」。これを聴くと、他の指揮者が立派な交響組曲風に響かせ過ぎること、ここまで主人公に成りきった演奏が見当たらないということに気付かされます。第4曲「戦争とナポレオンの敗北」でのサクソフォーンのグリッサンドなど、ここまで露な例は他に無く、敗北の嘆きどころか惨めさ丸出し!思わず吹き出します。「間奏曲」の強弱対比には温かい共感が滲み、終曲最後の大太鼓一撃の見栄の切り方も、計算ずくのニュアンスではないことは明らか。
バルトークは他の曲とはテイストこそ異なりますが、パウルの“作品を突き詰め過ぎない”姿勢は同じ。1曲目の「花ざかり」での、溢れんばかりのノスタルジーと人肌の温もりが泣かせます。
作品にはそれぞれ固有の風合いがあるはずなのに、J・シュトラウスやスッペなどの小品もベートーヴェンやワーグナーと変わらない音の重み、厚みで表現してしまうことの多い昨今、もはや「粋」とか「軽妙さ」「素朴さ」を堪能するには、こうして昔の録音を引っ張り出すしかないのは残念なことです。【湧々堂】

TRE-055
コンラート・ハンゼンのモーツァルト
ピアノ・ソナタ第1番ハ長調K.279
ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280
ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調K.281
ピアノ・ソナタ第4変ホ長調K.282
ピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310
コンラート・ハンゼン(ハンマークラヴィア)

録音:1956〜1957年(モノラル)
※音源:DG LPM 18320、日GRAMMOPHON LGM-1136(JP)*
◎収録時間:69:39
“ハンマークラヴィアで弾きたいという音楽的衝動がもたらす説得力!”
■音源について
ハンゼンは、モーツァルトの時代のハンマークラヴィアを用いたソナタ集のレコードを5枚完成しましたが、ステレオに移行する直前に録音は途絶え、全集には至らなかったのは痛恨の極みですが、ハンゼンの数少ないディスコグラフィの中でも最重要録音と言えましょう。オリジナルのジャケット・デザインは、どれも黄白の統一デザインですので、ここでは日本盤のジャケット採用しました。

★ベームやパウムガルトナーなど、かつて博士とか教授といった呼称がピタリとはまるアーチストが多く存在しましたが、彼らの引き出す音楽は、深い見識に基づきながらもそれを直接的な武器にはせず、聴き手に確実に音楽的な手応えと味わいをもたらしてくれました。コンラート・ハンゼンも、デトモルトやハンブルクの音楽学校の「教授」という指導者、学者のイメージが先行しがちですが、ここに聴くモーツァルトは、あえてモーツァルトの時代のハンマークラヴィアを用いながらも、学究的な主張を表面化させることなく、一途に音楽のありのままの魅力だけを伝えてくれます。特別なことは何もせず、イン・テンポを崩さず淡々と進行するだけですが、つかみ所のない地味なだけの演奏に陥っていないのは、ちょっとした間合いにも耳を傾け、音楽を感じている証しでしょう。左右の声部は、常に完璧なバランスを保ち、生徒に「モーツァルトはタッチが命」と語り、些細な伴奏音型でさえ何度も弾き直しさせたハンゼンのこだわりも全編に漲っています。
それにしても、「第1番」の第1楽章、なんという音楽でしょう!これほどモーツァルトの天才性が泉のように湧き出る演奏を聴いたことがありません。
「第8番」で注目すべきは、第1楽章開始早々(0:11)に聴かれる“半スタッカート”的な音の跳ね上げ方。このニュアンスのためだけにこの楽器を選んだのでは?と思えるほどで、ハンマーの軽い叩きによる愛おしい表情は、スタインウェイでは不可能でしょう。イ短調という調性ながら、その悲劇性や特殊性を強調する素振りなどもちろん皆無。
「過去の習慣を洗い流しスコアに立ち返る」という大義名分のもと、スコアをほじくり返して新鮮味を出しているだけの演奏とは、琴線に触れる度合いが違うのです。
かつてオイゲン・ヨッフムは、スコアにないティンパニ追加や管楽器を重ねる処理についてその真意を尋ねた聞き手に「その方が美しいでしょ?」と一蹴しましたが、おそらくハンゼンがこの古楽器を選択した理由も、その響きに純粋に惚れ込んだだけで、いわゆる学術的な意味合いなどあまりなかったのかもしれません。あったとしても、それを咀嚼し、結局主役は音楽であることを実感させる、その凄さを実感していただければと思います。
ちなみに、モーツァルトが好んだのは、ウィーン・アクションと呼ばれるハンマークラヴィアで、ここでもそれが使用されているものと思われます。ベートーヴェンが好んだのは、もっと重量感のあるフォルテを出せる、イギリス・アクションでした。【湧々堂】

TRE-056
コンラート・ハンゼン/モーツァルト&ブラームス
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第6番ニ長調K.284*
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
コンラート・ハンゼン(ハンマークラヴィア*、P)
フェレンツ・フリッチャイ(指)
ベルリンRIAS響

録音:1956〜1957年*、1953年4月19日
※音源:GRAMMOPHON LGM-1136(JP)*、LONGANESI PERIODICI GCL-50
◎収録時間:72:29
“ブラームスの第2楽章は、同曲空前の大名演!”
■音源について
モーツァルトは、日本初出盤を使用。ブラームスは、拍手のない放送録音。ANDROMEDAからCD化されましたが、音の差は歴然。

★ハンゼンのモーツァルトは、演奏者の解釈の痕跡を感じさせない素直さと瑞々しさで魅了。ハンマークラヴィアを使用していますが、通常のピアノで聴きたいと願うファンも、最初の数秒を聴いただけでその魅力に引き寄せられ、その選択が正しかったと実感されることでしょう。
ハンゼンの音楽性は、よく知られるフルトヴェングラーやケルテスとの共演盤だけでイメージされがちですが、モーツァルトのソナタ・プロジェクトと共にハンゼンの魅力を語るに不可欠なのが、次のブラームス!勇壮なフリッチャイの伴奏に身を委ねつつ、聴後には、ドイツ流儀のピアニズムを孤高に貫き通したハンゼンの姿が印象づけられるのです。第1楽章冒頭主題のフレージングの伸縮力から一気に惹きつけられ、その後の強靭なトリルの決して技巧過多ではない輝き方!白眉は第2楽章で、冒頭のオケに続くピアノの滑り出しは、まさにドイツの音色美で魅了。陶酔的な空気に言葉も出ません。3:26からの最弱音は決して痩せず、全てのタッチから余情が滲み、涙を誘うこと必至。終楽章はスピード感に任せることなく、大地に根を張った堅牢な構築力が絶大な説得力!曲が進むにつれて単に激情を放射するのではなく、むしろそれを内面に封じ込める意志を貫き、それが作品の造形維持にも大きく貢献。最後には圧倒的な手応えと感銘を与えてくれるのです。音質も良好。全身でブラームスらしさを感じたい方は、特に必聴の名演です!【湧々堂】

TRE-057r
L・クラウス〜ベートーヴェン&シューマン
ベートーヴェン:ロンド変ホ長調(遺作)
 ピアノ協奏曲第4番
シューマン:ピアノ協奏曲*
リリー・クラウス(P)
ヴィクトル・デザルツェンス(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1962年、1950年代末*(全てステレオ)
※音源:VANGUARD SRV-252SD、Concert Hall SMS-2327*
◎収録時間:73:46
“クラウスの溢れるロマンティシズムが曲想と見事に合致!”
音源について
シューマンは、宇野功芳氏の推奨盤としても有名。シューマンもベートーヴェンもコンサートホール盤特有の音ながら、ソロとオケを別録りして張り合わせたような違和感はなく、元々かなり良好なバランスのステレオ・サウンドですが、Scribendumの復刻CDでは、過剰なノイズ消去で余韻まで掻き消されていました。シューマンは、最も条件の整ったTU盤(スイス・プレス)盤を使用。シューマンの録音データは判然としないのですが、クラウスとデザルツェンスとの録音プロジェクトは1959年に開始したという記録があるので、1950年代末としました。
なお、
ベートーヴェンは、以前にフランス盤を採用していましたが、より歪み感が少なく音に太さを感じるヴァンガードのライセンス盤に変更(2022年10月)。以前のヴァージョンと区別するために。品番結尾に「r」を付しています。

ベートーヴェンの協奏曲は同じコンサートホールに「第3番」も録音していますが、明らかにオケが弱いこともあり、この「第4番」の方がはるかに説得力大。終楽章冒頭の、飾り気のないまさに玉を転がすようなタッチの妙味は、クラウスの最大の魅力の一つ。「ロンド」は、ピアノ協奏曲第2番の終楽章として書かれ、ベートーヴェンの死後にチェルニーが完成させたとされる作品。
 そして、最大の聴きもの、シューマン!第1楽章導入の決然とした意志が迸る打鍵から説得力絶大!オケが奏でる第1主題を引き継ぐ際のピアノの入りでは、微妙に間を取り、潤いに満ちたタッチで哀愁を滲ませながらどこまでも沈みこんでいく風情がたまらない魅力。その後もアレグロの部分としっとりと緩やかに歌われる箇所とのコントラストが絶妙で、女性的という一語では済まないクラウスの感受性の大きさを感じずにはいられません。第2楽章も美しく奏でた演奏はいくらでもありますが、最初の主題に象徴されるように、音楽を内面から豊かに伸縮させるセンスは誰も敵いません。特に付点音符を頂点とするフレージングの膨らませ方は、絶対にお聴き逃しなく!中間部ではオケとピアノが主役の交代を繰り返しながら、いかにもシューマン的なロマンの香気を漂わせますが、両者が対話をするというより、渾然一体となった麗しい流れになっているのも印象的。終楽章は、クラウス節全開!短い音価が連続するフレーズで、その結尾のテンポを微妙に走らせてフレーズに勢いを持たせる独特の節回しは、野暮ったいどころか音楽全体に比類なき躍動感を与えています。この作品を味わう上でも、クラウスの芸術性を知る上でも欠かせない録音です。【湧々堂】

TRE-058
フォルデス/ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」Op.13*
ピアノ・ソナタ第19番ト短調Op.49-1
ピアノ・ソナタ第26番「告別」Op.81a*
ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101
ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109
アンドール・フォルデス(P)

録音:8番:1961年11月2-9日(第8番)、1960年(第19番)、1961年11月3-4, 6, 8-9(第26番)、1960年5月16-17日(第28番)、1960年2月3-4日(第30番) 全てステレオ
※音源:DG 135064(De)*、GRAMMOPHON SLGM-1127 (Jp)
◎収録時間:76:50
デフォルメに頼らずベートーヴェンの精神を表出する透徹のピアニズム!
■音源について
フォルデスよるベートーヴェンのソナタと協奏曲の録音計画は途中で中断。巨匠ケンプがそれをそっくり受け継ぐ形で完成させた全集は、バックハウスと並ぶ最も有名な名盤となりました。一方でフォルデスの録音は一般的には完全に忘れ去られ、すっかりマニア向け遺産となってしまいましたが、誰もが唸る名演となると、技巧面も含めてフォルデスに軍配を上げる人がい多いのではないでしょうか?使用したのは再発の独盤と日本の初期盤ですが、共に黄白盤よりフォルデスの明晰なタッチをダイレクトに感じられます。ジャケ写は、日本盤を採用。

★アンドール・フォルデス(1913-1992)は、ハンガリー出身。リスト音楽院でドホナーニ、バルトーク等の薫陶を受けました。録音ではモノラル期のハンガリー作品や、DGを離れた後のEMIへの録音も無視できませんが、フィルデスの魅力を痛切に感じさせるのは、モノラル後期からステレオ初期にかけてのDG録音でしょう。この時期は、ザール音楽院のピアノ科教授を務め、演奏旅行も積極的に行っており、公私ともに絶頂期だったのかもしれません。
その演奏の第一の魅力は、誇張を避けた明晰さ。「悲愴」第1楽章中部直前の急降下タッチは、まさに鉄壁の粒立ち!第1主題の細かい音型の淀みのなさも驚異的ながら突き放したような冷たさはなく、むしろ包み込むような温かみさえ感じられます。展開部冒頭の割れそうで割れない強打鍵も、フォルデスの魅力の一つ。一切音像を混濁させることなく心からフレーズを紡ぐ第2楽章は、時代の新旧を問わない普遍的価値を痛感させ、中間部のペダリングのセンスも特筆もの。「第28番」第2楽章中間部のカノンにおける、柔らかな緊張の持久力も忘れられません。終楽章の序奏十分に瞑想的でありながら希望の光が満ち、そこから活気ある主部への移行の自然さにも息を呑みますが、主部後半で、音楽の伸びやかさを確保すると当時に、強固な作品フォルムを打ち出す様は、何度聴いて心打たれます。【湧々堂】
シューリヒト
TRE-059
シューリヒト〜モーツァルトの「ハフナー」
モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
セレナード第7番ニ長調 K.250「ハフナー」*
カール・シューリヒト(指)
VPO、シュトゥットガルトRSO*

録音:1956年6月3-6日、1962年12月* (全てモノラル)
※音源:KING RECORD LC-4、MOVIMENT MUSICA 01-067*
◎収録時間:72:19
“神の領域!これこそがシューリヒトの究極の二大名演!”
■音源について
1950年代ステレオ初期DECCAのウィーン・フィルの録音は、小さい箱の中に押し込んだような奇妙な音なのが玉に瑕ですが、良質なモノラル盤で再生すれば、その違和感を回避でき、頭の中で「現実的な音」を想像する余計な作業をすることなく、この不朽の名演の凄さを更に実感していただけるはずです。当時の日本のKINGプレス盤の素晴らしさにもご注目を。「セレナード」はなかなか正規CD化されませんが、これがまたどんなに言葉を尽くしても足りないほどの至高の名演!

★ウィーン・フィルとの「ハフナー交響曲」はあまりにも有名な名演ですが、このモノラル盤を聴いて、祝典的な雰囲気とは一線を画す慈愛と深遠さが入り混じったニュアンスがいかに凄いことであるか、痛感しました。第1楽章冒頭の憂いを含んだ滑り出しもそうですが、第2楽章0:37からの付点音符のリズムの育み方など、シューリヒト以外には実現不可能と思われ、ただもう言葉を失うばかり。極めて高純度でありながら人間的な温もりを常に携えた究極のモーツァルトと言えましょう。
私がまだモーツァルトの何がどのように天才なのか理解できなかった頃、一枚のレコードから流れたモーツァルトの音楽に思わず釘付けになりました。その時の演奏こそが、シューリヒトの「ハフナー・セレナード」。そんな個人的な思い入れを差し引いても、この作品の別格の名演であり、数あるシューリヒトの名演に垣間見られる神業的なニュアンスは、全てこの演奏に集約されていると言っても過言ではありません。最初の序奏部での清潔な佇まいから一転、微妙に先走り気味に開始する主部の求心力!これはもう「オケの自発性」という範疇を超えた不思議な化学反応としか思えず、その後の推進性にも操作性を感じさせない自然さが、音楽の豊かさを続々と現出させるのです。他の楽章も魅力的過ぎて全てを書ききれませんが、あえて特筆したいのが第5楽章。ゆったりとしたテンポにも淀みはなく、微かに悲哀を湛えているのがなんとも心に染みますが、このニュアンスは続く短調の中間部への布石であることに気付かされます。そしてその中間部の悲哀は、もはや説明不可能!これ以上に胸を優しく突き刺す演奏など考えらず、この演奏を知ってからもう何年の経った今でも涙が出ます。次の第6楽章もそうですが、ここにはモーツァルトの全てがあると言い切れます。
この長丁場の作品において、どこにもその自然な緊張感が停滞する瞬間がないというのも奇跡的なこと。放送用音源で、音質も極めて良好。なお、ヴァイオリン・ソロは、バルヒェットが弾いているという説も。
最後にあえて断言します。この2つの録音は、シューリヒトが遺した最大の名演です!【湧々堂】

TRE-060
デゾルミエール&チェコ・フィル名演集
ビゼー:「カルメン」第1組曲〜前奏曲/アルカラの竜騎兵/間奏曲/アラゴネーズ
 「アルルの女」第1組曲&第2組曲*
ドビュッシー:夜想曲(「雲」「祭り」)**
ラヴェル:ボレロ#
ロジェ・デゾルミエール(指)チェコPO

録音:1950年11月15日、1950年5月25-26日*、1950年11月9日**、1950年10月30日# (全てモノラル)
※音源:SUPRAPHON - EURODISC 913-296
◎収録時間:76:22
“楷書風の筆致から湧き上がる甘美な色彩と香気!”
■音源について
デゾルミエール(1898-1963)がチェコ・フィルと録音した2枚分のLPから、ドビュッシーの「海」以外の全てを収録。チェコ・フィルによるフランス音楽は聴き逃せないものばかりですが、中でもデゾルミエールの録音は、傑出した魅力を誇ります。70年代末の良好なドイツ・プレス盤を使用。

★デゾルミエール(1898-1963)は、ディアギレフのロシアバレエ団やオペラ・コミック座などの指揮者を歴任しただけに、劇場的な雰囲気を醸し出すセンスが抜群ですが、その雰囲気作りに少しも押し付けがましさがなく、自然に色香が漂うのが最大の魅力ではないでしょうか。
まず、「カルメン」前奏曲から湧き上がる風情にイチコロ!カッコよく飛ばすのでもなく重厚に作り込むのでもない絶妙なテンポ感は、まさに体から自然に滲み出た技!このあまりにも有名な曲で、一音も漏らさずそのニュアンスに浸りたいと思わせる演奏など、そうは存在しません。「間奏曲」のパステル調の色彩は、チェコ・フィルのテイストと完全にマッチ。「アラゴネーズ」は終始イン・テンポの楷書風の進行にもかかららず、聴き手に厳格な統制力を意識させず、曲の持ち味だけが自然に浮上するのです。その魅力は他の曲でも同じで、「アルルの女」の「カリヨン」は遅めのテンポを取りながら、少しもリズムが重くならず、聴き手に視覚的な想像力を喚起するのに十分な余韻を常に携えながら、音楽が淀みなく流れます。「ファランドール」最後の畳み掛けでは、ほとんどの指揮者による加速の安易さを思い知ります。
「夜想曲」の「雲」は、脂肪分の少ないチェコ・フィルのサウンドが最大限に生き、和声の透明感が恍惚美を表出。特に4:32からの艶やかで甘美な色気は、比類なし!
「ボレロ」もパワー炸裂型の演奏とは一味異なり、大輪の花がゆっくりと開花するような空間的な広がりを感じさせます。
デゾルミエールの芸の奥深さを知るのに欠かせない録音ばかり。音質も非常に良好です。 【湧々堂】

TRE-061
ホルライザー/ワーグナー&バルトーク
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲
 「ローエングリン」第1幕前奏曲/第3幕前奏曲/婚礼の合唱*
 「トリスタンとイゾルデ」前奏曲
バルトーク:管弦楽のための協奏曲*
ハインリヒ・ホルライザー(指)
バンベルクSO&Cho*

録音:1959年10月、1959年5月21-23日*(全てステレオ)
※音源:米VOX STPL-511.550、独MARCATO STPL-73483*
◎収録時間:72:10
“「オケコン」の野趣あふれる魅力を再認識させる希少な名演!”
■音源について
バルトークもVOX原盤ですが、米盤はどうも音がざらつき気味。英盤はそれよりは良好でしたが、音の粗さが気になりました。結局、最も納得の行くのは、このドイツでのステレオ初出盤でした。

★ホルライザー(1913-2006)は、ミュンヘン出身の典型的な劇場叩き上げ指揮者ながら、レパートリーは広く、日本の読響を指揮する際の演目も、スタッフが冗談半分で提案した「ウェリントンの勝利」をあっさり承諾したとか。少しも権威ぶらない大らかな人柄が、そのまま音楽性にも反映し、作品の自然な息吹きを確実に伝えてくれた指揮者でした。
まずは、バルトークの素晴らしさ!ホルライザーの共感溢れる指揮で聴くと、よく知られる「オケコン」の名演は、オケの機能性のデモンストレーションのような演奏が多いいように思えてなりません。このホルライザー盤に備わっている要素を他の名盤でも見出だせるかというと、なかなか思い当たらないのです。
その解釈は、どこまでも自然体。外面的な効果も狙わず、丁寧にスコアのニュアンスを抽出しているに過ぎませんが、どこかローカルな色合いを持つオケの特性と相俟って、素朴なリズムの躍動と歌が、心を捉えて離しません。第1楽章導入部から、エキゾチックというより懐かしさが一杯。木綿の風合いと手作りの温もりは、なかなか他では得難い魅力。第2楽章は、そんな特徴が最大に生きた愛くるしい語り口で魅了します。中間部での深いノスタルジーもお聴き逃しなく。そして、オケの機能性が大発揮される終楽章においても、派手に立ち回るのではない熟成型の音楽作り。指揮にもオケにも、「アンサンブルの正確さを表面化させない巧さ」があり、そのセンスこそが、単に田舎臭いだけではない、心に訴える野趣を育んでいるのです。
ワーグナーも、大伽藍のような壮麗さとは無縁。「マイスタジーンガー」の速いテンポによる草書風の筆致など、一見そっけなく聞こえますが、まさに職人の勘で、全ての声部が緊密に連動させ、最後には見事な高揚を遂げます。「ローエングリン」第1幕前奏曲、「トリスタン」では、表面的な美しさを超えた魂の昇華が涙を誘います。【湧々堂】

TRE-063
エッシュバッハー/グリーグ&ブラームス
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調Op.16
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番Op.83*
アドリアン・エッシュバッハー(P)
レオポルド・ルートヴィヒ(指)BPO
ウィルヘルム・フルトヴェングラー(指)BPO*
ティボール・デ・マヒュラ(Vcソロ)*

録音:1953年3月2-3日、1943年12月12-15日ベルリン・フィル定期公演ライヴ*
※音源:DGG LPE-17143、Melodiya M10-45921-009*
◎収録時間:74:22
“爆撃の危機を乗り切った決死のブラームス!”
■音源について
グリーグは、後発のヘリオドール盤が片面に全曲を収録しているので、グリーグだけでたっぷり両面を使っているこの10インチ盤の方が当然有利。ブラームスは、日本の協会盤と80年代のメロディア盤は、後半で音のピッチが高くなるのが難点。1990年に発売されたメロディア盤は修正されているようですが、若干音が柔らかく感じます。ここでは音質を優先して80年代のメロディア盤を採用し、勿論ピッチは修正しました。

★エッシュバッハーは、1912年生まれのスイスのピアニスト。ケンプやバックハウスの影に隠れてなかなか評価されませんが、師のシュナーベル譲りのタッチの美しさとハイセンスな感情表現の魅力は無視できません。
グリーグは、かなり濃厚なロマンを湛えるルートヴィヒの指揮(特に第1楽章コーダ直前!!)に対し、エッシュバッハーは情に溺れず、作品の構成感を踏まえたアプローチに徹しているので、感覚的にはストイックに聞こえますが、第1楽章カデンツァに象徴されるように、最弱音から最強音まで結晶化されたタッチには内面から溢れる共感が確実に宿っていることが分かります。終楽章の第2主題も、もっと分かりやすく甘美な雰囲気を出した演奏はいくらでもありますが、タッチの陰影だけで余韻を引き出すエッシュバッハーのピアニズムは安易さとは無縁で、かえって音楽に奥行きを与えます。そして、4:53からのアルペジオを一音も漏らさず響かせる意思!
それが、ブラームスでは全く違う形相で感情を爆発させます。大巨匠との共演という高揚感だけでなく、公演3日前にエッシュバッハーの住居が地雷によって爆破され、公演当日も米軍の爆撃の危機にさらされるという異常な緊張感に、30代の若手ピアニストが淡々と演奏することなど不可能でしょう。
まず衝撃的なのが、希望と不安が交錯したような妙なる響きを発する冒頭のホルン!その空気を全身で受けてたっぷり呼吸するエッシュバッハーのピアノの清らかさ!その後も、フルトヴェングラーが敷き詰める濃密な雰囲気と完全に一体化した起伏の大きな音楽を展開します。第3楽章がこれほどの多彩で深遠なニュアンスで迫る例も稀で、エッシュバッハーの潜在能力の全てを出し尽くした瞬間と言え、フルトヴェングラーが指揮した多くのブラームスの中でも、屈指の感動作!しかも、マヒュラのチェロがまた泣かせます!終楽章では、エッシュバッハーの極限の強打鍵も惜しげもなく大放出して完全燃焼。もちろん勢いに任せただけの単純な演奏ではなく、芸術的な昇華力が尋常ではないのです。終結部では、人間のしての尊厳を誇示するかのような音楽の羽ばたきに言葉を失います。
なお、この演奏の翌月には、会場の旧フィルハーモニー・ホールは爆撃され、焼失してしまいました。【湧々堂】

TRE-064
ワルター・ゲール/「展覧会の絵」他
ベートーヴェン:「エグモント」序曲*
メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」**
ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲「展覧会の絵」#
ワルター・ゲール(指)
LSO*、オランダPO

録音:1950年代中期〜後期(全てステレオ)
※音源:日Concert Hall SM-6111*、米URANIA USD-1032**、豪Concert Hall SMS-138A(10インチ)#
◎収録時間:77:59
“ワルター・ゲールの超入手困難ステレオ盤!”
■音源について
何かと謎の多いコンサート・ホールの録音の中でも、ゲールのこの3曲は特に収集に苦戦しました。1950年代末くらいからの録音は 日本を含む欧米各国でステレオ・バージョンが発売されましたが、それ以前の録音のステレオ・バージョン(単売)は、ごく一部の国でしか発売されなかったようです。「エグモント」は日本とアメリカ、「展覧会の絵」はアメリカ、オーストラリア盤でしかステレオ・バージョンは確認できません。メンデルスゾーンに至っては、本家コンサート・ホール・レーベルで見かけるのはモノラル盤ばかりで、ステレオ盤は、このレーベルの音源の一部をライセンス販売していた米URANIA盤以外に発見できませんでした。これらのステレオ盤はどれも入手困難で、復刻するに相応しい良好盤となると、もうこれ以上のものに出会える機会はないと思います。なお、「展覧会の絵」冒頭約30秒はモノラルに聞こえますが、米ReDiscoveryから出ていた復刻盤でも同様でしたので、ステレオ・マスター自体に起因する現象と思われます。

★ワルター・ゲール(1903−1960)によるこの3曲のアプローチには、あの「チャイ5」(TRT-002)のような大胆不敵な解釈は見られず、どれも正攻法。「スコットランド」は、第1楽章の序奏部から肩の力が抜けきった雰囲気の中から仄かな悲哀が滲み、主部以降も力みは一切なし。これみよがしに郷愁を煽るような素振りを見せず、作品の身の丈にあった情感が無理なく引出されています。自然体に徹した手作りの味わいは、第3楽章で最も大きく開花。あらゆる表情を総動員したカラヤン盤とは好対照です。第2主題が盛り上がった直後、3:12からの弦が慈愛を維持して奏で尽くされているなど、ほんの些細なことですが、そういう思わず零れ出るニュアンスこそ心からの共感の表れではないでしょうか。
「展覧会の絵」に関しては、ゲール自身による編曲版も存在しますが、これは通常のラヴェル編曲。ここでも小細工を排した実直さが際立ち、トスカニーニ以上にイン・テンポでサクサク進行する部分も少なくありません。にも関わらず、“古城”におけるエキゾチックな空気感や、“ビドロ”の鉛色の色彩感は十分に引出されています。最後の“キエフの大門”ではさすがに大きなアゴーギクを見せますが、取ってつけたような大見得は切らず、ストレートなダイナミズムがかえって痛快です。
ハンス・スワロフスキーなどと同様に、ワルター・ゲールも条件の整ったメジャー・レーベルの録音が皆無に近いので、なかなかその芸術性の本質が見えにくいですが、この3曲に見るアプローチが少しはヒントになるかもしれません。 【湧々堂】

TRE-066
カール・エンゲル/モーツァルト他
モーツァルト:幻想曲ニ短調K.397
 ロンド.ニ長調K.485*
 ピアノ・ソナタ第13番K.333
 ピアノ・ソナタ第5番K.283
 ロンド.イ短調K.511
シューベルト:即興曲Op.142-1&3#
カール・エンゲル(P)

録音:1959年(全てモノラル)
※音源:独ELECTOROLA E-80461、E-60732*、C-60730#
◎収録時間:78:15
“作曲家の代弁者に徹するカール・エンゲルの信念!”
■音源について
使用した3枚のレコードは全て10インチ盤。エンゲルによるモーツァルトのピアノ・ソロ作品の録音は、80年代の録音が有名ですが、このELECTRORA録音も決して無視できません。1959年の録音ながらステレオ盤は存在しないようですが、エンゲルのタッチの魅力を味わうのに何の不足もありません。シューベルトの即興曲は、PHILIPSのモノラル録音(全8曲)とEURODISCのステレオ盤(Op.90のみ)も存在しますが、これは勿論それらとは別の録音。

★ヘルマン・プライ等の歌手の伴奏ピアニストとして高名なカール・エンゲル(1923-2006)のピアニズムは、多くの歌曲伴奏者同様、強烈な個性を放射するタイプではありませんが、決して地味な印象にとどまらず、作品の持ち味と自身の感性を一体化した上での伸びやかな表現が魅力。その「一体化」はどんな作品でも容易に実現できるとは思えず、エンゲルのレパートリーがかなり限定的だったのも納得できます。
「幻想曲」は、前半は過剰な暗さに埋没せず、長調に転じてからも明るさを際立たせることのない優しい語り口ですが、それはコントラストを意図的に抑制したものではなく、全てがモーツァルトの素の言葉のように心に響きます。「ロンド K485」は、まろやかでありながら克明なタッチにも心奪われますが、最大の魅力は、技巧の彫琢を第一に考えるピアニストには到底実現できない間合いの絶妙さ!フレーズを恣意的に歌わせている箇所など皆無で、体から自然に湧き上がる音楽とはまさにこの事。しかも、こんな単純な楽想から無限と思えるニュアンスが広がるとは!これ以上の魅力を持つK485の演奏を他に知りません。「ソナタK.333」の第3楽章も、全ての要素がバランスよく共存。少ない音符のどこにも隙間風を感じさせず、フレーズが生き生きと流れるという理想の極地を実現。「ソナタ283」の第2楽章は、もはや説明など無粋の極み。ただただ無垢な音楽が存在するだけ。一体どういう人生を送ればこういう音が出せるのでしょう?
シューベルトになると当然ながら強弱の振幅は大きくなり、タッチにも強靭な芯を宿しますが、自身の解釈を主張するのではなく、作品側から表情を引き出す姿勢はモーツァルトと同じ。Op.142-1の2:37から上声部と下声部が対話するシーンは、まさに愛の囁き!その対話の微妙な陰影は刻々と変化し続けますが、愛の意味を身をもって知っている人間でなくては、説明調に傾かずにこれほど淀みないフレージングに結実させることなど不可能でしょう。【湧々堂】

TRE-067
デルヴォー/チャイコフスキー:「悲愴」他
グリンカ:歌劇「皇帝に捧げた命 」序曲
チャイコフスキー:「エフゲニ・オネーギン」〜ワルツ
 スラブ行進曲
ボロディン:交響詩「中央アジアの草原にて」
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」*
ピエール・デルヴォー(指)
アムステルダム・フィルハーモニック協会O
コロンヌO*

録音:1959年、1961年12月17日ライヴ*(全てステレオ)
※音源:米Audio Fodelity FCS-50025、DUCRETET-THOMSON SCC-504*
◎収録時間:77:40
“陰鬱さをリセットして壮絶な音のドラマとして描いた驚異の「悲愴!”
■音源について
小品は、Concert Hall音源。グリンカはGuildレーベルからCD化されましたが、モノラルのうえに、ノイズ消去過剰でした。ステレオ・バージョンのレコードは、フランス、日本などごく一部の国でしか発売されず、ましてや良質盤は入手困難。Audio Fidelityはプレスに粗さが目立つことが多いですが、このレコードは上々。Concert Hallならではの音ながら、かなり良好なバランスを保っています。一方「悲愴」は、数万円で取引される超貴重盤!ライヴ録音ですが拍手はなく、会場ノイズは殆ど聞かれません。この時期の録音としてはかなり高音質で、3楽章の大太鼓の衝撃まで確実に捉えているのは驚異的。

★とにかく「悲愴」があまりにも感動的!粋なダンディズムを誇るデルヴォーの芸風からして、ネチネチとした悲壮感とは無縁とは想像できても、ここまで既成のイメージと絶縁し、独自のペーソスを敷き詰めた「悲愴」が成立するとは思いも寄りませんでした。
まず最初に驚くのが、第1楽章の第1主題。こんな軽妙に弾む演奏が他にあるでしょうか?それが決して場違いではないことは、その後の展開を聴けば納得できるはず。展開部は、デルヴォーのドラマチックな音楽センスが全開。威圧的なねじ伏せではなく、どこか大らかな風情を湛えつつ、11:08から強弱の膨らみを与え、13:00からの弦のフレーズの切り方に渾身の思いを込めるなど、独特なニュアンスの自然な融合ぶりを目の当たりにすると、感動も倍増。難関の弱音のコーダも美しさの極み。第2楽章で、これほど濃密な表情が凝縮されているのも稀。第一、5拍子のリズムが少しの異質感をも伴わず自然に華やぐのも驚きですし、中間部でしんみりとテンポを落とすことなく敢然と進行する心意気にも打たれます。第3楽章は遅めのテンポを取りながらも間然とすることなく、壮麗な色彩が横溢。後半マーチの導入部のティンパニは、衝撃的な連打!そして圧巻が終楽章!聴きながら思わず絶叫しそうになるほど心にグサグサ刺さります。中間部主題に入る前のファゴットは、フランスのオケ特有の隈取の明確な音色が最大に効果を発揮。中間部移行のフレージングの熱さ、深さは筆舌に尽くし難く、4:13からの急転直下を経て、コーダに至るまでは、もはや指揮芸術の極北と言うしかない凄さ!ピエール・デルヴォー、やはり不世出の大指揮者でした。【湧々堂】

TRE-070
ボールト/ヴォーン・ウィリアムズ:管弦楽曲集
バレエ音楽「老いたコール王」*
劇音楽「すずめばち」アリストファネス組曲*
グリーンスリーヴス幻想曲
タリスの主題による幻想曲
イギリス民謡組曲(ジェイコブ編)
エイドリアン・ボールト(指)LPO

録音:1953年9月
※音源:Westminster WL-5228*、WL-5270
(DEEP GROOVE RED LABEL RIAA high fidelity mono pressing)
◎収録時間:74:48
“ボールトのヴォーン・ウィリアムズ演奏の真髄!”
■音源について
いろいろ聴き比べましたが、結局このWL品番以上に腹に響く音が出る盤には出会えませんでした。日本のテイチクからもLPが出ていましたが、抜け殻のような音で論外。ただ、初期のウェストミンスター盤はプレスミスや、目視で確認できない傷が多く、結局それぞれ3枚購入する羽目に陥りましたが、その甲斐あってようやく納得行く復刻が出来ました。「タリスの主題による幻想曲」以外は、全てボールトの第1回録音。

★五音音階の風合いをふんだんに湛え、日本人の感性にピタリとはまる作品を集めました。ボールトは全ての曲を複数回録音していますが、ダントツで素晴らしいのがこの1953年盤。音の重量感、リズムの生命感、テンポのフィット感など、これ以上のものは考えられず、マンネリに陥らずにやる気をみなぎらせた演奏は、いつ聴いても新鮮な感動をもたらします。
中でも「イギリス民謡組曲」は、この後のウィーン国立歌劇場Oとのステレオ録音もウィーン情緒との相乗効果が絶妙な味を醸して見落とせませんが、最後のEMI録音は、終曲の最後のテンポ加速がどう考えても奇異。結局、全面的に英国的風格を湛えた本寸法の演奏はこの53年盤とういうことになります。「タリスの主題の幻想曲」は、セッション録音だけでも5種類も遺していますが、これは2度目の録音。弦のはち切れんばかりのハリツヤ、深々とした情感の広がりが心を揺さぶり続けます。
「老いたコール王」は、イギリスのおとぎ話に基づくバレエ曲。3人のヴァイオリン弾きのコンクールの様子を描いており、民謡“Dives and lazarus”などを散りばめた親しみやすい佳作。
モノラルながら音質も極めて鮮明。たとえヴォーン・ウィリアムズの音楽を聴いたことがない方でも、その魅力の虜になること間違いなしと確信します!【湧々堂】

TRE-071
ボールト/チャイコフスキー&プロコフィエフ
チャイコフスキー:イタリア奇想曲*
プロコフィエフ:組曲「キージェ中尉」**
チャイコフスキー:組曲第3番#
エイドリアン・ボールト(指)
LPO*、パリ音楽院O**,#

録音:1959年2月*、1955年6月**,#(全てステレオ)
※音源:米PERFECT PS-15001*、DECCA SPA-229**、LONDON CS-6140#
◎収録時間:71:26
“ボールトの虚飾なきアプローチとフランス流儀の麗しい化学反応!”
■音源について
ボールトは「イタリア奇想曲」を4回セッション録音しており、これは2回目のConcert Hallへの録音。ステレオ・バージョンは本家のC.H.S英国盤などで入手可能ですが、ここでは音のバランスが良い米PERFECT盤(コンサートホール録音のいつくかをライセンス発売していた)を使用。「キージェ中尉」は、ボールト唯一の録音。「組曲第3番」は、2種の録音のうちの最初の録音。米ステレオ初出盤を採用。

★ボールトは、多くのロシア音楽を録音していますが、「忘れられた名演」の代表格が、このステレオ最初期のチャイコフスキー「組曲第3番」。1974年の再録音盤の壮大な演奏も素晴らしいのですが、このパリ音楽院管という名器の魅力を最大に活用した55年盤の魅力は決して無視できません。この録音時、ボールトは既に60代半ばの円熟期に入っていましたが、リズムは冴え、進行にも淀みがなく、気力十分。その意気込みとパリ音楽院の持つ色彩力で、ステレオ最初期録音のハンデを超えて、最後まで一気に聴かせます。
「主題」の第2主題に込められた慈愛のなんという純粋さ!オケの甘美な響きがそれに輪をかけ可憐な表情を湛えます。第4変奏でヴァイオリンが主旋律を引き始める際の優しい擦り寄り方、第8変奏のフリギア旋法の鄙びた抒情、第19-20変奏のヴァイオリン・ソロ(ピエール・ネリーニ?)のとろけるような囁き!そして終曲の畳み掛けるような迫力と色彩放射の威力!
「イタリア奇想曲」も後年のよく練られた表現とは一味違い、どこか古風で端正な音楽作り。「キージェ中尉」は一見ぶっきらぼうなアプローチに見えて、そこから独特のユーモアが滲みます。特に第4曲「トロイカ」!テナーサックスの軽妙さに是非ご注目を!【湧々堂】

TRE-072
ジョージ・セル/エピック録音名盤集1
モーツァルト:ディヴェルティメント第2番K.131
シューベルト:交響曲第9番ハ長調「グレート」*
ジョージ・セル(指)
クリーヴランドO

録音:1963年4月20日、1957年11月1日* 共にステレオ
※音源:米EPIC BC-1273(Blue)、BC-1009(Gold STEREORAMA)*
◎収録時間:72:45
“CDでは伝わらないセルのパッションとスケール感!”
■音源について
EPICは米COLUMBIAの子会社CBSのレコード部門としてスタート。後にCBSは親会社のCOLUMBIAを買収し、米COLUMBIAとEPICは一つに統合されました。その間にEPICのマスターテープはコピーが繰り返されたことで音は生気を失い、ヒスノイズに覆われた音に変貌。その音でセル&クリーヴランド管(EPIC専属)の演奏は多くの音楽ファンに認識され、セルは「機械的で冷たい」というレッテルを貼られる要因ともなりました。
やがてCDが出現し、「ノイズの無さ」の恩恵を最も受けたのもセルの録音でした。多くの人がそのクリアな音を歓迎し、「遂にセルの全貌が明らかになった!」とまで言われたものです。すっかり音から血肉が抜き取られしまったことにも気づかず…。結局、セルのエピック録音は、エピック盤LPで聴くのが一番!その最大の実例が、シューベルトの「グレート」だと思います。CDを聴いて「セルらしい室内楽的な演奏」という印象しか得られなかった方は、その音の厚みとスケール感にきっと驚嘆されることでしょう。

★ホルンが大活躍する2曲を収録。セルはホルンの音色に執着し、全体のバランスの中核に据えていたことは数々の録音でも確認できますが、時にはそれが露骨なデフォルメと受け取れかねない場合もあります。しかし、この2曲は違います。その愛着は音楽する純粋な喜びと完全に調和し、曲の魅力を倍増させることだけに効力を発揮しています。
モーツァルトの「ディヴェルティメント」は、まさにその並々ならぬ共感の勝利!厳格な統制力が音楽を萎縮させることなく、音楽から自然な愉悦が湧き立ち、「セルのモーツァルト」の最大の名演と確信する逸品です。
シューベルトの「グレート」を初めてエピック盤で聴いた時の衝撃は、今でも忘れられません。CDでも透徹された音楽作りは伝わりますが、実際は、こんなにもスケールの大きな演奏だったのです!まず序奏のホルンの深々とした呼吸とその浸透力にびっくり。シューベルトに不可欠の歌が高次元に昇華された佇まいに、同曲最高峰の名演であることを早くも確信させます。1:38の入魂のティンパニを含め、この序奏部にこれほど多彩なドラマ性を注入した演奏も稀でしょう。第2楽章は、もちろん情に溺れはしませんが、セルならではの「高潔な歌心」を象徴するのが12:22以降!ガクッとテンポを落として再び悲しみに閉じこもるニュアンスは、何度聴いても涙を誘います。終楽章は、マシンガンのような高速テンポ!テンポが速ければ速いほど爽快に感じる音楽ではありますが、決して運動会の音楽ではありません。そこに強固な必然を感じさせ、せかせかせず、歌も貫徹している、そんな演奏が他にどれだけあるでしょう?オケの優秀さは言うまでもありませんが、それがメカニックに傾くことなく、セルによってシゴカれた痕跡も感じさせず、真に一丸となった推進力を発揮した奇跡の名演です。最晩年のEMI録音の方が一般的には高く評価されていますが、私にはその意味がどうも理解できません。【湧々堂】

TRE-073
スワロフスキーのベートーヴェン
ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番*
交響曲第8番ヘ長調Op.93
交響曲第2番ニ長調Op.36
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1950年代中期(全てモノラル)
※音源:W.R.C TW-108、ORBIS 21224*
◎収録時間:72:52
“スワロフスキーの指揮者としてのセンスを痛感する二大名演!”
■音源について
「第5」「第6」(TRE-069に収録)と同時期に収録されたと思われる、スワロフスキー&ウィーン国立歌劇場管のコンビのベートーヴェン。全9曲の録音は存在しないようです。

★スワロフスキーのベートーヴェンの交響曲の中で、「田園」と並んで素晴らしいのがこの「第2番」と「第8番」。スワロフスキーの指揮者としてのセンスを知る上でも絶対欠かせない逸品と言えましょう。
「第8番」は、けれん味のない実直な推進力が、作品の小粋な雰囲気を余すところなく再現。第1楽章の最後は、わずかにテンポを落として締めくくりますが、その余韻の美しいこと!これを念を押すように弾かれると、唐突なエンディングの効果が半減しかねませんが、そんな心配は無用です。
第2楽章は、ウィーンのオケのテイストを十分に生かした自然な微笑みが溢れますが、終楽章では、そのテイストが更に生き、ガチガチに作品の構築性を前面に立てた演奏では得られない、アンサンブルの微妙な軋みから生じるニュアンスが、ことごとく聴き手の心に迫ります。3:42から弦がヒュンヒュンと上ずるように唸る瞬間など、奏者の心のときめきが抑えきれずに噴出したかのよう。この演奏の入魂ぶりを象徴しています。
この曲の“クレイジーさ”を強調するのではなく、従来のほのぼの路線の演奏を求めようとすると、安全運転に徹した演奏にしか出会えないとお嘆きの方に是非オススメ!
更に感動的なのが「第2番」。ベートーヴェンが「英雄」以前に独自のスタイルを完全に確立していたことを実証るかのようなアグレッシブな表現が見事に結実しています。特に第1楽章の内面から吹き出るパッションに触れれば、同曲の屈指の名演であることを実感していただけるはず。展開部など、単に燃えているだけでなく、ニュアンスが極限まで結晶化しているのです。
それだけに、続く第2楽章のシルキーなフレージングが、これまた心に染みます。これこそまさに綺麗事ではない美しさ。3:26からの弦の下降音型の弾ませ方も、お聴き逃しなく!少しも媚びずに自然な微笑が零れる演奏を他に知りません。スワロフスキー、恐るべし!【湧々堂】

TRE-074
カール・ベーム〜2人のシュトラウス
R・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」*
 交響詩「ドン・ファン」*
J・シュトラウス:皇帝円舞曲
 ペルシャ行進曲
 ピチカート・ポルカ(ヨーゼフとの合作)
 常動曲/トリッチ・トラッチ・ポルカ
 ワルツ「美しく青きドナウ」
 「こうもり」序曲
J・シュトラウスT:ラデツキー行進曲
カール・ベーム(指)
ベルリンRSO*、BPO

録音:1950年3月25日ベルリン*、1954年2月11日ウィーン(全てモノラル・ライヴ)
※音源:RVC RCL-3316*、RCL-3314
◎収録時間:72:34
“ベームの本性を出しきったJ・シュトラウスの無類の楽しさ!”
■音源について
1984年に発売された、日本のRVC盤から復刻。「皇帝円舞曲」の冒頭は、微妙に音が欠落していますが、マスターの起因するものと思われます。

★ベームは「ライヴで燃える」とよく言われます。他にもライヴで燃える指揮者はたくさんいる中で、ベームの燃え方に独特な点があるとすれば、厳格な音楽作りを目指そうとする意地が露骨な感情となって発散される点ではないでしょうか。
R・シュトラウスでは、その意地が一切の遊びを寄せ付けず、内的な凝縮力として作用。当然ながら味わいは相当辛口ですが、その説得力は絶大です。
一方、ベルリン・フィルとのJ・シュトラウスでは、その意地が外に向かって放射されますが、見逃せないのは、演奏会場がウィーンだということ。ウィンナ・ワルツの本場で、堂々とベルリン・スタイルを押し通しているのです。「これが俺達のスタイル!」という意地の丸出しぶりに、ウィーンの聴衆は反感を示すどころか大喜び!その雰囲気に後押しされ、一層スリリングな楽しさが膨らむのです。しかも、ベームはウィーン出身にもかかわらず、ウィーン・フィルとのセッション録音もライヴ録音もよそ行き感が否めなかったのに対し、このベルリン・スタイルのハマリ方はどうでしょう!ベームが遺したJ・シュトラウス録音の最高傑作です。中でも強調したいのは、ベーム唯一の「ペルシャ行進曲」!前のめりなほどの推進力に鳥肌必至!「ピチカート・ポルカ」は、鋼のような強靭さを基調としながら、細部のニュアンスは恐ろしく緻密。「トリッチ・トラッチ・ポルカ」は、AからBへの移行で打楽器が入る大迫力。リズムの停滞などあり得ず、50年代のベームは本当に凄かったと痛感するばかりです。最後の「ラデツキー行進曲」も、もちろん序奏後に大太鼓の一撃あり。この演奏を聴いても心躍らない人は、音楽にいったい何を求めるのでしょうか?【湧々堂】

TRE-075r
ライトナー〜モーツァルト:交響曲集
モーツァルト:バレエ音楽「レ・プティ・リアン」序曲+
交響曲第31番「パリ」K.297*
交響曲第36番「リンツ」K.425#
交響曲第39番変ホ長調K.543
フェルディナント・ライトナー(指)
バイエルンRSO*,#、バンベルクSO

録音:1959年4月13日+、1959年4月12-13日*、1959年4月11-12日#、1962年11月(全てステレオ)
※音源:独ORBIS HI-FI-73-491+,*,#、独PARNASS 61414
◎収録時間:74:22
“策を弄せず、作品の底力を信じきるライトナー度量!”
■音源について
ライトナーのステレオでのセッション録音によるモーツァルトの交響曲全3曲を収録。「39番」はオイロディスク原盤、それ以外はDG原盤。
※以前は「パリ」「リンツ」は音源に独DGG SLPM-138046を用いていました、2021年6月以降は、より上質の音がする独ORBIS盤から復刻したリメイク盤(品番結尾にrを追加)に差し替えます。また同時に序曲も追加しました。

★ライトナーといえば、誰もが「渋い」というイメージを持たれると思います。確かに、その極めて堅実なアプーロチにブレはないものの、結果的に地味な印象しか残らないこともあるかもしれません。しかし、このモーツァルトはそれだけにとどまらず、自身の解釈を表に出すまいとする矜持が、音楽的な感動に直結していることをひしひしと感じます。作品自体の魅力が破格であるせいもあるでしょう。ただこの3曲では、作品の側から演奏者の真摯な姿勢に対して積極的に協力しているような印象さえ覚えるのです。
 「パリ」は、「ハフナー」以降の有名曲の影に隠れがちですが、その素晴らしさに改めて覚醒!モーツァルトの天才的な閃きが満載なだけに、その愉しさを強調しようとすると、作品の方からそっぽを向かれるに違いない…、ライトナーの指揮でそんな思いが頭をよぎります。第1楽章の第1音が鳴り出した途端、その結晶度の高さに只ならぬ名演であることを確信。展開部では、各パートが緻密に連携しながら豊かな楽想が泉のように湧き出ます。第2楽章もわざとらしい語り掛けなど無縁で、ここでも奏者の自発性というより、作品自体の発言力を優しく受け止めるゆとりが至福の空気を醸成。
 「リンツ」では、大編成によるモーツァルトの醍醐味を堪能。そこには古めかしさなど少しもなく、無我の境地を貫いたフレージングによって音楽が伸び伸びと飛翔します。特に、第2楽章は過去に知り得た演奏のベスト!0:18からの弦のフレーズにホルンがユニゾンでそっと寄り添う風情など格別です。終楽章では、大きな編成が過剰な重みと厚みに傾かず、軽やかに弾むリズム感を過不足なく表出。徹底して楷書風なのに、面白味に欠けることがないというのは、ライトナーがモーツァルトのエッセンスを真に熟知している証しでしょう。それにしても、今も昔も変わらぬバイエルン放送響の巧味にも唖然とするばかり。
 「第39番」のオケはバンベルク響ですが、バイエルンよりも更に古風な音色が、この祝典的な作品に独特の深みを与えている点にご注目を。【湧々堂】
バルワーザー
TRE-076
バルワーザー〜バッハ&モーツァルト
バッハ:管弦楽組曲第2番BWV.1067*
モーツァルト:アンダンテ.ハ長調K.315#
 フルート協奏曲第1番ト長調K.313
 フルート協奏曲第2番ニ長調K.314
フーベルト・バルワーザー(Fl)
エドゥアルト・ファン・ベイヌム(指)アムステルダム・コンセルトヘボウO*
ベルンハルト・パウムガルトナー(指)ウィーンSO#
ジョン・プリッチャード(指)ウィーンSO

録音:1955年5月31日-6月9日*、1954年2月21-22日#、1953年2月28-29日(全てモノラル)
※音源:仏PHILIPS 700064-700055*、仏FONTANA 698094FL
◎収録時間:69:07
“音色美だけではない!愛で語るバルワーザーのフルートの魅力!”
■音源について
ベイヌム指揮による管弦楽組曲は、TRE-004併せ、これで全4曲が揃います。バルワーザーはモーツァルトの2つのフルート協奏曲を3回録音しており、これはメンゲルベルクとの共演盤に続く2度目の録音。表紙のジャケは、イギリス盤。

★バルワーザーは、1937年から1971までアムステルダム・コンセルトヘボウ管の主席を務めた名手。木製フルートを愛用していたことでも知られ、バッハではその音色の魅力を十分に生かした味わい深い妙技を聴かせます。ベイヌムが敷き詰める気品溢れる空気の中、ソロとして目立つことなく、美しい一体感を形成。「ポロネーズ」など、意識して聴かなければ存在に気づかないほどの立ち位置を守りぬき、かくも香り高い演奏となったのです。終曲の技巧のひけらかしなど欠片も見せない無垢な音楽には、何度聴いても涙を禁じえません。その余韻を抱えたまま、いきなり協奏曲ヘは進めませんので、次にあえてモーツァルトの「アンダンテ」を置きましたが、これがまた夢のような名演!これほどモーツァルトの哀愁と憧れ、希望の光に包まれた演奏を他に知りません。パウムガルトナーの指揮もいちいちツボにはまり、泣かせます。
協奏曲では、バルワーザーが、決して田舎風の鄙びた音楽を志向していたのではないことが分かります。音色はもちろん金属臭とは無線の温かみに溢れていますが、第1番第1楽章展開部やカデンツァのように、機敏なレスポンスによって現代的な洗練美も生命感も自然に引出されています。バルワーザーの導き出す音楽は、音色が温かいだけでなく、音楽の接し方そのものが嘘のない慈愛の表れなのです。こちらの指揮はプリッチャード。後年になるほど地味なスタイルへ移った印象が強い指揮者ですが、ここではそつのない伴奏にとどまらず、作品の生き生きとした持ち味を積極的に引き出し、絶妙な効果を上げています。【湧々堂】

TRE-077
ヨハネセン〜ベートーヴェン:ピアノ曲集
ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
ピアノ・ソナタ第31番Op.110
ピアノ協奏曲第3番ハ短調*
グラント・ヨハネセン(P)
ワルター・ゲール(指)オランダPO

録音:1950年代初頭、1955年頃*(全てモノラル)
※音源:独Concert Hall MMS-52、MMS-25*
◎収録時間:66:58
“知的な制御の奥底に潜む豊かな情感!”
■音源について
2枚の10インチ・ドイツ盤から復刻。

★ヨハネセン(1921-2005)はアメリカ出身。フランス近代ピアノ作品の普及に努め、中でもそれまであまり注目されなかったフォーレのピアノ作品全集を完成させたことで知られます。そのピアニズムは、一見知的でクールですが、決して無機質なものではありません。
ピアノ協奏曲では、一切飾り気はなく、ルバートを抑えた清潔この上ない音楽を展開 。それだけに、第1楽章のカデンツァの華麗さは、鮮烈な 印象を与えます。 タッチと造形の美しさが際立つのが第2楽章。その美しさを誇張する素振りを見せず に音楽を漂わせる姿勢は、拍節に克明な隈取を加えるドイツ流儀とは異なるので、感覚的に淡白に響くかもしれませんが、曲が進むうちに、そこには常に気品が宿り、心 の奥で音楽を育んでいることが感じられることでしょう。
そんなヨハネセンのピアニズムが見事に結晶化した演奏として特筆したいのが、「31番」のソナタ。この作品の洗練された筆致に宿る浄化された精神と静かな叙情を導き出すのに、これみよがしな威厳など不要だということをヨハネセンの澄み切ったフレージングで思い知らされます。 第1楽章第2主題(1:57〜)における左右声部のレガートは、深みとか味わいという概念を超えて、ベートーヴェンの解脱の境地のみが伝わります。そして、終楽章の最後のフーガ!緻密な構築のみに気を取られていたら、こんな絶妙な間合いから余剰が滲む音楽など築けるはずがありません。
一般的に「知的」とイメージされた演奏は、「情感に乏しい」と誤解されがちで、その代表格がギーゼキングではないでしょうか。そのドビュッシーは評価しても、モーツァルトを全く評価しない評論家もいますが、その人は奥底に潜む真摯な共感に気付いていないのでしょう。ヨハネセンの演奏もぜひじっくり傾聴して、是非その中身を感じ取っていたくことを願ってやみません。 【湧々堂】

TRE-078
ル・コント〜フランス管弦楽曲集
アダン
:歌劇「我もし王なりせば」序曲
シャブリエ:歌劇「いやいやながらの王様」〜ポーランドの祭り
 気まぐれなブーレ/狂詩曲「スペイン」
 楽しい行進曲
ドビュッシー:交響詩「海」*
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ*
 「ダフニスとクロエ」第2組曲*
ピエール=ミッシェル・ル・コント(指)
パリ・オペラ座O(パリ国立歌歌劇場O)

録音:1965年頃、1964年10月*(全てステレオ)
※音源:米QUARANTE-CINQ 45001、日Concert Hall SMS-2119*
◎収録時間:76:07
“ミュンシュ以上の瑞々したを湛えたル・コントの快演!”
■音源について
ル・コントも、コンサートホール・レーベルの看板指揮者の一人。ほぼ全ての録音にステレオ・バージョンが存在するはずですが、シューリヒトのような国際的な大物ではないせいか、ドイツやスイスでのステレオ盤は見かけず、フランス盤か日本盤に頼るしかありません。ただ今回のアダンとシャブリエは、音が最も冴えているQUARANTE-CINQの45回転盤を使用(オケ名がパドゥルー管と記載されていますが、ここではコンサートホール盤の記載に従いました)。シャブリエは、仏コンサートホールのフランス管弦楽曲集(SMS-2911)にも収録されていますが、なぜか、シャブリエだけがモノラルという珍現象が起きていました。ドビュッシーとラヴェルは、フランス盤さえ見かけません。ただ、この日本盤は初期のものと異なり、日本コロンビア・プレスのようで、定位が安定しており、演奏の魅力を存分に伝えています。

★ピエール=ミッシェル・ル・コント(1921-2000)は、フランスのルーアン出身。パリ音楽院で学び、指揮はルイ・フレスティエに師事。コンサート・ホールには、「カルメン」「ホフマン物語」などのオペラを含むフランス音楽を中心に多くの録音を遺しました。ル・コントの最大の魅力は、何といってもダイナミックな音楽作り。30歳年長のミュンシュをもっと清々しくした感じとでも言いましょうか。
「気まぐれなブーレ」では、勢いのある音運びに加え、フレーズを自在に伸縮センスが遺憾なく発揮され、狂詩曲「スペイン」は、わずかなリズムの跳ね上げにも華やいだ色彩が満ち、スペインを飛び越えてパリの賑わいを連想させます。「楽しい行進曲」は、フランス風色彩の玉手箱!デルヴォー盤(TRE-047)と双璧の名演で、これほど全身で愉しさを満喫した演奏を他に知りません。
更にル・コントの実力を思い知るのがドビュッシーとラヴェル。これがメジャーレーベルへの録音だったら、ミュンシュ以上に評価されたに違いありません。とにかく、人間的な息遣いを揺るぎない造形力で統合する能力が尋常ではありません。「海」の第1曲3:05からの神秘に満ちた音の浸透力だけでも只ならぬセンスを感じますが、その後も、ドビュッシーが選択した和声の意味、楽器の意味がビリビリ伝わるような確信的な音作りに驚くばかりです。第1曲最後の“真昼の光の輝き”(7:50〜)は、何度聴いいても鳥肌モノ!第2曲は、楽想の切り返しがあまりにも俊敏にして的確。まさに波の戯れに引きずり込まれます。「亡き王女〜」は、この曲が葬送音楽ではないこと再認識。ホルン・ソロはもちろんヴィブラートたっぷりですが、少しも違和感じ感じさせず、微かな明るさを宿した曲想に独特のエレガンスを与えています。【湧々堂】

TRE-079
ル・コント〜ラロ&ベルリオーズ
ラロ
:歌劇「イスの王様」序曲
ベルリオーズ:「ベンヴェート・チェルリーニ」序曲#
 「ファウストの劫罰」#〜ラコッツィ行進曲/妖精の踊り
 幻想交響曲Op.14*
ピエール=ミッシェル・ル・コント(指)
コンセール・ド・パリO
フランクフルトRSO#
パリ・オペラ座O(パリ国立歌歌劇場O)*

録音:1950年代中頃(ステレオ)
※音源:仏Convert Hall SMS-2911、仏Prestige de la Musique SR-9648*
◎収録時間:77:10
“ラロの管弦楽法の凄さを体当たりで表現した奇跡的名演!”
■音源について
「幻想交響曲」のステレオ・ヴァージョンは、このフランス盤(60年代末)と、日本盤、米盤(ライセンス盤)でしか聴けない模様。日本盤と比較しましたが、コンサート・ホール特有の音ながら、明瞭度で優っているのは仏盤でした。ジャケは、Musical Masterpiece Society盤。

収録曲の中で最も強調したい名演は、1曲目の「イスの王様」。とにかく、異常なまでのハイテンションぶりですが、ただ燃焼ではなく、この作品のドラマティックな側面、輝かしい色彩をこれほど体を張って表現し尽くした演奏は、他にあり得ないでしょう。主題再現直前の金管の咆哮は、その熱さと眩さにクラクラするほど。その後、チェロのソロを取り巻く深淵な空気感を経て、終結へ向けて緊張感は増幅し続け、コーダでは一糸乱れぬアンサンブルを貫徹しながらアドレナリンの全てを大噴射!これはスタジオ録音としては奇跡的な現象ではないでしょうか?おまけに、音質のバランスも頗る良好!
この奇跡的熱演と比べると、「幻想交響曲」はかなり穏健な演奏に聞こえてしまうかもしれませんが、
聴き手の度肝を抜くような仕掛けなど用いず、ベルリオーズの管弦楽法の筆致を丁寧に抽出した演奏は、決して凡百なものではありません。テンポも全編を通じて中庸と言えますが、第1楽章展開部以降の物々しさを排した推進力が瑞々しいかぎり。決してドロドロ劇に陥らず、ベルリオーズのピュアな心情を映すようなアプローチは、最後の2楽章で一層顕著となり、特に終楽章は悪魔の高笑いと言うより、その先の希望を確信した健康的な進行が新鮮に響きます。【湧々堂】

TRE-080
アニー・フィッシャー/モスクワ・ライヴ集
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番K.330
シューベルト:即興曲Op.142-3
ショパン:バラード第1番
シューベルト:即興曲Op.142-1*
リスト:3つの演奏会用練習曲〜ため息**
コダーイ:セーケイの嘆き歌#
リスト:ハンガリー狂詩曲第14番*
バルトーク:2つのルーマニア舞曲Op.8a〜第1曲**
 アレグロ・バルバロ##
アニー・フィッシャー(P)

録音:1949年7月16日、1951年4月8日*、1951年4月11日**、1951年4月12日#(以上,モスクワ音楽院大ホール)、1955年(会場不明)##
※音源:MELODIYA M10-44183-6
◎収録時間:65:15
“ロシア・ピアニズムの聖地で叩きつけた自らの信念!!”
■音源について
2枚組のLPから、1966年と1970年録音、シューマンの協奏曲以外の全てを収録。大変聴きやすい音質です。

★A・フィッシャのEMIのスタジオ録音を聴いてもあまりピンと来ないという方にぜひお聴きいただきたい、インパクト絶大な名演奏です。
ハンガリーは名ピアニストの宝庫ですが、そこからロシア・ピアニズムの聖地へ乗り込んでの演奏は、ライヴ特有の熱気のみならず、自身の確固たるピアニズムを携えての挑戦状のように強烈な主張が漲っています。特に、ソ連にはリスト弾きと呼ばれるピアニストが多く存在することを意識してか、「ハンガリー狂詩曲」は、芸術的格調よりも魂よ!と言わんばかりの凄まじさ。モーツァルトの第2楽章やシューベルトは、楚々とした雰囲気を湛えつつも、喋りかけるような呼吸の妙とフレージングの求心力の高さに惹き込まれます。
これらの録音では、フィッシャーの表現の力の幅広さも再認識させられます。モーツァルト、シューベルトを弾いたピアニストと、後半のコダーイ、バルトークを弾くピアニストが同じ人間だとはにわかに信じ難いほどです。特にバルトークでは、自らの血の全て捧げ、非情なまでのダイナミズムを放射。決してキラキラしたドレスを着て弾く曲ではないということを世の多くの女流ピアニストに認識していただきたいものです。
「女流○○」という呼び方は、歌手ならともかく、器楽奏者に使うのは本来おかしな話です。バッカウアー、L・クラウス、そしてこのA・フィッシャー等、性別など無関係に曲の本質を抉る姿勢に触れるたびにそう思います。【湧々堂】

TRE-082
エドゥアルド・デル・プエヨ〜フランク&ベートーヴェン
フランク:前奏曲,コラールとフーガ*
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番「告別」
 ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィア」
エドゥアルド・デル・プエヨ(P)

録音:1959年10月3-5日アムステルダム・バッハザール*、1958年5月7-15日アムステルダム・コンセルトヘボウ小ホール(共にモノラル)
※音源:蘭fontana 698-042CL*、英fontana CFL-1037
◎収録時間:79:29
“タッチの色彩力と直感的な構成掌握力の非凡さ!”
■音源につい
プエヨがPHILIPSに遺した録音には、他にバッハ、グラナドスもありますが、全てが聴き逃せない名演ばかり。極めて良質なモノラル録音。

★エドゥアルド・デル・プエヨ(1905-1986)は、スペイン出身。ブリュッセル王立音楽院、エリザベート王妃音楽大学などで後進の指導に当たりましたが、録音はごく少数。ベートーヴェンの権威として知られ、後にはユニークなアゴーギクを盛り込んだ全集も完成していますが、このプエヨ50代のフィリップス録音では、作品の造型美を堅固に守りながら、闊達な打鍵と意志の力で圧倒的なスケールの音楽を展開。特にフォルティッシモでも音の芯がぶれない打鍵の訴求力は、尋常ではありません。
「告別」の第1楽章序奏で、早速その意志の強さと、独特の色艶を持つ音色に魅了されます。主部第1主題は、ペダルを排して果敢に推進。しかも、何という呼吸の深さ!打鍵ごとの音価が自在に伸縮するフレージングは、これみよがしのルバートとは一線を画します。第2楽章でも、痩せたピアニッシモなどお呼びではなく、色香を濃厚に湛えながら深い瞑想感を表出。終楽章は、淀みのないリズムの切れをもって生命力を一途に放射します。
「ハンマークラヴィア」は、更に絶品!頭で音楽を構築している痕跡を感じさせない自然発火的な熱と推進力には、ベートーヴェンはこうでなければ!という強い信念が漲ているので、その求心力は破格!展開部のフガートが高揚するたびに、フレーズの間合いそのものにもニュアンスが充満していく様をお聴き逃しなく。第2楽章は、割れない強打鍵の魅力が全開。第3楽章は、主題の暗い瞑想に束の間の光が差し込む瞬間(0:57付近など)のコントラストがこれほど鮮烈な演奏も珍しいでしょう。まさに色彩への鋭敏なセンスの賜物です。そして、圧巻は終楽章!恐ろしく高度な構造を誇るこの楽章を取り零しのないよう音化することに終止するピアニストが多い中、プエヨの演奏は、その構築する過程そのものが音楽的なニュアンスを伴っているので、迫り来る情報量はあまりにも膨大!是非、それを受け止めきれるだけの心のスペースを確保した上で、お聴き下さい。【湧々堂】

The 40th memorial of FRANZ ANDRE
《フランツ・アンドレ没後40年記念/ステレオ名演集》
Franz Andreフランツ・アンドレ(1893-1975)は、ベルギーの指揮者。ブリュッセル音楽院で最初はヴァイオリンを専攻し、1912年にコンクールで優勝したほどの腕前でしたが、早くから指揮にも興味を示し、ベルリン留学時にはワインガルトナーに師事。1923年にベルギーに放送局が設立された折、そのオーケストラの第2指揮者に抜擢され、1935年にはベルギー国立放送交響楽団を設立。1958年まで。その初代首席指揮者を務めました。このオケは、ベルギー放送フィル、フランダース放送管と変遷し、現在のブリュッセル・フィルに至ります。
アンドレの魅力は、何といっても音楽の楽しさをストレートに伝える点でしょう。序曲のような小品はもちろんのこと、交響曲のような大曲でも冷たいアカデミズムや小賢しさとは無縁の華があり、オケを気持よく乗せながら自然に牽引する親分肌は、さながら「ベルギーのビーチャム」と言えましょう。戦前から独テレフンケンと録音契約を結び、ステレオ初期まで有名曲を中心に多くの録音を残しましたが、日本では小品専門の指揮者という認識しかされていません。この機会に、その懐の大きな音楽作りを是非ご堪能頂きたいと思います。

TRE-084r
《フランツ・アンドレ没後40年記念》
フランツ・アンドレ〜イタリア紀行
ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」*
チャイコフスキー:イタリア奇想曲#
レスピーギ:「交響詩「ローマの噴水」
 交響詩「ローマの松」
フランツ・アンドレ(指)ベルギー国立RSO

録音:1956年7月15日*、1950年代中期#、1950年代後期 (全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SLT-43014*、STW-30006#、英TELEFUNKEN SMA-4
◎収録時間:61:31
“思わず仰け反る、「ローマの松」終曲の脅威的な音の膨張力!”
■音源について
「イタリア奇想曲」は1952年のモノラル録音も存在しますが、こちらは後年のステレオ再録音。テレフンケンの録音は、原則的にドイツ盤を使用していますが、レスピーギに関しては、歪みの少なさから英国盤を採用。特に「ローマの松」最後のクライマックスは、レコード内周にもかかわらずほとんど音がビリつかず、圧倒的な力感を伝えているのは当時としては驚異的と言えましょう。ジャケは、レスピーギの米盤。

★深刻ぶらず、堂々と確信的な解釈を遂行するアンドレにとって、太陽の光を一杯に浴びたイタリアをイメージした作品はまさに打ってつけ。
まず、「イタリア奇想曲」での芸の細やかさにびっくり!前回のモノラル録音はごくオーソドックスな演奏に終始していましたが、ここではちょっとしたフレーズの間合い、アクセントに並々ならぬ共感が浸透し、実に有機的な流れを形成しています。イタリア民謡の主題(4:26〜)における憧れに満ちたアゴーギクは類例なし!5:53からの弦の下降音型を急降下させることで、滑らかなフレージングを実現し、6:23からは少しテンポを落として、ピチカートを生かす配慮を見せたかと思うと、第2部冒頭(7:32)では、アクセントを配して粋に推進。こんな小技をあざとさを感じさせずサラッとやってのけるのが、アンドレの魅力の一つ。第2部主題(8:05)が始まると、そのアクセント・マジックは更に効力を発揮!しかも、ゆったりとしたテンポで一貫し、絶妙なアゴーギクも徹底されているので、一音ごとに込めた愛の伝わり方が尋常ではないのです。この部分で一気に鳥肌が立ったのは、後にも先にもこの演奏だけ。
そして、これまた絶大な魅力を誇るレスピーギ。間違いなくステレオ初期を代表する名演で、アンドレの色彩パレットの豊富さを徹底的に思い知らされます。「ローマの噴水」第2曲“トリトンの噴水”の、全く気負いを見せずに噴射する音彩と、心からウキウキ弾むリズムの威力には唖然とするばかりで、終曲での音の余韻を更に育むような風情も、心に染み入ります。
「ローマの松」は、その色彩力に加え、独自のダイナミズムを徹底披露!第2曲“カタコンブ”は元々荘厳に響くように書かれているわけですが、それを重苦しい宗教音楽風にしないのが、アンドレらしいところ。そして、仰天の終曲“アッピア街道”。単なる音量増大ではなく、とんでもない膨張力!もう、興奮の坩堝です!!【湧々堂】

TRE-085
《フランツ・アンドレ没後40年記念》
フランツ・アンドレ〜“ラプソディ”
エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番**
アウフスト・ドゥ・ブーク:ダホメー狂詩曲*
リスト:ハンガリー狂詩曲第1番(ドップラー編)
 ハンガー狂詩曲第2番(ミュラー=ベルクハウス編)
 ハンガー狂詩曲第3番(H・オットー編)
 ハンガー狂詩曲第6番(ドップラー編)
 交響詩「前奏曲」
フランツ・アンドレ(指)ベルギー国立RSO
ソーニャ・アンシュッツ(P)#

録音:1958年4月2-7日*、1959年7月、1950年代後半**(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SLB-12001*、SBT-467、英TELEFUNKEN SMA-14**
◎収録時間:67:47
“管弦楽版ハンガリー狂詩曲の突き抜けた楽しさ、豪快さ!”
■音源について
リストの作品を収めたドイツ盤SBT-467は黒金盤。同じ番号で他のプレスも存在しますが、特に「第3番」の弦の細かい動きを最も克明に捉えており、豪快なアンドレのアプローチに相応しい野太いサウンドを体感できるのもこの盤です。交響詩「前奏曲」、「ハンガリー狂詩曲第2番」は1950年代初頭のモノラル録音も存在しますが、こちらは後年のステレオ録音。

★ベルギー国民楽派の一人、アウフスト・ドゥ・ブーク(1865-1937)の「ダホメー狂詩曲」は、まさにお国もの。5分程の楽しい佳曲で、「ルーマニア狂詩曲」も含め、作品の持ち味をそのまま生かしたストレートの表現が清々しい風を運びます。
これがリストとなると、アンドレの独特の色彩感覚が更に全面開花。まず、編曲が風変わりで、「1番」「2番」は、よく聴かれるドップラー、ミュラー=ベルクハウス版をベースにしながら、ピアノ・ソロが随所に顔を出すアレンジ。「第3番」と「第6番」はピアノの入らないヴァージョンですが、これが凄いのなんの!特に「第3番」終結部の猛加速は鳥肌必至!思い切りの良いダイナミズムと、あざとい説明調に傾かずに音楽の勢いをダイレクトにぶつけるアンドレならではの手腕に脱帽です。それに、ベルギー国立放送響の巧さ!他の演奏でもそのセンスと技量は十分認識できますが、ここでの一糸乱れぬアンサンブルの凝縮ぶりには、誰もが舌を巻かざるを得ないでしょう。
「前奏曲」は、当然ながら狂詩曲とは異なる堅実なアプローチに徹していますが、細部に拘泥せず、しかし勘所は決して外さず、大きな懐で全体を捉える風格美に、生きる勇気を感じ取る方も多いことでしょう。【湧々堂】

TRE-086
《フランツ・アンドレ没後40年記念》
フランツ・アンドレ〜バレエ音楽集
ポンキエッリ:「ラ・ジョコンダ」〜時の踊り
ドリーブ:「シルヴィア」*〜前奏曲&狩りの女神/間奏曲&緩やかなワルツ(第1幕)/ピチカート(第3幕)/バッカスの行列(第3幕)
 「コッペリア」**〜前奏曲&マズルカ/ワルツ(第1幕)/人形のワルツ(第2幕)/チャルダッシュ(第1幕)
チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲#
ラヴェル:ボレロ##
フランツ・アンドレ(指)ベルギー国立RSO

録音:1957年4月16日*、1957年4月17日**、1955年10月23日#、1958年4月2-7日##(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN ATW-30227、NT-540*,**、NT-200#、SLB-12001##
◎収録時間:75:37
“濃厚な色彩で雰囲気を倍増させた「くるみ割り人形」の素晴らしさ!”
■音源について
全てドイツ盤を採用。テレフンケンは、やはり独盤に限ります。最も入手しやすいのは米盤ですが、プレスが荒いだけでなく、明らかに音が軽くなる傾向があるようです。

★かつて、「台詞は歌うように、音楽はしゃべるように…」と言った俳優がいましたが、「時の踊り」前半は、まさにその実例。人間臭い語り口が絶妙で、各フレーズに対して確固たるイメージを持って接しているので漫然と音楽が流れることがなく、また後半では、速いテンポの曲に、痛快さだけでなく独特の熱気も必ず宿らせるアンドレの特質が十分に生かされた名演となっています。
ドリーブも、バレエの情景の忠実な再現よりも、男性的な推進力とダイナミズムで魅了。「シルヴィア」〜“狩りの女神”のティンパニのドスの利いた打ち込み、「コッペリア」〜“マズルカ”や“バッカスの行列”の全身で躍動する迫真のリズムの牽引力にイチコロ。アンドレの音楽作りに、表面的な上品さなど、お呼びではありません!
最大の目玉は、「くるみ割り人形」!表情の隈取が全て克明で、一般的なメルヘンの概念を超えた大パノラマを現出するこの演奏は、少なくとも組曲版では最高峰に位置する名演と確信しています。その魅力の一つが、テンポ設定と音楽の持つニュアンスが完全に一体化している点。“行進曲”は、やや遅めに設定することでリズムの踏み込みが強まり、喋りかけるような表情が濃厚に浮き立ち、続く“金平糖の踊り”は通常よりも速く、可憐なウィットがはっきりと際立ちます。“中国の踊り”に至っては、史上最低速クラスで、いやが上にも非洗練の妙味が強調されます。特筆すべきもう一つの魅力は、独特の色彩センス。“金平糖”でも弱音を基調として囁くような一般的な演奏とは異なる油絵タッチに強者ぶりが発揮されていますが、その色彩力で更にドッキリするのが、“アラビアの踊り”。弱音で「チ.チ.チ.チ.チ」と合いの手を打つ打楽器が、なんと別物に変更!その瞬間、グルジア民謡をベースとしたこの曲のエキゾチシズムが一気に倍増するのです!何の楽器かは、聴いてのお楽しみ!【湧々堂】

TRE-087
《フランツ・アンドレ没後40年記念》
フランツ・アンドレ〜序曲・間奏曲集

スッペ:「軽騎兵」序曲/「詩人と農夫」序曲
オッフェンバック:「天国と地獄」序曲
フランツ・シュミット:「ノートル・ダム」間奏曲+
トマ:「ミニョン」序曲##
オーベール:「フラ・ディアヴォロ」序曲**
エロール:「ザンパ」序曲*
アダン:「我もし王なりせば」序曲#
オーベール:「ポルティチの唖娘」序曲*
フランツ・アンドレ(指)ベルギー国立RSO

録音:1950年代中期、1955年10月*、1956年7月15日**、1956年7月19日#、1957年4月17日##(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SLE-14211 、ATW-30227+ 、 SLT-43014*,**,#,##
◎収録時間:64:42
“音楽の華を体で知っている、名匠アンドレの棒さばきの妙!”
■音源について
アンドレの“名刺”ともいえる楽しい序曲集。全てステレオ録音ですが、「軽騎兵」「詩人と農夫」「天国と地獄」に関しては、1952年の録音(7インチ盤で発売)とする資料があり、もしやこれは試験的なステレオ録音?と思っていたら、後年のステレオ再録音であることが判明。他は、アンドレの唯一の録音。

とにかく理屈抜きの楽しさ!独自の遊び心を押し付けるわけでもなく、品格を維持しようとする邪念もなく、ひたすら音楽の原寸大の魅力をストレートに伝えるのみですが、その一途さこそがかけがえのない魅力。これらの小品をベートーヴェンやワーグナーのように立派に鳴らせば、大方の聴き手を納得させられる反面、純朴さ、愛くるしさから遠ざかってしまうことを肌で知っている巨匠だけがなし得る、確信に満ちた快演です。「軽騎兵」コーダ直前のファンファーレは、イン・テンポで突っ走ることもあれば、ややテンポを落とすこともありま、どちらも中途半端な印象を拭えませんが、アンドレは決然とテンポを落として回想シーンのように再現。「天国と地獄」最後の“カンカン”は、まさにパリの熱狂!カラヤン&フィルハーモニア管の魅力も捨てがたいですが、やはり知性や体裁が邪魔しない勢いとカラフルさには敵いません。機知に富んだトマの「ミニョン」も、アンドレたためにあるような作品に思えてきます。有名なホルンのソロはあまりにメロディーが美しいので、どんな演奏でもノスタルジーを感じさせますが、この演奏ほど身を焦がすようなニュアンスを感じたことがありません。「我もし王なりせば」は、各シーンの描き分けが実に鮮やか!これ以上何を望めましょう。まさに決定盤です!【湧々堂】


TRE-088
マルクジンスキ〜チャイコフスキー&ラフマニノフ
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番*
ヴィトルド・マルクジンスキ(P)
ヴィトルド・ロヴィツキ(指)
ワルシャワPO

録音:1961年(共にステレオ)
※音源:MUZA SX-0123、SX-0124*
◎収録時間:69:54
“謙虚な燃焼が大きく羽ばたく、ラフマニノフの世紀の名演!”
■音源について
かつてCD化されたものの、すぐに入手困難となってしまった名演。とにかく演奏はもちろんのこと、音質の点でもこれは驚異的!特に協奏曲の録音でソロ楽器とオケのバランスを取るのに各社苦心していたステレオ初期に、ホール・トーンと楽音がこれほど美しく溶け合った録音が東欧ポーランドで実現していたことに驚きを禁じえません。
この復刻を終えた後、久々に以前のCDを聴いてみましたが、高域がキンキンして、1分と聴いていられませんでした。

★感情に溺れることを避けなが熱い共感をタッチに漲らせ、盤石の技巧を誇りつつ決して誇示しない、これぞまさに芸術的昇華の極地!しかも、その理想像が自己満足で終わらず、それこそが作品に命を与える唯一の手段だという信念が尋常ではないので、説得力も並の名演とは次元が違います。マルクジンスキは、2曲ともモノラル期にも素晴らしい名演を遺していますが、この1961年盤は録音の良さ、指揮者との阿吽の呼吸も含め、明らかにそれを上回る大名演です。
チャイコフスキーの第1楽章の主題は、大きな構えの中で凝縮しきったタッチが絶妙なルバートを伴い、どこまでも格調高く飛翔。上辺のパフォーマンスなど微塵も感じさせず、音楽本来の姿を余すことなく再現。2楽章は、中間部の愉悦が過ぎ去った後、その余韻を十分に感じながら冒頭主題に戻る際の間合いのなんと素晴らしいこと!終楽章は、多くのピアニストがリズムなどに趣向を凝らしてロシア的な熱狂を引き出そうとしますが、マルクジンスキには一切無関係。それでも作品の魅力は十分に伝わるという強い確信が、これほどの説得力を生んだのでしょう。
ラフマニノフは、更に世紀の名演!音楽評論家ならばこの録音を知らないことも罪ですが、知りながらあえてこれを推薦盤から外すのなら、今すぐ廃業していただきたい…、と言ったらきりがありませんが、この演奏ばかりはそう言わずに居れません!チャイコフスキーで見せた風格美は更に曲想と固く融合し、マルクジンスキのこの作品への愛情と探求が尋常でないことは、どの一部を取っても明らかです。特に各変奏に克明なコントラストと陰影を与えて音楽の大きさ再認識させる第2楽章、心の根底から搾り出す郷愁を品格をもって凝縮し、表面的な盛り上げで終わらせない終楽章コーダ!これ以上のものを望めましょうか?【湧々堂】

TRE-089
エッシュバッハー/ベートーヴェン&シューベルト
ベートーヴェン:「失われた小銭への怒り」Op.129*
 エリーゼのために**/ロンドOp.51-1#
 エコセーズWoO.83##
シューベルト:即興曲Op.90/即興曲Op.142
アドリアン・エッシュバッハー(P)

録音:1950年9月19日*、1950年頃**、1950年9月20日&5月24日#、1951年8月4日##、1953年4月22&23日
※音源:独DG 30323、29313(シューベルト)
◎収録時間:75:31
これぞシューベルトの理想郷!たとえようもない霊妙さ!!”
■音源について
2枚のレコード(ベートーヴェンは7インチ)の全てを収録。シューベルトの初出は2枚の10インチ盤ですが、ここでは、打鍵の質感を克明に捉えた後発の“COLLECTION”シリーズを採用しました。

★シューベルトの「即興曲」は、作品自体の持ち味よりも、ピアニストの自己顕示が上回ってしまい、どこか座りの悪い演奏が多い気がしてなりません。その点エッシュバッハーの演奏は、打鍵の強さ、アゴーギクのセンスなどが理想の極みで、まさに即興的なフワッとした音楽の湧き上がりを楽譜への忠実な再現の中から引き出し、類例のない風情を生み出しています。
エッシュバッハーは、1912年スイス生まれ。チューリヒ、ライプツィヒで学んだ後、ベルリンでシュナーベルに師事。フィッシャー、バックハウス等と並ぶ名手とされながらも、わが国ではフルトヴェングラーと競演したブラームスなどで知られる程度。これを聴けば、このピアニストのセンスの高さを誰も否定なできないでしょう。
Op.90-1は、冒頭の和音の打ち込み方から、ピアニストのこの作品の捉え方を如実に示しています。ハーモニーのバランス感覚と、少しでも踏み外すと風情が壊れかねない絶妙な音量、気品と格調の高さ!符点リスムの肩の力が抜け切ったさり気なさ、自然な香気を感じたあとに訪れるアルペジョに乗せたフレーズのなんと軽く伸びやなこと!楽想が変化しても不用意にテンポを動かさず、全くの自然体でありながら、曲の最後まで次々と異なった色合いを引き出した夢のような演奏です。Op.90-2は細やかに分散するパッセージが実に丁寧に表出し、実に美しい弧を描きながら音楽を豊かに呼吸させます。中間部のリズムが厳格でありながら軽やかさと夢のような感触は失わず、転調に対する鋭敏な反応も見事。Op.90-4では珠のようなタッチの美しさを心行くまで堪能できます。Op.142-2は内省の美を湛え、ひそやかな希望の光が音色に宿っています。エッシュバッハーの節度を保った自己表現の妙が端的に示された一曲です。Op.143-3も師のシュナーベルよりもアゴーギクを抑制し、実直さを感じさせますが、そこはかとなく漂う可憐さ、ごく微妙な音価の伸縮が独特の雰囲気を生んでいます。変奏が行われるごとに、夢の世界の深部へ侵入するようなこの感覚は、他の演奏ではなかなか得られないものです。最後のOp.142-4はテンポがかなり速いのにまず驚きますが、もちろん機械的になることはなく、一筆書きのような筆致で切迫感を表出。しかも力みを一切感じさせず、タッチの美しさとフレーズの飛翔感を失わないセンスには脱帽…、というように、全8曲全てが、均質に高い水準を保っているのです。
一方ベートーヴェンの小品は、軽妙であっても軽薄さは皆無。「エリーゼのために」の可憐な曲想におもねることのない実直なアプローチは、エッシュバッハーのピアニズムの象徴と言えましょう。【湧々堂】


TRE-090
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲全集Vol.1
ピアノ三重奏曲第1番変ホ長調Op.1-1
ピアノ三重奏曲第2番ト長調Op.1-2
ピアノ三重奏曲第3番ハ短調Op.1-3
トリオ・サントリクイド
[オルネッラ・サントリクイド(P)
アリーゴ・ペリッチャ(Vn)
マッシモ・アンフィテアトロフ(Vc)]

録音:1957年頃(全てステレオ)
※音源:仏Concert Hall SMS2140〜2144
◎収録時間:79:53(Vol.1)、77:35(Vol.2)、77:43(Vol.3)

TRE-091
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲全集Vol.2
ピアノ三重奏曲変ホ長調WoO.38
創作主題による変奏曲Op.44
ピアノ三重奏曲第5番「幽霊」Op.70-1
ピアノ三重奏曲第6番変ホ長調Op.70-2

TRE-092
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲全集Vol.3
ピアノ三重奏曲第変ロ長調WoO.39
カカドゥ変奏曲 Op. 121a
ピアノ三重奏曲第4番「街の歌」Op.11
ピアノ三重奏曲第7番「大公」Op.97
“自然体に徹しながら作品のツボを捉えた、これぞアンサンブルの基本!”
■音源について
LP5枚組の全集を3枚のディスクに全て収録。分売のモノラル・ヴァージョンは比較的容易に入手できますが、ステレオ・ヴァージョンでまとまった全集は、このフランス盤だけのようです。

★ベートーヴェンのピアノ三重奏曲は、弦楽四重奏曲よりも一段低く見られがちですが、そこに息づく革新性と伸びやかな楽想は、紛れもなくベートーヴェンの個性の塊です。しかし、それを履き違えて遊びすぎたり、あざとい演出を施すと、単に軽いサロン風の音楽に成り 下がってしまいます。その点を十分に踏まえて決して説明調に陥らず、聴き手とじ っくり共有し合うように音楽を紡ぎ出す演奏として真っ先に挙げたいのがこの演奏。コーガン等のソ連の名手達による一部の隙もない演奏とは違う、音楽の「育み」を感じたい方に特にお勧めしたい逸品です。
トリオ・サントリクイドは、ピアニストのオルネッラ・サントリクイドを中心にして1942年にローマで結成。ベートーヴェンのピアノ三重奏の一部は、DGへ50年代前半にも録音していますが、こちらは後年のコンサート・ホールへの全集録音で、このトリオの最大の遺産です。 強固なアンサンブルでグイグイ迫るのではなく、親和的なムードに流されるので もなく、ひたすら作品に奉仕しながら地味にくすぶることなく、個々の奏者の瑞々しい感性が自然と一体化した味わいは、かけがえの無いものです。 特に各曲の緩徐楽章は、ヴァイオリンのペリッチャ(シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の欧州初演者)の美音を中心にして、抑えがたい程の心のときめきが温かい波紋と なって広がる様に心奪われ、スケルツォ楽章での鋭角的になり過ぎないリズムの弾力も、実に清々しく響きます。
なお、サントリクイドのピアノ演奏は、ベートーヴェンの三重協奏曲(TRE-048)でもお聴きいただけます。【湧々堂】


TRE-094
デゾルミエール/イベール、ドビュッシー他
ドビュッシー:交響詩「海」#
ショパン(デゾルミエール編):バレエ音楽「レ・シルフィード」*
イベール:ディヴェルティメント
ロジェ・デゾルミエール(指)
チェコPO#、パリ音楽院O

録音:1950年11月13-15日#、1950年2月*、1951年6月
※音源:SUPRAPHON (EURODISC) 913-296#、LONDON LL-884、
◎収録時間:61:39
“芳しく小粋なデゾルミエールの至芸を凝縮!!”
■音源について
TRE-060に収録できなかった「海」は、リヒテルが絶賛したことでも知られる録音で、これでデゾルミエールとチェコ・フィルによる全録音が揃います。米LONDONは、もちろん英国プレス。奇跡の極上盤!

★一言に「フランス風のエスプリ」と言っても、クリュイタンス、ミュンシュ、デルヴォーなど、その表情は様々。デゾルミエールが醸し出すエスプリには、物々しさとは無縁の粋な空気感とほのかな香りが広がっています。
ドビュッシーの「海」は、とかく色彩的な放射力とダイナミズムに焦点を当てがちですが、デゾルミエールは、和声の軋みを優しく調和させたような粋な制御が独特の余韻をもたらします。終楽章においてもシルキーで息の長いフレージングを絶やすことなく、滑らか音彩にこだわっているのが特徴的。
ショパンはデゾルミエール自身の編曲で、一般的なダグラス版の数倍魅力的に響きます。特に管楽器の扱いなどは、パリ音楽院管での演奏を想定して書かれたと思えるほどツボにはまっています。ディアギレフのロシアバレエ団の指揮者を務めた経験が生きた視覚的なイマジネーションもさることながら、音楽としての語り口の人懐っこさ、甘美な音色の魅力を前に一切の理屈など不要!
そして、イベールの底抜けの楽しさ!ブルックナーやマーラーの音楽に慣れきったオケではどう逆立ちしても無可能な、小股の切れ上がったリズムと、音の「スカスカ感」がたまりません。とぼけた表情を出そうとするとただの悪乗りになってしまう演奏と比べたら、楽しさの突き抜け方が全然違います。第5曲冒頭のミュート付きのトランペットなど、巧いなどという一言では済まない味。終曲も、これ以上にゴキゲンで、しかも趣味の良い演奏などあり得ないでしょう。音質も極めて明瞭。【湧々堂】

TRE-096
ワルター・ハウツィッヒ〜シューベルト他
ヘンデル:調子の良い鍛冶屋
ブラームス:ワルツ第15番Op.39-15
リスト:巡礼の年第2年への追加;ヴェネツィアとナポリ〜タランテラ
シューベルト:即興曲Op.142-2
 楽興の時Op.94(全6曲)*
 幻想曲ハ長調「さすらい人」Op.15*
ワルター・ハウツィッヒ(P)

録音:1956年11月28-29ビクター・スタジオ(日本)、1955年ニューヨーク* (全てモノラル)
※音源:Victor LS-2104、 Victor LH-32*
◎収録時間:71:03
“小品専門家ではない!ハウツィッヒの知られざる洞察力と直感力!”
■音源について
シューベルトの「楽興の時」と「さすらい人」は、ハウツィッヒが本格的に演奏活動はじめた直後の米ハイドン・ソサエティへの録音を原盤としています。

★ハウツィッヒ(1921-)はオーストリア出身。ナチスのユダヤ人迫害を逃れて、イスラエル、アメリカへと移住。後にシュナーベルに認められて短期間師事しましたが、カーティス音楽院で系統的に学ぶことを選択し、ブゾーニ門下のミエティスラフ・ムンツに師事。卒業後は世界各地で演奏活動を展開。1950年代に日本のビクターの担当者がハウツィッヒのレコードに注目したのがきっかけで、以来ビクターで有名小品を中心に録音を開始したことと、全国での公演を通じて広く知られるようになりました。ただ、残念ながら小品専門ピアニストというイメージが付いてしまったことは否めませんし、さすがに小品だけでは、ハウツィッヒの芸の本質は掴みきれません。
そこでまず強調したいのは、「さすらい人」の素晴らしさ!広いレパートリーを持ち、確かな技巧でそれぞれの様式を踏まえた演奏を聴かせるハウツィッヒですが、中でも重要なのがシューベルトで、ここでは瑞々しさと高潔さを兼ね備えた推進力を基調として、シューベルトの心の歌を素直に着実に紡ぎ出した名演奏を繰り広げています。第1楽章だけでも、シュナーベルが認め、カーティス音楽院の入学時の試験官の一人だったゼルキンが激賞した才能は存分に伺えますが、第2楽章の長い音価での呼吸の深さ、3:24からの心の奥から発したフレージングは格別。終楽章のアルペジョの難所も難なくこなすだけでなく、全ての音に前向きな意志が漲り、最後まで聴き手を惹きつけて離しません。 【湧々堂】

TRE-097
ワルター・ジュスキント〜ムソルグスキー&ボロディン
ムソルグスキー:交響詩「はげ山の一夜」
 歌劇「ソロチンスクの定期市」〜第1幕序奏/第3幕「ゴパーク」
 古典様式による交響的間奏曲ロ短調
 歌劇「ホヴァンシチナ」〜第1幕前奏曲/ペルシャの女奴隷たちの踊り/第4幕第2場への間奏曲
 スケルツォ変ロ長調
 荘厳行進曲「カルスの奪還」(トルコ行進曲)
ボロディン:歌劇「イーゴリ公」から*
 序曲/ダッタン人の行進/
 ダッタン人の踊り
ワルター・ジュスキント(指)
フィルハーモニアO

録音:1953年3月、1952年9月*
※音源:英PARLOPHONE PMC-1018、PMD-1023*(共に10インチ)
◎収録時間:79:58
“オケの自発性だけでなく、作品自体の発言力をも引き出す見識力!”
■音源について
フィルハーモニア管と関係が深かったジュスキントは、協奏曲の伴奏以外ではステレオ時代の「ペール・ギュント」の名演が知られていますが、それ以上に重要な意義を持つのがこの2枚のレコード。ぎりぎり1枚のディスクに収録。ジャケ写は日本盤。

★ワルター・ジュスキント(1913-1980)は、チェコ出身。スークとハーバに作曲を、ジョージ・セルに指揮を学びましたが、ナチスの迫害を避けてイギリスへ渡り、戦後はスコティッシュ・ナショナル管などの指揮者を歴任。晩年はシンシナティ響の首席指揮者を亡くなるまで務めました。ジュスキントの録音は多くはなく、一見地味なスタイルとも相俟ってほとんど注目されませんが、このムソルグスキーとボロディンは、ただの堅物とは訳の違うジュスキントの清廉な音楽作りを最も顕著に感じられる点で、是非とも注目していただきたい録音です。
「はげ山」は、とかく怪奇趣味を煽りがちですが、これほどムソルグスキーの筆致の閃きを信じ切り、過度に楽器を咆哮させなくても、曲の凄さが伝わると、この録音で初めて知りました。特に静かな後半部分で、自然な緊張を維持しながら優しい詩情を最後の一音まで息づかせるセンスは只事ではありません。「ソロチンスクの定期市」の“ゴパーク”は、何とも清々しい進行。ここでも後付けの土俗性など無用。「ホヴァンシチナ」前奏曲も、まさに理想郷!ムラヴィンスキーの透徹美とは異なる人間的な温もりが心に染みます。
こういった、感覚的刺激に頼らずに高い説得力を持つ演奏に結実したのは、当然フィルハーモニア管の功績も大。ボロディンの序曲でのホルン・ソロを吹くデニス・ブレインをはじめ、名手達の妙技と、メカニックに陥らない合奏力を語る上でも欠かせない録音だと確信する次第です。自然な音像が広がる音質にもご注目を。【湧々堂】

TRE-098
バレンツェン〜ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ他
ブラームス:ワルツ集Op.39〜第15番
ウェーバー:ピアノ・ソナタ第1番〜第4楽章「無窮動」
メンデルスゾーン:無言歌Op.62-6「春の歌」
 無言歌Op.67-4「紡ぎ歌」
ショパン:ワルツ嬰ハ短調Op.64-2
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番
 愛の夢第3番
ベートーヴェン:エリーゼのために
 ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」*
 ピアノ・ソナタ第14番「月光」*
 ピアノ・ソナタ第23番「熱情」*
アリーヌ・ヴァン・バレンツェン(P)

録音:1950年代初期(モノラル)、1959年(ステレオ)*
※音源:仏TRIANON TRI-33127、TRI-33190*
◎収録時間:79:15
“冴えわたる技巧と直感を融合させた恐るべきドラマ生成力!”
■音源について
バレンツェンは、ベートーヴェンのこの3大ソナタを仏EMIに1947-1948年、1953年、1959年と3回もスタジオ録音しています。ここでは、最後の59年のステレオ録音(70年代プレス)を収録。小品集は擬似ステレオ盤ですが、少し違和感があるので、モノラル再生しています。

★アリーヌ・ヴァン・バレンツェン(1897-1981)はアメリカ生まれのフランスのピアニスト。パリ音楽院に入学し、マルグリット・ロンに師事。卒業後はエルンスト・フォン・ドホナーニ、テオドール・レシェティツキにも師事。1954年にはパリ音楽院の教授に就任。門弟にはジャン=フィリップ・コラール、ジャック・ルヴィエなどの逸材がいます。
バレンツェンの演奏は、コンセプトも打鍵も常に明快。時には作品と心中するかのような熱い没入を示しながら気品を絶やさないのが特徴ですが、さらに鮮烈な印象を残すのが、技巧の使い方。 有り余るほどのテクニックは、常に各楽想を強烈に刻印するためだけに直感的に投入され、しかも核心をズバリ射抜いているので、説得力が尋常ではありません。 その閃きに満ちたピアニズムは、前半の小品集でも充満しており、中でも忘れられないのが、ショパンのワルツ。濃厚なアゴーギクを敷き詰めながら、泥臭くならずに神々しい光を湛えているので、リトルネロ旋律のリピートで急に倍速テンポに転じる奇抜な技も、作品を茶化しているような軽薄モードに陥りません。
そして、極めつけのベートーヴェン!古今の「3大ソナタ」のディスクの中でも、おそらく今後もベスト5から漏れることはないと思われる超名演です!
まず、「悲愴」第1楽章の序奏部のなんという入念さ!第2主題はタッチの全ての粒が感じきっているのを強固な集中力で凝縮。その意志の強さと立体感が感動に拍車を掛けます。また、第2楽章共々、ガヴォー製と思われるピアノ自体が持つ哀愁を帯びた音色美にもご注目を。
「熱情」では、テクニックの使い途をこれほど心得たピアニストは史上稀だということを改めて痛感。第1楽章のテンポ、強弱の切り替えの俊敏さにも、技巧だけが一人歩きしている箇所など皆無。その技巧と精神の高揚が極限に達した終楽章は圧巻です。苦悩を抱えず、音圧とスピードだけで駆け抜ける演奏とはおさらばです。【湧々堂】


TRE-099r

レオポルド・ルートヴィヒのマーラー
マーラー:交響曲第9番
レオポルド・ルートヴィヒ(指)LSO

録音:1959年11月17-20日 ロンドン・ウォルサムストー・アセンブリー・ホール(ステレオ)
※音源:米EVEREST SDBR-3050-2
◎収録時間:75:51
“露骨な感情表現から開放した「マラ9」の世界初のステレオ録音!”
■音源について
以前は、落ち着きのある音が特徴的な英W.R.C盤(SCM-16〜17)を音源に使用しましたが、各楽器のニュアンスがより明確に伝わる米エベレストの金紫ラベル盤を新たに採用して再復刻しました。ジャケ写に写っているのは、マーラー・メダル
※旧盤と区別するために、この再復刻盤の品番結尾には"r"の一文字を付しています。

★この録音は、同曲の世界初のステレオ録音であるだけでなく、それまでの豊穣なロマンを濃厚に湛えたマーラー像から一旦離れ、ストレートな純音楽的アプローチで訴えかける力を持つことを証明した点でも、見逃すわけには行きません。
近年の、細部を微視的に突き詰めた演奏に慣れた耳で聴くと淡白に感じられるかもしれませんが、主情を排し、作品の全体像を素直に大らかに再現する姿勢と素朴な呼吸感からは、人生の終焉を映すイメージからも開放された極めて純度の高い音楽を感じることができます。第1楽章展開部の自然な陰影と巧みな声部バランスの確保は、ルートヴィヒの職人芸の極み。14:00頃からの空気感は、まさに虚飾とは無縁の至純の美!、コーダで独奏ヴァイオリンと木管が醸し出す透明感も単に痩せた弱音とは異なり、これ以上何を加える必要があるでしょうか。
第2楽章も、諧謔性を強調などせず、あくまでも音楽自体の律動を重視。3つの舞曲のテンポ切り替えがいちいち括弧で括ったような説明調にならず、自然に滑りこませる技にもご注目を。
そして極めつけの終楽章!これほど気負わず、作り込まず、音楽を豊かに紡ぎ尽くした演奏は稀でしょう。バーンスタインのような分かりやすい感情表出とは対照的ですが、5:35のヴァイオリン・ソロ以降の各パートの呼応の妙、自然発生的な深遠なニュアンス表出には、この演奏を単に淡白と言わせないだけの強固な共感と含蓄がぎっしり詰まっています。
「過激なマーラー像を見直し、謙虚にスコアを読み直す」と多くの指揮者が口にしますが、結局出てくる音楽には何のヴィジョンも感じられないか、立派に響いているだけの演奏も少ないくないようです。バーンスタインとの差別化を図るために「謙虚さ」をアピールするなら、せめてこのルートヴィヒの演奏を聴いてからにしてほしいものです。【湧々堂】


TRE-100(2CDR)
ブライロフスキー/リスト:ハンガリー狂詩曲集(全15曲)
●Disc1:第1番嬰ハ短調、第2番嬰ハ短調,
第4番変ホ長調、第14番ヘ短調,
第9番変ホ長調、第6番変ニ長調、
●Disc2:第13番イ短調、第10番ホ長調,
第3番変ロ長調、第7番ニ短調、
第8番嬰ヘ短調、第12番嬰ハ短調、
第5番ホ短調、第11番イ短調、
第15番イ短調「ラコッツィ行進曲」
(以上、LP収録順と同じ)
アレクサンダー・ブライロフスキー(P)

録音:1953年-1956年
※音源:伊RCA B12R-0256/7
◎収録時間:62:14+62:24
“ふんだんに色気を放ちながら古臭さを感じさせない理想の名演!”
■音源について
ブライロフスキーは、一部の曲をSP期にも録音していますが、これはモノラル末期にまとめて録音され、2枚組LPで発売されたもの。ここではその全てを収録。曲の配列が独特ですが、これがオリジナルです。ちなみにこの15曲は1846年〜53年、16〜19番は1882年〜85年に作曲されています。

★キエフ出身。レシェティツキ門下でショパンの名手として知られるブライロフスキー(1896−1976)の最大の魅力の一つは、華麗さと気品の見事な融合ぶり。暴力的な打鍵で威圧するのではなく、さり気なく、かつ確実に聴き手に語りかけるピアニズムは、この曲集の持ち味を活かすのにうってつけと言えましょう。殆どの場合、この曲集を全曲通して聴くのはしんどいものですが、ここでは語り口の巧さと程よい軽みによって、時を忘れて聴き入ってしまう方も多いはず。曲前半の緩やかな部分(ラッサン)の人懐っこい表情からして、深刻ぶった大仰なアプローチとは無縁であることを示しており、後半の速い部分(フリスカ)での屈託のない華やぎへの連動も、変に構えず自然そのもの。
「第1番」の後半(11:18〜)で繰り返される「タッタララー」のリズムのなんという人間味!しかも野暮ったく響かないその見事なさじ加減も、ブライロフスキーのこの曲集への愛情の賜物でしょう。
有名な「第2番」終盤のカデンツァはブライロフスキーの自作と思われますが、技巧の誇示ではなく、濃厚な色気と媚びない洒落っ気が横溢。こんな風合いは、現代のピアニストにはなかなか望めません。
昔のピアニストは、それぞれが独特の色香を誇っていましたが、ブライロフスキーの凄さは、そこに古臭さを感じさせないところ。この曲集の名演として永遠に聴かれるべき逸品だと確信します。【湧々堂】

TRE-101
フランツ・アンドレ〜ビゼー、ドビュッシー他
グレトリー(1741-1813):「チェファルとプロクリス」組曲〜タンブーラン/メヌエット/ジーグ
ラモー:バレエ組曲「プラテ」〜メヌエット/リゴードン
ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」〜鬼火のメヌエット
シャブリエ:楽しい行進曲
ドビュッシー:管弦楽のための映像〜「イベリア」*
ビゼー:「アルルの女」第1組曲&第2組曲#
フランツ・アンドレ(指)ベルギー国立RSO

録音:1954年頃、1950年*、1953年10月1日#
※音源:独TELEFUNKEN PLB-6011、英LGX-66001*、LGX-66021#
◎収録時間:73:03
“クラシック音楽をアカデミックな檻から開放するアンドレの真骨頂!”
■音源について
上質な独盤と英盤を使用。全体的にモノラルであることのハンデなど感じさせず、音の威力と演奏の魅力を体現していただけるものと思います。

★アンドレが遺した録音の集中的に聴いて参りましたが、導き出す音楽は、クラシック音楽につきまといがちな高尚さを感じさせないという点や、親分肌でオケを牽引する魅力では、ビーチャムなどとの共通性を感じますが、チェリビダッケに言わせれば「アマチュア」のビーチャムよりも、作品の魅力を瞬時に嗅ぎ分け、安定的に構築する能力は優っていたのでは?と思うことさえあります。例えば、グレトリーの作品。この録音以外に聞いたことのない曲にもかかわらず、昔から知っている曲で、かつ他にアプローチの余地が無いと思えてしまうほど、確固たる訴求力を持っているのです。そう思うのは、親しみやすい曲調のせいだけではない気がするのです。
「アルルの女」は、モノラル期に多数録音された名曲だけに名盤も多いですが、そんな中でもこのアンドレ盤の魅力は永遠に光り続けるであろう名演!“前奏曲”冒頭の弦のテクスチュアの均衡性はこのオケの優秀性を如実に示しており、一切奇を衒わずに曲のイメージを確信的に押し広げるアンドレの力量に唸らさることしきり。2:58からのリタルダントなど、こんな絶妙な間合いを醸し出す演奏が他にあるでしょうか?“メヌエット第1”のリズムの弾力にも惚れぼれするばかり。“パストラーレ”に至っては究極と呼ぶしかない巧み!オケの機能性が全面に出ず、全団員の体から溢れ出した、これぞ魂の音楽です。続く“間奏曲”では、1:08からのサックスのテーマを支える、何気ない弦の刻みから広がる郷愁!聴くたびに本当に目頭が熱くなります。“ファランドール”冒頭、3小節目の第1音は4分音符ですが、殆どの場合「タラッタラッタラー」と伸ばします。この4分音符の音価を守り、持ち味をそのまま生かした演奏も、他に知りません。
ラテン的な色彩表出はアンドレの最も得意とするところですが、当然ながら「イベリア」ではそれが大全開!音をシャープに刻むだけではないカラッと突き抜ける音彩は、体で感じたリズムと一体となって、感覚的な爽快さ以上の情感を醸し出しています。【湧々堂】

TRE-102
クーベリック/ドヴォルザーク&ブラームス
ドヴォルザーク:弦楽セレナードOp.22
ブラームス:交響曲第2番ニ長調Op.73*
ラファエル・クーベリック(指)
イスラエルPO、VPO*

録音:1957年3月25日-4月14日、1957年4月4-8日*(共にモノラル)
※音源:米LONDON LL-1720、LL-1699*
◎収録時間:65:14
“ハッタリ無用!クーベリックの底知れぬ才能に再開眼!”
■音源について
1950年代ステレオ初期デッカによるウィーン・フィルの録音の多くは、変な癖のある音で録られているのが難点ですが、ウィーン・フィル以外の録音にも、この現象は稀に見られます、ここに収録した2曲もそうです。したがって、ここでは2曲ともあえてモノラル盤を採用。想像を遥かに超える豊かなニュアンスに驚嘆!“イスラエルの弦”の魅力もウィーン・フィルの豊麗さも、ステレオ盤では味わえないと思います。と言うか別物です!ジャケットは、ブラームスのドイツ初版。

★1957年当時、クーベリックはまだ43歳。にもかかわらず、これだけ練り尽くされたニュアンスを一貫して表出していることに、改めて驚きを禁じえません。若さゆえの青臭さや表現の浅さが皆無。しかも、自分を偽って大人びた演奏をしているのではなく、作品への心からの共感とヴィジョンが強固で、オケの特質を生かしながら共感し合った結果の楽音が紡ぎだされるので、これほど心を打つのでしょう。
まず、ドヴォルザークの「弦セレ」。冒頭の1分でイチコロ。最初に歌い出すのは第2ヴァイオリンですが、この極上の絹ごし感の他にいったい何が必要でしょう。それを受ける第1ヴァイオリンには微かにポルタメントがかかりますが、その気品と香りにも忘れられません。第2楽章では、注意深く聴くとかなり明確にアクセントを置いたメリハリの効いたフレージングを行っていますが、恣意性を残さずに豊かな流れを築いている点など、まさにクーベリックの才能の象徴と言えましょう。この豊かさと自然さを兼ね備えたフレージング力があればこそ、第3楽章の中間部でピチカートを強調するといった演出など不要なのです。
ウィーン・フィルがクーベリックやケンペと組んだ録音は、聴きようによっては双方間に見えない壁のようなものを感じる時がありますが、少なくともこのブラームスにはそんな微妙な空気は無く、それどころか、ウィーン・フィルが自分たちの音楽に真心で献身するクーベリックに感激し、心からの献身で返すという相乗効果が、感動的な演奏となって結実しています。第1楽章冒頭の3つの音を意味深く響かせることにこだわる指揮者もいますが、クーベリックは最初からホルンの第1主題に照準を合わせており、その後の第1ヴァイオリンの経過句、チェロの第2主題へと次第に音楽を広げ、結果的に実にしなやかな推進力を得ることに成功しています。過剰に沈思しない第2主題の響かせ方にもご注目を。楽章後半11:41からのホルンの長い斉奏以降の弦の歌い方も聴きもので、私欲の入り込む余地のない純度の高い呼吸感は、何度聴いてもため息が漏れます。そして結尾の何という間合いの良さ!第2楽章を陰鬱と感じて敬遠される人も多いようですが、そういう人にこそ聴いていただきたいのがこの演奏。呼吸も音色も常に瑞々しさを湛えたアプローチにハッとされる方も多いことでしょう。6:10など、随所で弦にポルタメントが掛かりますが、取って付けた感を全く与えないのは、まさにオケがスイッチ全開で奏でている証拠。終楽章も、どこまで行っても素直な進行をに徹しながらもこの訴求力!素直なだけで何も迫ってこない演奏に堕すかどうかの決め手は何なのか?その答えは、この演奏が教えてくれます。【湧々堂】

TRE-103
ビーチャム〜モーツァルト:交響曲集
交響曲第38番「プラハ」K.504*
交響曲第39番変ホ長調K.543**
交響曲第40番ト短調K.550#
トーマス・ビーチャム(指)
ロイヤルPO

録音:1950年4月*、1955年12月**、1954年4月#
※音源:蘭CBS CBS-6020*、英PHILIPS ABL-3094**,#
◎収録時間:74:51
“大きな包容力で魅了する、ビーチャム流の愉しいモーツァルト!”
■音源について
ビーチャムの米コロンビア録音は、HMV系の録音に比べてCD発売の頻度が低く、なかなか注目されません。ビーチャム没後50周年記念ボックスに収録されているモーツァルトも、1930-40年代のSP期の録音でした。中でもこのモーツァルトは、ビーチャムの完熟の芸術を味わう意味でも、モーツァルトに対する独特のアプローチを貫徹している点でも、特に聴き逃せない重要な遺産です。ジャケ写は米コロンビア盤。

★ビーチャムのモーツァルトは、一言で言えばハイドン風。偉大な天才の作品として向き合うというより、自分の作品のように慈しみ、熱烈な共感を込めてその魅力を知らしめたいという表現意欲を堂々と突きつける潔さに溢れています。
「プラハ」は、序奏の最初の弦の音をすぐに弱めて管楽器だけ残して絶妙な余韻の残し、強弱の入れ替えや、スフォルツァンドの挿入をさり気なく盛り込み、モノラルにも関わらず色彩的な空間を表出。第2主題に入る直前、いよいよ禁断の園に分け入るようなワクワク感を孕んだルバートを見せた後は、甘美なレガートで応酬。展開部に入ると、この演奏が、シューリヒト等と並ぶ歴史的名演であることをさらに痛感するばかり。全声部が一斉に発言しながら緊密な連携を見せ、濃厚なニュアンスが怒涛のように押し寄せます。コーダの終止は、ビーチャムがモーツァルトのアレグロ楽章でよく用いる、“ビーチャム流イン・テンポ”。単に「テンポを変えない」という意味以上の、人間の業の全てを肯定するようなビーチャム一流の達観を反映するかのようです。これが2楽章の最後では、名残を惜しむようなルバートに取って代わるのですから、音楽的な楽しさは尽きません。
「音楽は楽しいもの」という前提に立ち、どんなに悲しい音楽でも、絶望や苦悩を前面に立てないのもビーチャムの美学。それを「第40番」で徹底的に思い知ることになります。第1楽章の張り詰めたイン・テンポ進行の中に、「なんとかなるさ!」という励ましの情が常に宿り、再現部で主題が長調で現れると、「ほらね?」という声が聞こえそうなニュアンスがパッと開花!こんな「40番」、他では決して聴けません。ネガティブな要素を徹底排除したこのアプローチは,決して「楽天的」という一言では片付けられません。
ビーチャムのモーツァルトは、人間愛の塊!演奏様式の正当性を優先させたアプローチからは感じ取れない、その惜しげもない愛と包容力を是非ご実感ください。【湧々堂】

TRE-104
ホロヴィッツ〜2大激烈ライヴ集
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番*
ウラディミール・ホロヴィッツ(P)
ブルーノ・ワルター(指)アムステルダム・コンセルトヘボウO
ジョージ・セル(指)NYO*

録音:1936年2月20日アムステルダム・コンセルトヘボウ、1953年1月12日カーネギー・ホール(共にモノラル・ライヴ)
※音源:米BRUNO WALTER SOCIETY BWS-728 、Private EV-5007*
◎収録時間:68:53
“似ているようで意味が異なる2つの激烈ライヴ!”
■音源について
ブラームスの第1楽章の201-310小節にマスター欠落による空白があります。M&AのCDでは、トスカニーニ盤で穴埋めしていました。チャイコフスキーは、ホロヴィッツのカーネギー・ホール・デビュー25周年記念公演。OTAKENのCDと同じ音源を使用。

ブラームスは、宇野功芳氏も激賞。31歳のホロヴィッツと59歳のワルターが壮絶な火花を散らした凄演です。感情を剥き出しにすると造形が破綻することが多いワルターも、ここでは、ホロヴィッツのパワーに負けじと確固たる凝縮力を堅持。両者のパッションは常に同じ方向に向かって放射されるので、まさに一丸となったエネルギー量は尋常ではなく、音の古さを超えて、猛烈な説得力で迫り続けます。第2楽章では、ホロヴィッツがスクリャービンを思わせる官能美を見せる点も聴き逃せません。
しかし、それ以上に「奇跡的な燃焼」を成し遂げているのがチャイコフスキー!本番前にホロヴィッツとセルは大喧嘩したとの噂の真偽はともかく、どう考えても両者の個性は正反対。実際の音も、両者が別々の理想に向かって意地になって猛進しているようで、ワルターとの競演時とはハイテンションの意味が違って聴こえます。セルが最後まで芸術的フォルムの貫徹を目指すのに対し、ホロヴィッツがそれをガンガンぶち壊し続けるスリルは最後まで途絶えることなく、終楽章コーダでは、遂に崩壊寸前に!とにかく、この曲でピアニズムの限界、燃焼の極限を体感するには、これ以上の演奏は考えられません。理屈抜きでご堪能ください。2曲とも、生々しい音質。【湧々堂】

TRE-105(2CDR)
ティート・アプレア〜ショパン:ポロネーズ集
ポロネーズ第9番Op. 71-2
ポロネーズ第1番Op. 26-1
ポロネーズ第3番Op. 40-1「軍隊」
ポロネーズ第4番Op. 40-2
ポロネーズ第13番変イ長調
ポロネーズ第2番Op. 26-2
ポロネーズ第6番「英雄」
ポロネーズ第5番Op. 44
ポロネーズ第8番Op.71-1
ポロネーズ第15番変ロ長調
ポロネーズ第10番Op. 71-3
ポロネーズ第16番変ト長調
ポロネーズ第14番嬰ト短調
ティート・アプレア(P)

録音:1960年代初頭(モノラル)
※音源:伊RCA VICTROLA KV-17/18
◎収録時間:92:35
“ショパンのポロネーズ演奏史上、無類の含蓄を誇る超名盤!”
■音源について
1964年に発売されたイタリア・ローカル発売盤2枚分(セットものではない)の全曲を収録。イタリアはステレオの普及が遅かったせいか、これもモノラルでのリリースですが、もちろん音質は極めて明瞭。曲の配列は、オリジナルどおりです。

★ティート・アプレア(1904-1989)は、イタリアのピアニスト、作曲家、指揮者。ピアニストとしての録音は、他にはデ・ヴィートとの伴奏盤がある程度なので、このショパン極めて貴重。しかも同曲の演奏史上に燦然と輝く大名演です。「幻想」が収録されていないのが残念ですが、演奏を聴けば、本来のポロネーズのリズムを主体とした作品群で構成した意図がご理解いただけるはずです。重要なのは、その民族舞曲のリズムを自身の感性から正直に発することで、借り物のローカル色から脱した芸術的な風格美を打ち立てている点。それが結果的に、有名作品以外においても、類例のない説得力を持つ演奏に結実しているのです。例えば最初の「第9番」。こんな大きな構えで語り尽くした演奏を他に知りません。続く「第1番」も、序奏部からして見せかけではない渾身のスケール感を見せ、中間部は甘美な流れの中にも求心力の高さを失いません。とかく軽視されがちな「軍隊」も、その芸術的昇華力に唖然。「第4番」冒頭はペダルを避け、旋律を克明に表出することで、感覚的な重厚感とは異なる生々しいドラマ性を現出。そして言葉を失うのが、「第2番」冒頭の8分音符と16分音符による、ピアニッシモの和音!こんな凍てつくような寒さと孤独を投影した響きが他で聴けましょうか。「英雄」は勇壮に仕立てようとすればするほど軽薄になりがちですが、一切遊びを持ち込まずに、人間的な度量の大きさで推進させるアプレアには、そんな心配は無用。トリオ後半の静かな部分は、この録音の核となっているアプレアのルバートのセンスの宝石箱!「第5番」から2枚目のレコードへ移りますが、ほとんど初期の作品で構成されているのが、驚くべきこと。これを単独で発売したのでしょうか?しかし、更に驚くのはその内容!持ち前の入魂のルバートをふんだんに注入したフレージングで、作品としての内容の薄さなど微塵も感じさせないどころか、後期作品と同列の大きなうねりを一貫して維持しているところに、アプレアの自信と確信の程が窺えます。特に「第10番」の素晴らしさ!【湧々堂】

TRE-106(2CDR)
ヴォイチャッハ〜ドイツ名行進曲集 第1巻
■Disc1
●歴史的ドイツ行進曲集(エミール・カイザー編)*
○16世紀以前
 野戦信号ラッパと軍鼓の大合奏
 皇帝領付軍隊の行進曲
 騎兵隊のファンファール
 鼓笛隊の行進曲
 ゴイゼン同盟行進曲(伝承曲)
○17世紀〜18世紀へ
 フィンランド騎兵隊の行進曲
 パッペンハイム軍のファンファール
 「オイゲン公」行進曲
 消燈信号
 コーブルク行進曲(伝承曲)
○18世紀
 ドイツ海軍礼式行進曲
 スワビア地方連隊行進曲
 フリードリヒ大王時代の行進曲
 行進曲「懐しきデッサウ」
 サクソニア選挙候領付連隊行進曲
 ヘッセン"クールフェルスト"連隊行進曲
 観兵式における騎兵部隊のフアンフアール(伝承曲)
 クリードリヒ:ホーヘンフリートベルク行進曲
 自由戦争における義勇軍の行進曲(伝承曲)
○19世紀
 ヴァルヒ:パリ入城行進曲
 J.シュトラウス1世:ラデツキー行進曲
 G.ピーフケ:行進曲「デュッベルの塹壕」
 シェルツァー:バイエルン地方連隊分列行進曲
 狩猟の鼓笛行進曲(伝承曲)
 C.タイケ:行進曲「旧友」
■ヴォイチャッハ名演集
(1)フリードリヒ:トルガウ行進曲
(2)M.ローランド:行進曲「巨人衛兵の分列式」
(3)リュッベルト:ヘレン行進曲
(4)ノイマン:行進曲「ペピタ」
(5)K.コムツァーク:「バラタリア」行進曲
(6)ウンラート:「カール大王」行進曲
(7)R.ティーレ:行進曲「我等の海軍」
(8)R.ペリオン:行進曲「フェールベルリンの騎士」
(9)0.フェトラス:ヒンデンブルク行進曲
(10)P.キルステン:行進曲「友情」
W.リンデマン:行進曲「グリレンバナーの下に」
(11)H.ブルーメ:鉄兜隊行進曲
(12)D.エルトル:行進曲「ドイツの騎士」
(13)H.ブルーメ:行進曲「祖国の護り」
■Disc2
(14)C.タイケ:「ツェッペリン伯号」行進曲
(15)R.ヘリオン:ブランデンブルグ行進曲
(16)H.ドスタル:行進曲「大空の勇士」
(17)A.ヴェンデ:行進曲「空の旅」
(18)E.シュティーベルツ:行進曲「ソンムの激戦」
(19)R.ヘルツァー:行進曲「ハイデクスブルク万才」
(20)G.フェルスト:バーデンワイル行涯曲
(21)作者不詳:コーブルク行進曲
(22)C.V.モルトケ:大選帝侯騎兵行進曲
(23)H.ヴェッセル:行進曲「旗を掲げて」
カール・ヴォイチャッハ(指)
テレフンケン大吹奏楽団

録音:1932年11月*、
(1)1930年6月
(2)1932年11月
(3)1932年9月
(4)1932年7月
(5)1937年4月
(6)1932年7月
(7)1932年6月
(8)1930年6月
(9)1929年11月
(10)1934年7月
(11)1929年11月
(12)1933年2月
(13)1929年4月
(14)1933年2月
(15)1937年4月
(16)1930年6月
(17)1932年7月
(18)1932年8月
(19)1931年1月
(20)1929年7月
(20)1929年7月
(21)1930年頃
(22)1932年9月
(23)1933年頃

※音源:King Record SLC-2300/2301
◎収録時間:89:35
“ドイツ行進曲の流儀を確立したヴォイチャッハの大業績!”
■音源について
独テレフンケンは、ナチス・ドイツの国策会社として多くのドイツ行進曲を録音していましたが、大戦中にその原盤のほとんどが焼失。新たな復刻は絶望視されていた中、1972年にキングレコード(1936年から独テレフンケン音源を発売していた)の倉庫から大量のメタル原盤が発見され、翌年にLP4枚分が発売されて話題となりました。ここでは、その際「第1巻」として発売されたLP2枚組の全曲と、TRE-040に収録しきれなかった3曲(ディスク2の最後の3曲)も収録。これでレコード4枚分の全曲が揃います。1930年代とは思えな瑞々しい音!ほとんどノイズ・リダクション不要の良質盤を使用。

★魂を込めて奏でた音楽がいかに人の心を揺さぶるか、それを改めて思い知らされます。「第1巻」として発売されたこの2枚組のLPは、全てヴォイチャッハの指揮。「歴史的ドイツ行進曲集」で、ドイツマーチ変遷をメドレーで概観するとともに、そのズシリと腹に響くドイツ行進曲の醍醐味をたっぷりと堪能いただけます。
その典型的なスタイルを築いたのが、カール・ヴォイチャッハ。ナチス台頭とともに社会情勢が変化し、レコードの売上も落ち込むなか、テレフンケンが目をつけたのが、ドイツ人が大好きな「行進曲」のレコードでした。その演奏には既存の軍楽隊、楽長を起用せず、新たに退役軍楽隊員から成る団体を組み、民間の吹奏楽団の指導者だったヴォイチャッハに指揮を託したのは、慧眼と言えましょう。
いかめしく、ものものしく、遊びのない、まさにゲルマン気質の塊のような響きから、ホロリとさせる絶妙な味が滲むのは、まさにヴォイチャッハの音楽的センスが並外れている証拠です。
有名な「旧友」は、第2巻にもベルリン・フィル団員による高い芸術性を感じさせる演奏が収録されていますが、こちらはもっと人懐っこい表情で迫ります。
ドイツ行進曲の演奏スタイルが、ナチズムの崩壊とともにより軽快なものに変化する以前の、筋金入りの発信力を持ち、実用を超えた音楽的な説得力を誇る点で、「ドイツ軍楽隊マニア」のみならず、広く接していただきたいディスクです。【湧々堂】

TRE-107(2CDR)
フルゴーニ〜ショパン:マズルカ全集
第1番Op.6-1〜第51番遺作
オラツィオ・フルゴーニ(P)

録音:1960年代初頭(ステレオ)
※音源:仏Musidisc RC-887/888
◎収録時間:105:09
“軽さにこそ意味がある!マズルカの民族色を超えた息吹”
■音源について
2枚組のLPの全曲を収録。

★オラツィオ・フルゴーニ(1921-1997)はイタリア出身。ファシストの台頭を逃れてアメリカへ移住。ショパン・コンクール等の審査員を務めるなど、生涯を通じて教育活動にも取り組むましたが、録音は少なく、あとは米VOXに少し遺した程度。その演奏スタイルは、同じイタリア出身でも、「ポロネーズ集」で紹介したアプレアとは好対照です。
まず触れておきたいのが、「あっけらかんと明るく、まるで深刻味がない」(佐藤泰一著:「ショパン・ディスコロジー」より)という、この演奏に関する記述。これは佐藤氏の個人的な趣味に過ぎず、これを鵜呑みにして凡演と決めつけてはならないということ。確かに感覚的に軽いです。これは、ルバートを強調せず、2拍目、3拍目のアクセントも強く押し込まない(第23番で顕著)ことによるものですが、その軽さ自体に意味があり、それが、3部形式を基調とした作品のシンプルな様式を蘇らせることに繋がりるというフルゴーニの確固たるでヴィジョンであり、何よりも真の共感が全曲に首尾一貫していることは見過ごせません。第一、無機質な音などどこにも存在しません。
「第2番」の1:13から長調に転じた時の自然な華やぎ、1:40からの装飾音の色彩に、早速その「軽さ」の意味が感じられます。軽いタッチが土臭さよりもメルヘンを浮き上がらせるのが、「第5番」。「第7番」で、テーマを一筆書きのように一気に走らるのを「無造作」と捉えるのはいかにも表面的。全体像を見据えた上で優美な凝縮が確実に効いているのですから。「第10番」は、誰もが納得せざるを得ない無理のないニュアンス配置。こう弾かなければ曲が生きないでしょう。それでも物足りないというなら「第13番」!この演奏のどこがあっけらかんだと言うのでしょう!「第16番」最後のアルペジオの美しさ、「17番」のサラッとしたルバートの中に光るさりげない陰影も必聴。
「41番」も冒頭のタッチは軽やかですが、各音の後に確実に余韻が伴い、後半でのテーマの対話も濃密さを演出しない潔さが、音楽を結晶化。「47番」は、徹底的に拍節感を減じることで色彩が陽炎のように揺らめき、「深刻さ」とはことなる儚さが心に迫るのです。
過剰な鎧を脱ぎ捨て、人間の自然な息遣いと瑞々し息吹を投影した珠玉のマズルカ集。是非、好みや固定観念と切り離して、無心で味わっていただくこと願ってやみません。【湧々堂】

TRE-108
マックルーア版/ワルター厳選名演集Vol.1
ベートーヴェン:交響曲第1番Op.21
交響曲第3番「英雄」変ホ長調Op.55*
ブルーノ・ワルター(指)
コロンビアSO

録音:1959年1月5,6,8,.9日、1958年1月20,23,25日*(共にステレオ)
※音源:SONY 20AC1807、20AC1808*
◎収録時間:73:51
“ワルターの正直な感性と楽曲の魅力が完全調和!”
■音源について
言うまでもなく、レコードに刻まれている音はたとえ初期盤であっても、録音会場で鳴っていたのと全く同じ音ではありません。ワルターの録音に立ち会った若林駿介氏も「最初のものは多少高音域にクセが見られ、音がやや硬めであった。その後CD時代に入ってマックルーアの手によってトラックダウンされ(中略)、当時の録音の音に非常に近いサウンドへと改善された」とCDのライナーに記しています。ですから、当時のプロデューサー、マックルーア立会いの下で制作されたマスタリング盤CD(35DC)やレコード(20AC)が珍重されるのは理解でき、実際に聴いても、そのほとんどが一皮剥けたサウンドで蘇っています。
ただ、いくら現場のプロデューサーでも、20年前の記憶を辿って全く同じ音を再現することなど不可能なのですから、その権威性を盲信するのは禁物でしょう。また、理想の音の実現に向けて試行錯誤の連続だったステレオ初期にあって、ワルター晩年の一連の録音も、注意深く聴くと、トランペットが変に突出したり、コントラバスが明瞭化される(モーツァルトの一部等)など、元々意図的にバランスを修正して収録された形跡が見られること。一部に、音の鮮度が落ちているものがあること。演奏自体に出来不出来があること。これらを考え合わせると、結局は、「感動のエッセンスを過不足なく再現しているもの」を選ぶしかないと思うのです。ここではその観点から、マックルーア効果が功を奏していると思われる心底オススメの名演をご紹介します。

★宇野功芳氏の『ワルターの名盤駄盤』には、「これはワルターの本心から出た表現だろうか?」という記述がよく登場しますが、確かにワルターほど、作品の理想的な再現と自己の感性との間で葛藤し続けた指揮者も珍しいでしょう。そこをどう折り合いを付けるかが、名演か否かを分ける一つの鍵かもしれません。 それを踏まえた上で、ワルターのステレオによるベートーヴェン全集の中で迷わず名演と確信するのは、現時点では「1番」「3番」「6番」「8番」。 この中で、最も無理なく自己の素直な表現を作品に投影し尽くしているは「1番」だと思います。作品の持ち味と古典的な様式感、ワルターの慈愛が、均等に同居していることによる安定感は群を抜いています。まず際立つのは、気力の充実。リズムにもフレージングにも迷いがありません。付点リズムの短い音価を極端に短くして活気を持たせるクセについても宇野氏は指摘していますが、この第2楽章の付点リズムは実に自然体。第3楽章0:05のティンパニが丸裸で打ち鳴らされるのは録音効果によるものと思われますが、他では味わえない微笑ましさが滲みます。
一方で「英雄」は、ワルターのあまりの純粋な人間性に、作品の方が重装備を外してワルターに擦り寄ったような不思議な化学反応が起こっており、聴くたびに感動を新たにします。第1楽章開始すぐ(0:30〜)のような柔なかなレガートが随所に登場しますが、もちろんカラヤンのそれとは別次元。1:37の一瞬の溜めも、音楽を寸断することのない意味深さ。第2楽章は、意外なほどイン・テンポを守っていますが、情に溺れまいと無理をしている印象を与えずに、そこはかとない悲しみが滲む点にご注目を。第3楽章中間部のホルンの柔和なニュアンスは、宇野氏は「さすがにやり過ぎ」と評していますが、フレーズの最後には力感を加味して続く楽想に確実に連動させている点で、決して唐突なニュアンスではないと思うのです。威圧ではなく温かい包容力で満たすスタイルは終楽章でも不変。2:07からの響きの充実ぶりは、とかく響きが薄いとされるコロンビア響としても奇跡的と言えましょう。【湧々堂】

TRE-109
ギーゼキング〜シューマン:ピアノ曲集
シューマン:3つのロマンスOp.28
ピアノ・ソナタ第1番Op.11*
幻想曲ハ長調Op.17#
ワルター・ギーゼキング(P)

録音:1951年7月9日ザールブリュッケン、1942年ベルリン*、1947年10月フランクフルト#
※音源:米Discocorp RR-492、露Melodya M10-49335 *,#
◎収録時間:69:27
“ギーゼキングとシューマンとの相性を如実に示す名演集!”
■音源について
ギーゼキングが決して即物的で冷たい演奏する人ではないということを実証する意味でも、シューマンは特に重要な作曲家だと思いますが、録音は意外に少なく、EMIへのセッション録音は、協奏曲以外には「謝肉祭」「子供の情景」「アルバムの綴り」「予言の鳥」があるくらい。ここに収録したのは全て放送用音源で、明瞭な音質でギーゼキングのアグレッシブな演奏を堪能できます。

★ギーゼキングを情を欠いた即物主義者と捉える人たちは、「ロマンス」第2曲の、単に弱々しいだけではない慈愛に満ちた歌をどう捉えるのでしょう?常識や理論先行型のピアニストではないことも、この演奏の「大きさ」が示していると思います。
シューマンは、いわゆるソナタ形式の作品が不得意だとよく言われますが、その形式との葛藤がよ、自身の精神的な苦悩が、第1ソナタの第1楽章序奏からはっきり感じ取れるのも、ギーゼキングの表現意欲の賜物。主部以降の直感的な閃きの放射にも、突き放した冷たさなどあるでしょうか?そして、第2楽章の可憐さ。なんという表現の振れ幅!これこそシューマンを聴く醍醐味と言えましょう。
定石のソナタ形式から独自の進化を成し遂げた「幻想曲」第1楽章でも、ギーゼキングの表現の飛翔は無限大。聴き進むにつれ、開放的な第1主題が束の間の光としての存在感を放っていることに気付かされます。終楽章では、音の余韻の育みが尋常ではありません。タッチするたびに、和声の色合いを感じ、耳を澄ますような風情は、この楽章に不可欠でしょう。【湧々堂】

TRE-110(2CDR)
ウェラーQ/ハイドン:ロシア四重奏曲(全6曲)
弦楽四重奏曲第37番ロ短調Op.33-1
弦楽四重奏曲第38番変ホ長調Op.33-2「冗談」
弦楽四重奏曲第39番ハ長調Op.33-3「鳥」
弦楽四重奏曲第40番変ロ長調Op.33-4
弦楽四重奏曲第41番ト長調Op.33-5
弦楽四重奏曲第42番ニ長調Op.33-6
ウェラーQ【ワルター・ウェラー(Vn1)、アルフレート・シュタール(Vn2)、ヘルムート・ヴァイス(Va)、ルードヴィヒ・バインル(Vc)]

録音:1965年2月(ステレオ)
※音源:独ORBIS 92885
◎収録時間:108:36
“ローカルなウィーン趣味から脱皮したウェラーQの清新スタイル!”
■音源について
ウェラー弦楽四重奏団の約10年という短い活動期間中に遺した録音の中で、これは最大級の至宝。音像がキリッと引き締まったこのドイツ盤は、彼らの演奏スタイルとも合致していると思います。

★「万人向け」という言い方は避けたいのですが、この演奏ばかりは最高の賛辞を込めてそう呼ぶしかありません。 ハイドンの豊かな発想の生かし方、深い共感、生命力、甘美なウィーン流儀と洗練美の融合…、これらが絶妙に同居しており、自然なステレオ録音という条件を加えると、これ以上に多くの人を唸らせる演奏は思い当たりません。 ハイドンの作品33の6曲は、モーツァルトのみならず、後の弦楽四重奏曲のスタイルの原点となったセットですが、それほどの説得力と魅力を誇る作品群だということは、私はウェラーQを聴い初めて実感できました。
 「第37番」第1楽章の0:44から互いの声部が最高の甘味を湛えて擦り合い、共鳴し合う様はいかにもウィーン風ですが、古さは微塵もなし。同第3楽章のフレージングは、至純の極み!ウィーン・スタイルを貫こうとする意固地さはなく、ハイドンの佇まいを素のまま生かそうとする一念だけがニュアンスを形成。終楽章は、気迫が作品の容量を超えて空転する演奏との次元の違いを実感するばかりです。
 「第38番」第3楽章は、音符が少ない上に休符も頻出しますが、柔和な緊張を維持して、虚しい隙間風など入り込む余地なし。休符といえば、この曲のあだ名の由来ともなった終楽章のコーダ。そこへ作為を持ち込まずサラッとスルーするセンス!持ち前の音色美を過信しないひたむきな歌を聴くと、この団体がいかに稀有な四重奏団だったか思い知らされます。
 ハイドンの弦楽四重奏曲というと、「鳥」や「ひばり」などのあだ名付きの曲が入門曲として紹介されるのが常ですすが、ピンと来ないという方は、是非この「41番」を!ハイドンの音楽の多彩さが明確な構成のうちに凝縮されたこの名曲を、ウェラーQは更に花も実もある名品として蘇生。第1楽章は4人が呼吸を揃えるとい次元を超えて一つの楽器のように伸び伸びと息づき、見事な求心力を醸成。第2楽章はウェラーQが持つ洗練美の極致!自らは悲哀に耽溺せず、聴き手の想像力を刺激して止まない絶妙な距離感と、楽想の自然なうねり…。一音も聴き逃せません。【湧々堂】

TRE-111
ボンガルツ〜バッハ&ブルックナー
バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番*
ブルックナー:交響曲第6番イ長調
ハインツ・ボンガルツ(指)
ライプチヒ・ゲヴァントハウスO
ハンス・ピシュナー(Cem)*

録音:1960年代初頭、1964年12月(共にステレオ)、
※音源:羅ELECTRECORD STM-ECE-0672*、蘭PHILIPS 835388LY
◎収録時間:72:50
“「ブル6」の命、リズムの意味を体現し尽くした歴史的名演!!”
■音源について
ブルックナーは、Berlin Classicsから出ているCDでも壮大な演奏だということは判りますが、過剰なマスタリングによるキンキンした音がオケの燻し銀の音色を無残にも掻き消していました。このPHILIPS盤では、その本来の音色と血の通ったスケール感の魅力を心の底から実感していただけることと思います。

ブルックナーの音楽は、リズムの縦の線を揃えて明瞭に鳴らしただけではそのエッセンスは伝わりません。そこには常にブルックナー特有の拍節感が必要で、同時に和声の微妙な変化への敏感さも求められます。ブルックナーの交響曲の中でもリズムが重要な核となっている「第6番」をこの名演奏で聴くと、そのことを改めて再認識させられます。 第1楽章冒頭の付点リズムの、克明でありながら神秘性を宿した刻みからして 真の共感が凝縮されています。そこへ、野武士的な金管の咆哮が加わると、思わず「コレだ!」と叫びたくなるほど、まさにブルックナー以外の何物でもない質朴な響きに引き込まれます。コーダでも響きが華美に走らず、渾身の呼吸で飛翔。何度聴き返しても鳥肌が立ちます。 第2楽章第2主題(2:30〜)の、表面的な甘美さとは無縁の深遠さも聴きものですが、第3主題(5:41〜)の意味深さに至っては、今やどの指揮者に、どのオケに期待できましょうか? 終楽章は、凄まじい金管の咆哮が何度も登場しますが、金ピカの高層ビルを思わせるスマートさとは一線を画し、直感的に腹の底から湧き上がらせたスケール感に圧倒されるばかり。特に第3主題が高揚する頂点(5:30〜)の突き抜け方といったら言葉も出ません。7:48から弦のピチカートが醸し出す張り詰めたニュアンスも必聴。 これは、ボンガルツにとっても、ゲヴァントハウス管にとっても、そして「ブル6」の演奏史上でも傑出した名演と言えるでしょう。
バッハは、もちろん旧スタイルの大柄な演奏。拍節をしっかりと打ち込むスタイルはブルックナーと共通。自分たちの音楽という誇りがゆったりとしたテンポの中にも脈々と流れ、独特の緊張感を生んでおり、単に古風な演奏という以上の魅力を放っています。 【湧々堂】

TRE-112
フランシス・プランテ〜全録音集
ボッケリーニ(プランテ編):メヌエット
グルック(プランテ編):ガヴォット
ベルリオーズ(ルドン編):メフィストのセレナード
メンデルスゾーン:スケルツォ.ホ長調 Op.16-2
 無言歌集〜Op.19-3「狩の歌」/Op.67-4「紡ぎ歌」/Op.67-6「セレナード」/Op.62-6「春の歌」
シューマン(ドビュッシー編):子供のための12の4手用曲集Op.85〜第9曲「噴水にて」
シューマン:4つの小品〜ロマンスOp.32-2
 3つのロマンス〜第2曲Op.28-2
ショパン:練習曲Op.10-4/Op.10-5「黒鍵」
 Op.10-7/Op.25-1/Op.25-2
 Op.25-9「蝶々」/Op.25-11「木枯らし」
フランシス・プランテ(P)

録音:1928年7月3-4日フランス、ランド県モン=ド=マルサン
※音源:Private ZRC-1003
◎収録時間:44:03
“明瞭な電気録音で遺された老巨匠の奇跡的な妙技!”
■音源について
フランシス・プランテ(1839-1934)の正規録音は、仏コロンビアに遺したSP9枚分のみ。元々プランテはレコード録音を嫌っていましたが、依頼された演奏会に出演できなくなったため、録音の報酬を寄付するという条件を受け入れ実現したもので、ここではその全録音曲収録。PearlからもLP復刻されていますが、音の生々しさはこのZRC盤の方が上回ります。短時間収録につき、特別価格。

★リスト、ブラームス等と同時代を生きたフランスの名手、プランテの妙技をが極めて明瞭な録音で味わえるのは嬉しい限りです。古い録音をあえてご紹介するのは、もちろんただのノスタルジーではなく、プランテが誇る語り口の豊かさと、“Floting tone”として一世を風靡した独自の音色美が、時代を超えて精彩を放つと確信するからです。弱音のフレージングでも音楽のエネルギーが減退せず、大きな包容力と生命力を絶やさないスタミナも尋常ではありません。録音当時プランテは89歳で、ミスタッチは皆無ではないものの、そこに息づく精神には老化の影など微塵もなし。
特にメンデルスゾーンの作品には、その瑞々しさが横溢。しかもスケールの大きいこと!ショパンの「黒鍵」は、この曲の史上最もニュアンスの質量が豊穣な名演の一つ。徹底して主旋律を基調とした声部バランスを維持しながら、遅めのテンポで拍を克明に打鍵し、眩いほどの色彩を放射します。Op.25-1「エオリアン・ハープ」のアルペジョは可憐さとは程遠い濃厚さで、まるで大聖堂のステンドグラスを仰ぎ見るよう。エラール・ピアノの音色の魅力も全開です。Op.10-7の最後の和音は物凄い音で締めくくりますが、その後に「Bien!(いいぞ)」というプランテ本人の声が聞かれます。ちなみに、ヴラディーミル・ド・パハマンは、演奏中に喋り出す奇癖で有名ですが、それはプランテ(パハマンより9歳年長)からヒントを得たと、パハマン自身が認めています。【湧々堂】

TRE-113
ベーム〜R・シュトラウス&ブラームス
R・シュトラウス:交響詩「死と変容」*
ブラームス:交響曲第1番ハ短調Op.68
カール・ベーム(指)ベルリンRSO

録音:1950年3月25日*、1950年4月13日ライヴ
※音源:日RVC RCL-3316*、伊Foyer FO-1033
◎収録時間:69:09
“ベームの芸術のピークを示す2つの名演!”
■音源について
2曲とも80年代に日本ではLPで発売されました。但しブラームスは、音の鮮明度が明らかに高いイタリア盤をあえて採用しました。

★共にベームのお得意の作品で、後年に何種類もの録音が存在しますが、50代半ばにして既に厳格な造形力と熱い芯を湛えた演奏スタイルは既に完成していたことが判ります。1950年代にウィーン・フィルと遺したデッカ録音でも感じられることですが、ストイックに音楽を突き詰めつる姿勢と、確信的な表現意欲がギュッと凝縮されていた1950年代前半(ステレオ期以前)は、ベームの一つの頂点だったと思えてなりません。
「死と変容」は、冒頭から安易なムードなど皆無。木管の制御が恐ろしいほど強固で、その緊張から、束の間のフルートの明るい旋律に移行する瞬間の美しさは格別。ティンパニの一撃が現れるまでのこのラルゴ部分だけでも、只ならぬ名演であることを実感いただけるはずです。青春を回想するシーンは少しも媚びずに、迫真の呼吸によって瑞々しい情感を表出。16:30のヴィオラの2音が、これほど意味深く響いた例も稀。浄化し尽くしたコーダの高潔な響きに至っては、涙を禁じえません。どこからどう聴いても大名演です!
ブラームスでは、さらにストイックな音楽作りを貫徹。これほど外面的効果を排した演奏も珍しいでしょう。白眉は第2楽章!繊細に歌った演奏は多く存在しますが、それに相応しい細やかなニュアンスと起伏を兼ね備えた演奏は以外に少ない気がしますが、ここでは第1音が滑り出した瞬間から目の詰んだニュアンスの注入ぶりに惹き込まれ、しかもチマチマした表情に陥らず音楽の大きさを確保しているのです。ベームの厳しさ、恐さが、オケを萎縮させるギリギリのところでプラスに結実したときの凄さを思い知らされます。【湧々堂】

TRE-114
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.1
前奏曲集第1巻/前奏曲集第2巻*
ノエル・リー(P)

録音:1959年、1962年*(共にステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-671VL、OS-672VL*(全てValois原盤)
◎収録時間:73:18
“楽器の魅力と奏者の感性が完全融合した、ドビュッシー録音の金字塔!”
■音源について
素晴らしさはもちろんのこと、ステレオでの世界初のドビュッシーのピアノ曲全集企画であること、デンマークのホルヌンク&メラー製のピアノを使用している点で、まさに記念碑的録音です。なんと、リーは同じValoisレーベルに70年代にも同じ楽器を使ってドビュッシーのピアノソロ作品集を再録音(曲の内訳は少し異なる)していますが、演奏内容の素晴らしさは、この第1回録音が優ります。使用したのは、ほぼ未通針の白盤。

ノエル・リー(1924-2013)は、中国・南京生まれのアメリカ人ピアニスト。パリ音楽院ではブーランジェの薫陶を受けています。ドビュッシーはクリスタルのような硬質のタッチでクールに奏でなければならないという先入観は、この演奏で完全に払拭されるでしょう。まず心を捉えるのは、ホルヌンク&メラー特有の音色。決して時代掛った響きではない、人肌の温もりを持つ音色が何とも魅力的で、第1巻第5曲「アナカプリの丘」のコーダで明らかなように、決して高音域でもキンキンしません。その楽器の特質と余韻を十分に感じたノエル・リーのフレージングに対する鋭敏な感性が作品と一体化し、イマジネーション豊かな演奏を展開します。第1巻第6曲「雪の上の足跡」など、表面的な弱音とは次元が異なり、優しい風合いを心からの共感を持って統制した呼吸の妙味は比類なし!「沈める寺」は、中盤と後半の盛り上がりでも決して鍵盤を叩きつけず、これほど和声の色彩の拡散を醸成する演奏も稀有でしょう。
第2巻第6曲「ラヴィーヌ将軍」では、ドビュッシーのリズムの真髄を余すことなく体現。表情に明確なコントラストを付けようと奮闘しなくても、音楽がこれほど生き生きと弾むのです。第7曲「月の光が降り注ぐテラス 」も、信じがたい完成度!冒頭の下降音型の一音一音にニュアンスを充満させつつ、ふわっと力を減衰させる様は、ドビュッシーのピアノ曲への共鳴度が尋常でないことの証し。終曲「花火」では、遂にこの楽器の性能を極限まで使い切ります!冒頭、上声部のオークターブ打鍵を意外なほど無節操に叩いた上に、土砂崩れのように急降下する例が多い中、常にハーモニーの淡い色彩の根幹を維持しながら、流動的なダイナミズムをがっちり獲得!これほど全ての要素を制御し尽し、凝縮しきった演奏はめったにありません。曲が凄すぎるので技巧的に完璧なだけでもそれなりの手応えは得られますが、それだけでは追いつかない要素がいかに多いか、リー以上に思い知らされる演奏を他に知りません。【湧々堂】

TRE-115
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.2
ピアノのために/子供の領分*
12の練習曲集*
ノエル・リー(P)

録音:1958年頃、1962年#(全てステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-674VL、OS-675VL*、OS-673VL#* (全てValois原盤)
◎収録時間:75:01
★ノエル・リーのピアニズムの最大の魅力は、テンポの緩急に関わらず、音の各粒に宿るニュアンスを瞬時に感じきる力だと思います。例えば、「ピアノのために」第3曲。過度にいきり立つことなく速い走句を流しつつ、一音一音が着実にニュアンスを発していることに驚くばかりです。「子供の領分」第3曲“象の子守歌”は、子供が聴いて納得するような漫画チック描写では決して滲み出ることのない和声の陰影に息を呑むばかり。“ゴリーウォーグのケークウォーク”は、「ベルガマスク組曲」の“パスピエ”同様、リズムを「ノリ」で誤魔化さず、感じながらフレーズを息づかせるセンスが尋常ではありません。
「練習曲」は、文字通りの指の訓練という意義を遥かに超えた、純音楽的なニュアンスが心を掴んで離しません。チェルニーへの皮肉とされる第1曲は、楽器の特性を生かした艶やかの響きに、皮肉よりも敬意を表しているとさえ感じられます。東洋的な第4曲では、その音色の余韻の魅力が横溢。絶妙なペダリングで余韻を醸した上に次の音をのせる際のハーモニーのコクと味わいは、他の演奏では見出しにくいもの。速いパッセージが連続する第6曲では、途中に挟まれるグリッサンドもさりげなく通過しながら冷たさは皆無。全体を一呼吸でしなやかに走らせて、その残り香で全てを語らせるような風情が魅力。「ゴリーウォーグ…」を思わせる滑稽さが光る第9曲でも、リーは殊更に表情を際立たせず淡々と進行しますが、なんと豊かな閃き!白眉は第11曲!着地が見えないフレーズと和声が満載のこの曲を絶妙な呼吸の振幅とタッチの制御によって、幻想的な色彩が更に倍増!作品に深く心酔し、信じ切きる力を持つピアニストだけが表出可能な音のパノラマをご堪能下さい。【湧々堂】
TRE-114-115(2CDR)
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.1&2
上記2点のセット化
ノエル・リー(P)

TRE-116
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.3
喜びの島
ベルガマスク組曲*/版画#
映像第1巻#/映像第2巻#
ノエル・リー(P)

録音:1958年頃、1959年*(全てステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-672VL、OS-675VL*、OS-674VL#(全てValois原盤)
◎収録時間:62:55
★まず強調したいのは、「ベルガマスク組曲」の、とてつもない素晴らしさ!ドビュッシーの演奏に関しては、繊細なハーモニーばかりが注目されがちですが 、リーの演奏を聴くと、リズムも不可欠な要素であることを思い知らされます。 表面的にはさらさらと流れているようでいて、タッチの粒を十分に吟味しながら曲自体に語らせる第1曲からして、リズムが根底でニュアンスの根幹を成していることは明白。第2曲は更にそれを痛感し、決してブンチャカチャッチャと野暮ったく刻まず、速めのテンポで過ぎ去りながら、サラッと艶やかな色彩を導きます。2:54あたりからの空気感は、ホルヌンク&メラーの音色美とも相俟って鳥肌ものです! そして極めつけは、終曲「パスピエ」!この曲を速いテンポで弾くと、痛快な疾走感しか伝わらない場合がほとんどですが、この演奏は違います。全体を大きな呼吸で包括するセンスと、一音ごとの色彩の感じ方、リズムの感じ方が尋常ではない証拠です。
「喜びの島」は、冒頭のトリルがこれほど物を言っている演奏も稀有。鋭敏な感覚を駆使しながら、出てくる音の感触が決して冷たくならないのは、楽器の特性だけでなく、フレーズを有機的に醸し出す術が体に染み付いているからでしょう。曲の最後のタッチの打ち込み方は、アクロバット的な派手さとはなんという次元の違いでしょう!
「版画」第2曲“グラナダの夕べ”の漆黒の潤い!「映像第1集」の“水の反映”では、水の波紋までリアルに現出されますが、単なる描写音楽に堕さず、詩的なニュアンスと憧憬が心を掴んで離しません。

TRE-117
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.4
アラベスク第1番&第2番
舞曲(スティリー風タランテラ)
スケッチ帳より/仮面#
白と黒で*/リンダラハ*
6つの古代の墓碑銘*/小組曲*
ノエル・リー(P)
ジャン=シャルル・リシャール(P)*

録音:1959年、1962年*(全てステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-675VL、OS-676VL*、OS-671VL# (全てValois原盤)
◎収録時間:64:17
★ノエル・リーは、1970年にもウェルナー・ハースと4手作品集を録音(PHILIPS)しており、よく知られていますが、大きな魅力を誇るのは、断然こちらのステレオ初期の録音。
「小組曲」第1曲冒頭で、甘い囁きと共に潤いと温かみのある音色が一瞬で心を捉えるのは、単に楽器の特性だけでなく、リシャールとの一体感が大きく功を奏しているように思われます。ハースとの共演では、音の粒は見事に揃い、繊細な音色の志向性も共通しながらも、これほどのニュアンスの広がりは感じられませんでした。特にリズミカルな終曲では、テンポこそほぼ同じですが、そのリズム自体にもニュアンスが溢れ、語りかけの豊かさに大きな開きがあります。
「白と黒で」第2曲後半では、ホルヌンク&メラーがユニゾンで鳴らされる際に木目調の風合いが更に倍増することを実感。ドビュッシーの4手作品の数ある録音の中でも、突出した名演です。【湧々堂】
TRE-116-117(2CDR)
ノエル・リー/ドビュッシー:ピアノ曲全集Vol.3&4
上記2点のセット化
ノエル・リー(P)
ジャン=シャルル・リシャール(P)(4手作品)

TRE-118r
フー・ツォン〜モーツァルト:ピアノ協奏曲集
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番(カデンツァ=フンメル作)
ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
フー・ツォン(P)
ヴィクトル・デザルツェンス(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1962年頃(ステレオ)
※音源:日KING SH-5098
◎収録時間:62:22
“無類の絶美タッチから溢れ出す無限のニュアンスに絶句!”
■音源について
米ウェストミンスター原盤。ここでは、プレスの優秀さを誇る国内初期盤を使用。なお、「25番」第1楽章で、第1ヴァイオリンが右チャンネルから聞こえる箇所がありますが、これはステレオ初期にありがちな現象で、他の楽器の位置にズレがないことから、左右チャンネルを逆転するわけにはいききません。ご了承下さい。

★フー・ツォンにとって、モーツァルトはショパンと並んで特別な作曲家で、比類なき魅力で満ち溢れていることを痛感するばかり。カーゾンを思わせる強弱の振幅を抑えた繊細なタッチに真心を込め尽くしたそのニュアンスは、聴き手の心を捉えて離しません。
 「25番」第1音のなんという可憐な呟き!何気ないアルペジョにも微笑みと憂いが入り混じったような表情が浮かびます。第2楽章では、タッチの寸前で一瞬ためらうような仕草が、独特の求心力を醸し、2:36からの下降音型はまさに珠を転がすようなタッチはや、2:53からのフレジーングの美しさは絶品。モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも特に構造的なこの作品において、これほど夢想的な表情を湛えた演奏も稀でしょう。
 「第27番」は、フー・ツォンの内省的なニュアンスが作品の持ち味と一体化し、更に感動的。次々と展開される浄化しきった天国的な空間に身を委ねる幸せを噛みしめるばかりです。繊細さを装っても音量の小ささしか印象に残らない演奏も少なくない中、第1楽章展開部に象徴されるように、繊細さの中にも無限とも思える発想力が散りばめられているからこそ、これほど広さ、豊かさを感じさせる空間が築けるのだと思います。終楽章に至っては、綺麗事ではない美しさの究極形!これを言葉で説明しきれる人など、この世にいるとは思えません。
デザルツェンスの指揮が、また見事。堅実なだけではない確固たる共感をもって、フー・ツォンの別次元の名演に華を添えています。【湧々堂】

TRE-119
ハリス中佐&グレナディア・ガーズ軍楽隊
ホルスト
:吹奏楽のための組曲第1番
フレデリック・ロセ:組曲「ヴェニスの商人」〜間奏曲/ヴェニスの総監の行進曲
ジョン・アンセル:3つのアイルランドの絵
アーサー・ウッド:3つの高地の舞曲
スーザ:行進曲集*
 星条旗よ永遠なれ/無敵の荒鷲
 士官候補生/ピカドーレ/忠誠
 エル・キャピタン/マンハッタン・ビーチ
 キング・コットン/ワシントン・ポスト
 自由の鐘
フレデリック・J.ハリス中佐(指)
グレナディア・ガーズ軍楽隊

録音:1956年11月、1958年4月(共にステレオ)
※音源:米LONDON OS-103、日KING SLC-8*
◎収録時間:62:26
“近衛兵軍楽隊、黄金期のステレオ・サウンド!”
■音源について
LP2枚分の全てを収録。人気曲のホルストは、この曲のステレオ初録音。スーザは、米ロンドン・レーベルからのリクエストに応えての録音。ややマイクに近い、いかにもステレオ最初期の音は、オーケストラの場合は雰囲気を損なうこともありますが、こういう軍楽隊の演奏では、ある種の雑味を伴う手作りな味がかえってダイレクトに伝わり、プラスになっていると思います。

★バッキンガム宮殿の衛兵交代時の演奏を担うグレナディア・ガーズ・バンド(1685年創設)による、ステレオ初期録音集。フレデリック・J・ハリスは1942-1960年に音楽監督として在任。後任の中佐による録音も同レーベルから出ていますが、ここではハリス中佐時代の音楽をご堪能いただきます。ホールでの演奏活動が中心の団体とは異なり、一切飾らず、普段の実地演奏のスタイルそのまま、折り目正しく、しかも人間臭い雰囲気が全曲に一貫しています。前半のお国ものは、もちろん筋金入り。有名なホルストでは、軽妙なのに浮足立たず、重心を低く保ちつつも鈍重に陥らない、まさに英国流のリズムのセンスなくしては音楽が生きてこないことを改めて思い知らせれます。
一方のスーザでも、演奏のスタンス全く同じ。休符でやたらと大太鼓を打ち込むような軽薄さなど見せず、正直で純朴なスタイルが、音楽自体の素晴らしさを十二分に生かしています。コルネットやユーフォニアムを主体としたメロウな感触は、特に印象的。「士官候補生」中間部のなんという温かさ!「忠誠」は、中間部冒頭で音量を弱めず、そのまま直進する潔さ!【湧々堂】

TRE-121
レギーナ・スメンジャンカ/ショパン:ワルツ集.他
ショパン:3つのエコセーズOp.72*
タランテラOp.43*
ワルツ第1番〜14番
ワルツ第19番イ短調(遺作)*
ワルツ第18番変ホ長調(遺作)*
子守歌Op.57*
レギーナ・スメンジャンカ(P)

録音:1959-1960年(ステレオ)
※音源:MUZA SX-0068、 SX-0069*
◎収録時間:64:02
“解釈の痕跡を感じさせず、ショパンの心情を余すことなく代弁!”
■音源について
ショパンの生誕150年(1960年)を記念して、ポーランドMUZAが制作したショパン全集の中から、スメンジャンカのソロ作品を収録。

★レギーナ・スメンジャンカ(1924-2011)は、ショパン音楽アカデミーの教授を1996年まで務めたポーランドを代表するピアニストで、多くの門弟を世に送り出しています。そのショパン演奏は、深い見識と共感に裏打ちされていることは言うまでもありませんが、決して権威のひけらかしに走らず、作品の骨格を丁寧に炙り出しながら、気品のあるニュアンスを表出する点が最大の魅力ではないでしょうか。ワルツ第1番の冒頭の2分音符は長く伸ばし、4拍子のように聞こえるほどですが、体の芯から溢れる歌と同時に導かれるので、不自然どころか、譜面通りに弾けばショパンの意図に忠実と勘違いしているピアニストからは得られない、広がりのあるニュアンンスに心打たれます。ワルツ第3番、第7番も、ショパンにおけるルバートの最高の実現例。呼吸は弛緩せず、しなやかなレガートが導かれ、孤独の表情を強調することよりも、書かれている音符をあるべきタイミングで紡ぎ出すことが大切であることを改めて思い知らされます。「小犬」も、一音ごとのニュアンス吟味のなんと深いこと!これよりテンポが速いとそれはままならず、遅すぎては音楽が死んでしまうでしょう。遺作のイ短調のワルツは、同じテーマを繰り返しながら進行するだけの作品ですが、その中に盛り込む強弱変化が絶妙の極み。【湧々堂】

TRE-122
レギーナ・スメンジャンカ/ピアノ協奏曲集
バッハ:ピアノ協奏曲イ長調BWV.1055
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番
ショパン:ピアノ協奏曲第2番*
レギーナ・スメンジャンカ(P)
スタニスラフ・ヴィスロッキ(指)
ヴィトルド・ロヴィツキ(指)*
ワルシャワ国立PO

録音:1960年頃、1959年*(全てステレオ)
※音源:独CNR FA-402、独TELEFUNKEN NT-459*
◎収録時間:77:28
“タッチの変化の背後にドラマを添える独自のセンス!”
■音源について
全て、ポーランドMUZA音源。ショパンの第2協奏曲は、ショパン生誕150年(1960年)を記念して制作されたショパン全集の中の音源。ちなみに、第1協奏曲は、チェルニー=ステファニスカが受け持っていました。全3曲とも、ここではプレス良好な独盤を使用。

★レギーナ・スメンジャンカ(1924-2011)は、ショパン音楽アカデミーの教授を務め、多くの門下生を世に送り出したポーランドを代表するピアニストで、まさにショパン演奏の権威者。これらの録音は、まだ教育活動に本格的に乗り出す前のものですが、師のズビグニェフ・ジェヴィエツキをはじめ、ポーランド独自のアカデミズムによって彼女の音楽性が育まれたのは明らか。にもかかわらず、変に凝り固また演奏に陥らず、アカデミズムによって培われたであろう作品の構成を見通す能力を土台としつつ、生来の楽想を感じるセンスが同時に生きているのは、音楽ファンとして嬉しい限りです。
まずは、国の威信を掛けたショパン全集の中の重要な1曲、ピアノ協奏曲第2番。最初に飛び込むのが、苦悩に喘ぐようなロヴィツキの指揮。それに対し、スメンジャンカは、情緒過多を避けた、音楽の骨格の大切にした音楽作りを貫徹。そのニュアンスは後付ではなく、あくまでもタッチのコントロールによって生み出しており、それが実に心に染み入るのです。第2楽章のトリルは、まさに心の震えの投影。息の長いレガートの美しさの中に毅然とコントラストを盛り込むセンスにも思わず唸らされます。
そういったスメンジャンカのセンスは、ショパンに限ったことではありません。バッハは、この曲のピアノによる演奏として決して無視できない名演。作品の構造美を感じ取りながら、一定の緊張感を持って引き締まった音像を築く手腕!もちろん、スタイルの古さなど微塵も感じさせません。
更に感動的なのが、モーツァルト!これを聴いて、スメンジャンカの才能を遂に確信する方も多いことでしょう。イン・テンポと明確なタッチを基調に進行しますが、各タッチの背後に確固としたドラマが注入されており、ニュアンスの多様さも、むしろショパン以上。特に第1楽章展開部の内面からの高揚、第2楽章の自然発生的なニュアンスの微妙な変化は、モーツァルトの真の理解者だけに可能な技と言えましょう。【湧々堂】

TRE-124
A・コリンズ〜ファリャ、チャイコフスキー他
ファリャ:「恋は魔術師」〜序奏-恐怖の踊り/漁夫の物語/火祭りの踊り/パントマイム-終曲
シベリウス:弦楽のためのロマンスOp.42*
 「カレリア」組曲Op.11*
チャイコフスキー:イタリア奇想曲#
 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」#
アンソニー・コリンズ(指)
LPO、ロイヤルPO*、LSO#

録音:1950年2月4日、1957年*、1956年1月17-18日#(全てモノラル)
※音源:DECCA ACL-124、HMV ALP-1578*、DECCA LXT-5186#
◎収録時間:75:53
“シベリウスだけではない、コリンズの妥協なきダイナミズム!”
■音源について
アンソニー・コリンズは1950年代末に指揮活動を引退してしまったので、ステレオ録音はほぼ皆無(モーツァルトの交響曲のみ?)。ただ、デッカのシベリウスの交響曲全集と同様、ここでの収録曲も幸いにもクオリティの高い録音ばかりで、モノラルであることの不満を感じさせません。

★アンソニー・コリンズ(1893−1963)は、イギリスの指揮者。録音はシベリウスの交響曲全集(デッカ)が突出して有名ですが、他の録音がほとんど顧みられないのは、残念至極。ここでの収録曲も、他にいくらでも良い演奏があるから、という理由で排除できる演奏など一つもありません!
まずは、お得意のシベリウス。管弦楽曲の一部をHMVに録音していることさえ知られていないのではないでしょうか?「ロマンス」では、穏健な抒情性以上の大きな起伏を伴う感情表現が胸を打ちます。「カレリア」も、この録音を名盤として挙げる人がどうしていないのかが疑問。第1曲の1:21からの主部の進行で、トランペットの主題と弦のアルペジョが精妙にバランスを確保しながら、エネルギーを豊かに増幅させた例を他に知りません。第2曲は清潔なアーティキュレーションをベースにして、音の端々から尋常ではない共感が溢れ、各声部間の緊密な連携による色彩の妙も聴きもの。特に、3:05からの陰影の敏感な捉え方は忘れられません。
「イタリア奇想曲」は、デッカのシベリウスしか知らなかった私に「コリンズ恐るべし!」と思わせた一曲。鉄壁な名演として知られるジョージ・セル盤と堂々比肩する超名演です。まず、最初のファンファーレの16分音符刻み方。短めの音価で切り上げるその音楽的な響きにイチコロ。イタリア民謡引用部は、冒頭の低弦の刻みから意欲的で、その後のフレージングは、小節ごとにニュアンスの変化を実感できるほどの多彩さ。そして、タランテラでのタンバリンの真剣さ!録音の良さも手伝って、11:55以降は鳥肌必至!
「フランチェスカ」は、「ロメ・ジュリ」以上に指揮者の本気度が露呈する作品だと思いますが、この激烈なドラマに完全に身を投じていることはもちろんのこと、最後まで緊張を維持する統制力と構成力が並外れています。こちらも、間違いなくモノラルの最高峰の名演。【湧々堂】

TRE-125
マックルーア版/ワルター厳選名演集Vol.2
モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲*
 歌劇「劇場支配人」*
 歌劇「フィガロの結婚」序曲*
マーラー:交響曲第1番「巨人」
ブルーノ・ワルター(指)
コロンビアSO

録音:1961年3月*、1961年1月&2月(全てステレオ)
※音源:日SONY 20AC-1805*、20AC-1830
◎収録時間:68:59
“ワルターの全人生を注いだ「巨人」の不滅の価値!”
■音源について
TRE-108に記したように、いわゆるマックルーア盤の全てが大成功だとは思えないのですが、ここに収録した曲は、大納得です。特に「巨人」は長時間収録なので厳しいと思いましたが、ヒズミも極小で、アナログ的な温かみも保持していることにびっくり。一方、CDのマックルーア盤は全体にメタリックな音が気になり、第3楽章冒頭のティンパニの弱音は、スイッチをオン・オフしているかのようなデジタル音に変貌していましたが、ここでは奏者が余韻を感じながら優しく打ち込んでいる様子が目に浮かぶようです。

モーツァルトの序曲は、特に「劇場支配人」が大名演!ワルター晩年の録音の中には年齢を感じさせない高速テンポを採用しているものがありますが、どこかに無理を感じることも。その点この曲での向こう見ずな推進力は、他のテンポなど想定できないほどの説得力と真の生命感が横溢。低弦のクローズアップも、音楽的ニュアンスの表出に有効に作用。第2主題の楽器間の連動もなんと楽しいことでしょう!
「巨人」の素晴らしさは、もう言うまでもないでしょう。バーンスタインがこの録音を聴いて恐れをなし、全集録音を一時中断したほどの歴史的名演奏であり、全てが指揮者の体内から零れ出たニュアンスだけで語り尽くされた、奇蹟のドキュメントとも言えましょう。
第1楽章の提示部はノスタルジーに溢れ、リズムが機械的に縦割りで刻まれることなど皆無。展開部8:08以降の弦のトレモロは、これ以上に清らかな演奏を他に知りません。第2楽章は、昨今の筋肉質な演奏スタイルとは対極の、レントラーの風合いを生かした憧れの風情がたまりません。それでも、中間部は以外にもイン・テンポを貫いており、造型を弛緩させない配慮も忘れません。最後のテーマ再現時にティンパニを追加するのは、クレツキ盤などと同じ。終楽章は、まさにワルター芸術の集大成。冒頭部、絶妙ななテンポルバートとルフトパウゼを交えた、単なる絶叫の先の境地を反映した響きは、何度聴いても鳥肌が立ちます。第2主題に至っては超白眉!これほど音の末端まで感じきり、全人生を投影した歌が他で聴けましょうか?そして、力技ではなく、愛が全てに勝つことを証明した感動のコーダ!
カッコいい戦隊ヒーローのような「巨人」は他にいくらでもあります。この演奏にしかない手作りの味と、こんな有名名盤をあえて復刻しなければならない意図を少しでもお感じいただければ幸いです。【湧々堂】

TRE-126
デニス・マシューズ〜モーツァルト
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番K.310*
ピアノ協奏曲第24番(カデンツァ=マシューズ作)
ピアノ協奏曲第20番(カデンツァ=ベートーヴェン作)
デニス・マシューズ(指)
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1959年頃*、1958年(全てステレオ)
※音源:米VANGUARD SRV-196SD*、SRV-142SD
◎収録時間:74:42
“天国のモーツァルトに聴かせることだけを考えた唯一無二の感動作!”
■音源について
デニス・マシューズ (1919〜88)は、デニス・ブレインの共演者としても知られるイギリスのピアニストですが、ソロ録音は少なく、英コロンビアと米ヴァンガードに少し遺している程度。中でもステレオ録音はごくわずか。

★「モーツァルト弾き」ピアニストとして、リリー・クラウスやヘブラー、シフ等と共に位置づけたいのが、このデニス・マシューズ。その演奏は、クラウスのような人間味を全面に押し出すスタイルとは対照的で、淡々と進行するだけで、聴き手に積極的に語り掛けて来ません。しかし、冷たく突き放したものでもなく、模範解答的でもない、不思議な閃きが確実に宿っているのです。「モーツァルト自身が弾いているかのような」という例えもちょっと違う。ではその根底に何があるのか、どこに向かって音楽を発信しているのか…、長年分からなかった答えが、ソナタ第8番を聴いた瞬間に頭をよぎりました。聴衆のためでも自分の為でもない、ただただ天国のモーツァルトに向けて奏でていると考えれば全て納得できるのです。
第1楽章では、これ以上細工を排しては音楽にならないという寸前での、無垢な音楽との向き合い方!第2楽章は、更にその純度を極め、和声の陰影感が自然発生的に滲み出ます。終楽章も、マシューズの視線は、聴き手をよそに遠くを見つめているかのよう。
「モーツァルトのためだけに奏でるモーツァルト」という印象は、協奏曲ではさらに強固なものとなります。堅実なスワロフスキーの指揮と見事な調和を保っているのですが、互いに視線を送り合いながら協調して作り上げるというよりも、マシューズの意識は更に上を行っており、周りが存在していないかのよに孤高の光を放ち続け、現出する音楽には、例えようもない美しさが立ち昇っているのです。いわゆる「内省的な表現」とも違う、もちろん言葉だけの「作曲家への忠誠」とも次元の違う、もはや別格のモーツァルトと呼ぶしかありません。「第24番」第2楽章、2:24以降の現実離れした美しさは、カーゾンをも凌ぐかも…。【湧々堂】

TRE-127
アンセルメ〜1960年代の厳選名演集1〜プロコフィエフ他
グリンカ:幻想曲「カマリンスカヤ」
ボロディン:中央アジアの草原にて
プロコフィエフ:古典交響曲
 交響曲第5番*
エルネスト・アンセルメ(指)
スイス・ロマンドO

録音:1961年2月、1964年4月*(全てステレオ)
※音源:米LONDON CS-6223、CS-6406*
◎収録時間:70:11
“クールなのに作品を突き放さない、アンセルメの絶妙な対峙力!”
■音源について
アンセルメの録音はいつでも聴けると高を括っていましたが、まとめてCDボックス化されたのを機に集中的に聴いたら愕然。予想以上の音の薄さに、板起こし復刻の緊急性を痛感しました。一方で、認識を新たにしたことも。その一つが、デッカの音作りの変遷。デッカのステレオ録音は1960年代に入ると解像度と臨場感を増し、特にその初頭から中頃までの録音では、打楽器の隈取りと衝撃音が生々しく再現されており、それが恣意性を感じさせず、音楽と渾然一体化している点で、この時期の録音が一つのピークだと実感しました。ここでは、その特質と演奏内容の魅力を兼ねさ備えたものを厳選しました。やはり、英プレスのSXL、CSを超える音には出会えませんでした。

★アンセルメはの音楽作りは、一般的に「知的でクール」と捉えられていますが、これは、数学者でもあることと結びついた単なるイメージではなく、一部の例外を除いてほとんどの作品において、この泥臭さとは無縁の精緻なスタイルは貫かれています。
最初の2曲でも、血の気を感じさせない透明な色彩がいかにもクール。しかしそこには、確固たる共感が十全に張り巡らされているのが分かります。「カマリンスカヤ」の主部でのリズムは、熱気が迸るというより、作品の質感を損ねぬように組み立てた構造物のようですが、作品を真に理解し、共鳴しているからこそ、澄ましているようでいて無機質に陥らないのでしょう。
プロコフィエフの「古典」ではハイドン風の愉悦性を、「第5番」では攻撃性をイメージしがちですが、アンセルメのアプローチは、やはり2曲とも構造性重視。その結果、「古典」は、先人のスタイルの踏襲などではない一大交響曲としての存在感を放ち、「第5番」は、一切のバーバリズムを排した響きから、独特のアイロニーが引き出されています。特に、ニュアンスに後付け感の全くない第3楽章は、作品に内在する悲哀がかえって露骨に立ち昇り、心を抉ります。終楽章の、録音の鮮烈さとも相俟ったダイナミズムも、比類なし。熱狂型の演奏では気づかないプロコフィエフの筆致の巧妙さが炙り出されます。
「カマリンスカヤ」の3:08、「古典交響曲」第1楽章0:15のトゥッティ、「第5番」終楽章コーダ等での打楽器の響きが、単に鮮明なだけではなく、打ち込み後に風圧までさせるのは、この時期のデッカ録音の大きな特徴。既出のCDでは感じにくいこの魅力にも、ぜひご注目を。【湧々堂】

TRE-129
リンパニー〜モーツァルト:ピアノ協奏曲集
モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番(カデンツァ=第1楽章:モーツァルト第2作、第2,3楽章:モーツァルト第1作)
 ピアノ協奏曲第21番(カデンツァ=第1楽章:ウィンディング作、第3楽章:クレンゲル作)*
ブラームス:間奏曲Op.117-2**
 パガニーニの主題による変奏曲第2巻Op.35-2#
ショパン:幻想即興曲Op.66##
モーラ・リンパニー(P)
ハーバート・メンゲス(指)
フィルハーモニアO

録音:1954年4月28日、1953年2月17日*、1952年11月3日**、1947年12月19日#、1949年4月26日##
※音源:日Angel HC-1006(モーツァルト)、英Cambridge Records DIMP-2
◎収録時間:73:33
“英国風の端正さの中に光るリンパニー独自の華やぎ!”
■音源について
モーツァルトの協奏曲は、録音データでも明らかなように、ほとんど一発録りされたものと思われ、楽章間にも会場ノイズのようなものが微かに聞こえます。そのため楽章間のフェード処理はあえて行なっておりません。良質な日本プレス盤を採用。

★このモーツァルトも、リンパニーの全盛期の素晴らしさを知るのに不可欠な名演。闊達なタッチを活かしながら、入念に楽音の意味を紡ぎ出し、カーゾン、ヘス、ソロモン、マシューズ等と共通する英国流の端正美が息づいています。強烈な自己主張で迫らないのも共通。「第12番」終楽章冒頭のリズムも健康的でありながら開放的に振る舞うことなく、慈愛を持って内省的な美しさを表出。より規模の大きな「第21番」では、端正な構成感に加え、フレージングに一歩踏み込んだ主張が感じられ、第1楽章展開部で顕著なように、ニュアンスの陰影も一段と濃くなっています。リンパニー独自のヴィルトゥオジティの片鱗が見え隠れするのも印象的で、それは採用したカデンツァにも反映。第1楽章のカデンツァは、デンマークのピアニスト、アウグスト・ウィンディング(1835-1899)の作で、短い中にも可憐な華が散りばめられた逸品。終楽章では、ディナーミクの幅を抑制したまま珠を転がすようなタッチに魅力が心を捉えます。ここでのカデンツァは、ドイツで活躍したピアニストで、チェリストのユリウス・クレンゲルの兄でもあるパウル・クレンゲル(1854-1935)の作で、これがまた絶品!ここでは、リンパニーのピアニズムの華やぎが際立ちますが、わずか十数秒でコーダに移ってしまうのが何とも粋!、
カップリングしたショパン、ブラームスでは、リンパにーのその技巧の冴えと、そこに通底する詩的なニュアンスをとことんご堪能下さい。【湧々堂】

TRE-130
プエヨ〜バッハ&グラナドス
バッハ:パルティータ第1番BWV.825*
グラナドス:スペイン舞曲集(全12曲)
エドゥアルト・デル・プエヨ(P)

録音:1959年*、1956年8月29-30日(全てモノラル)
※音源:蘭fontana 698-042CL*、蘭PHILIPS A00388L
◎収録時間:70:36
“打鍵の後の余韻に滲むスペイン情緒と色香!”
■音源について
プエヨがフィリップスに遺した録音の中から、ベートーヴェン以外の名演奏を収録。なお、グラナドスのほとんどの曲間には、ペダル音と思われる「ゴトッ」という異音が聞かれますが、音の余韻と被らないものはフェード処理しています。

★スペインの巨匠、プエヨの堅固なタッチと色彩力が生きた名演2曲。バッハは、臆することなくアゴーギクを随所に織り込みながら造型美は一切崩さず、各フレーズの意味を着実に刻印し続けようとする意志の力が横溢。第4曲で顕著なように、弱音でもタッチが痩せず、男性的な筆致で入念に語り尽くすピアニズムが胸に迫りますが、加えてそこに多彩な色彩まで注入するので、様式偏重型の無機質なバッハとは違う「人間バッハ」を見る思いです。
色彩力と言えば、グラナドスの魅力は破格!モノラルでありながら、タッチの色艶、香気を感じさせ、どこかドライであらながらメランコリックなグラナドスの空気感をこれほど身を持って体現した例は稀でしょう。第1曲、第3曲、第6曲などは、重量感がありながら鈍重に陥らない打鍵でリズムが根底から沸き立つだけでなく、長い音価を引き伸ばした際の余韻の感じ方を目の当たりにすると、やはり血の為せる技には敵わないと痛感するばかり。第11曲、終曲は、リズム自体が強烈に語り掛け、肉感的でありながら品位を落とさないセンスに唖然。安易に真似などできない奥義です。有名な第2曲“オリエンタル”は、説明不要でしょう。泣けます!【湧々堂】

TRE-131
ロジータ・レナルド〜カーネギー・ホール・ライヴ
バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番 イ短調K.310
メンデルスゾーン:厳格な変奏曲Op.54
モーツァルト:ロンド.ニ長調K.485
ショパン:練習曲〜[Op.10-11, 25-5, 10-3, 25-8, 25-4, 10-2]
 マズルカOp.30-4
メンデルスゾーン:前奏曲 変ロ長調Op.104-1
ショパン:練習曲〜[Ops.25-2, 25-3, 10-4]
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ドビュッシー:舞曲
ショパン:マズルカ 嬰へ短調Op.59-3
ロジータ・レナルド(P)

録音:1949年1月19日カーネギー・ホール(ライヴ)
※音源:米IPA 120-121
◎収録時間:79:53
“高度な技巧を聴き手に意識させない天才的閃きの連続!”
■音源について
チリの出身の天才、ロジータ・レナルド (1894-1949)の録音は非常に少なく、他にはブランズウィックなどに見られる程度。これは死の4ヶ月前に行われた演奏会の貴重なライヴ。その模様を収めた2枚組LPの全てを収録しました。

★ロジータ・レナルドは、リストの弟子のマルティン・クラウゼに師事。そのクラウゼの門下には、E・フィッシャー、C・アラウなどがいますが、アラウをクラウゼに引き合わせたのは他ならぬレナルドでした。録音が少ないので認知度は低いですが、これらの収録曲のどをつまみ聴きしても、そのオーラが尋常ではないことに気づかれるはず。それはもはや、ピアノを弾いているというよりも、天から容赦なく音楽が降り注ぐような…と形容するしかありません。例えば、バッハやモーツァルトの音楽はつまらないと思う人でも、このレナルドの演奏を聴けば一気に惹き込まれることでしょう。特に、モーツァルトのソナタ!速いテンポで疾走しながら、音の粒に込められたニュアンスは破格。全走句が大きな弧を描き、音楽の持つ表情の全てが一気に押し寄せます。第2楽章も、これを聴いてしまったピアニストは、聴かなかったふりをするか、廃業するしかないのでは?終楽章は単なる一気呵成ではなく、直感的なアーティキュレーションが音楽に気品を与えていることにご注目を。間違いなく、イ短調ソナタの別格の名演です。
もう一つ挙げるとすればラヴェル。こちらも全曲10分程度という相当速めのテンポですが、その中に息づく即興的な語りの妙味に時を忘れること必至!タッチの連なりで音楽を構成しているというより、全フレーズが一度に押し寄せるという現象を、少なくともこの曲で体験したことは他にありません。
ショパン以降は、小品中心に演奏されますが、その曲間にグランド・スタイル的な優雅さも漂いますが、スタイルの古さなど意識する暇などありません。幸いにも音質も良好。全ピアノ・ファン、必聴です!【湧々堂】

TRE-132
パウムガルトナー/ヘンデル&モーツァルト
モーツァルト:コントルダンス付きメヌエット K.463
 カッサシオン.ト長調K.63〜アンダンテ
 ディヴェルティメント第12番変ホ長調K.252
ヘンデル:水上の音楽*/王宮の花火の音楽*
ベルンハルト・パウムガルトナー(指)
ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ

録音:1965年、1950年代末* 全てステレオ
※音源:蘭fontana 700438WGY、独Opera ST-92287*
◎収録時間:71:41
“研究者のイメージとは裏腹の心に染みる歌と風格美!”
■音源について
パウムガルトナーは、モーツァルトの3曲を2回録音していますが、ここに収録したのは新録音の方です。

モーツァルトの権威として知られるベルンハルト・パウムガルトナー(1887-1971)は、若い時にワルターに師事していたこともありますが、人間味を全面に出すタイプではなく、かと言って決して学究的な堅苦しさに閉じ込めたものでもありません。最初のモーツァルトのK563でも明らかなように、その馥郁とした香りは、長年の研究を通じて体得した筋金入りの共感の為せる技でしょう。
ヘンデルでは、造型をがっちり固め、常に品格を維持したパウムガルトナーのスタイルをたっぷり堪能できます。一貫して典雅な空気感を損なわぬよう、テンポの緩急のコントラストは最小限に抑えているのが特徴的。ゆったりとしたテンポ感を維持する中で、「水上の音楽」第2曲、第4曲等の遅い楽章ではさらに極限までテンポを落とし、心の奥底から歌いぬきながらも過剰な耽溺に陥らず、ただただ優美な様式美自体に語らせる手腕に感服するばかりです。
「王宮の花火」では、そのテンポ感に加え、渋いオケの音色と一体となった風格美に心奪われます。外面的な華やかさなどお呼びではありません。
当時の様式に近づけようと、楽器や奏法に様々な配慮がなされる昨今ですが、出てくる音は先鋭的で、高層ビルを思わせるツルツルのものが多いのはご承知の通り。もちろんパウムガルトナーの演奏は、現在意味するところのピリオド奏法とは無縁ですが、音が鳴り出した途端に、リスニングルームが18世紀にタイムスリップしたように錯覚させる力はどちらが優っているでしょうか?そう考えると、パウムガルトナーの長年の研究は、決して学術的な成果が目的ではなく、あくまでも演奏家として、当時の「心」にどれだけ深く寄り添えるかという挑戦だったのだったと思えきます。【湧々堂】

TRE-133
ワルター・ゲール〜ベートーヴェン他
バッハ:ブランデンブルグ協奏曲第3番
ベートーヴェン:交響曲第1番*
 交響曲第8番ヘ長調Op.93**
スメタナ:「売られた花嫁」序曲#
ワルター・ゲール(指)
ヴィンタートゥールSO
フランクフルト歌劇場O*
フランクフルトRSO**,#

録音:1950年代中頃(全てステレオ)
※音源:日Concert Hall SM-6101、仏PRESTIGE DE LA MUSIQUE SA-9653*、日Concert Hall SM-197**、SM-6111#
◎収録時間:66:26
“古典な均整美に活気を与えた、ゲール最高のベートーヴェン!”
■音源について
4曲とも、ステレオ・ヴァージョンの入手は極めて困難。ゲールのベートーヴェンの交響曲は2番、3番、7番以外の6曲(9番は2種)の録音を遺しています。6番以外はステレオが存在するようですが、ライセンス盤を除き日本盤とフランス盤でしか確認できず、バッハのステレオ盤は、上記の日本盤以外は全く見かけません。ゲールのコンサート・ホールのステレオ・ヴァージョンは、後年のシューリヒト等の録音よりも良好なバランスで録音されているものが多いですが、これら4曲も最良の部類に属します。

★ゲールが振る古典派作品は、チャイコフスキーの録音に見られるような過激なアプローチを持ち込まず、様式を重んじた堅実な表現で一貫しています。ここに収録した、バッハ、ベートーヴェンも同様。
バッハは、中低音をベースとした厚みのある響きに穏やかな雰囲気を漂わせた一時代前のスタイルですが、第1楽章の中間部など、優しさの中に一本芯の通った精神がひしひしと胸に迫ります。低弦がゴリゴリと響くのも誇張には感じず、手応え満点。
ベートーヴェンも、けれん味皆無。「第1番」はゲールのベートーヴェンの中でも最高の名演かもしれません。第1楽章序奏部から、均整のとれた古典様式を愛情を込めた育んでいることが分かり、その土台を崩さずに主部以降に音楽的なニュアンスをさらに開花させます。そして、展開部から再現部にかけての、意思に満ちたリズムの弾力の素晴らしさ!第2,3楽章も媚びた語り掛けなど用いずに、自然と共感溢れるニュアンスが導かれ、終楽章はオケの技量と意欲も手伝って、過剰演出に走らない「ベト1らしいベト1」を聴く醍醐味を再認識させてくれます。
ちなみにこの「第1番」は、以前にLEFというレーベルからCD化されたことがありますが、決して粗悪な音質ではないにもかかわらず、何度聴いてもインパクトが希薄でした。久々に聞き直して最も差が顕著だったのは、第1楽章序奏(今回の復刻盤の0:14以降)の弦のピチカートの響き!LEF盤をお持ちの方はご確認いただければと思います。
「第8番」も、一部のゲール・マニア(?)のみならず、広くお聴きいただきたい素晴らしさ!第1楽章、終楽章の、リズムに強固な意志を滾らせた一途な推進力、第2楽章のさり気なく微笑む風情と瑞々しい音色など、聴き手の心を掴んで離しません。【湧々堂】

TRE-134
ダヴィドヴィチ〜ショパン:ワルツ集.他
マズルカ第7番ヘ短調Op.7-3
マズルカ第36番イ短調Op.59-1
マズルカ第50番イ短調遺作
3つのエコセーズOp.72
ワルツ集(全14曲)*
ベラ・ダヴィドヴィチ(P)

録音:1950年代中頃、1950年代後期*(全てモノラル)
※音源:Melodiya 06437-6438、011653-54*
◎収録時間:60:45
“気品溢れる造形美で魅了する「ワルツ集」の歴史的名盤!”
■音源について
亡命前のダヴィドヴィチによるメロディア録音の中でも傑出した名演。特に「ワルツ集」は何度も再発売を繰り返している名盤ですが、やっと良質な盤に出会えました。

★少なくともモノラル録音の中で時代を問わず普遍的な魅力を放つと確信できる名演として、リパッティ盤(スタジオ録音)と共に決して外せないのがダヴィドヴィチ盤。ロシアピアニズムの魅力をふんだんに湛えた芯の強固なタッチを活かしながらも、表情が大味に傾かず、気品溢れるリズムとセンス満点のアゴーギクによって、「サロン風」から一歩踏み込んだ芸術的な高みに達した名演です。モノラル後期の録音なので、音質も良好。
「第2番」の序奏から主部への確かな意志を伴った移行、格調高く躍動する第1主題と決して沈み込まずに克明に表情を際立たせる第2主題の連動ぶりは、実に鮮やか。「小犬」は音楽の軽妙さはそのままに、全体の構成への見通しが効いた息遣いに一切の弛緩がなく、比類なき安定感と存在感を誇ります。ロシアの悲哀を持ち込んだようなニュアンスが涙を誘う「第10番」や、吸い付くようなアゴーギクが絶妙なペダリングによって達成している「第12番」など、魅力の全ては到底語り尽くせませんが、どうしても一曲だけ強調したいのが、Op.64-2「第7番」!あまりも有名なこの作品が、これほど神々しく迫る例を他に知りません。タッチを曖昧に滑らせることなく、全体を大きなレガートで包括するセンスと意思が張り巡らされ、まさにパーフェクトといえる造形美を確立しているのです。特に息を呑むのが、中間部直前の絶妙な間合い(1:14〜)!テーマの憂鬱を断ち切れそうで断ち切れない揺れ動く心情が、その一瞬の間に凝縮されているとでも言いましょうか。そして、その中間部のアゴーギクがこれまた絶品!表面的にそれらしく行なったものとは違う、心から入念を極めたニュアンスに言葉も出ません。【湧々堂】

TRE-135
ギーゼキング/シューベルト&ブラームス
シューベルト
:ピアノ・ソナタ第18番ト長調D894*
ブラームス:間奏曲変ロ短調Op.117-2#
 6つの小品〜第5曲「ロマンス」Op.118-5#
 ピアノ・ソナタ第3番ヘ短調Op.5**
ワルター・ギーゼキング(P)

録音:1947年10月12日*、1939年ベルリン#、1948年9月フランクフルト**
※音源:伊MOVIMENT MUSICA 01.063*、Melodiya M10-43395-B
◎収録時間:70:45
“虚飾を排して作品の発言力だけを徹底追求する技巧と直感!”
■音源について
ギーゼキングの芸の本質に触れる上で、シューベルトは不可欠だと思いますが、ステレオ期以前は、シューベルトのソナタ自体が軽視されていたという時代背景があったせいか、シューベルトのピアノ・ソナタを英コロンビアに1曲も録音していないので、この「18番」は実に貴重。ブラームスのソナタもセッション録音を一切遺しておらず、これが唯一の録音(放送用音源)と思われます。ブラームスの間奏曲冒頭でわずかに欠落があります。

★ギーゼキングに常につきまとう「新即物主義の旗手」というイメージは、精緻な和声構造を持つドビュッシーの音楽にいかにも相応しく、誰も異論を挟めない名演となっていますが、現代の耳で聞くと意外とロマンティックな「歌」を感じさせる面が多々あります。この事実だけでも、ギーゼキングが決して感情の注入を抑え、楽譜の忠実な再現だけを目指していたのではないことは明らかです。ただ、その「歌」は演奏家本位のものではなく、あくまでも作曲者の意図に寄り添うものでなければならなぬという強い信念が常に宿っているので、単に「心を込めて歌う」以上の芸術作品として再現されるところが、口先だけで作曲家への忠誠を誓っているピアニストとの大きな違いです。
シューベルト冒頭の穏やかな主題が流れる最中、ギーゼキングが優しく微笑みながら鍵盤をタッチしている姿など、脳裏に浮かぶでしょうか?そこには、ただただ美しいシューベルトの音楽があるのみ。ギーゼキングは、音楽自体が自発的に発言できるように少し手を差し伸べているだけに過ぎずません。シンプルな楽想に工夫を凝らせば、もっと分かりやすい形で聴き手に語りかけることも可能でしょう。しかし、それをしないので、どこかとっつきにくいと感じる人がいても不思議ではありません。しかし、そこに「音楽自体が息づいていること」を感じ取れれば、決してギーゼキングを情感に乏しいピアニストと決めつけることなどないでしょう。
作曲家の心情に寄り添うことや、曲の持ち味を活かすことは、演奏家なら誰しも考えることですが、作曲家がなぜその音符を選択したのかを直感で捉え、確信を持って表現しなければ、音楽は生き生きと迫って来ません。ブラームスのソナタでは、ギーゼキングのその直感力と確信力が並外れていることを思い知らされます。強靭なタッチに宿る強固な意志は、ギーゼキングのものというよりブラームス自身のものとして生々しく放射。第1楽章再現部冒頭などはかなり激烈な表現を取り、終楽章のコーダに至っては若さと幸福の絶頂を表現しますが、どれもピアニストが上から目線で植えつけた印象を与えないのです。
ギーゼキングは、驚異的な記憶力と打鍵技術を武器にしてほとんど練習を要しなかったことでも知られていますが、じっくり楽譜を読み込みもしないそんな即席の演奏で心を打つはずがないという思い込みも、今日までに定着してしまった気がしてなりません。しかし、常人なら出来るはずのないことが出来てしまっているという現実がここにはあるのです!【湧々堂】

TRE-136
クーベリック&VPOのドヴォルザーク
交響曲第7番ニ短調Op.70
交響曲第9番ホ短調「新世界から」*
ラファエル・クーベリック(指)VPO

録音:1956年10月1-2日、3-4日* (共にモノラル)
※音源:英DECCA LXT-5290、LHT-5291*
◎収録時間:77:05
“「ウィーン・フィルのドヴォルザーク」の頂点をなす感動録音!”
■音源について
この2曲は4日間で集中的に録音されており、レコード番号も連続しています。既にTRE-102等でも記したように、ここでもあえてモノラル盤を採用しています。通常聴かれているステレオ・バージョンでは、小さい箱に押し込んだような不自然な音を頭の中で「現実的な音」に補正する必要があるばかりか、音楽を小じんまりとさせてしまい、この演奏本来の風格も深みも損なわれること夥しいからです。これは、デッカによるウィーン・フィルの1950年代のステレオ録音のほぼ全てに共通しています。世評以上の味わいをぜひご体感ください。

★クーベリックによるこの2曲の録音は他にも数種存在しますが、このウィーン・フィル盤の素晴らしさは、他とは別次元!この録音時40代のクーベリックには、既にこれらの作品のアプローチに揺るぎない確信を持っていたことが窺えると共に、当時のウィーン・フィルの独特のクセをさり気なく抑制しながら、プラスの魅力だけを引き出す手腕にも感服するばかりです。
「第7番」は、一般的にはボヘミア的な民族色よりもドイツ風の構成を重んじた作品とされますが、この演奏には隅々まで郷愁を惜しげもなく注入されており、冒頭の主題からして切なさの極み。第2主題が大きく羽ばたく4:36からの音の張り艶はにも言葉を失います。第2楽章は、冒頭から過剰になる寸前まで思いの丈を込めたフレージングを見せたかと思うと、1:30からの主部旋律では、心の震えをストレートに反映したフレージングに涙を禁じえません。終楽章は、冒頭での音価をたっぷり確保した深い呼吸、先を急がず噛みしめるようなフレージングに、立派なソナタ形式を締めくくると言うより、ドヴォルザークならではのノスタルジーを最優先させるクーベリックの意思が明確に刻まれています。第2主題に入る前の経過句(1:26〜)で大きくリタルダンドする例は珍しくないですが、これほど必然を感じさせることはなく、その後の進行でも、何となく鳴っている箇所など皆無。そして、大げさな見栄など切らないコーダの潔さ!
「新世界」も、只ならぬ名演奏。ウィーン・フィルの「新世界」といえば、ケルテス盤があまりにも有名ですが、音の新旧以外にクーベリック盤ををそれより下位に置く理由がどこにあるでしょうか?少なくともウィーン・フィルの音の出し方の本気度が違い、特に第2楽章の素晴らしさといったら、全ての条件が揃った奇跡の瞬間と言うしかありません!4:30から中間部に入るまでの消え入り方!信じられません!【湧々堂】

TRE-137
オーマンディ/米COLUMBIAモノラル名演集1〜J・シュトラウス他
ワルトトイフェル:ワルツ「学生楽隊(女学生)」
 ワルツ 「スケートをする人々」
レハール:ワルツ「金と銀」
 「メリー・ウィドウ」ワルツ
J・シュトラウス:「こうもり」序曲*
 「女王レースのハンカチーフ」序曲**
 「くるまば草」序曲#/皇帝円舞曲##
 ワルツ「美しく青きドナウ」##
 ワルツ「南国のバラ」##
 ポルカ・シュネル「雷鳴と電光」**
 トリッチ・トラッチ・ポルカ*
J・シュトラウスT:ラデツキー行進曲*
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1953年6月26日(ワルトトイフェル&レハール)、1952年5月13日*、1952年12月21日**、1953年4月26日#、1957年12月23日##(全てモノラル)
※音源:蘭PHILIPS S04624L、米 COLUMBIA ML-5238##
◎収録時間:76:52
“ウィーン情緒無用!リズムと色彩の華やぎで聴き手を魅了!!”
■音源について
同じ曲で2種類以上の録音が存在する場合、古い録音は忘れ去られるのが世の常ですが、オーマンディに限ってはそれは大損失です。ステレオ期以前と以後では、音楽作りがガラッと異なるからです。まるで、ステレオ技術の向上と歩調を合わせるように自身の音作りを変化させたかのよう。その違いを最端的に示す例として、J・シュトラウスを選びました。この冴え渡るリズムとテンポ!ステレオ録音のオーマンディしか知らない方はビックリされることでしょう。
収録曲のうち、レハールは唯一の録音。ワルトトイフェルと「南国のバラ」「雷鳴」「トリッチトラッチ」「ラデツキー」は、複数録音がある中の1回目の録音。1957年録音の3曲は、直後の1959-61年のステレオ再録音があるので、特に見落とされがち。

★リズムの重心をやや軽めに置き、単刀直入にズバッと表現する爽快で楽しい名演の数々!その潔さの前に、ウィーン流儀の持ち込みなど一切不要です。
「女学生」からして、実に気持の良い快速感。トランペットのテーマをかなり自由に吹かせながら帳尻を合わせる巧味もたまりません。もちろん全てのリピートを敢行するな野暮な真似は無し。しかも、繰り返さない楽句は速めに切り抜けてしまうという人間臭さはステレオ期以降のオーマンディではまずあり得ません。「金と銀」は、モノラルであることなど忘れさせる文字通りのキラキラ感!小品のツボを心得たテンポ設定の妙味!「こうもり」の、テンポ切り替え時の凄い求心力はトスカニーニばり。独自アレンジが光るのが「皇帝円舞曲」。オーマンディがスコアに少しだけ手を入れた箇所は、いつでもその気持ちが痛いほど伝わりますが、ここでも的を得ているものばかりで、嬉しくて泣けてきます。こういうこそがサラッと出来るセンスの持ち主は、思えばオーマンディが最後だったかもしれません。そして音楽の何たるかを知り尽くしたオケの発信力!5:24からのリズムの振幅、吸い込まれそうな呼吸感と色香は、今や世界中のどこにも存在しないでしょう。「雷鳴と電光」は、打楽器群の夢中な様子が目に浮かぶよう。各自が「俺が楽しさを倍増させてやる」という気概で迫ってくるのですから、心躍るに決まっています。そして、極めつけが「ラデツキー行進曲」!和やかさに甘んじず、決してド派手アレンジではないですが、これほど楽しさを寸分の隙きもなく詰め込んだ演奏を他に知りません。この曲をウィーン・フィル以外で聴くなら、迷わずコレ!【湧々堂】

TRE-138
アシュケナージ/ソ連時代のショパン
バラード第2番Op.38*
夜想曲第3番Op.9-3*
練習曲集Op.10/練習曲集Op.25
ヴラディーミル・アシュケナージ(P)

録音:1959年*、1959-1960年(全てモノラル)
※音源:MELODIYA OS-2101、 OS-2132*
◎収録時間:76:14
“若さだけではない!ソ連時代のアシュケナージの入念な表現力!”
■音源について
アシュケナージが、エリザベート・コンクール優勝、欧米での演奏旅行を果たした後、ソ連本国で行なった重要な録音。アシュケナージの「練習曲集」は、70年代デッカの録音が名盤としてあまりにも有名ですが、詩的なニュアンスが比類なき魅力を誇る一方で、当時のデッカのピアノ録音の特徴であるペラペラなサウンドが悔やまれます。その点この録音には、盤石のヴィルトゥオジティを湛えた当時のアシュケナージの等身大の音楽性がしっかり刻まれており、モノラル録音のハンデも感じさせません。普段アシュケナージに関心のない方でも、ピアノ音楽に少しでも興味をお持ちなら必聴の名盤だと思います。

★アシュケナージのピアニズムの本質は、何と言っても、技巧の誇示や威圧とは無縁の人間味溢れる語り口でしょう。一方で、氏自身も語っているように、チャイコフスキーの協奏曲のような大向こうを唸らせる作品は、決してアシュケナージにピッタリの作品とは言えないようです。実際、若き日にイワーノフと共演したチャイコフスキーの録音でも、一見若さを爆発させた熱演に聞こえますが、聴衆がこの曲に期待するスリリングな迫力へ無理に照準を合わせているような感が終始付きまとっていました。その点、この「練習曲集」は、嘘偽りのない等身大の音楽性を余すことなく注入し尽くした真の名演です!Op.10-1の推進力と打鍵に込められた揺るぎない意志は、アシュケナージをデッカ録音でしか聴いたことがない方は驚かれるはず。しかしそのキレの有るタッチは、決して技巧優先型でなはなく、ロシア・ピアニズムの誇示とも一線を画し、アシュケナージの生来の人間性を直接反映した独自の情感に満ちており、それこそがまさに、全曲を貫く最大の魅力と言えましょう。13:37以降の上声部のタッチの明晰さも、音楽の魅力と完全に一体化していることにハッとさせられます。Op.10-2は、タッチの粒立ちを確保しながら、全体を自然に大きなレガートで弧を描く素晴らしさ!自分の引き出しの全てを活用することによる説得力を思い知るのが、Op.1-4。コーダの1:42からの下降音型は、曲の確信を抉ろうとする意思の強さと、曲を決して上から目線で捉えない優しさが融合しており、心を打つのです。Op.10-11、Op.25-1は、エレガンスという月並みな形容では収まりません。音色のコントロールといい、楽想と常に一体化したルバートの妙といい、聴き手の心の襞に触れるシーンの連続!【湧々堂】

TRE-139
オットー・アッカーマン〜名演集Vol.1
モーツァルト:交響曲第7番ニ長調K.45
 交響曲第8番ニ長調K.48
 交響曲第12番ト長調K.110
ハイドン:交響曲第100番「軍隊」*
ボロディン:交響曲第2番ロ短調#
オットー・アッカーマン(指)
オランダPO、ケルンRSO*,#

録音:1952年12月10-11日、1955年10月2-3日*、1954年6月8-11日#
※音源:独DISCOPHILIA OAA-101、DIS.OAA-100*,#
◎収録時間:79:02
“アッカーマン知られざる真価の本質を知る交響曲集!”
■音源について
アッカーマンのオペラ以外の録音は、ほとんどがコンサート・ホール・レーベルに集中しており、50代で亡くなったこともあり、その高い芸術性は広く認識されていません。ここに収録したモーツァルトは、コンサート・ホール・レーベルがアッカーマンのために交響曲全集として企画したものですが、アッカーマンの死去により、一部の曲はゲール、スウォボダの録音が充てられました。もちろんオリジナルはモノラルですが、このDISCOPHILIA盤は疑似ステレオ化(?)されていてやや不自然なため、ここではモノラルに変換しています。ハイドンとボロディンは、放送用音源。

★オットー・アッカーマン(1906−1960)は、ルーマニア生まれ。ドイツで本格的に音楽を学んだ後、主にヨーロッパ各地の歌劇場で活躍。少ない録音の中でも、EMIのオペレッタ録音がひときわ有名なので、交響曲にいおいても劇場的な雰囲気を湛えた音作りをすると思いがちですが、そう単純ではないところにアッカーマンの音楽性の底知れなさを感じます。
モーツァルトでは素直な進行とともに、古典的な様式をきちんと踏まえた安定感が際立ち、モーツァルトの天才的な筆致に自然な息吹を与えていますが、加えてそこには、常に独特の品格が備わっており、今ではその品格こそがアッカーマンの指揮の最大の魅力だと確信しています。「品格」と言ってもお上品で冷たいものではなく、温かい眼差しでスコアに向かい、音のダイナミズムや色彩、テンポなどは、音楽が最も美しく浮き上がるものを選択。結果的にシルキーな風合いを感じさせる…とでも申しましょうか。続くハイドンでは、そんな独特な空気がより顕著に立ち昇ります。
この「軍隊」、誰が何と言おうと史上屈指の名演です!第1楽章から、何の変哲もない進行の中で、全ての音が高純度を保っていることにまず驚愕!主部以降も各声部の絡みに不純物は皆無で、アッカーマンの魔法の杖で、音が泉のように湧き立つよう。「こう響かせたい」という私利私欲の欠片もない音楽が、これほど心を打つという実例です。スコアに書かれた「仕掛け」を拡大解釈したくなる第2楽章でも、その高純度ぶりは不変。それでいて、多くの聴き手が期待するスケール感もしっかり確保。第3楽章の中間部の微笑みも、アッカーマンの人柄を映すかのよう。終楽章はテンポのセンスが抜群な上に、畳み掛けるような切迫感とは違う澄み切った幸福感が横溢。0:33からの弦の音量を途中から落としてフルートへ引き渡す配慮や、後半シンバルが加わって以降の声部バランスの絶妙な入れ替え技などは、オケの量感を損ねずに美しく鳴らす極意を心得た人だけに可能な技!これほど魅力的な演奏に結実したのは、ハイドンの様式美とアッカーマンの清潔な音作りが合致しただけの偶然の産物ではないことは、次のボロディンが証明します。
こういう土臭い作品は、さすがに品格だけでは不十分と思われるでしょうが、そういう結果に陥るのは、その品格が急ごしらえの表面的な場合でしょう。その点アッカーマンの品格は筋金入りで、体に染み付いているものなので、それが音楽的ニュアンスに直結して感動を誘うのです。第1楽章冒頭のテーマから、土俗性を強調する素振りさえ見せず、そうあるべきバランスを維持しながら音像を明確化。そこから音楽の根源的に力を自然に引き出しています。第2主題もメランリックなニュアンスを故意に表面化せずとも、「ここは楽譜以上の表現は不要」という強い確信、というより瞬時の閃きが、説得力を与えているように思えてなりません。コーダのテンポの落とし方と一音ごとの刻印の仕方は、まさに高潔。白眉は、第3楽章!ケルンのオケの機能美と各ソロ奏者の素直な心の震えが、アッカーマンの絶妙な棒から自然に引き出されており、、トゥッティでも決して汚い音を発せず、幽玄の音像が繰り広げられるのです。
このアッカーマンの比類なき音作りのセンスは、無駄のない音の使い方という点では、指揮法を師事したジョージ・セルの影響が大きいかと思いますが、「厳格な指示を出して出して築いた音楽」という印象を与えない優美さは、努力して身につけたとは考えられず、神様からの贈り物としか思えません。【湧々堂】

TRE-140
オットー・アッカーマン〜名演集Vol.2
モーツァルト
:交響曲第9番ハ長調 K. 73
 交響曲第13番ヘ長調 K. 112
ケルビーニ:歌劇「アナクレオン、またはつかの間の恋」序曲*
チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調*
オットーアッカーマン(指)
オランダPO、
ベルン市立歌劇場O*

録音:1952年12月10-11日、1958年11月18日(ライヴ)*
※音源:独DISCOPHILIA OAA-101、瑞西RELIEF RL-851*
◎収録時間:75:05
“チャイコフスキーの孤独とダイナミズムを高潔な音彩で徹底抽出!”
■音源について
モーツァルトは、コンサート・ホール原盤でオリジナルはモノラルですが、このDISCOPHILIA盤は疑似ステレオ化(?)されていて不自然なため、ここではモノラルに変換。ケルビーニとチャイコフスキーはライヴ音源。レコードには「Stereo」と表示されていますが、拍手がモノラルに聞こえることと録音年代から、演奏のみ疑似ステレオ化したものと思われます。こちらは実に自然な仕上がりなので、そのままの音を採用しました。なお、チャイコフスキーの第1楽章前半で、原テープの劣化と思われる音揺れがありますが、ご了承下さい。

★アッカーマンがナチス・ドイツを逃れてスイスへ活動拠点を移し、1935年に得た大きなポストが、ベルン歌劇場の指揮者でした。そのオケとの縁の深さと、ライヴということもあってか、チャイコフスキーでは、かなり主情的な表現を注入している点がまず注目されますが、それよりもこの演奏は、チャイコフスキーへのアプローチの点でも、指揮芸術のあり方という点でも、重要な意味を持つ名演だと思います。
第1楽章の冒頭のファンファーレは、誰よりも寂しく孤独な風情を湛えていることに、まずドッキリ。その空気を引きずって第1主題も視線を落としたまま進行。皮脂分を削ぎ落としたスッキリとした音像を貫きながら、音楽は根底からうねり続けるので、独特の寂寥感が胸に迫ります。クラリネットの第2主題に入ると少しは希望の光が差し込むのが常ですが、音楽に浮揚感を与えるのはまだ先。8:29からようやく格調高いダイナミズムを打ち立てますが、ここでも音色を汚さず、全声部が完璧なバランスを保ち、その高潔さを確保したまま、11:28からは内燃パワーを大噴出させるのです。そしてコーダのテンポ設定の巧妙さ!例のルフト・パウゼがこれほど胸を突き刺すのも珍しいでしょう。
なお、この楽章は一部のパートが音の入りを間違えてアンサンブルが崩壊寸前の箇所がありますが、なんとか乗り切っています。
第2楽章は再び孤独の世界。リズムを垂直に一定に刻む箇所はほとんどなく、終止憂いの限りを尽くします。それなのに、情緒過多の印象を与えず、音楽全体が澄み切っているのです。
終楽章は実に壮大。それが華美なお祭り騒ぎにならないのは言うまでもありません。場面が変わるたびに違うテンポと表情を湛えるので、先の進行への期待と不安が入り混じり、それはあたかもチャイコフスキーの人生の生き写しのように響きます。最後は誰もが納得の大団円ですが、パワーを野放図に放射させまいとする強力な意志が働いているので、そこにもまた、アッカーマンの指揮者としての熱い信念を感じずにはいられません。【湧々堂】

TRE-141
マイラ・ヘス〜モーツァルト&ブラームス
モーツァルト:ピアノ協奏曲第14番K.449
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番Op.83*
マイラ・ヘス(P)
ブルーノ・ワルター(指)NYO

録音:1954年1月7日、1951年2月11日*(共にライヴ
※音源:米 Bruno Walter Society PR-36、BWS-736*
◎収録時間:70:21
“ヘスとワルターの親和性が最大に発揮された2大名演!”
■音源について
ワルター協会LPの1枚半分を収録しています。録音状態は年代相応ですが、ヘスの芸術性を実感するのに何ら不足はないと思います。

★英国の代表的ピアニスト、マイラ・ヘス(1990-1965)はワルターのお気に入りのピアニストの一人。派手なヴィルトゥオジティと無縁なのは他の英国ピアニストと同様ですが、常にヴィジョンを明確に携え、気品を持って音楽を飛翔させるピアニズムはかけがえのないものです。
モーツァルトの「第14番」では、まず曲の素晴らしさをつくづく実感。まろやかでありながら芯を絶やさないヘスのタッチは、最後まで心を捉えて離しません。第2楽章の説明調に陥らない語り口の妙と余韻は、特に格別。ワルターの伴奏は重厚な響きながら決して大味ではなく、全ての音に迷いがなく至純そのもの。ワルターが奏でたモーツァルトの中でも出色の名演ではないでしょうか。終楽章の1:28からの低音タッチの呟きとワルターとの掛け合いのシーンは、ニュアンスの自然発生的な一体感が筆舌に尽くし難いく、こういうのを「神が降リてきた瞬間」というのでしょう。
ブラームスは、ヘス、ワルター共々、大きな構えによる重厚な響きを志向し、最後まで造形的な崩れを見ず、ブラームスの音楽の醍醐味をとことん堪能させてくれます。第1楽章の15:44以降の、響きの熱い凝縮と決して華美に走らない高揚感は、これぞブラームス!第3楽章は、冒頭のチェロのソロから感涙もので、これほど肩肘を張らずに切ないロマンが零れる演奏は他に思い当たりません。それに続くヘスのピアノはたっぷりと潤いを湛えたタッチで陰影の限りを尽くし、6:25からの静謐美は比類なし!ヘスの破格の芸術性を象徴するシーンです。終楽章の終結は、ライヴともなれば白熱的に突進することも珍しくないですが、ここでは安易な熱狂とは違い、一定の矜持を持って精神を一途に高揚させることで、希望の光を放射するかのよう。
マイラ・ヘス自体、日本ではなかなか注目されませんが、この2つのライヴから、彼女固有のの芸術性を少しでも認識していただければ幸いです。【湧々堂】

TRE-142
ジャンヌ=マリー・ダルレ/サン・サーンス:ピアノ協奏曲集1
サン・サーンス:七重奏曲Op.65*
 ピアノ協奏曲第2番**
 ピアノ協奏曲第5番「エジプト風」#
ジャンヌ=マリー・ダルレ(P)
ルイ・フレスティエ(指)
フランス国立放送局O
ロジェ・デルモット(Tp)*
ガストン・ロジェ(Cb)*
パスカルQ団員*

録音:1957年6月*、1957年4月27-28日**、1957年4月15-17日#(全てモノラル)
※音源:仏PATHE DTX-252*、DTX-176
◎収録時間:68:14
“作曲家直伝という箔を超越したダルレの恐るべき色彩力!”
■音源について
2枚の良質なパテ盤を使用。既存CDでは感じにくい打鍵の衝撃と、ダルレが愛奏したピアノ、ガヴォーのが放つ香気を十分引き出していると思います。

★サン・サーンスのピアノ協奏曲は、技巧の切れ味で押し切ることも可能でしょうが、だからといって、ベートーヴェンのように深刻に弾かれるとシラケることも多々あります。サン・サーンスの音楽の醍醐味を、プーランクの皮肉っぽさとも違う「優雅なウィット」だとすると、それを最も自然に満たしている名演として筆頭にあげたいのは、やはりダルレ女史の演奏。ダルレはサン・サーンス自身に師事したこともあるので、様々なアドバイスを受けたと思いますが、この演奏に流れるニュンアンスの魅力は、ダルレ自信が地道に育んだセンスの結晶と言えましょう。ダルレが愛奏したピアノ、ガヴォーのブリリアントな響きも格別。
「第2番」第2楽章で上下降するパッセージにおける、単なる粒立ちの良さだけでない洒脱さ、同第2主題で一切媚びずにイン・テンポを保持する洗練美は、何度聴いても唸らせます。終楽章は、軽いタッチに高い求心力を与えるという滅多に耳にできないピアニズムの勝利!
「第5番」は、まず第1楽章のソナタ形式の堅固さを際立たせた造形力の何と素晴らしいこと!展開部の表情の濃密な抉り方も聴きもの。第2楽章はダルレのタッチのコントロールの絶妙さに舌を巻くばかりで、一音も聴き逃せません。ピアノが入る冒頭、高音で連打する箇所で異国情緒を一気に印象づける演奏はそう多くはないはず。1:50からの木片を叩いているような風合いも、他とは違う説得力。この楽章は、ダルレの想像を絶する色彩力の全てを投入した名演と言っても過言ではありません。エキゾチシズム満点のこの楽章をショパンかラフマニノフのように流すピアニストのいかに多いことか!ただ、そのエキゾチシズム、鼻をつくような土臭さとは一線を画し、お洒落な衣を纏っている点が、他に代えがたい魅力なのです。フレスティエの指揮も申し分なし!
七重奏曲は、弦5部+ピアノ+トランペットという独特の編成による色彩を活かした楽しい佳曲。その華麗さの中核を成すのはトランペット(デルモットはパリ・オペラ座管の主席)ですが、全体に独特のエレガンスを与えているのはピアノ。第3楽章には哀愁が漂うものの、決して深刻にならないのはいかにもサン・サーンス。ピアノは単純明快な伴奏音型を繰り返しますが、そこへダルレはさり気なくウィットを滑り込ませているのがニクイところ。弦のユニゾンの甘美な色彩にもご注目を。【湧々堂】

TRE-143
ジャンヌ=マリー・ダルレ/サン・サーンス:ピアノ協奏曲集2
ピアノ協奏曲第1番
ピアノ協奏曲第3番
ピアノ協奏曲第4番##
ジャンヌ=マリー・ダルレ(P)
ルイ・フレスティエ(指)
フランス国立放送局O

録音:1956年5月、1955年4月##(全てモノラル)
※音源:英HMV ALP-1593、仏PATHE DTX-176##
◎収録時間:74:45
■音源について
「第1番」と「第3番」はイギリス盤を使用。LPでは、現在最も演奏頻度の低いこの2曲をカップリングして発売していたのです!この2曲を1枚に収めたCDを見たことがなく、それどころか、ここ数年はサン・サーンスのピアノ協奏曲のCD自体が激減しているのは、危機的状況です!

「第1番」は、サン・サーンス23歳時の作品ながら、サン・サーンス独自の屈託のない音楽性と発想力、巧みな構成を表面化させない天才的な筆致力はこの頃既に完全に備わっていたことを痛感させる演奏にはなかなか出会いません。その理由はただ一つ。作品に入れ込んでいないためです。ダルレが両端楽章で見せる無邪気な弾け方!ベートーヴェンやブラームスばかり勉強していてはこうはいかず、人生の粋を体現していなければ、第2楽章も陳腐なムード音楽に成り下がってしまうでしょう。
更に難物が「第3番」。第1楽章冒頭で、ピアノはアルペジョを繰り返すだけで、主題を提示するのはオケなので、指揮者のビジョンまで問われます。ダルレとフレスティエが完全に同じ方向を向き、展開部で熾烈な緊張の渦に本気で身を投じていることを知った瞬間から、これを「地味な曲」などと言えなくなるはず。全集録音のための急場しのぎの演奏では得られない手応えを感じていただけることでしょう。
「第4番」の素晴らしさも今さら申すまでもありませんが、終楽章での「このスタイル以外は有り得ない!」という強烈な主張を持った打鍵の連続技に接すると、単に腕が達者なだけでは太刀打ちできないことを思い知るばかりです。【湧々堂】

TRE-142-143(2CDR)
ジャンヌ=マリー・ダルレ/サン・サーンス:ピアノ協奏曲全集&七重奏曲
TRE-142とTRE=143をセット化したもの
ジャンヌ=マリー・ダルレ(P)
ルイ・フレスティエ(指)
フランス国立放送局O
ロジェ・デルモット(Tp)*
ガストン・ロジェ(Cb)*
パスカルQ団員*

録音:1955-1957年
※音源:仏PATHE DTX-252、DTX-176、英HMV ALP-1593
◎収録時間:68:14+74:45

TRE-144
ヴェルディ:レクイエム グィド・カンテッリ(指)ボストンSO
エルヴァ・ネルリ(S)
クララマエ・ターナー(A)
ユージン・コンリー(T)
ニコラ・モスコーナ(Bs)
ニュー・イングランド音楽大学cho

録音:1954年12月17日ライヴ
※音源:米Discocorp IGI-340
◎収録時間:79:57
“大伽藍に傾かず、歌の力を引き出すカンテッリの統率力!”
■音源について
このレコードを最初に聞いたときは、音があまり良くないと感じましたが、よくよく確認すると、開始から3分の1ほどの音量が低めであることがわかり、今回はこれを修正したことでそのストレスが軽減しました。演奏直後に起こる盛大な拍手は、余韻をかき消してしまうのでカット。また、演奏時間は80分を少し超えるので、1枚に収録するために曲間のインターバルを少し短縮しています。

★カンテッリがこの作品のセッション録音を遺してくれなかったことは残念ですが、こんな感動的な録音が存在するのは幸せなことです。無理に構えず、深刻ぶらず、一途にニュアンスを注入するカンテッリの姿勢はここでも同じで、宗教的な敬虔さと音楽的な訴求力を兼ね備えたこの演奏は、この曲につきまとう大げさな印象を一切与えず、この曲の再現の理想形と言えましょう。
まず合唱の巧さが特筆もの。“Agnus Dei”のユニゾン部、“Libera me”の無伴奏部などで明らかなように、潜在的な技量の確かさに加え、熱狂の渦に身を任せすぎないようにフレージングが制御されており、それでいて音楽は常に伸びやか。祈りのエッセンスが聴き手の心にしっかり伝わります。そして独唱陣の素晴らしさ!スパー・スターこそ配していませんが、ネルリやモスコーナはトスカニーニの指揮でも歌っているので、その教訓もここに生きていることは想像に難くありません。バスのモスコーナによる[04]“Mors stupebit”は、オペラ的な語り口に傾きすぎず、安定的に情感が滲み出し方が絶妙。更に素晴らしいのが、ソプラノのネルリ。強靭な高音からソフトに囁くピアニッシモまで、まさにリリコ・スピントの最良のスタイル示す名唱を聴かせてくれます。その魅力が核となった“Lacrymosa”の四重唱と、全体を深く大きく呼吸させるカンテッリの指揮が一体となった音楽は、筆舌に尽くしがたし!
オーディオファイル的な興味を集める作品でもありますが、それよりも歌の威力を全身で浴びたいのでしたら、是非この演奏をお聴きいただきたいと思います。【湧々堂】

TRE-145
J・B・ポミエ/チャイコフスキー&ベートーヴェン
チャイコフスキー:ピアノ・ソナタ.ト長調Op.37
 「ドゥムカ」-ロシアの農村風景Op.59*
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」#
ジャン=ベルナール・ポミエ(P)
ディミトリ・コラファス(指)
ラムルーO

録音:1964年6月18-25日&10月20-22日&11月4日、1964年10月20-24日&11月4日*、1962年#(全てステレオ)
※音源:東芝 AA-8022、仏Club Francais 2300#
◎収録時間:79:53
“10代から備わっていたポミエの美麗タッチと造形力!”
■音源について
イヴ・ナット、サンカン門下のポミエが、1962年のチャイコフスキー・コンクール4位入賞(1位はアシュケナージ&オグドン)直後に行った録音。チャイコフスキーは、国内初期の赤盤を採用。赤盤は音質に定評があるものの、チリチリ音が混入していることが多いのが悩ましいところですが、ここでの使用盤は、ノイズ類がほぼゼロです!

★ロシア人以外のピアニストによるチャイコフスキーのソロ作品の録音で、まず筆頭にあげたいのがこのポミエ盤。「ソナタ」は30分を要する大曲ながら、ベートーヴェンのような堅固な構造を期待する向きには敬遠されがち。しかし、ポミエの瑞々しい切れ味と感性を誇るピアニズムに掛れば、そんな心配はご無用。チャイコフスキー特有のロマンチシズムと郷愁がストレートに胸に迫り続けます。特に第2楽章で、冒頭の瞑想的な主題のみならず、中間部の活気ある主題にも満遍なく情感を宿しているのは、作品への共感が本物であることの証しでしょう。
チャイコフスキー・コンクール入賞直後に録られた「皇帝」がまた凄い!この時ポミエはなんと18歳!この大曲を前にして一切気負うことなく、無理に背伸びした感を一切与えず、正直な音楽性を余すことなく注入。ハッタリとは無縁で、瑞々しい音色とタッチが作品に見事な推進力を与えており、いかにも皇帝風の威厳というよりも、人生の喜びを全身で表現したような清々しさ、一途さに心奪われます。第1楽章で頻出する音階風のフレーズにも常に歌が通っており、第2楽章は、気品と温もりのあるタッチで魅了。ホールの響きと溶け合って導かれる空気感が、更に雰囲気を倍増させています。終楽章の素晴らしさに至っては、史上屈指!若々しい感性を発散しながらも決して青臭さを感じさせず、テンポも先走りせず、安定感抜群。後年のソナタ全集(Erato)で見せた造形力の確かさが、この頃既に備わっていたことに驚きを禁じえません。
史上屈指と言えば、コラファスの指揮も同様。伴奏以外の録音が見つからず、詳細な経歴も不明ですが、このダイナミックな音作りと呼吸の深さに絶対的な自信と確信が横溢。第1楽章後半、16:59からのクレッシェンドの効かせ方!只者ではありません。【湧々堂】

TRE-146
カンポーリ〜ブルッフ、サン・サーンス&ラロ
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
サン・サーンス:ハバネラ*
 序奏とロンド・カプリチオーソ*
ラロ:スペイン交響曲#
アルフレッド・カンポーリ(Vn)
ロイヤルトン・キッシュ(指)新交響楽団
アナトール・フィストラーリ(指)LSO*
エドゥアルド・ヴァン・ベイヌム(指)LPO#

録音:1951年4月17日、1953年11月10日*、1953年3月3-4日#
※音源:英DECCA ACL-64、ACL-124#
◎収録時間:77:08
“作品の様式美を踏み外さないカンポーリの芳しい歌心!”
■音源について
全てACL(溝)盤を使用。ACLは時折音がざらつき気味のものにも出会いますが、これらは問題なく良い音で鳴ってくれました。なお、ブルッフの1〜2楽章間は一瞬音が途切れますが、元々そのように収録されています。

★アルフレッド・カンポーリ(1906-1991)はイタリア生まれですが、少年期にロンドンへ移住。イタリア的な明るさを持つ美音と英国風の折り目正しいフレージングを融合したを魅力は、かけがえのないもの。ここでは、そんなカンポーリの魅力を端的に示す名演として、濃厚な味を持つ作品ばかりを集めていますが、特にご注目いただきたいのは、作品の濃厚さを逆手に取って聴衆に媚びるような表現はせず、気品溢れる音楽に結実させている点。
例えば、サン・サーンスの「序奏とロンド〜」の冒頭は、リズムを立てず、しっとりと歌われるのが常ですが、カンポーリはそんなお約束とは無縁。5小節目の下降音の32分音符にカラッとした軽みを与えているように、この作品の魅力は決して演歌風の表情付けではなく、各楽想を丁寧に描くことで自然に滲み出るということを教えてくれます。それでいて、多くの人が期待する「お涙」も過不足なく湛えているのですから、なんという芸の奥深さ!
そういう常套手段に甘んじない気品溢れる芸風は、スペイン交響曲で最大に開花しています。第1楽章の最初のソロに、カンポーリのアプローチの魅力のすべてが凝縮されています。情緒たっぷりのアゴーギクも、血を滾らせたような上げ弓も用いずに切々と歌われるフレーズは、音の勢いで蹴散らしてはもったいないと言わんばかり。天下の美音を誇りながら感覚美を志向せず、熱い音ではなく、熱い共感こそが説得力を生むのだということを思い知らされます。第2楽書の可憐さも、あくまでも自然体だからこそ聴き手の心をくすぐるのです。第3楽章の主題で、音の高低差を大げさに対比するような真似も、カンポーリの美意識が許しません。したがって終楽章も、力任せの演奏では聴こえてこない香り高いニュアンスの連続!美しい歌とは何か…、その答えが3:34から導き出されます。安易なエキゾチシズムに依存しないという演奏は他にもあるかもしれませんが、それを綺麗事で終わらせず、慎ましさの中に華のある表現で聴き手を酔わす演奏となると、他に思い当たりません。そして忘れてならないのは、ベイヌムの指揮の凄さ!カンポーリとは対照的に、高凝縮力を誇る迫力満点の音楽を展開していますが、内面から確信するニュアンスを貫徹させる信念は共通しており、両者が反発し合うことなく見事にブレンドされている点も特筆ものです。【湧々堂】

TRE-147
G・L・ヨッフム〜シューマン&ブラームス
シューマン:交響曲第1番「春」Op.38
ブラームス:交響曲第2番ニ長調Op.73*
ゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフム(指)
ベルリンRSO、スウェーデンRSO*

録音:1951年6月10日、1957年7月5日*(共にモノラル)
※音源: RVC RCL-3310、BIS LP-331/333*
◎収録時間:64:52
“高名な兄以上の統率力と高潔な精神力を感じさせる凄演!”
■音源について
オイゲン・ヨッフムの弟、G.L.ヨッフムの録音は極めて少なく、ウラニアのブルックナーの交響曲が知られる程度。その演奏でも、G.L.ヨッフムの指揮の特徴ははっきり聞き取れますが、なにせヒトラー肝煎りのオケによる演奏ですので、先入観なしに味わうのは難しかもしれません。その点ここに収録した2曲は、心置きなく感動していただけると思います。シューマンは、日本で発売されたG.L.ヨッフムのLPは、伴奏もの以外ではこのシューマンが唯一と思われます。

★私のG.L.ヨッフム初体験は、ブルックナーではなくこのシューマン。聴いた途端に大いに感動したと同時に、かつてナチ党員だったという理由だけで葬り去っては大損失だと確信しました。その音楽作りは、兄オイゲンが南欧的でロマン主義的とするなら、G.Lヨッフムはもっと現代的で、造型のメリハリ重視型。響きの凝縮力とオケの統率力は、兄よりも上かもしれません。トスカニーニほどザッハリヒではなく、フレージングにしなやかさと美しさを湛える資質はブルックナーでも存分に発揮していましたが、ここではその高次元の芸術を更に良い音で堪能できるのです!
シューマンは、まさに春爛漫!第1楽章主部は一途な推進力に溢れながら、細部にまで配慮が行き届き、第2主題の木管を支える弦の刻み(2:26〜)など、ジョージ・セルのような緻密さを見せます。展開部で金管楽器の補強措置が当然のように響くのは、G.Lヨッフムの並外れたバランス感覚の証左。第2楽章は更に求心力絶大。この楽章だけでも並の名演ではないことを実感いただけることでしょう。長い音を引き伸ばす際に独特のクレッシェンド効果を与える(第1楽章7:42〜など)のは、他の録音でも聴かれる特徴ですので、G.Lヨッフムの趣味かもしれませんが、これはスタイルとしてはむしろ旧タイプ。そうした単純にカテゴライズできない独自のスタイルを堪能するのも一興です。
このシューマンだけでも手応え十分ですが、ブラームスがまた凄い!第1楽章第1主題の弦のシルキーさ、第2主題の心震わせた歌に心奪われない人がいるでしょうか?フレーズの冒頭に明確な意思を持ってアクセントを配して音像を明瞭化させるなど、音楽を曖昧模糊とさせない徹底した配慮にも要注目。第2楽章は、テンポのメリハリ感が強烈。それに伴い感情の起伏が生々しく表出されます。終楽章は8分台の高速モードですが、高潔な精神が最後まで漲らせながら手に汗握る高揚を築き、聴後は最良のブラームスを味わい尽くしたという満足感で満たされること請け合い!
ちなみに、2曲ともライヴ録音ながら拍手も会場ノイズもないので、放送用録音と思われます。【湧々堂】

TRE-148
L・ルートヴィヒ〜「未完成」&「新世界」
モーツァルト:歌劇「イドメネオ」序曲*
シューベルト:交響曲第8番「未完成」
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」#
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
ハンブルク国立歌劇場O*、LSO

録音:1960年代中期*、1959年11月17日、11月16日#(全てステレオ)
※音源:独EUROPA E-177*、日COLUMBIA MS-1102EV
◎収録時間:68:11
“斜に構えず、誇張せず、音楽の魂をひたむきに追求!”
■音源について
2つの交響曲はエヴェレスト音源ですが、全帯域に渡りバランスが良く、プレスにもムラがない日本プレス使用しました。

★シューベルトもドヴォルザークも、ロンドン響の機能美と潜在的な表現意欲を出し尽くした素晴らしい演奏。埋もれたままではあまりにも惜しい逸品です。
「未完成」の第1楽章は、衒うことなくごく標準的なテンポで進行しながら、内省美と内なる炎を兼ね備えたニュアンスを常に携え、特に展開部の充実ぶりが忘れられません。第2楽章は、 シューベルトに共感しきれない指揮者ほど間が持たず、音楽に過剰なコントラストを施しがち ですが、ルートヴィヒにはそんな誤魔化しは無用。6:41からの木管の旋律と弦のリズムが一体 となって進行するシーンは、木管を透徹した響きで際立たせる演奏もありますが、ルートヴィ ヒは決して音楽の構造を解析するような真似はしません。しかもロンドン響には珍しく、人肌 のぬくもりを持つ音色で一貫しているので、より心に染みます。 その素朴な音色を活かして、人間味満点の演奏に結実させているのが「新世界」。ケルテス、 ロヴィツキ、C.デイヴィスと、ロンドン響による「新世界」は全て逸品揃いですが、研磨剤を 用いない「作りたての味」と純粋な情熱という点で、他とは大きく一線を画しています。中でも特筆したいのは、第3楽章の結晶度の高さ! テンポも相当速いですが、どこにも無理がなく、その自然発火的な勢いが完全に作品と一体化 しているのです。終楽章もライヴ録音のような白熱ぶり。コーダの9:22から、トランペットの みならずホルンも同じテンションで全身で吹きまくる様は、何度聴いても鳥肌が立ちます。 ルートヴィヒは、決して地味な指揮者ではありません!【湧々堂】

TRE-149
アルトゥール・ローター〜劇付随音楽集
ウェーバー:「オベロン」序曲
 「プレチオーザ」序曲*
シューベルト:「ロザムンデ」(抜粋)**
 序曲/間奏曲第3番/バレエ音楽第2番
メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」(抜粋)#
 序曲/スケルツォ/夜想曲/結婚行進曲
アルトゥール・ローター(指)
ベルリン国立歌劇場O

録音:1956年9月16日、1956年6月16日*、1957年6月20日**、1957年3月27日-4月3日#(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SLT-43011、SLT-43010**,#
◎収録時間:68:58
“聴き手の感性を刺激する究極の音の紡ぎ出し!”
■音源について
シューベルト&メンデルスゾーンのレコードは、スタンパー番号1と2を入手。一般的にスタンパー番号が若いほど、メタルマザーの劣化は少ないはずですが、ここではスタンパー番号2の方が明らかに音抜けと奥行き感は上でしたので、それを採用しました。ウェーバーは、6曲収録した「序曲集」から抜粋。1989年にCD化されましたが、その音は雑味皆無ながら、オケの響きの魅力が消滅し、古臭いステレオ音にしか聞こえませんでした。

★劇場叩き上げ指揮者の典型であるローターの魅力が満載!ベルリン国立歌劇場のオケの燻し銀の響きと相俟って、決して説明調ではない、聴き手のイマジネーションを掻き立てる雰囲気作りは、昨今の指揮者ではなかなか見られない至芸です。劇場での下積みを経た指揮者は現在でも存在しますが、こういう雰囲気を出せる指揮者もオケも、もはや絶滅状態。効率最優先の時代ですから、仕方ないのかもしれませんが…。
「ロザムンデ」序曲の序奏部の響きからして、何という深みでしょう!その響きそのものが音楽的であり、この先どんなニュアンスの音楽が流れるのか、たちどころに判るのです。1:22からゆったりと弦が下降する場面の手作り感も、主部3:20から第2ヴァイオリンが一瞬クレッシェンドする呼吸感も、後付けの共感では成し得ないでしょう。フォルテの出し方にも常に人間味が宿り、単に音の大きさではなく、包み込むような懐の深さで感動を引き出してくれるのです。そのスタイルで「間奏曲」を奏でたらどれだけ心を打つか、お察しいただけると思います。
「真夏の夜の夢」は、全曲版でないのが実に残念。メルヘンチックな雰囲気を積極的に作り込む手法を取らず、丹念な音の紡ぎ出しに徹するのは、L・ルートヴィヒやホルライザー等の職人気質の指揮者に共通するスタンスですが、逆にあれこれ趣向を凝らされたら、聴き手の感性など出番はなく、夢も描けず、こういう噛めば噛むほど味が出る演奏は生まれないはずです。テンポはどこを取ってもエキセントリックとは無縁。序曲後半の静謐の浸透力は、曲が終わった後まで芳しい香りとともに余韻として残りますし、「結婚行進曲」では、ティンパニ・パートの追加の絶妙な効果と一体となって、隅々までゴツゴツとしたドイツ流儀の響きの魅力がビリビリ伝わります。中間部の呼吸の深さもお聴き逃しなく。
ウェーバーは、「プレチオーザ」が聴きもの。この曲は鳴り物が加わった途端にお祭り騒ぎとなることが多いですが、ローターは鄙びた雰囲気と、素朴な愉しさの表出に終始。その独特のゆとりが得も言われぬ味に直結しています!【湧々堂】

TRE-150
シェルヘンの二大過激名演集
ハイドン:交響曲第100番「軍隊」
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」*
ヘルマン・シェルヘン(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1958年7月、1958年9月18日*(共にステレオ)
※音源:Westminster WST-14044、WST-14045*
◎収録時間:66:58
“伝統美を完全放棄!過激さの裏に迸る絶対に譲れない信条!!”
■音源について
いろいろ聴き比べましたが、結局この本家ステレオ初出盤を凌駕するものには出会えませんでした。この音の生々しい生命感、鋭利な切れ味、ハイドンの第2楽章後半のド迫力など、驚きの連続です。なお、「英雄」は、第2楽章だけティンパニが左から聞こえます。ヴァイオリンの位置は変わってないようなので、全体を左右逆転するわけにはいかず、そのまま収録しましたが、5:22頃に一瞬だけ右側へ移る箇所があり、ここだけは左右反転の処理を行いました(CDでは確かそのままだったと思います)。この定位の不安定さは、ウェストミンスターのステレオ初期録音によく見られる現象ですので、ご了承下さい。

★一口に「過激」とか「爆演」と言っても、その内容や意味合いは様々。私が知る限り、そのことを最も痛切に考えさせられのがこの2つの録音で、シェルヘンという指揮者の独自の芸術性を知るうえでも不可欠だと思います。
正直、「軍隊」終楽章の気が触れたとしか思えない高速テンポに初めて接した時は、思わず吹き出しましたが、次第に笑い事では済まない強烈な確信力に引き込まれてしまったことを昨日のことのように思い出します。第2楽章は、ゆったりとした優美さを貫くと思いきや、そのテンポを後半の金管・打楽器の壮麗さに転嫁させるという設計の巧みさ!ステレオ効果を意識した楽器配置にもドッキリ!
「英雄」は、前回1954年録音のオーソドックスな解釈を放棄し、この録音では異常な高速モードに激変!アンサンブルの正確さ、音の綺麗さなど二の次。でも、決して音楽をオモチャにしているわけでも、上から目線で作品を蹂躙しているのでもなく、シェルヘンは「真剣」であり、「夢中」なのです。DVD化されてたシェルヘンのリハーサル風景では、あまりにも長いシェルヘンの演説に呆れている団員の姿が映っていましたが、彼にとって音楽が全てであり、団員に好かれることなど眼中にないのでしょう。この「英雄」も、自分たちの音楽に誇りを持つ団員たちがシェルヘンの解釈に心酔してと言うよりも、「そこまで言う死ぬ気でやってやる!」的なスタンスで、ウィーンの伝統を一旦放棄してその棒に必死で食らいついている様子が目に浮かびます。
指揮者が通常とは異なる解釈を示した場合、それが聴き手に深く長く訴え掛けるかどうか、瞬間的なショックで終わってしまうか、その命運を分けるものは何か?結局、正しさを追い求めるより、何を表現するかが肝心だと、この2曲を聴くといつも痛感する次第です。【湧々堂】

TRE-151
エフレム・クルツ〜マーチの祭典
R=コルサコフ:「皇帝サルタンの物語」組曲*
 ドゥビーヌシカOp.62*
 組曲「雪娘」〜道化師たちの踊り*
■行進曲集
ヴェルディ:歌劇「アイーダ」〜大行進曲
プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」〜行進曲
R=コルサコフ:組曲「金鶏」〜結婚行進曲
マイヤベーア:歌劇「予言者」〜戴冠式行進曲
ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」〜ハンガリー行進曲
スーザ:星条旗よ永遠なれ
シューベルト(ギロー編):軍隊行進曲
ベートーヴェン:「アテネの廃墟」〜トルコ行進曲
シャブリエ:楽しい行進曲
J・シュトラウス1世(ウィンター編):ラデツキー行進曲
チャイコフスキー:スラヴ行進曲
エフレム・クルツ(指)
フィルハーモニアO

録音:1963年6月26-29日&7月1-3日*、1959年(全てステレオ)
※音源:HMV SXLP-30076*、東芝 AA-8022
◎収録時間:75:58
“解釈のスリルではなく、音楽の楽しさをしみじみ感じたい方に!”
■音源について
「マーチ集」は、音質も盤質も極めて優秀な赤盤を採用しました。奥行きと広がりを兼ね備えた音像を見事に再現しており、「アイーダ行進曲」冒頭のトランペットの輝きなど、惚れ惚れします!ちなみにこの盤では、英盤で1面に収録されていた曲が2面に収録されており、ここでは英盤の順番で収録しています。

★エフレム・クルツ(1900-1995)はサンクトペテルブルク出身ですが。若い頃から欧洲で活躍したせいか、ロシア的な野趣をほとんど感じさせないすっきりとした音作りが特徴的。
R=コルサコフ
でも、熱い共感を顕在化せず、色彩も華美に表出することなく、和やかでメルヘンチックな雰囲気を大切にしているので、感覚的にスリリングな演奏から得られない余韻が醸し出されます。
聴き手に作品のイメージを強烈に植え付けるような力技を用いない謙虚さは、バレエ指揮者としてステージ上の演技の盛り立て役に徹してきた経験から培われたものと思われますが、ショスタコーヴィチの交響曲第10番のような重量級の作品でも、ここに収録した「マーチ集」でも、首尾一貫しているのが興味深いところです。
「星条旗よ〜」でも「スラヴ行進曲」でも、自身の個性や解釈の痕跡を一切残さない姿勢は、ともすれば、単に無気力と誤解されかねねませんが、聴き進むうちに、さり気なく縁の下から作品を息づかせるという地味な凄技に気付かされることでしょう。
確か1970年代頃に、作品への共感も表現力も持ち合わせず、評論家の目を意識しすぎて表現を放棄してしまったかのような無機質な演奏に対して「中庸の美徳」という美辞が安易に使われたことがありました。クルツは個性を前面に出さないからと言っても、そんな駄目指揮者とは大違いです。こういう気の置けない作品たちを素朴に「良い曲だな〜」と聴き手に実感させる…、それこそが本当の意味で「ツボを心得た指揮」というものではないでしょうか。フィルハーモニア管のセンスもいつも通り。【湧々堂】

TRE-152
ワルベルク〜モーツァルト&シューベルト
モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550*
シューベルト:交響曲第3番ニ長調D.200
 交響曲第5番変ロ長調D.485
ハインツ・ワルベルク(指)
バンベルクSO

録音:1961年3月*、1962年12月(全てステレオ)
※音源:日COLUMBIA MS-4*、独Opera St-1985
◎収録時間:77:26
“ただの純朴指揮者ではない!ワルベルク流の音楽の息づかせ方!”
■音源について
全て独Operaへの録音ですが、モーツァルトは優秀な日本盤を使用。当時のバンベルク響の木目調の風合いをしっかり伝えています。Opera盤のジャケットは例によってシンプルな統一デザインなので、ここではOrbis盤のジャケを使用。

★決して作品を弄り回さず、音楽を窮屈なものにしないワルベルクの魅力が満載!強烈な個性を売り物にしないアーチストは、どんなに心を尽くした演奏を繰り広げても「歴史的名演」という賞賛を得られないのが世の常ですが、ここに聴くシューベルトは、Opera盤で聴くことで、まさにその名に値する逸品だと確信しました。通常なら「誠実な良い演奏」くらいの評価でしょうが、とんでもない!聴けば聴くほど、ベームやビーチャム等の有名盤と拮抗するか、それ以上の魅力に気付かされます。
まず、そのベースを担っているのがバンベルク響の温かな響き。それがワルベルクの飾らない人柄と一体化するのですから、いかに音の全てが琴線に触れるか想像いただけると思います。しかも曲が、シューベルトの音楽性が最も自然体に表れている「3番」「5番」というところもポイント。この三者のブレンド効果は筆舌に尽せず、これほど条件の揃った演奏は例を見ません。
「第3番」は、1楽章主部や第3楽章のテンポ、響きの厚み加減、リズムの弾力と、これぞシューベルト!と膝を打つこと必至。特に第3楽章は史上最高の名演!、恣意性皆無の絶妙なリタルダンドを経て滑り出す中間部を聴いて、他の演奏を聴きたくなる人などいるでしょうか?いったいどうやったら肩の力を入れることなく、これほど自然に音楽の感興を導き出せるのでしょう。単にオケに引きたいように弾かせるだけでは、これほどの味わいは生まれないはずです。
「第5番」ではその秘訣がちらっと垣間見えます。第1楽章コーダ4:46から、弦が実体感を伴って駆け上がる走句もそうですが、さらにハッとするのが第2楽章冒頭。通常は第1音からレガートで弾かれますが、ここでは第1音で一旦弓を弦から離しています。これは、アウフタクトの意味をしっかり捉えている証しで、これぞ叩き上げ指揮者のこだわり!それでもそこに厳格性を感じさず、あくまでも音楽があるべき姿で息づいていることを感じていただけるでしょう。
「渋い」とか「素朴」といった形容で済まされる演奏家に対しては、その本質を探る余地がまだまだあることを改めて思い知らされました。【湧々堂】

TRE-153
モーツァルト:レクイエム K.626(ジェスマイヤー版) ヨーゼフ・クリップス(指)
ウィーン宮廷O&cho
ヴェルナー・ペック(Boy-S)
ハンス・ブライトショップ(Boy-A)
ヴァルター・ルートヴィヒ(T)
ハラルト・プレーグルヘフ(Bs)

録音:1950年6月
※音源:KING RECORD ACD-13(Jp)
◎収録時間:55;44
“厳格ではなく厳粛な空気感が心に染みるクリップスの至芸!!”
■音源について
これも様々なプレスが存在しますが、ここでは英メタルを用いた日本プレス盤を採用。今までCDを聴いて、音にも演奏スタイルにも古臭さしか感じられなかった方でも、これを聴けばこの演奏の比類なき魅力を実感していただけると思います。なお、オケの実体はウィーン・フィル、合唱団はウィーン少年合唱団とされますが、ここではレコードの表記のままとしました。ジャケにはフランスの10インチ盤のものを使用。収録時間60分未満につき特別価格。

★この演奏に関して、どうしても特筆したい点が2つあります。第1は、女人禁制だった18世紀の教会の慣習を尊重し、独唱の女声パートをウィーン少年合唱団員が受け持っていること。但し、「伝統尊重」がこの演奏の最大の眼目ではありません。作曲当時のスタイルの検証・考察は、近年のピリオド派の演奏家にとっては最大の責務かもしれませんが、クリップスは決して学術的領域には踏み込まず、音楽家の領分の範疇で、いつものように一心に愛情を込めた音楽を繰り広げ、その愛を注入し尽くそうとする意思が、全体に伝播する浸透力が尋常ではなく、優美さを湛えながらも全員一丸となって確信的な愛の塊と化した音楽の感動は例えようもありません。
第2に、二人の少年独唱の巧さ!特にボーイソプラノというと、多少音程が怪しくても、「純粋さ」故に寛容に受け止められることが多いですが、ここではその音程が確かであるばかりか、音楽の感じ方が尋常ではなく、しかも訳知り顔で背伸びしたような嫌らしさもなく、音楽のニュアンスが本当の意味で純粋に引き出されています。その凄さと、クリップスの見事な采配に触発されるように、合唱もまた渾身の歌唱。第1曲4:10から音が段階的に上行する際の魂の過熱ぶりなど信じ難く、最高潮点から下る際の僅かなポルタメントにもスタイルの古さを超えた必然性を感じさせるのです。テノール、バスの濃厚な歌唱もここでは場違いな印象を与えず、これらが渾然一体となった第4曲“奇しきラッパの響き”は必聴!そして、続く第5曲の「レックス!」の発し方の素晴らしいこと!決して絶叫ではなく、心のそこから畏れ、救いを求めて振り絞った発声が、かなり遅めのテンポを最大限に活用して迫る様に言葉も出ません。
この録音は、クリップスの人間力が総動員されたとびきりの名演と言っても過言ではありません!【湧々堂】

TRE-154
ラインスドルフ&ボストン響・厳選名演集Vol.1〜マーラー
マーラー:交響曲第5番
エーリヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO
ロジャー・ヴォワザン(Tpソロ)
ジェームズ・スタグリアーノ(Hrnソロ)

録音:1963年11月17,23,26日(ステレオ)
※音源:英RCA SER-5518
◎収録時間:64:31
“外面的効果を排し、芸術的な昇華力で勝負した記念碑的名演!!”
■音源について
この「5番」はLP3面分(4面にはベルクの「ヴォツェック・抜粋」を収録)を使っているので、余裕の鳴りっぷり!しかも、この英盤ならではの欧風サウンドで味わう感動は、既発のCDでは到底太刀打ちできません。ちなみに、バーンスタインがニューヨーク・フィルと同曲を録音したのは、同じ1963年の1月のことでした。

★まだマーラーの録音自体が少なく、その解釈もワルターに代表されるようなマーラーの人間性と感情の起伏を押し出した演奏が主流だった頃、それを一旦リセットし、作品を等身大の芸術作品として確信を持って表現した演奏として、決して忘れてはならない名演であり、ラインスドルフが遺したマーラーの最高峰と確信しています。
第1楽章最初の弦の主題は、高潔さと温かさを兼ね備え、さりげないアゴーギクを携えたフレージングに早速惹きつけられます。「突然、より速く、情熱的に荒々しく」でも高潔さを失わず、上滑りせずにしなやかな歌を展開。ヨーロッパ調の美しい響きを保ったまま音楽を内燃させます。7:05からは、憔悴しきった響きに偏らず、決然とした意思を持って響きをブレンドさせる妙味にご注目を。8:51のティンパニソロの巧さにも唖然。その直後の弦の柔和な滑り込みは、ラインスドルフがこの頃完全にミュンシュとは違う指向の音をオケに植え付けていたことを裏付る、象徴的なシーンと言えましょう。
更に、オケの機能美も高次元に引き上げていたことを実感させるのが第2楽章。木管の内声パートは常に明確な主張を持って発言しつつ、全体は温かで自然なブレンドで一貫。7:31以降のアンサンブルの熾烈な緊張増幅と、破綻皆無のレスポンス、それらをベースにして情感が余すことなく高揚する様は、オケの技術が向上した現在でも滅多に出会えるものではありません。
第4楽章
は、かつてボストン響の響きが最もヨーロッパ的と形容されていたことの意味をとことん実感。その甘美な楽想ゆえに、「第5番」そのものを高く評価しない向きもありますが、それはひとえに演奏次第。音楽の構成への配慮と、過不足のないロマンの香気を同居させたこの演奏で聴く味わいは、他に類を見ません。
時に冗長で外面的と評される終楽章も同様。私自身、この楽章を味わい尽くしたと言い切れる演奏は、このラインスドルフ盤以外には殆ど出会ったことがありません。
ラインスドルフという指揮者自体に、「禁欲的」「無機質」という印象をお持ちの方も多いことでしょう。これまた、以前の私がそうでした。それがこの英プレス盤に触れて一気に払拭されたのです!
ひ、ボストン響全盛期のサウンドの醍醐味と共に、ラインスドルフの真価を実感していただければ幸いです。【湧々堂】

TRE-155
アルトゥール・ローター/オペラ序曲・合唱曲集
J・シュトラウス:「ジプシー男爵」序曲*
 「くるまば草」序曲*/「こうもり」序曲*
ニコライ:「ウィンザーの陽気な女房たち」〜序曲#/月の出の合唱
ウェーバー:「魔弾の射手」〜狩人の合唱/花嫁のために冠を
ワーグナー:「タンホイザー」〜大行進曲/巡礼の合唱
 「さまよえるオランダ人」〜水夫の合唱
 「ローエングリン」〜エルザの大聖堂への入場/婚礼の合唱
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」〜目覚めよ,夜明けは近いぞ
ヴェルディ:「トロヴァトーレ」〜朝の光がさしてきた
 「ナブッコ」〜行けわが思いよ,金色の翼に乗って
アルトゥール・ローター(指)
ベルリン国立歌劇場O*,#
ベルリン・ドイツ・オペラO&cho

録音:1958年6月9-10日*、1956年3月5日#、1960年代前半(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SLE-14211*、SLT-43011#、6.42885
◎収録時間:78:18
“魂の飛翔!劇場叩き上げの本領を発揮した比類なき説得力!”
■音源について
全てドイツ盤を採用。「合唱曲集」のみ70年代のレコードを用いましたが、演奏のコシの強さとハリは失われていません。

★名匠ローターのトレードマークとも言えるオペラ名曲集。J・シュトラウスは、響きの渋さといいカチッと固めた構成力といいウィーン風でないことは確かですが、フレージングまでドイツ訛で押し通しているわけではなく、ローターのシュトラウスに対する惜しげもない愛を感じさせる歌心が、独特のアゴーギクと共に満遍なく盛り込まれている点にご注目!
「くるま草」のワルツ主部の弱拍の末端まで頬擦りするような愛おしさ!3:50からのフレーズでクレッシェンドとディミニュエンドをあからさまに繰り返す演奏をよく耳にしますが、ここではフレーズの冒頭から結尾まで感じきった歌が続くので、そんな操作など一切不要。
J・シュトラウスへの愛の試金石とも言える「こうもり」のオーボエによる“ロザリンデの嘆き”は、音の隈取が克明な上に、対旋律の隅々まで心の震えを反映しきっており、4:35からの一瞬のリタルダンドも溢れる涙を反映するように反射的に音量を上げて吹いているこので、単なる慣習に沿ったたけの演奏とは、ニュアンスの真実味が違います。
「合唱曲集」は、ドイツ・オペラの真髄の端的に示す歴史的録音。体に染み付いた歌とはまさにこのこと。ウェーバー「狩人の合唱」の“ラララッ、ラララッ”の高音跳躍の突き抜け方!楽譜を追っていてはこうは行きません。「オランダ人」の「水夫の合唱」は、うかうかしていると体をどこかに持って行かれそうな牽引力。ムーディーに流れず、目の詰んだハーモニーを確信を持って紡ぐ「ウィンザー〜」の美しさも筋金入り…。ヴェルディの2曲は、もちろんドイツ語歌唱。【湧々堂】

TRE-156
オドノポゾフ〜ブラームス、サン・サーンス他
サン・サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ
 ハバネラOp.83
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲*
リカルド・オドノポゾフ(Vn)
ジャンフランコ・リヴォリ(指)ジュネーヴRSO
カール・バンベルガー(指)フランクフルト歌劇場O*

録音:1955年頃、1954年頃*(全てステレオ)
※音源:日Concert Hall SM-2250、仏Prestige de la Musique SR-9653*
◎収録時間:65:49
“甘美な音色と厳しい造形力を駆使した「語り」の妙味!!”
■音源について
コンサート・ホールのステレオ・バージョンは、特に協奏曲においてソロとオケが溶け合わないことが多いですが、これらは合格。特にブラームスは全体のブレンド感に違和感が無く、同レーベルの協奏曲録音の最高峰と言えます。このステレオ盤は、日本の名曲全集の中の一枚と、アメリカ盤、この70年代のフランス盤しか発見できませんでした。ここでは、オドノポゾフの音色美を最大限に引き出している70年代のフランス盤を採用しました。ジャケ写は独盤。

★リカルド・オドノポソフ(1914-2004)は、アルゼンチン出身。13歳でベルリン音楽大学ヘ入学し、後にカール・フレッシュのもとでで研鑽を積みました。1932年にはウィーン国際音楽コンクールで優勝。同時期に、ウィーンフィルのコンサートマスターに迎えられました。戦時中はアメリカを拠点に活動しましたが、戦後再びウィーンへ戻り、ウィーンアカデミーの教授に就任し、後進の指導にあたりました。
まず、最初の3つの小品でで、オドノポゾフの魅惑的な美音をたっぷりご堪能ください。音の端々まで愛情を注入し、人柄を映したような温かな歌が、音楽のフォルムを逸脱することなく切々と表出され、技巧が表面化することもないので、聴き手の心への浸透力が破格です。特に、ツィゴイネルワイゼン!後半の急速なアレグロに転じる前の「泣き」の凄さ。しかもオドノポゾフが鼻をすするような音まで聞こえ、それほど感極まったのかもしれません。それでも音楽を崩さずに気品を貫く心意気が、また泣かせるではありませんか!
そしてブラームスの究極芸!第1楽章の入り方は、今まで聴いた演奏の殆どは野放図な切込みで誤魔化していたのでは?と思えるほど、音楽を「語る」ことしか念頭にありません。トリルがこれほど心のときめきと直結しているのも珍しいでしょう。第1主題(4:16〜)はオドノポゾフの美音の真骨頂。決して感覚的な美しさにとどまらない慈愛一筋に流れるフレーズに涙を禁じえません。ブラームスにシゲティのような厳しさを求める向きでも、楽章ラストのカデンツァを聴けば、音の意味を一滴も漏らすまいとする集中力と息の長い呼吸に支えられて、芸術的昇華の極地を見せていることを認めざるをえないでしょう。オケが再び加わってから主題が少しづつ上昇するシーンに至っては、オケとの溶け合い方も含めて、これ以上に美しいのものを知りません。ブラームスらしい滋味を象徴する第2楽章でさえ、その真の美しさを湛えた語り口によって、決して音楽が低迷することがありません。終楽章も、切れ味とパワーで押し切る演奏では味わえない、入魂の語り芸!強烈な弓圧で圧倒する瞬間などどこにも存在しません。
このディスクによって、オドノポゾフの芸術性はもちろんのこと、このブラームスの協奏曲の魅力も再発見していただけるものと確信しています。【湧々堂】

TRE-157
サージェントの「わが祖国」
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」
マルコム・サージェント(指)ロイヤルPO

録音:1964年(ステレオ)
※音源:独ELECTROLA SME-80937-38、伊EMI SQIM-6384
◎収録時間:73:31
“歴史的背景に囚われず純粋な音画描写に徹した潔さ!”
■音源について
イギリス盤、ドイツ盤、イタリア盤の各ステレオ初出盤をを比較試聴した結果、最も色彩とスケール感を感じられたのはドイツ盤とイタリア盤でした。「高い城」冒頭のハープの潤いからしてイギリス盤と異なり、ましてや既出CDの平板な音とも違います!ここでは、ドイツ盤を使用しましたが、一部プレス上の不備(ボコボコノイズ)が顕著な箇所はイタリア盤を採用しました。

★「わが祖国」の演奏に際しては、一般的にはチェコの歴史的背景や風土を理解することが不可欠とされます。特にチェコ出身の指揮者によるチェコ・フィルの演奏ともなれば、体に宿るDNAを活かして演奏することはごく自然なことで、説得力も生みます。しかし、サージェントにはそういう土壌がありません。にもかかわらず、あえて全曲録音を敢行したという事実だけでも、この作品への並々ならぬ愛着を窺わせますし、表面的にチェコ流を模しても無意味とばかりに、低徊趣味とは無縁の、純粋で伸びやかな音楽として再現しているのは、なんと潔いことでしょう!通常は意味深長にテンポを粘るシーンで、サラッとインテンポで進行されると一瞬戸惑いますが、聴き進むうちにそれは共感不足ではなく、サージェントの正直で純粋なアプローチの表われだと納得させられるのです。
まず「高い城」冒頭のハープからして魅惑的で、サージェントの純粋な感性をそのまま写すかのようです。「モルダウ」は変わったことは何一つ行なわず、2つの源流が合流し、農民の踊りを眺めつつ夜になり…といった場面転換の強調とも無縁ですが、その自然な進行が夜のシーンの静謐美を一層際立たせます。最も劇的な「シャールカ」では、サージェント独自のダイナミズムを披露しますが、後半ホルンの合図で始まる騎士の殺戮場面でも、残虐さを誇張せず、色彩的な音画描写に徹しているのは、サージェントの素直な志向の現れでしょう。歴史的背景と最も密接な最後の2曲では、ドイツ風のプラミッド型の重厚さとも違うサージェントの音色志向が更に顕著となり、重いテーマを純粋な歌として捉える清々しさが貴重!「ターボル」の最後をティンパニ強打で締めくくるのも、なんと人間的くさいことでしょう。終曲コーダも、チェコの勝利宣言としてではなく、明るい人間讃歌として響きます。
これは、「わが祖国」の名盤として挙がることは少ないですが、少なくともサージェントの音楽作りの確固たる信条を知るには、絶対不可欠な録音だと確信する次第です。【湧々堂】

TRE-158
ウォーレンステイン〜ベートーヴェン&メンデルスゾーン他
ベートーヴェン:交響曲第8番
メンデルスゾーン:交響曲第5番「宗教改革」
シャブリエ:ハバネラ*
 狂詩曲「スペイン」*/楽しい行進曲*
アルフレッド・ウォーレンステイン(指)
ロスアンジェルスPO

録音:1953年3月、1953年2月*(全てモノラル)
※音源:米DECCA DL-9726、英Brunswick AXTL-1063*
◎収録時間:64:24
“剛毅な進行にも作曲家の息吹を絶やさない「宗教改革」の理想像!”
■音源について
全て、米デッカ音源。ブラームス他(TRE-020)、シューベルト他(TRE-036)でも触れたように、これらもロス・フィルの一時代を築いたウォーレンステインの高次元の音楽作りを知るために欠かせない名演揃いです。なお、小さい作品は通常は冒頭に収録しますが、シャブリエは2つの交響曲とは毛色が違うので、アンコール風に最後に収録しています。

★ブラームスの「第2番」等で、既にウォーレンステインの実力を実感された方は、このディスクでも大いにご納得いただけるはず。ここでもウォーレンステインのドライブ能力によってロス・フィルの機能美とセンスを引き出して集中力の高い名演を展開しています。
ベートーヴェンは、この作品の愛くるしさスケール感の両面を表出し、高い推進力を誇りながら決して勢いに任せず、常に音楽の内容に肉薄する意思と一体化したニュアンスで貫かれています。第3楽章0:48からの何気ない弦の刻みが、これほど愛おしく響くのも珍しく、終楽章は、これぞアレグロ・ヴィヴァーチェ!かなりの高速テンポながら、強靭な造型は貫徹。腰のあるリズムの躍動とともに、まさにシンフォニックな響きの醍醐味を堪能させてくれます。
メンデルスゾーンでは、その凝縮性の高い音楽作りが更に開花し、モノラル時代の同曲屈指の名演!淀みない推進力を基調としたアプローチはミュンシュに近いと言えますが、それを熱すぎると感じる方には特にオススメです。第1楽章の序奏から実に晴れやか。しかも単に健康的なのではなく、その中から丁寧にハーモニーの色合いを抽出し、それを感じていることが実感できます。主部以降は、芯の熱い音楽が進行。特に展開部は、メータ以前のこのオケの意欲的な発言力を徹底的に思い知ると共に、ウォーレンステインの地に足の着いたダイナミズムの凄さに圧倒されます。
第2楽章もただの楽園的な音楽ではなく、自然な凝縮力を効かせつつ、各声部を緊密にブレンド。可憐なピチカートも、決してデフォルメとして響くことがないのは、いかにもメンデルスゾーンらしい楽想への配慮が行き届いている証しではないでしょうか。終楽章は高潔なスケール感が見事!コーダでは型通りの締めくくりに飽き足らず、ワーグナー風の大伽藍に塗り変えてしまう演奏も少なくないですが、ウォーレンステインは一切見栄など切らず、単刀直入。聴後は、良質のメンデルスゾーンを味わったと実感していただけることでしょう。【湧々堂】

TRE-159
フレッチャ〜リーダーズ・ダイジェスト名演集1
ロッシーニ:「セミラーミデ」序曲*
チャイコフスキー:「エフゲニ・オネーギン」〜ワルツ#
 弦楽セレナード〜ワルツ#
 「眠りの森の美女」〜ワルツ**
 スラブ行進曲Op.31##
 交響曲第4番ヘ短調Op.36
マッシモ・フレッチャ(指)
ローマPO、ウィーン国立歌劇場O#

録音:1960年8月4日*、1961年6月23-25日#、1960年8月2日**、1960年8月5日##
1961年12月11,15,21-22日(全てステレオ)
※音源:日Victor SFM-3*.**.##、
米Radars Digest RD4-178-2/4(エフゲニ・オネーギン )、RD4-178-2/5(セレナード)、RD4-178-2/10(交響曲)
◎収録時間:76:19
“イタリアの血と汗と歌で染め尽くした驚異のダイナミズム!”
■音源について
マッシモ・フレッチャは、1960年代にリーダーズ・ダイジェストへポピュラー名曲を精力的に録音していますが、CD化されたのは「幻想交響曲」などごく一部。ここで使用したのは、日本のステレオ初出ボックスと米盤のチャイコフスキー名曲ボックス。マニアからは見向きもされないレコードですが、共にウィルキンソンによる鮮烈録音の威力をしっかりと伝えています。

★マッシモ・フレッチャ(1906-2004)は、イタリアの指揮者。1960年代にポピュラー名曲を精力的に録音していますが、彼の名前を目にするのは、ミケランジェリの伴奏指揮者としてくらいでしょう。ここには、フレッチャのことをいっぺんで好きになること請け合いの知られざる名演、「セミラーミデ」「スラブ行進曲」「チャイ4」を収録。
「セミラーミデ」序曲は、ロッシーニの序曲の中でも最も大規模な作品ですが、その特性を徹底的に押し広げ、かつ「ロッシーニ・クレッシェンド」の醍醐味を猛烈な意気込みで聴き手に突きつける大名演!気心の知れたオケとの連帯感も尋常ではなく、多少テンポが前のめりになっても性急さを感じさせず、確実に興奮の坩堝ヘ導く手腕を知ったら最後、フレッチャの名前は脳裏から離れないことでしょう。
「スラブ行進曲」は、チェスキーのCDではパールマンが弾くチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の余白に収録されており、オケ名はロンドン・フィルと書かれていました。ところが、このレコードではローマ・フィルと記載されており、これはどちらかが誤植で、音もCDよりレコードの方が何倍も豪快だと思っていましたが、どちらも早合点!なんと、フレッチャは同曲を同レーベルにオケを変えて2回録音していたのです!つまり誤植ではなく、オケが違うのですから、音の印象が違うのも当然。ただそれほどこの2種の演奏は、注意深く聴かなければ気づかないほど瓜二つなのです。そして更に入念に聴き比べた結果、オケが変わっても同じニュアンスを付している箇所と、そうではない箇所を発見するにつけ、その差異からフレッチャの信念、オケの個性の生かし方、ドライブ能力、音作りの特徴等をまざまざと実感するに至ったのでした。2種の演奏の明らかな共通点としては、この曲の野趣に焦点を当てながら入念に歌を注入していること、後半の2小節間のティンパニ・ソロに極度にドライな強打を要求し、推進力を露骨に表出している点などが挙げられます。特に、ティンパニ・ソロの箇所は、大抵は落ち着き払って「ボン,ボン,ボン,ボン」と叩くのが常ですが、スコアには「ピュモッソ(躍動して)」の指示があるのです。それをそのままストレートに解釈するあたり、嬉しいじゃありませんか!相違点は、3:12からの金管の吹かせ方。短い音価をより短く詰めるのは、ワルター・ゲールの「チャイ5」(これもローマ・フィル!実体が同じかは不明)でも見られた現象。ロンドン・フィル盤では楽譜通りなので、イタリア・オケならではのセンスと言えましょう。
交響曲第4番は、その確信的なダイナミズムをそのまま持ち込み、情感のうねりを丸出しにしているので、その凄さはご想像いただけるでしょう。これこそが正真正銘の「爆演」です!
第1楽章第1主題の、先のドラマを予見させるヴェルディ風の歌い込み方から、コーダ(7:07〜)の奈落のどん底に落ちて茫然自失のルフト・パウゼまで、聴き手をの心を掴んで離しません。第2楽章は、本気の嗚咽の連続。それは単に思いつきの感情ではなく、微妙な強弱と色彩の陰影を敏感に察知しながら形成されたニュアンスばかりなので、最後のファゴットが消え入る瞬間までまで、表面的に響くことなど皆無。そして、凄すぎる終楽章!冒頭バス・ドラムの最後の一撃がここまで腹に響くことなど滅多になく、優秀録音の成果だけではなく、フレッチャの妥協のない意思を込めた砲弾のよう。1:35からの民謡主題は結尾をテヌート気味に奏でますが、この人間くさい歌がまた泣かせます。コーダは、これまで積み上げた艱難辛苦を根こそぎひっくり返す大洪水!まさか、この演奏に物足りなさを感じる方はいないと思いますが、逆に、やり過ぎだと一笑に付されないことを願うばかりです。【湧々堂】

TRE-160
レオポルド・ルートヴィヒ/ハイドン:「ホルン信号」他
モーツァルト:「コシ・ファン・トゥッテ」序曲*
 「ドン・ジョヴァンニ」序曲*
ハイドン:交響曲第31番「ホルン信号」#
 交響曲第73番「狩猟」
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
ハンブルク国立歌劇場O*、
バイエルンRSO
クルト・リヒター(Hrnソロ)#

録音:1960年代中期*、1966年4月6&8日ビュルガー・ブロイ・ホール(ミュンヘン)全てステレオ
※音源:独EUROPA E-177*、独ELECTRORA SME-91601
◎収録時間:63:05
“指揮者の存在感を極限まで消して作品の様式美を徹底表出!”
■音源について
ハイドンは、ルートヴィヒが1960年代中頃にエレクトローラに遺した重要な録音の一つ。使用したのはドイツ盤・金レーベルの第2版です。

★ローター、ホルライザー、ワルベルクような職人気質の指揮者には、特に古典作品においては何よりも作品の様式感の表出を最優先し、自身の解釈を前面に立てないという共通点があります。このルートヴィヒも例外ではなく、ベートーヴェンの第7交響曲(TRE-023)でさえケレン味皆無のスタンスを貫徹していましたが、ここでの2曲のハイドンは、自分の存在自体までも消し去り、背後で勘所だけを締めるまさに職人芸の究極形!楽譜の余白を埋めるようにスリリングなスパイスを注入するアーノンクールのようなスタイルとは好対照なので、どこをどう味わえばよいか戸惑う方も多いかもしれませんが、聴き進むうちに、作品の内なる声を引き出すことに意識を傾注することの大切さと、古典の様式そのものに典雅な味わいが宿っていることをしみじみと思い知らされ、ハイドンが思い描き、当時の聴衆が期待したものに合致する音楽再現を目指すなら、当時の楽器や奏法を模倣するより、まずこの「自分を消す」スタンスこそ不可欠と思えてきます。
自己主張よりも作品自体の主張に耳を傾ける姿勢は、「ホルン信号」第2,4楽章のホルン、ヴァイオリン、チェロなどが協奏曲風に活躍するシーンでも同じ。各奏者は決してソロとして前に出ず、音楽の一部分としての立場を弁えながら、いつも通りに奏でるだけ。バイエルンのオケの技量の高さは言うまでもありませんが、そのことに気づかないほど空気のように流れる音楽…、これ以上に音楽から邪念を排除し、純化させることは不可能ではないでしょうか?
決して指揮者の個性的なアプローチを楽しむための演奏ではありません。古典音楽に対する指揮者の矜持と抑制の美学が、作品を活かすことだけに使われている最高の実例として、是非とも一聴をお勧めします。わずかな共感だけで作品に臨み、何の余韻も残さない演奏とはどこがどう違うか、感じていただければ幸いです。【湧々堂】

TRE-161(2CDR)
クナッパーツブッシュ〜ブラームス・プログラム
悲劇的序曲
ハイドンの主題による変奏曲
交響曲第3番
ハンス・クナッパーツブッシュ(指)
シュトゥットガルトRSO

録音:1963年11月15日(モノラル・ライヴ)
※音源:Private HKV-TY4/5
◎収録時間:81:48
“いびつな造型の先にある昇華を極めた芸術性!”
■音源について
1963年11月15日の全演奏曲目を収録した2枚組LPの全てを復刻。交響曲と変奏曲はHanssler(SWR)からCD化されていますが、ステレオ的な広がりを加え、ノイズを過剰に消した人工的な音に違和感を感じた方も多いはず。このLP盤の音は、もちろん無修正で自然体。クナ最晩年の芸術を心ゆくまで堪能していただけると思います。

交響曲第3番はクナの十八番だけに、数種存在する録音の全てが魅力的ですが、中でも異彩を放つのがこのシュトゥットガルト盤!この優秀な放送オケ特有の機能美と指揮者の意図の咀嚼力により、「巨大でいびつ」なクナの巨大造型が、極端な誇張としてではなく、芸術的に昇華した形で聴き手に迫ります。
第1楽章の第2主題直前の長いスパンでのリタルダンド、再現部直前の雑念を配した清明なニュアンス、第2楽章4:15からの幽玄美、第3楽章のチェロの対旋律の官能的な呼応、超低速をもて余すことなく音楽を感じきったホルン・ソロ、唐突さ以上に儚さが心に染みるルフト・パウゼ(6:30)などは、全体を貫く超低速テンポとともに、「枯淡」の一言では済まない最晩年ならではの精神的な高みを象徴するニュアンス。終楽章の再現部(7:31〜)のティンパニ追加は他にも類例はありますが、強烈な意思の注入力はクナがダントツ。これも、ウィーン・フィル盤(1955年)の方が感覚的なインパクトは上かもしれませんが、奏者の側、あるいはクナ自身の魂胆が露骨に出過ぎている感もなきにしも非ず。その点、シュトゥットガルト盤はやっていることは同じなのに、完全に雑念を超越し、強固に結実しきったニュアンスとして響くのです。
崇高な精神を湛えたこのニュアンスは、他の2曲でも全く同様で、これら抜きの名演選びなどあり得ません!
「ハイドン変奏曲」は、第4変奏ではテンポこそ標準的なものですが、音符の隅々まで物憂げなニュアンスが充溢し、一方、第6変奏は通常の倍のテンポですが、少しも異様に響かず、このオケには珍しく鄙びた音を発する冒頭ホルンの味も含め、これを聴いてしまうと、他の演奏を想定できなくなるほどの説得力。故宇野功芳氏も「クナッパーツブッシュのベスト演奏の1つに数えられるだろう」と述べています。
そして「悲劇的序曲」の感動的なこと!第1主題は拍節感を失う寸前の低速の極みですが、その分、各音の情報量が尋常ではありません。第2主題(3:50〜)に差し掛かると、このテンポ設定がツボを得たものであることも痛感。「クナ=超低速」とイメージされがちですが、そんな単純ではないことは展開部で明らかに。7:23からの進行は、標準的テンポよりむしろ速め。この対位法的楽句が次第に高揚する過程での決然とした意志力、それが沈静化して第2主題が再現されるまでの彼岸のニュアンスは特に聴きものです。【湧々堂】

TRE-162
デ・ブルゴス〜「カルミナ・ブラーナ」
オルフ:カルミナ・ブラーナ
ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス(指)
ニュー・フィルハーモニアO
ルチア・ポップ(S)
ゲルハルト・ウンガー(T)
レイモンド・ウォランスキー(Br)
ジョン・ノーブル(Br)
ワンズワース・スクール少年cho

録音:1966年
※音源:英EMI SAN-162
◎収録時間:60:51
“人生の光と影に様々な角度から光を当てた画期的なアプローチ!”
■音源について
この曲も、「春の祭典」「ツァラトゥストラ〜」等と同様に、録音技術の進歩に伴い、オーディオファイル志向に傾き、音楽的な味わいの幅を狭まってしまった感が否めない一曲。そのことを最も痛烈に実感させるのが、このブルゴス盤です。思えばステレオ初期までは、有名なヨッフム盤はもちろんのこと、あのストコフスキーでさえ外面的な効果よりも、歌のニュアンスが最優先でした。使用レコードは、SANの第2版。

★ブルゴスの「カルミナ」と聞くと、ラテン的な熱血漢の演奏を想像しがちですが、実際はまるで正反対。音響効果を念頭に置かず、詩の内容をじっくり炙り出すことで、この作品の陽気な人間讃歌としての側面だけはなく、人生の影にも焦点を当て、極めて含蓄に富んだ作品として再現しているのです。
最初にハッとするのが、[05]《見よ,今は楽しい(合唱)》。冒頭を囁くようなソフトな響きで開始し、美しい花園をゆっくり堪能するような風情を醸し出しています。デリケートなニュアンスが逃げないように育みながら進行するスタンスは、この演奏全体に通底しています。
オケだけによる[06]《踊り》も決しては発散型ではりありません。[09]《円舞曲(合唱)》では、この演奏が歴史的名演であることをますます確信。ニュアンスの多彩さは尋常ではありません。特に弱音のニュアンスにご注目を。
ニュアンスの細やかさでは、[12]《昔は湖に住まっていた》のオケ冒頭部も同様。続くテノールのアプローチは、よくありがちな「泣きわめき」ではなく、自身の不運をひたすら語り、聴き手が耳を傾けてくれることをじっと待つかのような絶妙な雰囲気を醸しています。
[14]《酒場に私がいるときにゃ(男声合唱)》もまた絶品!テンポの切り替えと詩のニュアンスとの見事なシンクロ技で、訴え掛けの強さは並ぶものなし!音量パワーで圧倒する演奏ではこうは行きません。
独唱陣も粒揃いですが、何と言ってもポップのパーフェクトな歌唱が光ります。[17]《少女が立っていた(ソプラノ独唱)》はソフトなロングトーンが求められますが、それが完璧な音程で実現されることは極めて稀。[21]《天秤棒に心をかけて(ソプラノ独唱)》は、クリーミーでありながら決して芯を欠かない美声が最大に生き、[23]冒頭の弱音を維持したままでの九度跳躍は、歌唱が軽薄な絶叫に傾いてしまうことが多いですが、ポップは非の打ち所がありません!【湧々堂】

TRE-163
リシャルト・バクスト〜ベートーヴェン
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番「熱情」
ピアノ・ソナタ第14番「月光」
ピアノ協奏曲第3番ハ短調*
リシャルト・バクスト(P)
スタニスワフ・ヴィスロッキ(指)
ワルシャワ国立PO

録音:1963年頃(ステレオ)
※音源:MUZA SXL-0166、SX-0167*
◎収録時間:77:44
“ベートーヴェン弾きとしてのバクストの芸術性を思い知るい一枚!”
■音源について
ポーランドのピアニスト、リシャルト・バクスト(1926-1999)の録音は少ないのですが、こんな至高のベートーヴェンを遺してくれたことは嬉しい限り。もちろんショパンの録音もありますが、それ以上に高次元に昇華した芸術がここにはあります!

★あまりにも有名なこれらの全ての作品において、バクストは独自の美学に裏打ちされた名演を展開!特にピアノ協奏曲第3番は、作品の質までも数段引き上げたとさえ思えるほど感動的な演奏で、精神と技巧の美しい調和を貫徹した例も他に知りません。タッチそのものが美しい上に、ニュアンスには奥行きを感じさせ、第1楽楽章展開部では、それが独特の憂いを帯びて流れ、カデンツァでは高潔な精神を輝かしい音像に注入し、打鍵の強さに頼らずに威厳を引き出します。第2楽章の瞑想感はリヒテルを思わせ、終楽章はやや遅めのテンポを着実に感じながらの進行が、孤高の空気を醸し出します。ここでも乱暴な強打とは無縁。美しいタッチは美しい精神から生まれることを実感するばかりです。コーダ前の7:46からの何気ない音型の説得力はどうでしょう。オケの有機的な絡みもご注目。
「悲愴」も、あからさまな激情とは無縁。あくまでも心の奥底の悲しみと詩情に焦点を当て続け、「ありがちな名演」とは一線を画します。
詩情といえば、「月光」!あざとさを感じさせない幻想性の徹底表出ぶりとテンポの安定感は、あまたの名演の中でも軍を抜いていることは明らか。第1楽章中間部、旋律線が消えて3連音の音型だけで進行する楽想が、緩やかに美しい弧を描きつつニュアンスを醸成する様は感動の極み!これを聴かずして「月光」を安易に語ってほしくないものです。 【湧々堂】

TRE-164
コンドラシン〜ドビュッシー,ラヴェル、ヒンデミット
ドビュッシー:イベリア
ラヴェル:スペイン狂詩曲
 ラ・ヴァルス
ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容*
キリル・コンドラシン(指)モスクワPO

録音:1961年(ステレオ)
※音源:Melodiya C-01783-4、蘭PHILIPS 835264AY*
◎収録時間:67:39
“ロシア音楽以外で堪能するコンドラシンの比類なき洗練美!
■音源について
クリアな響きで繊細かつダイナミックな音像を目指すコンドラシンの音楽作りは、フランス音楽には打ってつけ。かつてのソ連勢が奏でる西洋音楽は、ロシア風のダイナミズムをそのまま持ち込んだ表情に乏しいものが多かった中、テンポも響きの厚みも色彩も自在に使い分けるコンドラシンの柔軟性は、驚異的と言えましょう。

★特に心を掴んで離さないのが、「イベリア」の第2曲“夜の薫り”。しっとりとした空気が頬を撫でるようなフレージングは官能の香気を導き出し、アゴーギクは憂いを帯び、音符の動きだけを追っていては表出し得ないニュアンスに酔いしれるばかり。“祭りの日の朝”のシャキッとした色彩も聴きもの。
スペイン狂詩曲も、同曲屈指の名演。「イベリア」第2曲でも実証済みの、コンドラシンとエキゾチックな楽想との抜群の相性をここでも思い知り、録音の優秀さも相まって、色彩の移ろいが遠近感を伴ってリアルに迫ります。“前奏曲”コーダのリタルダンドはその典型。“祭り”は、精妙を極めたアンサンブルの凄さに加え、中間部のニュアンスにはどこにも借り物の要素ながく、生々しいことこの上なし!
そして、どうしても特筆したいのがヒンデミット!やりようによっては野暮ったい音楽に堕落しかねない曲ですが、コンドラシンは持ち前の洗練されたダイナミズムを極限まで行使し、モスクワ・フィルの機能性もフル活用することで、そんな危険を完全に回避。恐ろしく盤石な作品に蘇らせています。
まず、第1楽章の速さにびっくりしますが、その快速感の中で音楽を愉しむゆとりを見せるので、無機質に陥ることはありません。第2楽章は、打楽器の連携の巧妙さと、木管の動きの面白さがこれほど際立った例は稀。第3楽章は、響きの硬軟の微妙な変化を克明に捉えていますが、当時のソ連の指揮者の中でこういうセンスを持ち合わせた指揮者が他に思い当たらないことを考えると、コンドラシンの才能がいかに異彩を放っていたか一層思い知ります。
偉大な指揮者ほど確固とした「自分の音」を持っていました。ムラヴィンスキー以外のソ連の指揮者でそれを実感できる人として、コンドラシンを筆頭に挙げることに何の躊躇がありましょう。 【湧々堂】

TRE-165
フェレンチクのベートーヴェンVol.1
「シュテファン王」序曲
交響曲第2番ニ長調Op.36*
交響曲第4番変ロ長調Op.60
ヤーノシュ・フェレンチク(指)チェコPO

録音:1961年1月2-5日*、1961年10月14-17日(全てステレオ)
※音源:SUPRAPHON SUAST-50025*、瑞西Zipperling CSLP-6014
◎収録時間:75:20
“いにしえのチェコ・フィルだけが放つ芳しさと温もり!”
■音源について
ウィーン・フィルやドレスデン・シュターツカペレ等と同様、チェコ・フィルも、グローバル化の波に押されてその独自の音色美は失われてしまいました。ノイマン時代まではその独自色を感じられますが、それ以前のステレオ初期には、さらに素朴な手作り工芸品のような風合いがあり、響きそれ自体が音楽的ニュアンスを濃密に湛えていました。その当時のオケの素の魅力は、「チェコの指揮者によるチェコ作品」以外で聴くことにより、一層浮き彫りにされるように思われます。その音源として、フルネやボドが指揮者したフランス音楽と共に欠かせないのが、フェレンチクによるベートーヴェン!フェレンチクとチェコ・フィルのスプラフォン録音は、この他に「献堂式」序曲があるのみ。2つの交響曲は廉価CDで発売されたこともありますが、なかなかカタログに定着しません。

★フェレンチクといえば「穏健、地味」という印象を持たれる方多いと思いますが、まずは、「シュテファン王」序曲でそのイメージを払拭していただきましょう。作品のフォルム内でニュアンスを内面から育み、安定した造形美を確立する手腕は、誰も侮れないはずです。
交響曲第2番は、第1楽章序奏部からアーティキュレーションに並々ならぬこだわりを見せ、その姿勢が全体に凛とした気品を付与し続けます。主部以降の脂肪分を抑えたすっきりした音像は、まさに当時のチェコ・フィルならではのものですが、それに頼るだけでなく、確固たる意志による制御が効いているので、音楽の軸がぶれないのです。第2楽章は音色美の宝庫!木管がさりげないスパイスとして作用した温かい風合いは必聴。特に1:25からの木管と弦の対話は、お聴き逃しなく。第3楽章は、何一つ変わったことはしていませんが、他のアプローチを想定させないほどの求心力が横溢。終楽章は、オケを自然に乗せ、高揚させ、聴き手を引き込む手腕が流石。背後に隠れながら手綱は絶対に緩めない、まさに職人芸の極み!
「第4番」も楷書風の進行を崩しませんが、小さく凝り固まることなく、音のニュアンスが余すことなく表出されます。ここでも、木管の豊かな風情に特に心奪われ、特に後半2楽章でフルートが加わった一瞬のフレーズに、ほのぼのとした光が差し込む様は実に魅力的。そして、終楽章0:58からの木管の相の手で、音をスパッと切る効果の絶妙さ!普段めったに冗談を言わない人が、急にダジャレを口にしたような、不思議な面白さがふわっと沸き起こるのです!
なお、交響曲第2番第1楽章は、提示部リピートなし。第4番は、第1,第4楽章のリピートを慣行しています。 【湧々堂】

TRE-166
リンパニー/リスト&プロコフィエフ
リスト:ピアノ協奏曲第2番*
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番
 ピアノ協奏曲第3番
モーラ・リンパニー(P)
マルコム・サージェント(指)ロイヤルPO*
ワルター・ジュスキント(指)フィルハーモニアO

録音:1962年10月*、1956年5月2-3日(共にステレオ)
※音源:伊RCA GL-32526*、英WRC T-735
◎収録時間:61:09
“リンパニーの飾らない気品を堪能する協奏曲集!”
■音源について
★プロコフィエフは、迷わずW.R.C盤を採用しました。ステレオ最初期とは思えぬ高音質で、ホールの空間に音がしっとりと浸透する様子を感じていただけると思います。リストは、リーダーズ・ダイジェスト音源。

★濃厚な色彩や激情を狙わず、ひたすら音符の意味の丁寧な表出に専念するリンパニーの特徴がはっきりと示された協奏曲録音。3曲とも華麗なヴィルトゥオジティを前提とした作品ながら、そこに照準を合わせないのがリンパニー。特にプロコフィエフでは、土俗趣味を排し、独墺系作品と何ら変わない堅実なアプローチに終止しているので、アクロバット的なスリルではなく、じっくり音楽を味わいたい方に納得していただけると思います。
「第1番」は、使用音盤の質の良さも手伝って、第1楽章冒頭から、ホールのトーンと見事に溶け合ったタッチが豊かに広がり、一気に心奪われます。プロコフィエフ特有の打楽器的筆致とリンパニーならではの気品溢れるタッチが絶妙に融合したニュアンスも魅惑的。終楽章では、打鍵の力感だけで押し通す演奏では味わえない、楽想自体が持つ表情がひしひしと伝わります。第1楽章主題が回帰するコーダの高貴な響きも、とくと御堪能下さい。
有名な「第3番」は、近年はテンポが高速化の一途を辿っているようですが、聴き手を驚かす手法とは無縁のリンパニーは、ごく標準的なテンポによる誠実な演奏で一貫。すぐに分かる刺激に訴えることなく、噛めば噛むほど染みてくる演奏とはまさにこのこと。第1楽章展開部の都会風のオシャレな空気感や、終楽章冒頭で、打鍵のエッジを立てずに穏やかに語るような仕草が、特に忘れられません。ロシア音楽に定評のあるジュスキントの指揮も、ツボを決して外しません。
リストも、リンパニー生来の気品が息づく名演。作り込んだ上品さとは違うことを実感していただけるでしょう。この曲はどうしても派手なパッセージに注目しがちですが、アレグロ・モデラート([03])で、リストの音楽の純真さ、リリシズムが確実に引き出すリンパニーのアプローチは無視できません。最後のグリッサンドも、、見世物的なパフォーマンスとは無縁。どのピアニストも大向こうを唸らせるようなアプローチばかりで飽き飽きしている方は、是非ご一聴を!【湧々堂】

TRE-167
アントルモン〜ショパン&「展覧会の絵」
ショパン:バラード第3番/夜想曲Op.27-2
 即興曲第1番Op.29/タランテラOp.43
 スケルツォ第1番/ポロネーズ第5番
 軍隊ポロネーズOp.40-1
ムソルグスキー:展覧会の絵*
フィリップ・アントルモン(P)

録音:1958年(モノラル)
※音源:米EPIC LC-3316、米COLUMBIA ML-5301*
◎収録時間:78:49
“誰も語ってくれないアントルモンの本来の実力!”
■音源について
アントルモンのメジャー・デビュー当時の録音。ショパンは、後年のステレオ録音は繰り返し発売されていますが、このモノラル盤の説得力には遠く及ばないと思います。

★「なぜアントルモン?」と怪訝に思われるかもしれませんが、ここに収録した録音は、「アントルモンの最高傑作」であるだけでなく、有名名盤と堂々比肩し得る超名演だと断言させて頂きます。アントルモンというピアニストには、レパートリーは広く、技巧も申し分ないのに、どこか物足りなさを感じる方が多いと思います。米コロンビアは、この若手ピアニストを強力に売りこもうとしていたことはバーンスタイン、オーマンディという看板指揮者と惜しげもなく有名協奏曲の録音の機会を与えたことでも明白ですが、その期待とは裏腹に、ホロヴィッツ、ゼルキンという巨匠とも比較されたことでしょう。そんなジレンマの中、とにかく録音スケジュールをこなすことに追われて、自己を見つめる余裕などなかったのが、その要因かもしれません。少なくとも、M・ロンやJ・ドワイアン門下であることを窺わせる香りはほとんど感じ取れません。ところが、ここに聴くアントルモンは違います!20代前半の演奏ですので、感覚的に瑞々しいのは当然ながら、感じたままをそのまま表面化するのではなく、更に思慮深く音楽を見つめ、内省的な美しさも湛えながら一本筋の通った名演奏を展開しているのです。それもショパンで言えば、たまたま1、2曲が良いのではなく、7曲全てが絶品!今の自分の表現で納得できる作品だけを厳選したと思われる選曲も、成功の大きな要因だと思われます。
バラード第3番は、第2主題が現れるまでの間だけでも聴きどころ満載。拍節感を保持しながら音楽を停滞させず、1:40からの高音の可憐な囁きでも魅了。第2主題直前の間合いの良さは空前絶後。その第2主題は、ニュアンスを十分に発揮しつ制御が効いているので、音楽の豊かさ、深さが一層際立ちます。夜想曲第8番は流麗な中にも芯の強さがあり、ニュアンスが結晶化された逸品。あえてベスト1を選ぶならこれ!…と思いましたが、他の曲を外す理由が見つかりません。スケルツォ第1番は鋭利なダイナミズムのみに走らず、根底からフレーズを突き動かしながら歌い、聴き手の心に根付く表現を慣行。中間部のフレージングは、それこそ後年の録音からは感じにくい有機的ニュアンスの連続。実は、私がアントルモンのイメージを一旦リセットする必要性を感じたのは、ポロネーズ第5番をある場所で聴いたのがきっかけでした。瑞々しいのに若さに任せず、ドラマチックなのに誇張を感じさせないそのセンス!一音ごとのニュアンスの吟味の深さも尋常ではありません。
「展覧会の絵」も、アントルモンの身の丈にあったスケール感を素直に表出した名演。各曲の性格描写には一切誇張や嘘がなく、聴き手にダイレクトに訴えかける力があります。“テュイルリーの庭”は、強弱の盛り込みが全てツボにはまり、続く“ビドロ”は、変に大風呂敷を広げず、後半の鎮静に向かうシーンには一抹の郷愁さえ感じます。
CD時代に入って、アントルモンの名を目にするのは、寄せ集め名曲集の類いばかり。一体誰が彼をそんな扱いにしてしまったのでしょうか? 【湧々堂】

TRE-168
ボンガルツのドヴォルザーク
バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番*
ドヴォルザーク:交響曲第7番
ハインツ・ボンガルツ(指)
ゲルハルト・ボッセ(Vn)*、
フリーデマン・エルベン(Vc)*
ハインツ・ヘルチュ(Fl)*、
ハンス・ピシュナー(Cem)*
ライプチヒ・ゲヴァントハウスO*
ドレスデンPO

録音:1960年代初頭*、1962年12月17-20日(共にステレオ)、
※音源:羅ELECTRECORD STM-ECE-0672*、独ELECTROLA STE-91328
◎収録時間:62:42
“豪華絢爛な響きでは気づかないドヴォルザークの真価!”
■音源について
ドヴォルザークはエテルナ音源ですが、ここでは良質なエレクトローラ盤を採用。ただし、ピッチに異常が見られたので、修正を施しました。

★ドヴォルザークの「第7番」は、ドイツ様式への傾倒を示した作品とされますが、演奏スタイルも、ドイツの職人気質で押し通すとどう響くか、その最高の具体例がこのボンガルツ盤です。
ドレスデン・フィルは、ケーゲルとの共演で知られるまではシュターツカペレの影に隠れて目立ちませんでしたが、1870年の創立以来、東ドイツの音楽文化に大きく寄与。ブラームスやドヴォルザーク等も指揮しています。戦時中は一時解散の憂き目に会いますが、戦後再結成。それ以来1960年代までオケを支え続けたのがボンガルツです。
第一音が鳴った途端にハッとするのが、いかにも旧東独的な燻しきった響き。しかも演奏には、効果を狙う素振りもなく、各ブロックを丁寧に積み上げるという実直な姿勢に終始。しかし、その遊びの一切ない渋さが、ドヴォルザークの純朴さを映すかのようで、確かな味わいとしてじわじわ迫るのです。
第1楽章の第2主題には、単に丁寧に譜面を追っているだけではない、句読点をはっきり意識したフレージングに共感に満ちた呼吸が息づき、展開部は革張りのティンパニの響きが中核をなす堅牢な構築が見事。コーダが静かにたそがれる様にもご注目を。第2楽章は白眉!。以外にもさらりとした進行で開始しますが、主部旋律(1:24〜)の緻密な美しさに触れれば、この演奏の質な高さを実感できるはず。第3楽章のコーダ直前に現れるワーグナー風のフレーズは、このオケで聴くことで魅力倍増。終楽章は小節ごとに噛んで含めるようなニュアンスの醸し出し方!音楽を先に進めて欲しくないと思わせるほどの余韻を生むという、素晴らしい至芸です。4:14からの自然なテンポの落とし方とニュアンスの育み方も流石。 
とにかく「渋味尽し」ですが、渋いことが良いのではなく、全ての渋さに音楽的な意味が備わっているのが凄いことなのです。音像を肥大化させた金ピカの演奏とは対極的なこの演奏で、ドヴォルザークの音楽の奥深さを再認識していただけることでしょう。【湧々堂】

TRE-169
ブランカール〜モーツァルト&シューマン
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調 K.281
 ピアノ・ソナタ第5番ト長調 K.283
 ピアノ・ソナタ第15番ハ長調 K.545
シューマン:ノヴェレッテンOp.21*
ジャクリーヌ・ブランカール(P)

録音:1951年10月、1955年*
※音源:日King LY-34、英DECCA LXT-5120*
◎収録時間:78:08
“音楽の自律的な推進性を引き出すブランカールの至芸!”
■音源について
モーツァルトは、あえて国内初期盤を採用。当時のプレスの優秀さを実感いただきたいと思います。LXT-5120はチリパチが気になるものが多く、3度目にようやく良質盤に出会えました。

★ジャクリーヌ・ブランカール(1909-1979)はパリ出身の女流ピアニスト。パリ音楽院でイジドール・フィリップに師事。国際フォーレ・コンクルで優勝して注目を浴び、ラヴェル:左手のピアノのための協奏曲の世界初録音を果たしたことでも知られますが、録音数はごくわずか。コルトーが書いた『ピアノ・テクニックの合理的原理』を初心者向けに要約した『初心者のためのピアノ・テクニックの基本原理』の著作でも知られるように、コルトーの良き協力者でもありました。
モーツァルトの国内盤のジャケット解説には、ブランカールのピアノの特徴を「いかにも女性らしい」とか「フランス風」といったいう紋切り型の説明しかありませんが、明晰なタッチで作品のフォルムをきちんと描き、聴き手に迎合するような安直な表現に流れず、まさに時代を問わない普遍的な洗練スタイルは、もっと注目されるべきだと思います。フランス的な香りは結果的に後から付いてくる程度。フレージングは常に自然体。しかがって、L・クラウスのような、人間味を全面に押し出すスタイルとは対極的と言えましょう。その特徴は、K.281の第1楽章でも明らかですが、同3楽章のとぼけたような和声の変化にも身じろがず、誇張もせず、それによってかえって音楽の面白さを増しています。単に「女性的」という表現で済まされないことを最も痛感するのが、K.545。タッチ自体はデリケートですが、音楽の芯は骨太。それが展開部では見事な生命感として放出されます。注目は第2楽章!なんと凄い曲なのでしょう!特に中間部では内面からドラマを一気に引き出し、一瞬で聴き手を別世界に引き込んでしまう、その牽引力を体感して下さい!
ノヴェレッテンは、クララのために書かれた幸福感溢れる小品集ですが、ブランカールの演奏は、その情感を無理に演奏に投影するのではなく、作品を大きく捉えて音楽を伸びやかに推進させます。第1番などぶっきらぼうに聞こえるほどですが、決して乱暴ではなく、純粋な活力が音楽を息づかせます。急速な第2番も一見淡白ですが、中間部の媚びないエレガンスに触れると、それら全てが有機的に連動しているに唸らされます。フランス流エレガンスと言えば、第4番。「舞踏会のテンポで」と書かれていますが、ブランカールはそれを意識して凝ったアゴーギクなど見せず、フワッと香る余韻で魅了。第7番も、音楽の多彩な側面が自然に炙り出されます。
アンドラーシュ・シフのような入念さ、ソフロニツキーの独特の奥深さ等とと聴き比べるのも一興かと思います。【湧々堂】

TRE-170
オドノポゾフ〜メンデルスゾーン&パガニーニ他
ショーソン:詩曲*
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調
パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番
リカルド・オドノポゾフ(Vn)
ジャンフランコ・リヴォリ(指)
ジュネーヴRSO

録音:1955年頃*、1962年(全てステレオ)
※音源:日Concert Hall SM-2250*、英SMS-2205
◎収録時間:72:19
“オドノポゾフの「美音の底力」をたっぷり堪能!”
■音源について
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(TRE-156)に続くオドノポゾフのステレオ・バージョン録音の復刻。コンサート・ホールのレコードは、スイス盤かドイツ盤を使用することが多いですが、協奏曲では英盤を採用しています。ちなみに、メンデルスゾーンとパガニーニはDORONからCD化されていますが、左右チャンネルが逆でした。

★オドノポゾフの「美音の底力」をここでもたっぷり堪能。ショーソンは、その音色が持つ温かい情感によって、作品に流れる陰鬱な空気を和らげ、透徹しきった演奏にはない魅力を発揮。この作品の新たな側面に光を当てています。 メンデルスゾーンでは、その美音は旋律に気品を与え、切々と語ることで曲想の魅力が膨らみます。何とか他者との差別化を図ろうと、意図的に豪快に演奏されることもありますが、この作品には何よりも「慈しみ」が不可欠であることをオドノポゾフは教えてくれます。10:35からの音の置き方に象徴されるように、「弾き飛ばし感」がゼロなのです!その音作りは、第2楽章で更に開花。多くの人がこの曲に期待する全ての要素が盛り込まれていると言っても良いでしょう。名盤ひしめく超名曲とはいえ、この演奏を度外視する理由などどこにもありません!
このメンデルスゾーンとパガニーニは、オドノポゾフ40代の最充実期に行われいることも、重要なポイントですが、特にパガニーニでは、それを実感。グリュミオーが遺したステレオ録音は、持ち前の音色美に技巧の衰えが影を落としていたことが残念だったことを思うと、オドノポゾフがこの時期に録音できたことは実に幸運でした。しかも演奏の魅力が破格!この曲の理想を実現した数少ない名演だと思います。御存知の通り、この曲はベートーヴェンとは違い、技巧が命。とは言え、技巧ばかり押し付けられると虚しいばかり。そういう危うさとは全く無縁のところで、技巧と表現を見事に調和せさせ、自己の美学を徹底貫徹したこのがこ演奏です。パガニーニだからといって変な魂胆を持たず、7:48からのトリルに表れている通り、メンデルスゾーンと何ら変わりない慈愛の心でフレーズを積み上げていることが伝わります。この曲を聴いて痛快さは何度も味わったけれど、「いい音楽を聴いた!」と痛感したことがないという方、必聴です!なお、オーケストラ・パートは短縮版が採用されています。【湧々堂】

TRE-171
バルビローリ〜「ブラ4」旧録音
ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番
ウェーバー:「オベロン」序曲
ブラームス:交響曲第4番ホ短調*
ジョン・バルビローリ(指)ハレO

録音:1959年4月、1960年9月*
※音源:英PYE GSGC-2038、GSGC-1*(全てステレオ)
◎収録時間:64:25
“渋味に逃げず果敢に愛をぶつけたバルビローリの代表盤!”
■音源について
通常は、既存CDの音に満足出来なくて復刻を決意することが多いですが、これは全く逆!Pye音源のブラームスは、PRTレーベルによる初CD化盤の音が実に鮮烈で、復刻のディスク選定にあたっては、その音に近づくことを念頭に置きました。そして出した結論は、“黒金ラベル”盤。バルビローリの魂が聞こえます!

★バルビローリのブラームスといえば、ウィーン・フィルとの全集があまりにも有名ですが、あえてこのハレ盤ををご紹介する理由は、もうお判りかと思います。ウィーン盤を全否定する気はありませんが、素晴らしすぎるハレ盤を差し置いてまでウィーン盤を持ち上げる評論家の方々には同調できません。メジャー・レーベルでもない、メジャー・オーケストラでもない、全集でもない、だからハレ盤なんて聴こうともしない、というのが原因だと思いますが、それでプロと言えましょうか?そのアーチストに同曲異盤が存在する中で一つを取り出して評価するなら、全種類を聴き比べた上で最良盤と位置づけるのが当然なのですが…。
最も顕著な違いは、オケの響きの差。言うまでもなく、ウィーンフィルの方がどう聴いても上質です。しかしそれ以外の要素は全てハレ管が優っていると言わざるを得ません。演奏に掛ける意気込みは、強固なピチカートにも、雷鳴のようなティンパニにも確実に反映されており、どこか遠慮がちな(良く言えば滋味溢れる)ウィーン・フィルとは大違いです。第1楽章コーダでは、全体が早くも決死の覚悟を表明。最後のティンパニのロールは、バンッ!と一撃して締めくくりますが、これはセルと同じ手法。しかし、意味合いがまるで違って聞こえます。第2楽章は特に感動的!3:30からの弦のテヌート処理はウィーン盤でも行なっていますが、流れの豊かさは比べものになりません。8:08からのテーマはアーベントロートとは対象的に実に素朴な人間味に溢れており思わず感涙!第3楽章はテンポの良さが印象的で、決して浮かれず、地に足の着いた進行が次の終楽章への覚悟のよう。その終楽章は興奮の渦!オケは作品への共感と、バルビローリの意思を120%実現しようとする意思が融合して、とてつもないパワーを発揮。しかも内燃に徹しているので、本物の音楽を聴いているという実感を、手に汗握りながら最後まで味わうことが出来ます。特に5:51以降の大噴射以降は、異常なまでの凝縮力!古式ゆかしい様式との調和を保ったまま、どこまで音楽に生命感を注入できるか、それに挑んだ最大級の名演として心の底からおすすめする次第です。【湧々堂】

TRE-172
マイラ・ヘス〜モーツァルト&ベートーヴェン
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番*
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番**
ショパン:ワルツOp.18#
ブラームス:間奏曲Op.119-3#
スカルラッティ:ソナタL.387#
マイラ・ヘス(P)
ブルーノ・ワルター(指)NYO*
エイドリアン・ボールト(指)BBC響**

録音:1956年カーネギーホール* 、1953年1月ロンドン**、1949年3月17,18日イリノイ大学# (全てライヴ)
※音源:米 Bruno Walter Society PR-36*、加ROCOCO RR-2041**,#
◎収録時間:74:13
“懐の深さをもって作品を捉えるヘスのピアニズムの大きさ!”
■音源について
ROCOCOのLP1枚分と、ワルター協会LPの反面分を収録しています。

★まずモーツァルトは、TRE-141で紹介したK.449と並ぶ歴史的名演!ヘスは、第1楽章の滑り出しを後ろ髪を引かれるように開始しますが、少しも大袈裟ではなく、むしろ恥じらいの表情を湛えます。第2主題は、いかにもモーツァルトらしい屈託のない微笑みの表情で魅了。それが再現部で短調に転じると、提示部の微笑みと表裏一体であることを実感させる、得も言われぬ悲哀の表情を浮かべるのです。カデンツァも必聴。ヘスのピアノが決して感覚的な繊細さを目指すものではなく、いかに豊かで深いものか、思い知らせれます。第2楽章に至っては、奇跡と呼びたい素晴らしさ!かなり大胆にアゴーギクを投入していますが、常に「心からの語り」と一体なので、少しも時代掛かった印象を与えません。どんな弱音でも音が痩せることはなく、慈愛を込めぬいたタッチの最高の実例がここにあります!第2楽章が終わった途端に、会場からパラっと拍手が起きますが、その気持は実によくわかります。そして忘れてならないのは、ワルターの指揮。これは、この曲の指揮としてはもちろんのこと、誰もが認めるモーツァルト指揮者でありながら、全ての要素の調和が取れた演奏が意外と少ないワルターにとって、最高の出来栄えと言えましょう。特に終楽章は充実の極みです。
一方、ベートーヴェンは指揮がボールトなので、全体的に折り目正しく進行しますが、芯のぶれない確固たる表現とタッチは、ヘスそのもの。第2楽章の2:47の些細なタッチをアルペジョ風にして、独特の幻想味を醸し出していますが、こんなことを嫌味なくできるピアニストなど、もういなくなってしまいました。
その点では3つの小品も同様。アンコール演奏ですの表現は奔放ですが、全てのフレーズが、聴き手の心を芯から溶かすようなニュアンスで一杯!こんな芸当は、単に腕が立つだけでは不可能でしょう。【湧々堂】

TRE-173
チェコのピアニズム〜フランティシェク・ラウフ[1]/リスト&ショパン他
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番
 アンダンテ・ファヴォリ
リスト:ピアノ協奏曲第2番*
ショパン:ピアノ協奏曲第2番*
フランティシェク・ラウフ(P)
ヴァーツラフ・スメターチェク(指)プラハSO

録音:1965年11月15,18-19日、1964年6月17-18,20,22日&9月3日*(全てステレオ)
※音源:SUPRAPHON SUAST-50743、SUAST-50603*
◎収録時間:76:16
“真心から紡ぎ出されるタッチに宿る幽玄のニュアンス!!!”
■音源について
ラウフによるスプラフォンのステレオ録音集。特に協奏曲のレコードは、盤によってオケの響きが違って聞こえますが、ここでは数種聴き比べの上、最良のもの(青盤)を選択しました。

★フランティシェク・ラウフ(1910〜1996)は、チェコを代表するピアニスト。プラハ芸術アカデミーでの教育活動が中心だったので、フィルクスニーやモラヴィッツ等のような知名度はありませんが、その配慮の行き届いたピアニズムは教育者らしい堅実さにとどまらず、独特の閃きと奥ゆかしさを湛えています。
ベートーヴェンの「30番」冒頭は媚びた表情などどこにもなく、それでいて聴き手に優しく寄り添う独特の語り口が心をくすぐります。楽想の変化に器用に対処するというよりも丹念にその意味を刻印しながら進行。したがって、第2楽章などは無骨にも聞こえますが、そこに流れる精神は至純そのもの。その純粋さがタッチにもフレージングにも反映し尽くされた終楽章は涙を禁じ得ず、これほど各変奏曲が優しく連動しながら語りかける演奏には、そうそう出会えません。
リストの協奏曲は、派手な作品の影に隠れがちなリストの繊細な筆致に焦点を当てた演奏。中だるみしがちなモデラート以降([07]〜)でも丹念なニュアンスが光ります。最後のアレグロ・アニマート([09])に入る前のカデンツァが、ここでは省略されています。
ショパンは更に聴きもので、同曲屈指の名演!第1楽章でピアノが第1主題を奏でただけでも、行き届いたペダリングとフレージングによって、レガート偏重のムーディさとは違う別次元に誘われます。特に2:59からの明確な分散和音化処理は一歩間違えれば安易な感傷に傾きますが、ラウフが弾くと芳しい空気が流れるのです!第2楽章最初にトリルは、慎ましさの中に魂の育みが感じられ、「真心のタッチ」の真髄を知る思いです。テーマが繰り返される2:34からは、そこに瞬間的に威厳が加わり、神々しいニュアンスを一気に敷き詰めるのですから息を呑むばかり。タッチの強弱操作だけで引き出されたニュアンスではないだけに、感銘もひとしおです。そして、最後の一音の密やかな置き方!絶対お聴き逃しなく!終楽章冒頭の装飾音が纏わりつく主題は、ポーランド風に仕立てるのに多くのピアニストが苦心していますが、ラウフは完全ストレート直球。それでいて少しも淡白にならないのは、音符の背後にある本質を感じきっている証しでしょう。第2主題(2:15〜)も同様。作品を過度に肥大化させず、音符の意味を丁寧に炙り出すことに終止するラウフの美学が完全に結実した逸品です!【湧々堂】

TRE-174
チェコのピアニズム〜フランティシェク・ラウフ[2]/ベートーヴェン&ショパン
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番*
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番「葬送」
 ピアノ・ソナタ第3番ロ短調Op.58
フランティシェク・ラウフ(P)

録音:1965年11月15,18-19日*、1966年11月-12月(全てステレオ)
※音源:SUPRAPHON SUAST-50743*、SUAST-50893
◎収録時間:70:13
“ラウフの高貴で敬虔なピアニズムが十二分に生かされた不朽の名演!”
■音源について
ラウフによるスプラフォンのステレオ録音のなかで、TRE-173の収録曲とともに重要な名演!

★フランティシェク・ラウフ(1910〜1996)は、チェコを代表するピアニスト。プラハ芸術アカデミーでの教育活動が中心だったので、フィルクスニーやモラヴィッツ等のような知名度はありませんが、その配慮の行き届いたピアニズムは教育者らしい堅実さにとどまらず、独特の閃きと奥ゆかしさを湛えています。
ベートーヴェンの「第12番」第1楽章の主題をツェルニーは「高貴で敬虔」と評しましたが、これはそのままラウフのピアニズムに当てはまります。各変奏の表情を丹念に表出しながら、同時に豊かな流動性も確保しているので、変奏曲形式が苦手な方もこれには心奪われることでしょう。第3楽章は「英雄の死を悼む葬送行進曲」という副題の意味に囚われない実直さで一貫。それだけに、消え行くコーダでの静かな余情が際立ちます。
ショパンがまた言葉で言い尽くせないほどの大名演!少なくとも2つのソナタを収めたれレコードとしては、史上屈指の存在だと確信しています。
「第2番」は、荒々しいタッチで劇的な楽想に追い打ちをかける手法とは異なり、ラウフが目指すのはあくまでも内面性の微妙な移ろい。第1楽章第2主題が誰よりも浄化しきった精神を湛えていること、展開部のドラマ性が打鍵の強さではなく内的な葛藤から生じているのを目の当たりにすると、ラウフの思慮深さ、芸の深さを痛感するばかりです。第2〜3楽章も、精神的な高潔さは比類なし。特に第3楽章は中間部に突如として繊細な静謐美を注入する例が多いですが、ラウフのピアノは最初からピュアなので、中間部でも唐突な印象を与えず、連綿と美しいニュアンスが続くのです。
「第3番」は、日頃からどこか底の浅い演奏が多いと感じていますが、この演奏にはそんな瞬間は皆無。第2楽章は、意外にもピアニスティックな効果を発揮しますが、そこにも懐の深さを感じます。第3楽章は豊かなホールトーンとも相まって高潔な幻想性が広がり、皮相な演奏との違いをまざまざと思い知ります。特に中間部のラストは必聴!終楽章も驚異的!ラウフの演奏で聴くと、ショパンがソナタの最後を締めくくる音楽を築くのに苦心した形跡など感じさせず、まさにショパンの等身大の音楽としてストレートに迫ってくるのです。造形美を立体的に再現しつつ、音楽を硬直化させないセンスも超一級!この作品、ピアニストの技巧が音楽的な感度と一体化したものかどうかを量る試金石かもしれません。【湧々堂】

TRE-175
オーマンディ/米COLUMBIAモノラル名演集2〜〜「パリの喜び」
ワインベルガー
:歌劇「バグパイプ吹きのシュヴァンダ」〜ポルカとフーガ
ビゼー:交響曲第1番ハ長調*
オッフェンバック:バレエ音楽「パリの喜び」(ロザンタール編)#
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1955年12月24日、1955年12月4日*、1954年5月9日#(全てモノラル)
※音源:米COLUMBIA ML-5289、英PHILIPS GBL-5505#
◎収録時間:73:22
“音のお花畑!オーマンディの第一絶頂期を知る痛快名演集!”
■音源について
ワインベルガーは、全4回の録音うちの3回目、ビゼーとオッフェンバックは、全2回の録音のうちの1回目。オッフェンバックの再録音は抜粋でしたが、この1回目録音は全曲版です。この1曲だけで両面を使用したPHILIPS盤のパリッとした響きは、演奏の特質とも見事にマッチ!

★オーマンディの魅力は、モノラル期以前の録音を聴かない限り本当に知ったことにはならない!そのことを私が最初に実感したのは、このビゼーの交響曲でした。とにかく、リズムの感じ方、意味の持たせ方が、60年代以降の録音とは別人のようだということを、この一枚で徹底的に実感していただきたいと思います。
第二絶頂期とも言える60〜70年代の豊満な音作りもかけがえのないものですが、少なくとも作品の魅力の大部分を「リズム」が占める作品においては、この時期特有の瑞々しさと爽快感は絶対不可欠!
ただ、全てにおいて「極端さ」を嫌う姿勢は生涯を通じて一貫していました。特にテンポの選択は、オケを蹂躙するような暴走など決してせず、華やかさと和やかさを併せ持つ雰囲気は、まさにオーマンディを聴く醍醐味と言えましょう。終楽章など、まさに音のお花畑!これ以上テンポが速くても遅くても、この香るようなニュアンスは生まれなかったことでしょう。
リズムとテンポの冴えが更に突き抜けているのが、オッフェンバック!ここでも、生命感の大開放が見られますが、注目すべきはテンポの速い曲がのものすごい速いこと。それが同郷のショルティのような無慈悲な縦割りの打ち込みではなく、温かみをもって躍動ししているので、子供がおもちゃ箱をひっくり返して喜んでいるようなワクワク感が一杯!どなたも自然と心奪われること必至です。弦のピチカートをアルコに変えたり、別の楽器を追加する等の部分的改変もさり気なく、センス満点。これを聴けば、少しくらいの悩み事なら、1分で吹き飛びます!モノラル最後期なので、音も鮮明。【湧々堂】

TRE-176
若き日のオスカー・シュムスキー
ヴィエニャフスキ:華麗なるポロネーズ第1番 ニ長調 Op. 4*
シューベルト:華麗なるロンドOp.70**
サン・サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ#
ヴュータン:ヴァイオリン協奏曲第22番(ピアノ伴奏版)##
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」+
オスカー・シュムスキー(Vn)
ピアニスト不明*
レオニード・ハンブロ(P)**
ミルトン・カティムズ(指)NBC響#
ウラディミール・ソコロフ(P)##
トーマス・シェルマン(指)小管弦楽協会O+

録音:1940年8月15日*、1951年6月23日**、1950年4月22日#、1950年##、1956年頃+ (全てモノラル)
※音源:DISCOPEDIA MB-1040、Music Appreciation Records MAR-5613+
◎収録時間:78:53
“音楽を弄ばず、奉仕者に徹する信念が強固なニュアンスを形成!”
■音源について
モーツァルト以外は、SP音源からの復刻LPです。あらかじめご了承下さい。

★オスカー・シュムスキー(1917年-2000)は、フィラデルフィア生まれ。7歳でフィラデルフィア管と共演し、ストコフスキーから「いまだかつてない神童」と絶賛され、後にカーティス音楽院で学び、晩年のレオポルト・アウアーのもとで研鑽積みました。教育活動に熱心だったため、録音数は極めて少なく、広く認知されるようになったのは、晩年になってからのニンバス等への録音からでしょう。
ヴィエニャフスキは軽妙に躍動し、多彩な表情を交えて雄弁に語りる付けますが、聴き手に媚びるような嫌らしさがなく、すすり泣くフレーズでも背筋のピンと伸びた意志の強さが宿り、音楽を女々しくさせません。サン・サーンスも同様で、決して流れが停滞せず、呼吸の求心力の高さに思わず惹き込まれます。
ヴュータンの第2楽章は可憐な囁きが心に染みますが、安易なポルタメントに逃げず、ここでも折り目正しい造形力が際立ちます。
その造形力が古典的なフォルム維持に生かされ、独特の手応えを与えてくれるのが、モーツァルトの協奏曲。
第1楽章主題は陽の光をたっぷり浴びたハリのある音色美を放射。第2主題のリズムは、気分に任せる素振りも見せず、ニュアンスが凝縮。このシーンに限らず、ショーマンシップを見せつける箇所がほとんど存在せず、カデンツァでさえ決して大道芸的な立ち回りとは無縁。それこそまさに、シュムスキーの教育者、作曲家に奉仕する芸術家としての象徴と言えましょう。終楽章も実にニヒル。微笑みを振りまくのではなく、フレージングの微妙な陰影と呼吸の妙味で多彩な表情をしっかり引き出し、作品の核心に肉薄しようとする意思が音楽全体を引き締めているので、決して堅苦しさを与えずに音楽の全体像をしっかり実感することができるのです。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲はどんな名盤を聴いても、どこか食い足りないものを感じるという方には、特に傾聴していただきたいと思います。【湧々堂】

TRE-177
ロベール・カサドシュ/ベートーヴェン:「皇帝」他
ウェーバー:コンツェルトシュテュック ヘ短調 Op. 79
フランク:交響的変奏曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」*
ロベール・カサドシュ(P)
キリル・コンドラシン(指)トリノ放送SO
ハンス・ロスバウト(指)アムステルダム・コンセルトヘボウO*

録音:1960年5月6日ライヴ、1961年2月3日* (全てステレオ)
※音源:伊FONIT CETRA LAR-18、独FONO-RING SFGLP-77699*
◎収録時間:66:12
“本質追求ヘの強い意志を分かち合ったカサドシュとロスバウトの強力タッグ!”
■音源について
FONIT CETRAは、“ARCHIVIO RAI”シリーズでチェリビダッケ、バルビローリ等の1960年頃のステレオ・ライヴ録音をリリースしていますが、これもその一環。この時期のステレオとしては極めて優秀。「皇帝」はPHILIPS音源ですが、ここではシャキッとした音が演奏の性質とマッチしているFONO-RING盤を採用。今までどのCDを聴いても表現が中途半端に聞こえましたが、これで聴くと音の意味が手に取るように分かります。

★カサドシュの協奏曲録音で共演する指揮者は、フランス風のエレガンスを湛えた人よりも、セルをはじめとして硬派な指揮者との共演が多いですが、これは単にレコード会社の都合ではなく、カサドシュの意向が作用していことを強く窺わせるのがここに収録した3曲(全てカサドシュの十八番)です。コンドラシンもロスバウトも、ワルターのような柔和さとは対極的な引き締まった音像を志向する指揮者。一方のカサドシュも、清明なタッチによるしなやかなフレージングを見せながらも、特に独墺の古典作品(特にバッハの素晴らしさ!!)においては、無駄を排して造形力を際立たせ、意志の強さを感じることが多いので、シェイプアップ型指揮者との相性が抜群なのです。
中でも、ベートーヴェンの「皇帝」は、指揮者とピアニストの共通認識の強固さという点で、多くの同曲名盤の中でもトップクラス!カサドシュが、ロスバウト化して言えるほど、互いの方向性が同じ一点に完全一致しているのです。
第1楽章冒頭からイン・テンポを基調とした高潔美が横溢。決して音像を肥大化させず、毅然とした意思をもって造形する姿勢をここまで貫かれると、重戦車型の演奏は場違いとさえ思えてきます。白眉は第2楽章!何度聴いてもこの楽章の史上最高峰の演奏という確信は揺らぎません。カサドシュの結晶化しきったタッチそのものが詩情を醸し出し、それ以上のことは何せず、澄み切った空気感を表出。それに比べ、テンポを落としてしっとりと歌おうとするほど本質から逸れてしまう演奏の如何に多いことか…。
終楽章は、引き締まった音像の中の強烈な意志力がさらに高次元で燃焼し、これ以上ない凝縮しきった音楽を展開。安直な人間味など寄せ付けないほどの本質追求型の演奏の場合、指揮者とソリストは「融合」より「緊張」が際立つものですが、ここではその両方を同時に体感できるのです!【湧々堂】

TRE-178
フェレンチクのベートーヴェンVol.2
序曲「献堂式」Op.124*
交響曲第1番ハ長調Op.21
交響曲第8番ヘ長調Op.93
ヤーノシュ・フェレンチク(指)
チェコPO*、ハンガリー国立O

録音:1961年1月5日*、1964年7月14-23日(全てステレオ)
※音源:SUPRAPHON SUAST-50025*、HUNGAROTON HLX-90002
◎収録時間:65:28
“音楽を決して淀ませない、フェレンチク流の指揮の極意!!”
■音源について
フェレンチクはベートーヴェンの交響曲を複数回録音していますが、この2曲は後の全集とは別の最初の録音。ここで採用した重量盤は、演奏の温かみと奥深さを余すことなく伝えています。

★既にTRE-165でご紹介した「交響曲第2番&第4番」と並んで、50歳代のフェレンチクを象徴する名演。フェレンチクが終生持ち続けた衒いのない丹念な造形力はこの頃すでに確立しており、同時にオケを禁欲的な窮屈さに閉じ込めることなく、伸びやかに息づかせる手腕にも長けていたことを実感できます。
「第1番」は、これぞ真の中庸美。単に当たり障りのない解釈という意味での「中庸」とは違うのです。全楽章を通じて無利のないテンポを採用しながら、手作りの風合いを持つ響きが魅力的で、本当の意味でのアクセントとして響くティンパニの何気ない一打にも、見識の深さ感じさせます。第3楽章中間部の木目調のハーモニーは、この指揮者とオケのコンビネーションで味わう醍醐味。終楽章は力こぶを振り上げず、オケの自発的な推進力に任せながら、音楽の古典的な骨格を自然に表出させるという、指揮の極意を見る思いです。
「第8番」第1楽章は、意外にも爽快なテンポ。しかもそのテンポ選択に説明的な嫌らしさが纏わりつくことなく、何も気負わずに進行するので、その爽やかな空気は心にすんなりと浸透するのです。その自然な進行のうちに、気づくと展開部では見事な高揚感に到達していますが、そこにも邪念による煽りなど一切なし。第2楽章もテンポこそスタイリッシュですが、このオケの純朴な響きがそのままニュアンス化され、心に染みます。チェコ・フィルとはまた違うローカル色を持つこのオケの手作り感は、この楽章を弾くために存在するかのよう。これは3分台で演奏された同楽章の録音の中で、間違いなく屈指の名演です!
一切の効果を狙わない音楽作りはイメージ的には地味ですが、結果的に聴き手の琴線に確実に触れる効果を持つ演奏を実現しているのですから、そこにはとてつもない極意が注入されていると言わざるをえません。
なお、2曲とも提示部リピートを行なっています。
実は、私はこのコンビの演奏を聴くたびに、かつてその来日公演のFM生放送にゲスト解説者として招かれていた日本のクラシック音楽評論の重鎮の一言が脳裏をよぎります。なんと「随分と埃っぽい音ですね〜」とポロッと発言したのです!まだ高校生だった私は、こんな貧困な感性しか持ち合わせずにその道の権威として君臨していることに愕然としたのでした。さすがに今の時代、ベルリン・フィルやウィーン・フィル以外の非主流派オケは全て二流、と見下す人などいないと思いますが…。とにかくこのディスク、ブランドの重みより音楽の本質に触れたいと願う全ての方々にお届けしたいのです!【湧々堂】

TRE-179
ベラ・シキ/ショパン:スケルツォ&バラード
スケルツォ第1番 ロ短調 Op. 20
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op. 31
スケルツォ第3番 嬰ハ短調 Op. 39
スケルツォ第4番 ホ長調 Op. 54
バラード第1番 ト短調 Op. 23*
バラード第2番 ヘ長調 Op. 38*
バラード第3番 変イ長調 Op. 47*
バラード第4番 ヘ短調 Op. 52*
ベラ・シキ(P)

録音:1953年5月、1952年4月*
※音源:英PARLOPHONE PMA-1011、PMA-1008*
◎収録時間:73:50
“明晰なタッチでショパンを哲学する、ベラ・シキ独自のピアニズム!”
■音源について
ベラ・シキは、1950年代にショパン作品のうちソナタ、即興曲などをParlophoneに集中的に録音しており、このスケルツォ、バラードもその一環。LP2枚分を全て収録。

★ベラ・シキは、1932年ハンガリー生まれ。あのディヌ・リパッティの弟子で、若き日は「コンクール荒らし」と言われるほど数々の国際コンクールに入賞しましたが、次第に活動の場を教育に移し、多くの門下生を輩出。日本の宮沢明子もその一人です。したがって、録音の数は極めて少なく、中でも知られているのは、同郷のゲザ・アンダと録音したサン・サーンスの「動物の謝肉祭」(指揮はマルケヴィチ)でしょうか。。そしてこのショパンを聴いて最初に感じたのは、師のリパッティの影響よりも、まさにそのゲザ・アンダとの共通点。アンダはベラ・シキの10歳年上で、共にブタペスト音楽院でエルンスト・フォン・ドホナーニに学んでいるので、兄弟子となりますが、雰囲気に流されない実直さ、明晰な打鍵など、ベラ・シキとよく似ています。
スケルツォ第1番は、ベラ・シキの硬派なピアノズムとの相性が抜群。前半と後半の厳しい切れ味にその特質が最大限に生きていますが、中間部の聴き手に媚びないけ高潔なピアニズムもまたベラ・シキならでは。スケルツォ第3番、第2主題に現れる下降アルペジオも決してパラパラ散らず、一音一音の意思を注入するかのよう。スケルツォ第4番は特筆すべき名演!冒頭主題での音の跳躍とリズムにも浮かれることなく品格の空気を敷き詰めた後、中間部では表面的な美しさを超えた至純の精神が脈打ち、汚れなきタッチが真の美を導くのです!
バラード第1番は、標準的なアプローチによる推進性、ドラマ性とは異なり、極めて思索的に進行。そのため3:14からのフレーズの全ての間合いに思いが充満。4:25からの第2主題の飛翔でも開放感を封印。音のニュアンスを厳しく吟味。このシーンで陽の光を取り込まない真意は、コーダでのどこか物憂げなニュアンスと通底するものを感じさせます。
バラード第4番のコーダ前も露骨に強打をぶつけることも可能でしょうが、内面のニュアンスを見失うことなく、コーダでは爽快な切れ味とは違う余韻を携えながら締めくくられるのです。
作品の構成を見据えながら、自らを厳しく律し、ショパンの思いに少しでも近づこうとする真摯な姿勢は、手っ取り早く効果を狙う昨今の演奏家とは全然違い、そもそも音楽をする目的自体が異なるとしか思えません。【湧々堂】

TRE-180
スワロフスキー/チャイコフスキー&サン・サーンス
チャイコフスキー:交響曲第3番「ポーランド」
サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」*
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン国立歌劇場O
フランツ・エイブナー(Org)*
※ウィーン楽友協会ホールのオルガンを使用

録音:1956年6月26-29日(ステレオ)
※音源:URANIA USD-1026、SAGA XID-5283*
◎収録時間:76:14
“色彩の厚塗りを避け、スコアの筆致を信じた実直路線が結実!”
■音源について
2曲ともURANIA音源で、世界初のステレオ録音と思われます。チャイコフスキーの「1番」「2番」も含めてこの4日間に録音されているので、ほぼ一発録りなのでしょうが、1956年とは思えぬ良好なバランスのステレオサウンドには驚くばかり。ちなみに、サン・サーンスの「オルガン」が初演されたのは、この録音のちょうど70年前でした。

★ロマン派以降の交響曲の演奏に際しては、指揮者も録音スタッフも、とにかくまず「立派」に聞こえることを優先し過ぎてはいないか、聴き手も、それが当たり前に思ってはいないだろうか…。「聴き映え」のことなど全く眼中にないスワロフスキーの実直な指揮に触れると、そんな思いが頭をよぎります。
チャイコフスキーは、民族的な色彩を上塗りせず、ただスコアを丁寧に炙り出しているだけですが、まろやかな情感が滲み、決して無機質に陥ることがないのは、オケの音色自体がすでに音楽的であることを熟知し、それを有効活用しきった成果と言えましょう。意外なのはテンポ運びが極めて洗練されていること。第1楽章第2主題でもテンポを落とさず素直な歌に徹し、そこから純朴な活力を引き出しています。コーダの俊敏なレスポンスも見事。実にメルヘンチックな第2楽章、ピチカートの瑞々しさに惚れ惚れする第3,4楽章も、ウィーンのオケの特質なくしてはありえない味。終楽章では、ワーグナー的な響きで圧倒しようとする演奏では引き出せない、素朴な生命の躍動に心奪われます。手綱を程よく緩めたこの絶妙な開放感は、まさに指揮技術の極意でしょう。
サン・サーンスも演出皆無。もちろんオーディオ効果など念頭に置いていないので、金ピカ壮麗な響きとは違う、人肌の温もりと包容力で魅力する比類なき名演奏として結実しています。サン・サーンスのオーケストレーションの魅力を素のまま伝えるこに専心しているので、第1部の後半でも瞑想感の上塗りなど一切せず、これ以上ない素朴な空気が支配しますが、6:25以降のピチカートに乗せて主題が回帰するシーンでは、信じがたいほど香り高きフレージングを実現するのです!第2部は、アンサンブルを締め付けすぎないゆとりが、懐の深いニュアンス作りに直結。シルキーな弦の魅力を思う存分堪能した後に訪れる後半部は、ゆったりとしたテンポを貫徹。表面的な興奮にも背を向けたその足取りには強い確信が漲り、当然のようにイン・テンポで締めくくるコーダも、巨匠級の風格美を醸成。この曲に一切のハッタリ持ち込まず、味わい志向に徹した演奏をお望みなら、これを聴かない手はありません!【湧々堂】

TRE-181
ベイヌム/メンデルスゾーン&ブラームス
メンデルスゾーン:交響曲第4番「イタリア」
ブラームス:交響曲第1番ハ短調Op.68*
エドゥアルト・ファン・ベイヌム(指)
アムステルダム・コンセルトヘボウO

録音:1955年6月2-4日、1951年9月17日*(共にモノラル)
※音源:PHILIPS 6542-131、英DECC ACL-71*
◎収録時間:68:18
“オケの技術力をそのまま音楽的ニュアンスに変換できるベイヌムの凄さ!”
■音源について
ブラームスは、LXTも国内初期盤も、どこか音が出きっていない気がしてならなず、CDでは高音がキンキン煩かったが、このACL盤でようやく納得の行く音に出会えました。 メンデルスゾーンも6枚組ボックスの再発盤ですが、片面収録にも関わらずヒズミ感のない素晴ら しい音なので、迷わず採用しました。

★ベイヌムにとってブラームスの「第1番」は、短い生涯に3回も録音していることからも、最大の十八番であったことは明らか。中でも強力にお薦めしたいのは、全体的に平板に響くステレオ再録音盤よりも、録音の点でも解釈の点でもニュアンスが凝縮しきっているこの'51年盤です。物々しい形相を見せず自然体の燃焼に終止する序奏部から、粘着質に沈み込む従来のこの作品のイメージを払拭。今聴いても新鮮な感覚は色褪せていないのですから、録音当時は更に衝撃的に感じられたことでしょう。主部に入ると、ティンパニのみならず他の声部もデフォルメせず、常にバランスの取れたハーモニーを堅持しながら響きと精神の凝縮に徹する姿勢や、3:28以降の弦を短く切る処理などは、音楽を決して停滞させないベイヌムのの美学の表れと言えましょう。展開部後半の灼熱の高揚感は、何度聴いても感動的。一切力まずに一瞬にして頂きに達する牽引力の凄さ!カンテッリ盤等とともに、この箇所の燃焼度は史上屈指の存在でしょう。第2楽章も当たり障りのない平穏な音楽ではなく、芯から興奮した音が束の間の笑みを浮かべているかのよう。この楽章の多彩な表情を引き出すため、ここまで深く作品を抉った例も少ないでしょう。終楽章も淀み皆無。竹を割ったような造形美を湛えながらそれは目的ではなく、あくまでも汚れなき精神の投影するために不可欠な響きであることがひしひしと伝わるので、感動の深さ、強さがが尋常ではありません。3:42からの金管ハーモニーのコシの強さは類例なし!テンポの伸縮は最少に抑えた推進力第一のアプローチが極限まで磨かれ、鉄壁なイン・テンポで締めくくるコーダまで、緊張の糸は途切れません。
「イタリア」は、その推進力が清々しい発言力で迫り、これまた絶品。第1楽章は、提示部リピートあり。展開部の声部の生地な絡みから生まれる緊張の渦が聴きもの。第2楽章は、アンサンブルの清潔さがそのまま音楽のニュアンスと化し、第3楽章は邪念なき表現意欲の結晶。この中間部はややテンポを落とす例が多いですが、ベイヌムはむしろ速めて洗練美を極め、しかもリズムの良さは空前絶後。圧巻は終楽章。トスカニーニやセルを上回るとさえ言える精緻なアンサンブルを貫徹しながら猛進に走らず、瑞々しい息吹をが際立つこの演奏は、同曲の理想と言えましょう。【湧々堂】

TRE-182
ベートーヴェン:12のドイツ舞曲 WoO.8*
ブルックナー:交響曲第3番[第3稿=1890年のシャルク改訂版]
ワルター・ゲール(指)
フランクフルトRSO*
オランダPO

録音:1950年代中期頃*、1953年11月
原盤:Concert Hall MMS-2159*、CHS-1195
◎収録時間:65:32
“クナだけではない!説得力絶大な改訂版による「ブル3」”
■音源について
ブルックナーの第3交響曲の世界初録音はフェケテ指揮によるレミントン盤(1950年)ですが、このゲール盤はそれに次ぐ最初期の録音。もちろん改訂版を使用していますが、「第5」や「第9」のような改竄ではないので、ほとんど違和感は感じられません。

★勇壮で自信に満ちたワーグナー像をストレートに投影したような演奏で、全ての音が明確な表現意思を持って打ち鳴らされます。第1楽章からアドレナリン全開で推進力満点。響きは終始引き締って緊張に満ちており、決して軽薄な祝典的なムードには陥っていません。第3楽章はニュアンスの濃密さに唖然。アンサンブルの凝集力も高く、声部感に一切隙間風を感じません。トリオでの鄙びたニュアンスも聴きもの。終楽章は、速めのテンポで武士的な勇ましさをストレートに表出。特に再現部以降は激情の渦!コーダ前の強弱対比は誰よりも強烈。コーダ開始を告げるトランペットの輝きも尋常ではありませんが、少しも煩くなく、否が応でも感動に拍車をかけます。
これら3つの楽章とは異なる幻想世界を現出し、心の深部に染みるのが第2楽章。後期の作品の諦観にも通じる精神的な深淵さとリリシズムが見事に同居しています。楽想転換時の全休止での間合いの素晴らしさは、ゲールのブルックナーへの真の共感を象徴しています。
このブルックナーは、決して予定調和的な進行に甘んじないゲールの面目躍如たる名盤として忘れることができません。 【湧々堂】

TRE-183
オーマンディ/米COLUMBIAモノラル名演集3〜モーツァルト&ハイドン:交響曲集
モーツァルト:交響曲第40番ト短調
ハイドン:交響曲第99番*
 交響曲第100番「軍隊」#
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1956年1月10日、1954年4月15日*、1953年12月23日#
※音源:米COLUMBIA ML-5098、ML-5316*,#
◎収録時間:71:20
“深刻な空気を持ち込まないオーマンディのピュアな作品掌握力!”
■音源について
3曲ともオーマンディの唯一のセッション録音。オーマンディの膨大な録音の中で最も軽視されているのがドイツ古典派の作品ですが、この復刻に触れて、どれも逸品揃いであることを実感していただきたいと思います。モノラル後期なので、音も鮮明です。

★「オーマンディのモーツァルトが素晴らしい!」などと言うと笑われるから、誰も言わないのでしょうか?私は笑われても構わないので申し上げます。この3曲にはオーマンディでなければならない独特の魅力が満ちており、無視する理由などどこにも見い出せません。
その魅力の中核を成すのが、「幸せを感じてこそ音楽」という信条を込めた音作り。独墺の交響曲に「精神的な重み」だけを追い求めている方にはそんなもの毒にも薬にもならないでしょうが、思えばそのこだわりは、他のレパートリーでも常に携えていたもので、まずそのブレない姿勢に改めて驚かされます。その顕著な例がモーツァルト。深刻な演奏、厳格な演奏は数々あれど、オーマンディの素直な悲しみの表現を聴くと、いくら短調とは言え、この曲にシリアスな要素を持ち込むのは場違いでは?とさえ思えるほど、立ち昇るニュアンスがいちいち心の襞に触れるのです。もちろん、作品へ眼差しは常に真摯。第1楽章主題の音量、音価に微調整を加えつつ、その対比によって独特の色香を発し、なおかつ心から歌っていることを誰が否定できましょう。第3楽章のテヌートとスタッカートの使い分けは、壮年期ならではのリズムの冴えとも相まって明確な主張を放ち、大編成の分厚い響きも引き締まっています。終楽章は魅力充満!弦の相の手トリルの和声(0:14〜)は、まさにオーマンディ・マジック!第2主題への滑り込みではあまりの間合いの素晴らしさに鳥肌が立ち、第2主題はアーティキュレーションのこだわりが命と化してっ感動倍加。しかも意外なことに、提示部も再現部もリピート!少なくともこの楽章は、史上最高ランクの演奏と言っても過言ではありません。
ハイドンは、全体の構成を見据えた上でのニュアンスの凝縮力が見事で、ハイドン特有のユーモラスをデフォルメすることなく血の通ったニュアンスに結実。「99番」第1楽章主部の颯爽とした疾走感は、後年には望み得ないもの。第2楽章の温かいノスタルジー、第3楽章のリズムの気品と弾力、終楽章では安定感のあるテンポで全体を総括するようにニュアンスを出し尽くします。
その特色は「軍隊」でも全く同じ。小細工など必要としない人間力一本で勝負した芸術家魂に打たれます。大編成にも関わらず煩く響かず、作品の名曲ぶりがストレートに伝わります。オーマンディは広いレパトリーを誇りますが、一気に録音した「全集」の類いが少ないことからも明らかなように、心から共感できない作品には手を出しませんでした(シベリウスの交響曲の3番、6番の録音が存在しないのもそのためです)が、この「軍隊」もあえて録音に踏み切っただけあって、細部までよくコンセプトが練られ、ルーティンな印象など与えません。爽快な第1楽章には、この曲を物々しい軍隊音楽ではなく、おもちゃ箱を無心で掻き回す子供のような愉しい作品として伝えたいいう意欲が横溢。そのヴィジョンがあるからこそ、第2楽章が感覚的な衝撃以上のほのぼのとした味わいをもたらしてくれるのです。フレーズの呼吸のコントラスの鮮やかさにも息を呑みます。第3楽章は中間部のリズムの跳ね上げ方にご注目。終楽章は、一部弦のアルコをピチカートに変更していますが、そこに衒いなどなく、音楽をよりチャーミングなものにしたいというピュアな衝動から出ているからこそ、心をくすぐるのではないでしょうか。【湧々堂】

TRE-184
ラインスドルフ&ボストン響・厳選名演集Vol.2〜〜R.シュトラウス
歌劇「エジプトのヘレナ」第2幕〜第二の新婚の夜
楽劇「サロメ」〜サロメの踊り/間奏曲と終曲
交響詩「英雄の生涯」*
レオンタイン プライス(S)
ジョゼフ・シルヴァースタイン(ソロVn)*
エーリヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO

録音:1965年4月22,24日、1963年3月9日*
※音源:英RCA SB-6639、日Victor SHP-2290*
◎収録時間:75:10
“虚飾を排して訴えかけるR・シュトラウスの管弦楽法の魅力!”
■音源について
RCAの60年代のレコードといえば、まず「影犬」「白犬」盤をイメージしがちですが、微妙にチリチリ音が混入する場合が多いので、なるべく使用は避けてたいところ。ここでは最も上質な音を発した英国盤と日本盤を使用。特に当時の日本プレス盤(溝盤)の優秀さは、これを聴けば疑う余地などありません。

★プライスが歌う2つのアリアは、共に彼女の十八番で、後年の録音もいくつか存在しますが、強烈に訴えかけながら刺々しく響かない美声に魅力は、ヴィブラートの振幅が広がった後の録音では味わえない魅力です。特に瑞々しさが不可欠な「ヘレナ」のアリアは、リリコスピントの魅力も全開で聴き逃せません。一方、ラインスドルフの指揮は、例によって過剰演出とは無縁のストイック路線を貫徹。「サロメ」では、磨き抜かれた感覚美でエロチシズムを再現するカラヤン・タイプとは正反対の解釈ながら、それがかえって一線を超えた危険さとザラッとした感触を生み出しており、単なる絶叫型でもないので、サロメの狂気のみならず純粋さが同時に感じられる点も無視できません。
「英雄の生涯」も、大言壮語に傾かないのは当然ですが、何よりスコアを直視して最適なバランスで鳴らすことがこの作品の普遍的な価値を獲得するための最善策であることを、他のどの演奏よりも痛感します。ですから、この作品につきまとうある種の「嫌らしさ」や、「聴き応え十分だけどどこか虚しい」という負のイメージを抱くことなく、原寸大の作品の魅力を心行くまで堪能できるのです。第1曲冒頭から、壮大さを誇張する素振りを見せず、鉄壁な声部バランスで突き進むことで、アプローチの方向性を明確に表明。そこに分析的な冷たさはなく、あるのは強固な確信のみ。第2曲“英雄の敵”は、管楽器の連動力の凄いこと!全パートが均等の圧で一斉に喋りだすのが何とも不気味。第3曲“英雄の伴侶”は、シルヴァースタインのチャーミングなヴァイオリンも聴きもの。第4曲“戦場”は、アンサンブルの正確さと決死の表現力が共存した破格のダイナミズム。3:36付近の弦の一瞬の蠢き、喘ぎは、これぞ「表現」!しかも汚れた響きを発せず、当時のボストン響のヨーロピアンな風合いも堅持。終曲“隠遁と完成”はイングリッシュホルンの響きがかなり素朴なのが意外ですが、それが続く弦のフレージングと好対照を成し、心のこもった静謐美を導きます。コーダ前のホルンとヴァイオリン・ソロとの語らいは、いかにもそれらしく歌いすぎないところが、いかにもラインスドルフ。ちなみに、この頃のラインスドルフの録音には、曲の最後を意固地なまでのイン・テンポで押し通す例が多く見られるのですが、ここでも例外ではありません。【湧々堂】

TRE-185
ミトロプーロス/ベートーヴェン&ブラームス
ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調Op.21*
ブラームス:大学祝典序曲
 交響曲第3番ヘ長調Op.90
ディミトリ・ミトロプーロス(指)NYO

録音:1951年10月15日*、1958年2月9日(共にモノラル・ライヴ)
※音源: MELODRAM 233*、 FONITCETRA DOC-23
◎収録時間:63:04
“ミトロプーロスの危険な表現とソナタ形式との美しき融和!”
■音源について
ミトロプーロスのセッション録音は少ないのですが、遺されたライヴ録音を聴くと、その強烈な個性は、きちんとお膳立てした録音で入りきる代物ではないことがわかり、かつて発売されたAs DIisc等のライヴCDを聴くと、その個性を注入するには古典作品では収まりきらず、どこか窮屈に感じることもありました。しかしここに聞く3作品は例外!音楽のフォルムをギリギリまで拡張し、その尋常ならざる情感のうねりと大きさを美しく共存させています。なお、交響曲第3番第2楽章に音が潰れているように聞こえる箇所がありますが、音源に起因するものです。また、終楽章の最後は余韻が消え入る前に拍手が起こって興冷めですので、ここではカット&フェードアウト処理をしています。

★ミトロプーロスが発する音楽は危険な香りと刺激を孕んでおり、のめり込み過ぎると聴き手の感覚が麻痺するのでは?と思うこともしばしば。その表現スタイルが古いか新しいかなど、論ずる意味がどこにありましょうか。
ベートーヴェンは、テンポは速め、表現の切り替えのレスポンスも俊敏なので一見「現代的」と言えましょうが、全ての音の根底に張り巡らされている意志の強さが尋常ではなく、ボタン一つで飛び出たような安易な音など皆無。その真実の音の発言力を前に、スタイル云々など関係あるでしょうか?第2楽章はフレージングのみならず、リズムの刻みが心に訴えるのは、そこに真の共感と高潔な精神が脈打っている証し。終楽章の主部への滑り込み方は、全ての指揮者が羨むであろう離れ業!以降は相当の高速で推進しますが、無機的な響きとは無縁。血肉が確実に詰まった音だけ連動するので、表情の求心力は超弩級!第2主題で微妙にテンポを落としますが、これぞミトロプーロスの魅力の中核をなすマジックと言えましょう。
この情感の揺れをテンポの微妙な変化に転化する天才的なセンスは、「大学祝典序曲」で大開花!カラヤンさえ録音を避けた作品ですが、この演奏を聴いたら考えが変わったかもしれません。とにかく大スケール!一気呵成に猛進するようでいて、繊細な感性を息づかせたニュアンスが随所に散りばめられ、この作品をこれほど多面的に捉えた演奏は極めて稀。しかもそこには神々しささえ漂い、これぞ凡人とは一線を画すオーラのなせる技でしょう。
ブラームスの3番に至っては、ブラームス自身の想定をも超えたであろう別次元の名演と呼ぶしかありません。ミトロプーロスにとってはブラームスもマーラーも、自身の閃きを信じて「表現し尽くす」という点ではスタンスは同じ。第1楽章1:44以降や、展開部直前では、例によってテンポ・ルバートの妙味全開。第2主題直前の音(1:15〜)をかなり長く引き伸ばして情感の余韻をギリギリまで保つアプローチには、ミトロプーロスの音楽性の根源がそうせずには居られ「純粋な感情」であることを思い知らされます。息の長いフレーズを決して平板に流さないのもミトロプーロスの魅力。4:15以降をこれほど幽玄にうねらせた演奏があったでしょうか?第3楽章は、神秘的な美しさで並ぶものなし!特にホルン・ソロ登場前の静謐のニュアンスは、心してお聴きください。終楽章は、もちろん発言力絶大。曖昧な表現などどこにもなく、オケが完全に指揮者の意のままに、しかも自発的に精魂込めた音楽の素晴らしさ!ライヴ特有の熱気によるものではなく、もっと根源的な魂の熱さを感じていただけるはずです。バーンスタイン以前のニューヨーク・フィルのアンサンブルの凝縮性もご注目を。 【湧々堂】

TRE-186
ドヴォルザーク:スラブ舞曲(全曲) カレル・シェイナ(指)チェコPO

録音:1959年6月16-18日(ステレオ)
※音源:SUPRAPHON SV-8003-4
◎収録時間:71:50
“スラブ舞曲の魅力を味わい尽くすための究極名盤!”
■音源について
2枚組の青ラベル盤を使用。特に、既存のCDで「ローカル色」以上のニュアンスを感じ取れなかった方には、この馥郁たるニュアンスが詰まったサウンドを是非ともご体感いただきたいと思います。

★チェコ・フィルによるスラブ舞曲集を一つ選ぶなら、断然これ!ローカル色を色濃く湛 え、それを昇華して芸術的逸品として再生するシェイナの手腕に感服するばかりで す。カレル・シェイナ(1896-1982)は学生時代からチェコ・フィルのコントラバス奏者を務め、後に指揮者へ転向。この録音当時の首席指揮者はアンチェルですが、そのスラブ舞曲全曲録音がない乾きをシェイナは補うどころか、見事な金字塔を打ち立てたのです。 ここでの基本姿勢は大袈裟な演出などを寄せ付けない正攻法ですが、惰性に流されず、木綿の風合いを湛えたチェコ・フィル・サウンドを素直に鳴らしきり、心から歌い上げ、ここぞという場面では、民族の意地が如実に投影したの確信的なニュアンスを放ちます。
Op.46-5は、ドヴォルザークが愛した機関車の走行を思わせる第2主題のリズムが心に迫り、金管の突出(0:58、1:12〜等)も効果絶大。Op.46-6後半のホルンのトリルやOp.46-7の2:36からのトランペットは、心の叫び! Op.72-4は、コーダのティンパニがこれほど濃いニュアンスを発している演奏はなく、その後のリタルダンドに込められた呼吸の美しさにも魅せられます。全曲中で最も土俗的なニュアンスを湛えたOp.72-5はその特色を十分に伝えながらも、その香りの背後にあるドラマを痛切に感じさせます。熱気溢れるOp.72-7は、ほとんどの演奏が馬力に任せた大仰な演奏に陥りがちですが、ここに聴くスッキリとしたハーモニーと手作り感が織りなす絶妙な響きは、他では味わえません。ステレオ初期の録音ながら極めて自然な音質なのも嬉しい限りです。【湧々堂】

TRE-187
アンセルメ〜オーディオ・ファイル名演集1
ビゼー:「カルメン」組曲[第1幕前奏曲/アラゴネーズ/間奏曲/アルカラの竜騎兵/密輸入者の行進/ハバネラ/衛兵の交代/ジプシーの踊り]
オネゲル:機関車パシフィック231*
サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン」#
エルネスト・アンセルメ(指)スイス・ロマンドO
ピエール・スゴン(Org)#

録音:1958年4月1-23日&5月12-14日、1963年4月2-8日*、1962年5月3-5日&12-28日#(全てステレオ)
※音源:日KING SLC-1707、SLC-1702*,#
◎収録時間:67:33
“アンセルメ芸術の粋を結集した厳選3曲!”
■音源について
アンセルメのステレオと言えばSXL盤を取るのが普通ですが、あえて優秀な日本プレス盤にこだわります。理由はただ一つ。SXLと同等の情報量が得られ、軽視する理由など思い当たらないからです。ただし、60年代中頃までは、盤の材質のせいか微妙なチリチリノイズが混入している場合がほとんどなので、それが解消される1965年以降に発売され、かつ英メタルを使用した良質盤を入手するのに苦労しました。オネゲル後半のバスドラムの衝撃でもビリつかず、サン・サーンス最後での芯がぶれない強固なティンパニ打撃など、既出CDや復刻LPにはない本当の重量級サウンドを体感して下さい。もちろん復刻の動機は、演奏内容の魅力が大前提であることは言うまでもありません。

★あまりにもメジャーな名演ばかりですが、デッカが築いたステレオ・サウンドの最初のピークとも言うべきこれらの録音は、その演奏内容の高さも含めてどうしても無視するわけにはいきません。子供だった私がビゼーの「カルメン」冒頭の地割れしそうな衝撃音を浴びた時の驚きは、今でも忘れられませんが、いま最良の復刻サウンドを聴いた上でお伝えしたいのは、もちろんその音も凄さだけではありません。まず、アンセルメの芸術を最も端的に象徴する録音として、この3曲は絶対に外せないということ。これほどの録音環境を得ながら、それを武器にして面白く聞かせようという魂胆は微塵も無く、ひたすらクールに音の構築とテクスチュアの透徹に専心。アンセルメはデッカの録音の鮮烈さを十分認識していことはよく知られていますが、それを100%信頼していたからこそ、更に効果を狙った解釈など不要と判断したのかもしれません。
いずれにしても、人間くさいニュアンスを直接投影するのではなく、音の精緻な積み上げに対する揺るがぬ意思が音楽に緊張感を与え、リアルな実体を浮き彫りにするのが、アンセルメの真骨頂と言えましょう。
それを如実に示すのがオネゲル。アニメチックな描写とは違う機関車のリアルな実像と、冒頭部の蒸気の漂う様やひんやりした鉄の質感までも感じさせる演奏として、これ以上の録音に未だに出会えませんし、優秀録音が単に音がクリアに聞こえるという現象にとどまらず、音楽的なニュアンス作りに作用していることをこれほど実感させる録音も珍しいでしょう。
サン・サーンスも、もっと派手に振る舞うことは可能なことを知りながら、敢然とクール路線を貫徹。録音効果の上に単に乗っかって自己表現するのではなく、録音効果自体も解釈の一環のように組み込んでいる…とでも申しましょうか。第1楽章は、ひたすらイン・テンポ進行を続けるのみですが、響きの陰影が自然に浮揚することへの確信が強固だからこそ、無機質な音の羅列に傾きません。後半の静謐にも、あえて瞑想的な雰囲気を上塗りする必要など無いのです。第2楽章も、オーマンディのようにスペクタクルな面白さを分かりやすく再現する手法とは正反対。最後の大団円へと登りつめる際のアッチェレランドに至っても興奮を煽るのではなく、最後の一音まで高貴な音像を貫徹。とかく皮相に響きがちなこの作品を真に芸術作品として再現し尽くした演奏として、永遠に指針となるべき名演だと思います。【湧々堂】

TRE-188

パウムガルトナー/モーツァルト:交響曲集
交響曲第35番[ハフナー」
交響曲第38番「プラハ」*
交響曲第41番「ジュピター」
ベルンハルト・パウムガルトナー(指)
ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院O

録音:1958年7月*(ステレオ)
※音源:独PARNASS61-415、61-413*
◎収録時間:79:47
“モーツァルトに対する渾身の愛を温かな造形美に凝縮!”
■音源について
ステレオ初出盤(10インチ)のザラッとした質感も捨てがたいのですが、フラット盤特有のノイズも含めて一般的ではありませんので、ここでは後発のPARNASS盤を使用。これらの演奏の凄さは十分に感じ取れます。

★ステレオ録音によるモーツァルトの交響曲録音としては、ワルター盤以上に完成度が高い名演と呼ぶことに何の躊躇もありません。パウムガルトナーと言えば、モーツァルテウム音楽院の学長を務めた学者のイメージが強いですが、導き出される音楽には愛でむせ返り、アカデミックな冷たさとは無縁。学者でもないのに歴史的な考証を中途半端に持ち込み、効率的な音の羅列に終止する指揮者が多い昨今、このモーツァルトに対する敬意の表し方、否、指揮者のあり方を示す最良の実例として、この演奏の重みを今こそしっかり認識すべきではないでしょうか。
「プラハ」第1楽章は、序奏部だけで4分半を要する超低速!しかも各音符の音価が額面通りではなく、手元から音が離れるを惜しむかのような強烈な「引き」を伴い、その味の深さは尋常ではありません。主部も遅めではありますが、モーツァルトへの愛の揺るぎなさを象徴するように音楽の軸がブレず、キリッとしたリズムを伴いながら豊かな流れを築きます。第2楽章の耽溺の一歩手前で情感と造形を巧妙に制御。終楽章は音楽が大きく、懐の深いこと!このようなモーツァルトの人間味を丹念に表出する演奏は、プレヴィンあたりを最後に絶滅してしまったとしか思えません。
「ハフナー」をパウムガルトナーの指揮で聴くと、この曲の祝典的な雰囲気の出し方が表面的、あるいはリズムの切れ味でやり過ごす例が多いことに気付かされます。ここでの演奏は、テンポを中庸からやや遅めを採用していることからも感覚的な痛快さなど全く眼中になく、心の奥底からの愉悦を丁寧に再現することに専心。1:17からのヴィオラの音型が分析臭を伴わずにくっきりリ浮上する様は、共感の純粋さを移すかのよう。
「ジュピター」は、この曲に風格美を求める方には欠かせぬ大名演。声部バランスが練りに練られており、どこをとってもブレンドの妙に感じ入ります。第1楽章はまさに立派な造形を美しきつめながら、第2主題で顕著なように瑞々しい推進力も兼備。第2楽章も、音楽を敷き詰める器の容量が大きいことにハッとさせられることしきり。ひそやかな雰囲気ばかりに気を取られて音楽自体を萎縮させている例のいかに多いことか!。従来のスタイルではメヌエットを遅くする傾向が多く見られましたが、パウムガルトナーはその風潮には組せず、トリオも含めてスッキリとした感触のイン・テンポを貫徹。そういうパウムガルトナーの洗練されたセンスも、古さを感じさせずに聴く者の心に深く訴えかける要因の一つと言えましょう。終楽章は声部の緊密な連動力が命ですが、それを計算ずくでやられると白けるばかり。その点、終始ゆったりと構え、その連動の妙を味わい尽くしてから先へ進むくらいの余裕を見せる進行は、まさに横綱相撲。どこにも力みはないのに、聴く側は手に汗握りっぱなしという、これぞ究極の指揮芸術!【湧々堂】

TRE-189
ベームのベートーヴェン&ドヴォルザーク
ベートーヴェン:交響曲第4番
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」*
カール・ベーム(指)BPO

録音:1952年4月23日、1951年12月17日*
※音源:伊MOVIMENT MUSICA 08-001、01-024*
◎収録時間:79:40
“作品に対するヴィジョンの違いが際立つ2つの名演!”
■音源について
ベーム壮年期の放送用音源。「新世界」はベームにとって遠い存在と思われがちですが、DGのセッション録音以上に覇気に満ちたこのアプローチを聴くと、真に共感を寄せていた作品であることが窺えます。

ベートーヴェンは、かつての独墺系の指揮者の多くがそうであったように、遊びを厳しく戒め、一点一画を疎かにしない解釈が徹底。観客のいない一発録りなので、ここまで集中して作品の理想像を築けたのかもしれません。第1楽章冒頭から実に慎重で、早速禁欲的な空気が支配します。主部以降は精神の内燃に終止し、道を踏み外すまいとする意志の強さが音楽の造型を強固にし昇華させます。特に展開部の各声部の緊密な融合ぶりは聴きもの。第3楽章でのニュアンスの凝縮力の高さも必聴。楽想移行時にの僅かなリタルダンドも含め、ここでは表現への積極的な姿勢を露わにし、この楽章にこれほど高い求心力で響いた例は稀でしょう。終楽章は再び禁欲モードに戻りますが表現への熱い意志は保持。コーダのアゴーギクが極めて抑制的なのも、ベームのベートーヴェンへの敬意の表れ言えましょう。
ドヴォルザークは、もちろん民族的なテイストとは無縁で、あくまでもロマン派ソナタ形式作品として対峙していますが、ベートーヴェンとは好対照を成す表現の幅広さ、深さに心奪われます。
第1楽章序奏部から本物の共感がフレージングに浸透し尽くされており、第2主題をテンポを落として歌いながらも高潔さを維持するあたりは流石ベーム。逆に意外なのは、再現部の7:27と7:29で囁く感触を微妙に変えており、普段のベームにはあまり縁のない「甘美な余韻」を滲ませる点。提示部でも似たアプローチがあるので、まさにベームの例外的なこだわりと言えましょう。コーダではアッチェレランドがかかりますが、単に熱気に任せたものとは異なるのがベームならでは。第2楽章は自らは酔いしれず、作品と一定の距離を保ちながら情感を丁寧に表出しますが、最高潮を築いた後の10:20以降は、抑えがたい郷愁を心の奥から徹底的に縛りだして涙を誘います。特に10:52からの弦のアンサンブルは感動の極み!終楽章は、多くの点でニュアンスが1978年盤と酷似しているのに驚きますが、リズムの瑞々しさと、解釈の細やかさはこちらが上。例えば2:19から弦の内声トレモロに掛かるクレッシェンドは、78年盤には見られません。
ベームに対する「頑固」「無骨」といったイメージは、決してアプローチがワンパターンだという意味ではなく、思い描くヴィジョンに妥協を許さないという意味を含んで、初めて的を得た形容となるのではないでしょうか。【湧々堂】

TRE-190(2CDR)
イタリアQ/コンサート・ホールヘの全録音
ハイドン:弦楽四重奏曲第62番ハ長調 「皇帝」Op.76-33, Hob.III:77
 弦楽四重奏曲第38番 変ホ長調「冗談」Op.33-2, Hob.III:38
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番イ短調 「ロザムンデ」 Op.29-1/D. 804 *
 弦楽四重奏曲第10番変ホ長調Op.125-1, D. 87*
イタリアQ
[パオロ・ボルチャーニ(Vn)、エリサ・ペグレッフィ(Vn)、ピエロ・ファルッリ(Va)、フランコ・ロッシ(Vc)]

録音:1965年(ステレオ)
※音源:瑞西Concert Hall SMS-2418、日Concert Hall SMS-2417*
◎収録時間:44:52+54:14
“徹底した作曲家への献身によって引き出された作品の内省味!!”
■音源について
イタリアQは、フィリップスへ大々的に録音を開始する直前に、コンサートホール・レーベルにレコード2枚分の録音を行っています。ここではその全てを収録。ハイドンはTU盤、シューベルトは、500枚のみ限定頒布された日本盤を使用。
シューベルトの「ロザムンデ」は1952年(DECCA)と1976年(PHILIPS)、シューベルトの「第10番」とハイドンの「皇帝」は1976年(PHILIPS)の録音もありますが、ハイドンの「冗談」は、これが唯一の録音。

★後の余裕綽々の再録音と比べると明らかなように、イタリアQのここでのアプローチは、自分たちの個性を全面に立てるのではなく、作曲家の思いに寄り添うことに全精力を傾注しているのが特徴的。端正な造形力と豊かな歌謡性の融合ぶりは、元々彼らの最大の魅力ではありますが、少しも外面的効果に傾かず、その特質が最も結実しているという点で、忘れるわけにはいきません。
例えば「皇帝」第1楽章4:39以降は、1976年盤では楽想の晴れやかさを堂々と表明しますが、ここでは音の「紡ぎ」に終始。その滲み出るニュアンスがたまりません。第2楽章の歌も、再録音よりもひたむきな純粋さが息づき、第3楽章は、彼ら自ら音楽を楽しむのと、音楽自体に語らせる献身ぶり、といった違いをまざまざと感じさせるのです。
「冗談」は、第1楽章が滑り出した途端、「これぞハイドン!」と思わず膝を打つこと必至。作曲家への献身が綺麗事ではなく、音楽の持ち味を最大限に活かすために完全な形で作用し、しかも、個性の表明を目的としていないのに、そこには教科書的な無機質さとは無縁の慈愛に満ちたニュアンスが敷き詰められているのです。終楽章のコーダも何の魂胆も持ち込まず、清新さ極み!
シューベルトでは、弦楽四重奏において「歌う」とはどういうことかを徹底的に思い知らされます。「ロザムンデ」第1楽章展開部後半の微妙な陰影は、単に全員が作品に共鳴し、アンサンブルの縦の線を揃えただけでは生じ得ず、まさに作品の核心まで踏み込んで共感し合わなければ実現不可能なニュアンスと言えましょう。終楽章冒頭は、4つの声部が緊密に連携していることを聴き手に意識させず、ただただ一個の音楽が囁くことの至福!【湧々堂】

TRE-191
ノエル・リー/ブラームス&バルトーク
ブラームス
:ワルツ集Op.39*
バルトーク:3つの練習曲Op.18 Sz.72
 戸外にて Sz.81/組曲Op.14 Sz.62
 ピアノ・ソナタ Sz.80
ノエル・リー(P)

録音:1964年3月*、1966年頃 (共にステレオ)
※音源:仏Valois MB-986*、仏chaiers du disque JM-046
◎収録時間:65:47
“打楽器的アプローチだけでは気づかないバルトークのピアノ曲の本質!”
■音源について
TRE-114〜同様、デンマークのホルヌンク&メラー製のピアノを使用した録音。

★バルトークのピアノ曲の録音は年々増えつつありますが、ピアノの打楽器的な側面を際立たせた演奏が多く、その背後にあるリリシズムや色彩の陰影まで的確に感じきった演奏はまだまだ少ないのが現状です。そんな中、バルトークのピアノ曲の多様な魅力を伝える演奏として絶対に外せないのがノエル・リーの録音。特に、バルトークの後期の幕開けを象徴する1926年の傑作、「戸外にて」「ピアノ・ソナタ」の素晴らしさは、他に類を見ません。
 「戸外にて」の1曲目から、タッチは吟味しつくされ、凶暴さに逃げないニュアンスの深みにハッとさせられます。描写的性格の強い作品ながら、より高度に昇華した純音楽的なアプローチが見事に結実。第3曲の色彩の揺らぎの妙と共に説得力が際立つのは、第4曲の密やかな息遣いと神秘性!旋律線が表面化する1:56以降の切ない語り口や、4:20以降の翳りのある旋律と明るいリズムの融合など、作品の核心に迫ろうとする気概の結晶といえましょう。
 ピアノ・ソナタも、この音楽に打楽器的な要素以外の魅力がふんだんに盛り込まれています。第1楽章の単純なマーチ調の進行からして、凡百の演奏とは別次元!一見肉食系のようでいて芯が脆弱な荒っぽいだけの演奏がいかに多いことか、思い知らされます。リーは民族的な野趣を削ぎ落としているのではなく、それを洗練させた上で音楽の形式の中に確実に根付かせています。終楽章では、縱にリズムを放射しながら和声の混濁は皆無。そのバランス感覚と集中力が、激烈なコーダに神々しささえ与えており、これぞまさに、バルトークが表現したかった音楽ではないでしょうか。
 作品の様式への配慮とタッチの緻密な積み重ねに全く弛緩を見せない名演実現には、ドビュッシーの全集でも採用していたホルヌンク&メラー製ピアノの音色美も大きく貢献。ブラームスをお聴きになれば、この楽器はロマン派以前の小規模な作品にこそ本来ふさわしいと思われる方が多いことでしょう。しかし、その可能性をバルトークで極限まで拡張させたという点でも、実に画期的な録音だと思うのです。【湧々堂】

TRE-192
カイルベルト/R・シュトラウス:管弦楽曲集
「サロメ」〜7つのヴェールの踊り
「インテルメッツオ」〜4つの交響的間奏曲
「無口な女」〜前奏曲(ポプリ)
交響詩「ドン・ファン」*
交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」*
ヨーゼフ・カイルベルト(指)
バイエルン国立歌劇場O、BPO*

録音:1963年、1961年*(全てステレオ)
※音源:英TELEFUNKEN SMA-106、独TELEFUNKEN SNA-25016
◎収録時間:68:43
“R・シュトラウスはこうでなければと思わせる無類の説得力!”
■音源について
オペラからの管弦楽曲は英国盤、交響詩はドイツの5枚組のセット(Royal Sound)の中の1枚を採用しました。

★2つのオケによる演奏ですが、まずは何と言ってもその響きの素晴しさに心奪われます。それは決して古色蒼然とか懐かしいといった次元ではなく、「R・シュトラウスとはこう響かせるべき」という強い確信と共に迫るので、その説得力たるや破格。元々が良く鳴るように書かれはていますが、近年その響きは画一化の一途を辿っているのはご承知の通り。カイルベルトの指揮で聴くと、それは単にオケのグローバル化だけはなく、立派に鳴るように書かれていることを良いことに、色彩的にも精神的にも指揮者が深いビジョンを持たずに安易に取り上げすぎることが大きな要因ではないか?と思えてきます。
前半のオペラからの管弦楽曲では、オケに染み付いている伝統的な響きとフレージングがものを言っているのはもちろんですが、カイルベルトの色彩センスと舞台上の人物をリアルに想起させるニュアンス作りの素晴らしさに脱帽。「サロメの踊り」は、カラヤン、ケンペ、レーグナーなど多くの名演が存在する中で、カイルベルトはその一点で他を圧倒しています。
「インテルメッツォ」では、「華麗さ」と「派手さ」の違いを痛感。第1曲のワルツは、甘美さの背後にR.シュトラウスらしシニカルさが見え隠れする絶妙さ!第2曲は、より透明なテクスチュアを敷き詰めることも可能でしょうが、こうして雑味たっぷりのニュアンスを大きな呼吸で飛翔させられると、他の演奏など考えられなくなるほど。そして最後の和音の驚異の深淵さ!とにかく、無敵の技の連続です。
2つの交響詩は、カラヤン色に染まり切る前のベルリン・フィルの奥深い響きが絶品!しかしそれは決して「フルトヴェングラーの名残り」ではなく、確実にカイルベルトのコンセプトが投影されているのです。
「ティル」は一見実直な表現ですが、各場面のニュアンス作りが実にきめ細やかで、ティルの人間像が鮮明に再現されます。副主題(7:13〜)や、11:26からの付点音符などはリズムの芯が脆弱になることが多い中、ここでのしっかり地に根を張った進行は聴きもの。究極は12:45からの裁判シーンの間合いの良さと打楽器との融合ぶり。14:10からのクラリネットの下降の哀れさと共に、古今を通じて無類と言えましょう。細かな点ですが、3:11からのトランペットの急速タンギングの巧さにもご注目を。
「ドン・ファン」もまさに入魂。3:56からの呼吸の持久力と包容力は流石ですし、第2主題のホルンは表面的な強奏とは異なる毅然とした空気が漲ります。その第2主題が後半で再現される場面では、その上行フレーズが昇華しきった頂点の達成感に思わず鳥肌!
R・シュトラウスと言えば、ベームやカラヤンを思い浮かべる方が多いと思いますが、カイルベルトを外すことなどあり得ないことを十分にお分かりいただけることと思います。【湧々堂】

TRE-193
L.ルートヴィヒ/リスト&チャイコフスキー
リスト:ハンガリー狂詩曲集より
 第2番(ミュラー=ベルクハウス編)*
 第4番(リスト&ドップラー編)*
チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲
 イタリア奇想曲/スラブ行進曲
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
バイエルンRSO

録音:1966年頃*、1966年4月4-5日(全てステレオ)
※音源:英HMV SXLP-20094*、独ELECTROLA 03-29045
◎収録時間:73:19
“大衆迎合的な愉しさに傾かない豪然たる快演!”
■音源について
既に復刻済みのハイドン(TRE-160)に続く、ルートヴィヒの独エレクトローラ録音集。ハンガリー狂詩曲の残り2曲はまた別の機会に…。

リストは、ハンガリーの風味よりもドイツの的な重厚さをふんだんに湛えた演奏で、まとまったハンガリー狂詩曲集の録音としては最高峰に君臨する逸品。ハンガリーの民族色をそのままドイツの魂の凝縮させた独特の音色とリズムの湧き上がりには興奮を禁じ得ません。鬱蒼とした森を這うような「ラッサン」の深淵さといい、ドイツ精神を謳歌する「フリシュカ」の熱い畳み掛けといい、迫真のニュアンスで訴えかけます。その独特の味わいに大きく貢献しているのが、グローバルな響きに傾く以前のバイエルン放送響の木目調の響き。個々の奏者の技量とセンスも尋常ではありません。
そのオケの潜在能力を信じ切って、職人ルートヴィヒが意外なほど大胆なアプローチを見せるのがチャイコフスキー。中でも「スラブ行進曲」の超低速テンポ(演奏時間:12分半)は突然変異としか言いようがなく、一度聴いたら脳裏を離れません。冒頭から低速で開始する例は珍しくありませんが、そのテンポを維持できた例は、スヴェトラーノフ&N響などごくわずか。ここでは途中少しだけテンポが上がるものの、超低速感は最後まで貫徹。しかも重戦車的に威圧せず、手作りの風合いを残したまま進行するのがなんとも心憎く、9:16の"タタタタッタ"の金管の刻みは、愚直すぎてちょっと笑えます。
「イタリア奇想曲」も、陽気な開放感とは無縁。9:29の弦の弓使いなど、カンタービレとの決別宣言そのもの。
「くるみ割り人形」は、クナッパーツブッシュ、ワルター・ゲールと共に低重心モードによる三大名演!ここでも「中国の踊り」における低速での野暮ったい足取り、後半の強靭なピチカートの訴え掛けが強く、「花のワルツ」では、ドイツ色丸出しのホルン、渾身のティンパニなど、メルヘンとは程遠い「大人の世界」に酔いしれること必至!【湧々堂】

TRE-195
ジョージ・ウェルドン・コンサート
(1)グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲*
(2)バッハ(ウィルヘルミ編):G線上のアリア*
(3)スメタナ:「売られた花嫁」〜道化師の踊り*
(4)ファリャ:火祭の踊り*
(5)モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲*
(6)プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」〜行進曲*
(7)ホルスト:組曲「惑星」〜木星*
(8)ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」
(9)メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」〜スケルツォ
(10)ヴェルディ:歌劇「椿姫」第1幕前奏曲
(11)チャイコフスキー:弦楽セレナード〜ワルツ
(12)チャイコフスキー:祝典序曲「1812年」#
ジョージ・ウェルドン(指)
フィルハーモニアO
ロイヤル・マリーンズ・バンド#

録音:1961年5月30日(1)(3)、1961年5月31日(2)(4)-(7)、1963年4月11日(8)-(11)、1963年5月18,21日(12)、全てステレオ
※音源:COLUMBIA SCX-3446*、SCX-3499
◎収録時間:71:08
“誰にも負けぬ共感が聴き手に確かな味わいを約束!”
■音源について
ウェルドンはモノラル期からたびたびこの種の名曲集を作成していますが、ここではフィルハーモニア管を振った2枚のステレオ・レコードを復刻。既にTRE-039で復刻済みの「モック・モリス」(グレインジャー)、「グリーンスリーヴズ幻想曲」(V=ウィリアムズ)、「ラ・カリンダ」(ディーリアスの3曲と、なぜか音が濁る「売られた花嫁」のポルカ(スメタナ)以外の全てを収録。曲の順番は変えていません。

★収録曲は時代も国もばらばらですが、その選曲こそがウェルドンの底力を思い知る重要なポイント!こんなとりとめもない作品の連続でも聴き手を飽きさせない指揮者など、他に思い当たりません。
全てのニュアンスが熱い共感を持って練り上げげられていることからも、これらはウェルドン本人が選曲したことは明らかで、個々の曲が最も魅力的に輝くようにアプローチを変化させる柔軟性、恣意的表現とは無縁の真摯さが一体となったときの、各音楽の潜在的な美しさと生命力が伸び伸びと放たれる様を体感していただけるはずです。
演奏の出来不出来も存在しませんが、中でも以下の5曲は、各曲の史上屈指の名演であると断言できます。
まず「フィガロの結婚」序曲。高速テンポそのものが語り掛け、更に無限にニュアンスが放射されという夢のような名演奏!このテイストを持つ交響曲の録音が実現していたら…と想像するだけでゾクゾクします。
そして、「3つのオレンジへの恋」の行進曲。この1分半の曲にこれほど心奪われる日が来るとは!
ホルストの「木星」は、爽快なテンポと自然に抉り出した絶妙な声部バランスが、宇宙の壮大さを余すことなく再現。これも全曲録音していたら、ボールトやサージェントと張り合う存在となったことは確実。少なくとも中間部のフレージングの温かみと伸縮力は、何度聴いても感涙。
「謝肉祭」は華やかな色彩を振りまくだけでなく、全てのパートが人間味ある対話を常に繰り広げているので、どんな大音量でも騒々しく響くことなく心に届くのです。第3主題(1:40〜)がこれほど胸を焦がして歌い上げた例が他にあるでしょうか?中間部の5:28からの幻想性にも息を呑み、随所に現れる金管の急速パッセージのスパイスが、確実に効いている点も特筆もの。コーダにアッチェレランドはもちろん無用!
「騒々しくない」と言えば、「1812年」も。しかも、ウェルドンの芸風からして意外なド派手実弾音入り!しかし、その外面的効果込みのニュアンスが、切実な語りを伴って訴え掛けるのです。この作品は巧いオケが演奏すれば大した共感を持たずとも一定の成果が上げられますが、コーダの最後の最後まで意思が浸透しきっていることからも明らかなように、ウェルドンはどんな場合でも純粋で丹念な音作りを決して放棄しないのです。
ご存知の通り、カラヤンも同オケと同様の名曲集を作っていますが、自分のスタイルに作品を引き寄せるカラヤン流儀と対比させてみるのも一興ではないでしょうか。【湧々堂】

TRE-196
カンテッリのステレオ名盤集Vol.2
ブラームス:交響曲第3番
フランク:交響曲ニ短調*
グィド・カンテッリ(指)
フィルハーモニアO
NBC響*

録音:1955年8月、1954年4月*
※音源:仏Trianon TRI-33200、英W.R.C SH376*
◎収録時間:70:08
“テンポの変動を抑えて作品の本質を引き出すカンテッリの天才性!”
■音源について
1970年代後半にようやくステレオ・ヴァージョンが発売された2つの録音をカップリング。ブラームスは、この1曲だけで両面を使用しているトリアノン盤を採用。

★素直で伸びやかな歌と清潔なハーモニーで一貫したカンテッリならではの2つの名演奏。
ブラームスでの清々しいフレージングは、極端な造形を見せるクナッパーツブッシュとは正反対。テンポの伸縮も最小限に抑えてながら、この作品の洗練美の表出を見事日貫徹しています。特に弱音部でのニュアンスの透徹ぶりは心に迫り、常に高い技術の音楽性を披露するフィルハーモニア管も、気を引き締め直して臨んでいるのが目に浮かぶよう。それを最も顕著に感じるのが第2楽章。至純なハーモニーそのものが高い音楽性を示し、後半7:08以降で静謐の間合いにたっぷりとニュアンスを敷き詰め、息を呑むような美しい響きを現出する様は奇跡的とさえ言えます。第3楽章は、デニス・ブレインのホルンはもちろんのこと、他の管楽器同士の融合美、弦の驚異的な音程の正確さが織り成す精妙なニュアンスにも心奪われます。終楽章も、淀みとは無縁のイン・テンポ進行が瑞々しいこと!さり気なくティンパニの追加を施していますが、これもクナのそれとは意味合いが全く異なります。何度聴いてもゾクッとするのが、コーダの最後のピチカートの微妙なずれ!偶然の産物かもしれませんが、録り直しをせずに採用しているのが粋!
フランクはNBC響が相手で、強音部のアタックはトスカニーニを彷彿とさせますが、柔軟な歌と瑞々しいロマン性はカンテッリならではで、第1楽章第2主題(6:31〜)の爽やかさはその好例。第2楽章は、オケの特質により音の隈取りが強いにもかかわらず、常に優しい香りを伴って聴手に語り掛けます。中間スケルツォ部におけるアンサンブル制御力と緻密なニュアンス表出の隙のなさ!これが30代半ばの青年の指揮というのは、どう考えても驚異です。
終楽章は、アゴーギクを極限まで抑えるカンテッリの特質が最大に生き、冗長に陥りがちなこの曲をキリッと引き締め、同時に惜しげもなく熱い歌を注入し尽くします。最後まで造形の軸がぶれることのないコーダは、カンテッリの音楽哲学の象徴するかのように決然と響き渡ります。【湧々堂】

TRE-197
クレツキ&南西ドイツ放送響/ベートーヴェン
交響曲第1番ハ長調Op.21
交響曲第3番変ホ長調「英雄」*
パウル・クレツキ(指)
南西ドイツRSO

録音:1962年(ステレオ)
※音源:瑞西Concert Hall SMSBE-2313(TU)、SMS-2275(TU)*
◎収録時間:75:46
“ユダヤ的感性を隠すことなくベートーヴェンに対峙した確信的解釈!”
■音源について
クレツキは、後年チェコ・フィルとベートーヴェンの交響曲全集を録音していますが、この2曲はそれとは別の意義を誇るコンサート・ホール録音。特に「英雄」は様々なプレス盤を聴き比べましたが、群を抜いて明快に鳴ったのはこのTU(スイス・チューリカフォン)盤でした。「第1番」もTU盤ですが、ここで使用したのは交響曲全集の中の1枚です。

★クレツキがチェコ・フィルと遺したベートーヴェンの交響曲全集は、当時の名門オケの純朴で贅肉のないサウンドを生かした快演揃いでしたが、ここではオケの音色に大きな特長が無い分、クレツキのこだわりがストレートに浮き上がり、改めてこの巨匠の芸の深さを思い知らされます。
 「英雄」は、ベートーヴェンの強靭な精神を確固たる造形美の中に内包させ、表面的な力業では味わえない佇まいがあらゆる楽想から湧き立ちます。第1楽章展開部7:01からの対旋律との連携の美しさや、再現部11:48からリタルダンドして現出する神秘的な空気は、一度触れたら病み付きになること必至! 第2楽章も、最後まで高潔な居住まいを崩しませんが、それだけにフーガ主題(7:28〜)以降で見せる激しい慟哭は、ユダヤ系のクレツキが戦時中に味わった苦悩をぶつけたかのようで、インパクト絶大!第3楽章ではトリオ直前にルフト・パウゼを挟み、旧スタイルの名残りを見せるのが印象的。終楽章コーダで安易に興奮を煽るのではなく、入念に音の意味を噛み締めながら芯の強い音像を築く点にも、クレツキの芸術家魂が結実しています。
 「第1番」は古典的フォルムを丁寧に紡ぎ出すことに重点を置き、決して派手に立ち回りません。しかし、第1楽章序奏冒頭のサラッとした音の切り方や、展開部5:37からレガートにして幻性味を醸し出すなど、明らかに伝統的なドイツ的解釈とは異なり、クレツキ独自の感性に打たれます。この第3楽章中間部直前でも、ルフトパウゼあり。また、両曲とも第1,4楽章の提示部リピートを敢行しています。【湧々堂】

TRE-198
アラウ/ショパン:ピアノ協奏曲集
ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11
ピアノ協奏曲第2番ヘ短調Op.21*
クラウディオ・アラウ(P)
オットー・クレンペラー(指)ケルンRSO
マッシモ・プラデッラ(指)バイエルンRSO*

録音:1954年10月25日ケルン放送第1ホール、1960年4月12日ミュンヘン・ライヴ*(共にモノラル)
※音源:日KING SLF-5002、伊MOVIMENT MUSICA 01.064*
◎収録時間:73:08
“甘美さ優先のショパンに満足しない方は必聴!”
■音源について
2枚のレコードのすべてを収録。アラウの「1番」のライヴ録音のうち、レコード化されたのはこれが唯一と思われます。1978年にチェトラから発売され、翌年日本でもキングから発売。一方の「2番」のライブは5種類も存在。そのうちプラデッラとの共演が2種類あり、1960年3月の録音はWHRA- 6050でCD化されていますが、ここに収録したのはその翌月の録音です。2曲とも会場ノイズは殆ど聞こえないので、放送用音源だと思われます。

★技巧面でも盤石を誇っていた円熟期に入る前のアラウが繰り広げる、凛々しいショパン。アラウにとって、甘美さにふけるショパン像は生涯無縁のものでしたが、ここではライヴ特有の熱気とも相まって強い表現意志を漲らせ、緊張感溢れる演奏を展開。特にショパンとは縁遠いクレンペラーが指揮する「第1番」は、ショパンの何たるかをアラウが大先輩に教え諭すかのような空気が独特の緊張感を生み、そのせいかベートーヴェン風のクレンペラーの指揮にも停滞感はなく、結果的に見事に共同作業を貫徹させています。ちなみにアラウとクレンペラーは、戦前にシューマンの協奏曲で共演していますが、若いアラウにクレンペラーが自分の解釈を押し付けたので、アラウはひどく不快に思ったそうですが、ここではそんな不穏な空気は微塵も感じさせません。
第1楽章の第1主題後半部の強弱対比とアゴーギクは、アラウのショパン解釈を象徴しており、決して女々しくないその語り口は聴き手に勇気を与えるかのよう。展開部冒頭では、タッチの微妙な間合い、ペダリングのセンスが光ります。第2楽章は十分に陶酔美を敷き詰めつつも、その根底には作品の造形を見据えた強靭な精神が息づいています。終楽章は10年後のインバルとの共演盤よりも快適なテンポで瑞々しく、冒頭主題の付点リズムの生かし方もずっと自然。副主題(2:57〜)も、チャーミングと言うより粋!
「第2番」も、雰囲気に流されず音楽の輪郭を明確に示すアラウの姿勢に揺るぎなし。第1楽章の主題の後半(3:49〜)のトリルを長く引き伸ばすのは後年の録音と同じですが、求心力は断然こちらが上。第2楽章冒頭のピアノの滑り出し方は、余り語られることのないアラウのタッチの美しさと気が遠くなるほどの呼吸の深さが一体となり、格別の味わい。終楽章は、嘘くさいマズルカ風を演じず、3拍子の拍節を実直に刻むのがなんともクール!こういう点を捉えて「ショパンの心を理解していない」とぼやく人には、とにかく「音楽を聴きましょうと!」と言いたいです。【湧々堂】

TRE-199
エードリアン・ボールト〜オーケストラのための行進曲集
チャイコフスキー:スラヴ行進曲*
アイアランド:エピック・マーチ**
ロジャーズ:ガダルカナル・マーチ#
コーツ:ダム・バスターズ
スーザ:ワシントン・ポスト
J.F.ワーグナー:双頭の鷲の旗の下に
タイケ:旧友
トラディショナル(ロビンソン編):ブリティッシュ・グレナディアーズ(近衛歩兵大一連隊行進曲)
トラディショナル(アルフォード編):リリーバレロ
スーザ:星条旗よ永遠なれ
アルフォード:ボギー大佐
スーザ:エル・カピタン
H.W.デイヴィス:ロイヤル・エア・フォース・マーチ・パスト(イギリス空軍マーチ)
ツィマーマン:錨を上げて
スーザ:自由の鐘
ステッフェ:リパブリック賛歌
エードリアン・ボールト(指)LPO

録音:1967年8月、1967年1月*、1965年12月**、1967年7月#
※音源:World Record Club ST-750、Odessey 32.16.0238*、Lyrita SRCS.31**
◎収録時間:62:15
“楽しさ無類!ボールト翁が最高にハジけた名行進曲集!”
■音源について
1967年にW.R.Cに録音した「Marches For Orchestra」の全てに、2曲を加えて収録。ボールトは「スラブ行進曲」を3回録音。最後の1974年の録音は何度もCD化されていますが、ここに収録されているのは2回目の録音。

★「マーチを振ることが無上の喜び」と語ったボールトですので、当然ながらどの曲もやる気満々。そこに独特のウィットも加わった楽しさは無類です。
 「スラブ行進曲」はテンポ設定こそ1974年盤とほとんど同じですが、全体に漲る勇猛さでは明らかにこの1967年盤が上。7:10からのティンパニの土臭さも魅力。「エピック・マーチ」は、ボールトの勧めによって1942年に書かれた8分に及ぶ力作。親しみやすい冒頭主題もさることながら、中間部の“These things shall be”のメロディは英国テイスト満点で、これが「威風堂々」と同様に最後に繰り返されるシーンは感涙必至!
 3曲目以降はオリジナルのマーチ集。オーケストラによるマーチ集としてはバーンスタイン盤と共に忘れてはならない名盤です。ボールトの指揮で4種以上の録音が存在する「ダム・バスターズ」は、これほど愛情豊かなアゴーギクを駆使して温かさを感じさせる演奏を他に知りません。「ガダルカナル・マーチ」は、これがボールト?と思うほどリズムが激しく湧き立ち、オケも前のめりなノリを示しすのは。まるでバーンスタインのようでびっくりしますが、ゴキゲンさを前面に押し出すバーンスタインとは好対照。生粋の英国紳士しか持ち得ない粋と格調をミックスした独特の風情、スケール感は紛れもなくあのカイゼル髭のボールトの音作りであり、作品の魅力を最大に引き出すための配慮がさり気なく盛り込まれています。その「さり気なさ」の最たるものが、スーザタイケにおける第1マーチのリピート処理。「双頭の鷲…」のように中間部の後に再び主部を演奏するのが行進曲の定石だと言わんばかりに、当然のように冒頭主題をリピートして締めくくります。つまりヨーロッパ・スタイルを踏襲しているわけですが、それが少しも押し付けがましくなく、それどころか、「この方が良いでしょ?」とニヒルに微笑むボールトの顔が目に浮かびます。
 かつて、ボールトがボストン響を振ったモーツァルト:交響曲第39番のライヴCDが出ていましたが、終楽章演奏後の拍手の後に、当時としては珍しいリピートを敢行し、繰り返し後のコーダでは「今度こそ終わりですよ!」という思いを込めてグッとテンポを落とすという妙技を披露していましたが、それと同様のユーモアと技術力がここでもはっきりと表れているのです。その術中にハマりながら音楽を楽しめるとは、なんと幸せなことでしょう!全てのオーケストラ・ファン、マーチ・ファン必聴です! 【湧々堂】

TRE-200
ワルター厳選名演集Vol.2
ハイドン:交響曲第88番「V字」
シューベルト:交響曲第9番「グレート」*
ブルーノ・ワルター(指)
コロンビアSO

録音:1961年3月4,8日、1959年1月31日&2月2,4,6日*(共にステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-307、英CBS SRBG-72020*
◎収録時間:74:08
“晩年のワルターの芸術性が奇跡的な次元にまで昇華した2大名演!”
■音源について
ハイドンは、3楽章のティンパニの弱音連打の質感を見事に捉えきっている国内初期ステレオ盤、シューベルトは、品格溢れる響きを誇る英国盤を迷わず採用しています。

★ワルター晩年の録音の中でも五指に入る2つの超名演!ワルター独自の温かな感性とロマンティックな歌のセンスは、録音技術の限界や、オケの特質、ワルター自身の迷い等ににより、その全てが出し切れていないことも少なくないですが、この2曲は全てが最良の形で演奏に反映してどこにも無理がなく、全てのニュアンスが結晶化しています。
特にシューベルトの魅力は、無尽蔵!美しく齢いを重ねた人間だけが成し得る奇跡の芸術と言う他ありません。第1楽章序奏から憧れと失意が入り混じったニュアンスが横溢。スローテンポが単に鄙びた味わい以外の風情を醸し出す点でも忘れられません。主部以降もメトロノーム的進行とは一切無縁。3:26のホルンの強奏など、造形を盤石にする配慮にも事欠きません。第2楽章は歌心に任せるだけではなく、主題の厳格なスタッカート処理に象徴されるように、意外なほどリズムを引き締めている点がポイント。アゴーギクを最小限に抑えることで、フレーズの末端で微かな余韻を際立たせるという老練の技にもうっとりするばかり。10:20からの低弦ピチカートも、これほど歌いきった演奏が他にあるでしょうか?第3楽章は、1946年盤でも見られたティンパニの追加がさらに功を奏し、究極のレントラーを実現。5:16の僅かな下降音型の呼吸感も鳥肌ものが。
終楽章は思い切った管楽器の補強が散見されますが、それがワーグナー風の派手さに傾かないのは流石。テンポは遅めですが、そうでなければならないほどニュアンスが充満しているのはもちろんのこと、弦が細かい音型を必死の形相で弾くという類の曲ではないことを優しく諭すかのように、確実に音楽の内面のニュアンスが表出されるのです。
ハイドンも、この演奏を聴かずしてこの曲は語れず、「芸は人なり」という言葉をこれほど痛感させる演奏も少ないでしょう。そして、老巨匠とは思えぬ表現の瑞々しさ!第2楽章のピチカートは、まるで涙のきらめき。古典的フォルム内に溢れんばかりの悲哀が何層にも詰まっています。
 ワルターと言えばモーツァルトですが、少なくとも晩年に遺したどのモーツァルトの交響曲よりも、この2曲の充実度はずば抜けているいことを実感していただけることでしょう。【湧々堂】


TRE-201
アンセルメ〜ベートーヴェン厳選名演集Vol.1
ベートーヴェン:「フィデリオ」序曲
交響曲第2番*/交響曲第7番
エルネスト・アンセルメ(指)
スイス・ロマンドO

録音:1960年1月(ステレオ)
※音源:LONDON CS-6183*、DECCA SDD-102
◎収録時間:78:33
“知的制御よりも情念を優先させたアンセルメの例外的熱演!”
■音源について
「アンセルメ=知性派」というイメージが強いせいか、既出CDのぬるま湯のような音にも特に違和感を覚えない方が多いようですが、それが完全な誤解であることを証明するのにこれほど適した選曲はないでしょう。米LONDON盤は英国プレスなので、実質的に英SXL盤と同じ分厚い大スケールを誇る音。SDD規格は再発シリーズですが、ここではシリーズ初期のラージ盤を採用。初期SXLにありがちな音のざらつきがない分、ストレスなく生々しい迫力が伝わってきます。デッカ録音の音質は、1950年代末〜60年代初頭のものが最高レベルであった実感される方も多いのではないでしょうか。

★作品との距離との一定の距離感を崩さないのがアンセルメの基本姿勢ではありますが、唯一例外と言えるのがベートーヴェン。別のスイッチが入り、理性よりも情感を前面に押し出して心から熱い音楽を展開します。その中でもこの3曲はアンセルメが遺したベートーヴェン録音の頂点に位置する超名演だと思います!
 「フィデリオ」冒頭の飛び込み方からして、表現意欲が炸裂。響きにも精緻さよりも剥き出しの質感を求め、4:31からの魂が芯から熱したアッチェレランドも他ではまず見られない現象。コーダの追い込みに至っては暴力的なほど激烈で、アンセルメの「ベートーヴェンはかくかるべき」という強い信念を思い知らされます。
 自分の側から作品の中へグイグイと入り込む果敢な態度は交響曲でも同じ。「第2番」第1楽章は、やる気満々で推進力も抜群。コーダは体裁など二の次の大迫力を見せながらそのまま駆け抜けると思わせておいて、最後の3つの和音だけは大胆にテンポを落として締めくくるという制御力の妙味にしびれます。第2楽章は人間愛が横溢。その包容力の大きさと、11:19以降の噛みしめるような深い呼吸を思うと、感動の度合いはワルター以上かもしれません。第3楽章は重量級。特に中間部での恐るべき彫琢に唖然。終楽章は6:04からのクレッシェンド効果が絶妙。コーダ(6:38)で約一拍分ルフトパウゼが置かれるのは、アンセルメが音楽をとことん深く感じている証しと言えましょう。
 「第7番」ではその主体的な表現姿勢が更に深化。サン・サーンスやビゼーの交響曲でのクールさは放棄して、表現の果敢さとベートーヴェンの生き様をリンクさせようとする姿勢を完全に貫徹させています。第1楽章は、展開部でのトランペットのスフォルツァンドの痛烈さと、自然な緊張感の醸成ぶにぜひご注目を。第3楽章は、当時の録音の鮮烈さを象徴する、巨木の如きティンパニの響きの物凄いこと!トリオ直前での音の引き伸ばしは、作品への共鳴にとどまらず、音の緊張と緩和のバランスを心得た巨匠ならではの至芸を象徴。この楽章だけはリピートを敢行していますが、もちろん冗長さは皆無。そして、驚異の終楽章!アドレナリンの全てを使い果たす勢いで猛進し、表面的な美しさとも遂に完全断絶。ベートーヴェンのティンパニの使い方の巧みさを再認識させる点でもこれ以上の演奏は類がなく、8:00以降はその効果と共に正に堰を切ったようなド迫力で圧倒します。しかも、拍節ごとに付いているティンパニのアクセントの指示を遵守(8:41〜)し、その意味を生かしきっている点でも決して忘れてはならない録音です。「ベト7」の最高の理想像とも言えるこれほどの演奏を無視することなど、この復刻盤で聴けばありえないと確信する次第です。【湧々堂】

TRE-202
A.ローター/ベートーヴェン:交響曲集
グルック:「アウリスのイフィゲニア」序曲#
ベートーヴェン:交響曲第1番*
 交響曲第8番*
フンパーディンク:「ヘンゼルとグレーテル」序曲**
 「王子王女」序曲##
アルトゥール・ローター(指)
ベルリンSO*
ベルリン国立歌劇場O

録音:1959年頃*、1956年10月10日#、1957年6月18日**、1957年6月24日##  (全てステレオ)
※音源:独Opera ST-1911*、独TELEFUNKEN SLT-43011
◎収録時間:75:29
“世紀の名演「ベト8」に見るローターの飽くなき職人気質!”
■音源について
ローターは「第1番」を1951年にも録音していましたが、「第8番」は唯一の録音と思われます。この2曲のステレオ盤は入手困難で、特に初出のOperaのミント級盤は発掘不可能だと思っていました。後発のオイロディスク盤(ジャケ写に使用)は当然ながら雑味は少ないですが、明らかに音の質感が減退しています。中でもティンパニの本皮の質感は、このOpera盤でないと聞こえてきません。

★ローターのベートーヴェンの交響曲のステレオ録音は4曲しか存在しませんが、この2曲に触れただけで、もし全集が完成していたらとてつもない名盤として君臨し続けだろうことは容易に想像できます。音色はいかにも一時代前の鄙びたドイツ本流のサウンドですが、音楽自体は少しも古臭くなく、ローターの長年の経験と勘が息づく味わい深さは格別です。
 「第1番」は、ベルリン・フィルと録音した1951年盤では、フルトヴェングラーのような凄まじい精神的高揚力を見せていましたが、ここでは別人のように穏和。しかし第1楽章で顕著なように、単に力を抜いて流しているのではなく、スコアの細部にまで表現し尽そうとする意志が漲り、表面的な和やかさとは裏腹に、絶妙な緊張感で一貫しています。第2楽章主題の語り掛けの優しさはワルター以上。単なるノスタルジーを超えた深い慈しみに涙を禁じ得ません。決然とした意志を貫きつつ古風な味わいを共存させる終楽章も見事。序奏の最後でルフト・パウゼを置くのも実に小粋。本来この曲には、高速テンポもメタリックな響きも持ち込む余地はないのかもしれません。
 一方の「第8番」は更に感動的!ステレオ初期録音としては、カイルベルト等と並んで激賞した逸品です。第1楽章、ここでもテンポの安定感が光りますが、そこに優しい人間味が息づいているのがたまらない魅力。6:24で少しの間も入れず一気に滑り込むフレージングの妙は、まさに経験のなせる技!第3楽章は、もはや再現不可能な古き佳きドイツの響きの宝庫!本皮ティンパニの風合い、トリオでのホルンの雄渾なハーモニーにただただ惚れ惚れ。終楽章冒頭(0:17〜)では、そのティンパニが控え目ながら硬質な響きで全体を引き締め、ホルンもさり気なくフレーズを下支えする様!この声部バランスのさじ加減は、ローターの指揮者としての凄さを証明するのに十分と言えましょう。【湧々堂】

TRE-203
ワルター〜ハイドン/モーツァルト/ドヴォルザーク
モーツァルト:フリーメーソンのための葬送音楽
ハイドン:交響曲第100番「軍隊」*
ドヴォルザーク:交響曲第8番#
ブルーノ・ワルター(指)
コロンビアSO

録音:1961年3月8日、1961年3月2&4日*、1961年2月8&12日#(全てステレオ)
※音源:日SONY 20AC-1805、日COLUMBIA OS-307*、OS-718-C#
◎収録時間:69:13
“老練の至芸に宿る、青年のような瑞々しい感性”
■音源について
モーツァルトは、マックルーア監修によるマスタリング盤。ハイドンとドヴォルザークは、国内初期コロンビア盤の中でも特に優れた青ラベル盤を使用。

ドヴォルザークは、ワルター晩年の録音の中でも屈指の名演!全体に漲る瑞々しい感性はとても老人のそれとは思えません。第1楽章は符点リズムの切れを大切にし、人柄が滲む歌心と融合して独特の味を生んでいます。第2楽章7:02以降も同様。こんな華と夢が散りばめられたフレージングが他で聴けるでしょうか?第3楽章では意外にも高速に徹していて、これがまた効果満点。フレーズは一切粘つかず、2:55からもポルタメントを用いず、洗練美の中に高純度の歌を横溢させます。終楽章は、打って変わって誰よりも低速。立体的な彫琢を尽くしつつ濃密な音楽を展開。もちろん老化に起因する遅さとは一線を画し、1:46からのリズムの弾ませ方など、相当のこだわりが感じられます。
 ワルターの場合、この種のこだわりが露骨に透けて見えることが多く、巧妙に誤魔化すことができないその人間味が、ワルターの音楽の魅力を支えていることを痛感させます。ホルンの慟哭トリルや、4:08からのフルート強靭化も説得力絶大。
 「軍隊」はウィーン・フィルと絶美の名盤の影に隠れがちですが、このステレオ盤も何度聴いても大名演!是非ウィーンの甘美なイメージに捕われず、熟練を極めた表現の妙をご堪能ください。少なくとも、現代的なフレージングと人生の年輪が渾然一体化したルバートの味わいは、ウィーン・フィル盤にはない魅力です。
 ワルターといえばモーツァルトですが、晩年の一連のモーツァルト録音(特に交響曲)は、低音が変に出すぎて不自然です。「リンツ」1楽章の主部冒頭で、低弦がバランスを欠いてボンボンボンボンとリズムを刻むのには、何度聴いても吹き出してしまうのは私だけでしょうか?録音に立ち会っていた若林駿介氏も「低音域の残響が重い」と語っています。その欠点がむしろプラスに働いたと思われるのが「フリーメーソン」。特にコーダをお聴きあれ!【湧々堂】

TRE-205
ラインスドルフ&ボストン響・厳選名演集Vol.3〜シューマン.他
モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク*
ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第3番
シューマン:交響曲第4番(マーラー編)
エーリヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO

録音:1963年1月6日*、1963年1月5-6日(全てステレオ)
※音源:日VICTOR SHP-2307*、英RCA SB-6582
◎収録時間:63:04
“ラインスドルフの驚異の耳が制御する作品のあるべき姿!”
■音源について
1963年1月5-6日に録音された3曲をカップリング。ちみに「アイネ・クライネ…」のLPの併録曲「ジュピター」は、1月14日の録音。ベートーヴェン&シューマンのLPは、はやり英盤が全ての点で高水準!モーツァルトは高音質な日本ビクター盤(溝ラベル)を採用しています。

「アイネ・クライネ…」は、家族的雰囲気とは無縁ながら、フレーズの節々から共感が滲み、多くの競合盤の中でも傑出した格調高き名演。第1楽章提示部リピートも、少しも煩わしくありません。
 第2楽章の各声部の有機的な絡みも聴きもの。音程の確かさも手伝って、その訴えかけの強さは比類なし。第3楽章5小節目の冒頭2音を装飾音風に処理しているのも印象的ですが、その中間部のシルキーな響きはミュンシュ時代にはあまり見出だせなかった魅力。終楽章のテンポの安定感が抜群の上、ハーモニーに一切の濁りを寄せ付けない厳しさが、独特の説得力を生んでいます。
 ラインスドルフが遺したベートーヴェンの交響曲全集は、作曲家への畏敬の念が強すぎたのか、音楽自体が萎縮しているものが多いですが、この「レオノーレ3番」では、その畏れが根源的パワーとして作用し、緊張感溢れる演奏に結実しています。ジョージ・セルを思わせる精妙なアンサンブルと管楽器を増強させた響きのブレンドが絶妙なコーダは、特に必聴!
 「マーラー版シューマン」の演奏は今や珍しくありませんが、少なくとも「第4番」はこのラインスドルフ盤を超えるものに出会えません。その魅力はなんと言っても表現自体の確信の強さ!特殊な版を用いると、とかく「普通とは異なる点」が説明調に響きがちですが、この演奏は他の版など存在しないかのように自然な声部バランスを貫徹させ、堂々とシューマン特有のロマンを刻印し尽くしています。
 第1楽章で随所に現れる木管の合いの手フレーズのなんと意味深いことか!第2楽章の陰影表出も素晴らしく、ヴァイオリン・ソロが登場する2:08からの淡いテクスチュアとロマンの香りは、シューマンへの真のシンパシーの証し。終楽章冒頭の輝かしさと確信溢れるニュアンスは、主部以降も一貫しているので、提示部リピートの意味は絶大。
 ここでも音程の正確さは驚異的!とかく「正確さ=機械的」と単純化されがちですが、第1楽章展開部冒頭のユニゾンに象徴されるように、正確でなければ浮上しないニュアンスもあるのです。【湧々堂】

TRE-206
フレッチャ〜海&幻想交響曲
ドビュッシー:交響詩「海」
ベルリオーズ:幻想交響曲*
マッシモ・フレッチャ(指)
ローマPO、ロイヤルPO*

録音:1959年頃、1962年2月21-22日*(共にステレオ)
※音源:米Reader's Digest RD4-68-7、米CHRSKY_CR-1*
◎収録時間:69:34
“作品を歪めずに自己表現の限りを尽くすフレッチャの芸術家魂!”
■音源について
フレッチャ(1906-2004)のリーダーズ・ダイジェストへの録音は、フレッチャ単独の名義で発売されたものは少なく、いわゆる「名曲集」の類の一部として収録されている場合がほとんどですが、その演奏内容は妥協のない表現に満ち溢れたものばかり。この「海」も例外ではありません。ここでの音源は、「Sheherazade」と題する10枚組LPの一部。一方、大曲の場合でも良質なステレオ盤を発見することは至難。「幻想交響曲」は、180g復刻盤を採用しています。

★フレッチャの色彩放射力と作品の本質を抉り出す表現力は、ここでも全開!しかし、フレッチャが幻想交響曲を振れば、さぞや大暴れかと言うと、そう単純ではないところがフレッチャの芸の奥深さ!第1楽章序奏部は、ニュアンスの明暗を克明に描きながらデリカシーに富んだフレージングが可憐に流れますが、そこから主部4:39以降のテンポの俊敏さに繋げる手腕のなんと鮮やかなこと!11:12からの呼吸の振幅の妙味も、フレッチャが単なる爆演指揮者ではないを実証。終楽章は、怪奇趣味に傾かず、音楽の生命力に光を当てた表現。あえて正攻法に徹することで、ベルリオーズの管弦楽法の凄さと素の迫力を再認識させてくれます。
更に強く推したいのが「海」!色彩力のみならず、フレッチャ自身の生き様を投影したような魂の叫びが横溢。この作品が単なる描写音楽ではないことをこれほど強く印象付ける演奏も稀でしょう。第1楽章の東洋風の音階は、くすんだ色彩で表出されることが多いですが、2:04からの主題は、オケの特徴とも相まって目の覚めるような爽快な色彩を放出。後半は各声部が意味深い発言を緊密に繰り広げ、7:19以降の呼吸の深さと大きさは、史上屈指と言っても過言ではありません。第2楽章の冒頭、弱音での各パートの連動に、感覚美以上の濃密なニュアンスと緊張をもたらす手腕も天才的。オケと指揮者の一体感も盤石で、どんな小さな対旋律でも互いを尊重しながら確実に主張し合う終楽章は、一音も聴き逃がせません。4:03からの高音の弦が敷き詰めるヴェールとそこへ優しく滑り込む木管との恍惚の空気感、何度聴いても只事ではありません。この作品の魅力に多方面からアプローチした名演として決して忘れることはできません。【湧々堂】

TRE-207
アンセルメ〜ベートーヴェン厳選名演集Vol.2
ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第2番
交響曲第3番「英雄」*
エルネスト・アンセルメ(指)
スイス・ロマンドO

録音:1960年1月4-17日、1960年4月5-11日*(全てステレオ)
※音源:米LONDON_CS-6184、英DECCA SDD-103*
◎収録時間:62:07
“理性よりも衝動!全身全霊でベートーヴェンの声を代弁!!
■音源について
ティンパニがどのように響くかによって、その録音の良し悪し、と言うより「魂に響く音」か否かを左右してしまうことが多々あります。特にティンパニ・パートが巧妙に書かれているベートーヴェンの作品においては尚更のこと。しかし、過去にCD化されたアンセルメのベートーヴェンのティンパニの音はどれも微温的で、マレットが皮に触れている様子が目に浮かぶ瞬間など皆無と言えます。ここではSXL盤ではなく、あえて劣化が少ない後発のSDD規格(ラージ・溝)を採用することによって、その生々しい奏者の息遣いが感じられます。終楽章最後のティンパニの最強連打は、大地が急激に隆起したような衝撃で、既存CDでは味わえません。米LONDONはもちろん英国プレス。

★既に申し上げたとおり、アンセルメの特徴である作品と一歩距離を置いた知的なアプローチは、ベートーヴェンに限っては封印。生身の人間の衝動を注入することが何より最優先されます。この「英雄」も「レオノーレ」第2番もそれを実証するのに十分な熱き名演です!これほど熱気溢れる演奏がセッション録音で実現したということ自体驚きです。
 「英雄」第1楽章冒頭の打ち込みからして、感覚的な美観は二の次の入魂ぶり。展開部5:24の怒りのティンパニやコーダの高揚感は、何度聴いても鳥肌が立ちます!
 第2楽章は、テンポ運びにもハーモニーにも曖昧さや混濁感がないのはアンセルメならではですが、その明晰さを大きな愛で包み込み、決して外へ発散されません。9:25のトランペットの強烈な張り出しは、まさに神の警告。
終楽章の推進力は、まるでライヴのよう。集中力が切れる素振りなど全く見せず、常に意思が凝縮した音が脈打ち続けます。コーダのティンパニは、全てを脱ぎ捨てた大放射!その威力と眩しさは、間違いなく史上トップクラスです!
 「作曲家の意思に忠実」を標榜する演奏は数々あれど、どれもこれも「ベートーヴェンはこう言っています」という「紹介」の域を出ず、ベートーヴェンと同化するところまで踏み込んだ演奏は意外と少ないという現実を考えると、ベートーヴェンの真の代弁者は自分だ!という強烈な使命感を持って主張し尽くすアンセルメのベートーヴェン解釈は、無視してよい理由などどこにもないはずです!【湧々堂】

TRE-208
超厳選!赤盤名演集Vol.1
ブルックナー:交響曲第8番
カール・シューリヒト(指)VPO

録音:1963年12月(ステレオ)
※音源:TOSHIBA AA-7191-92
◎収録時間:70:48
“芸の極地を極めた人間の手になる壮大なる工芸品!!”
■音源について
集中的に「赤盤」をいろいろ聴き漁った結果、「東芝の赤盤は音が良い」という噂は間違いではないという結論に達しました。音にしっかり芯が宿り、音場は豊かに広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別です。ただ、当時のセールスポイントであった帯電防止材や、赤い色素が音質向上に直接繋がったとは考えにくいので、英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術が結果的に赤盤に集約されたと見るのが妥当だと思います。事実、1971年に御殿場に大工場を新設して以降、音質は下降の一途を辿り、赤盤もなくなりました。
 ただし、初期の盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高く、CD-R復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。
 その赤盤復刻シリーズの第一弾は、「シューリヒトのブル8」以外には考えられません!しかも、ほぼ未通針と思われるピカピカの盤!したがって、ここでは一切ノイズリダクションを施しておりません。この演奏の感動の源とも言える音と音との微妙な揺らぎや軋み、それらがもたらす馥郁たる佇まい、スケール感は、デジタル信号だけでは捉えられないということを再認識されること必至です!

★言わずと知れた歴史的名演ですが、シューリヒトもウィーン・フィルも、録音状態も、全てが極上のコンディションで融合し、奇跡的な化学反応を起こしたとしか思えません!
 本来、ブルックナーはマーラーとは違って、人間的な表情や、急激なテンポ変動を施すと作品からそっぽを向かれるものですが、ここではそれら全てが作品を再生するのに可決な要素として作用しています。その要因は、シューリヒトの指揮の一振り一振りから発せられる独特のオーラ、としかもはや言いようがありません。ただブルックナーを指揮するには、どんなに熱い共感や精神性を携えていても、垂直方向に整然とリズムを刻むことを優先した瞬間に作品が死んでしまい、全方向的に影響を及ぼすような指揮センスが不可欠であることを、思い知らされることは確かで、亡き宇野功芳氏が「ブルックナーの演奏法は一つしかない」といった真意も、そのあたりにあると思われます。
 その究極の芸術力を象徴するシーンは枚挙にいとまがないですが、第3楽章7:40からの和声の厚み、深み、広がり…、と同時に想像力を掻き立たせる空間表出力や、16:37以降の最高潮点の威圧とは無縁の神がかり的包容力は、正に空前絶後。終楽章3:56からのティンパニは、この良質復刻によってマレットが皮に触れる瞬間の波動まで感じられるので、ぜひともご注目を。

TRE-209
クリップス〜ベートーヴェン&ブラームス
ベートーヴェン:「フィデリオ」序曲
 「エグモント」序曲
 序曲「献堂式」
ブラームス:交響曲第1番*
ヨーゼフ・クリップス(指)
ウィーン音楽祭O

録音:1962年6月4-5日(ステレオ)
※音源:日Consert Hall SMS-2274、瑞西Consert Hall SMS-2268*
◎収録時間:73:33
“味わい充満!クリップスの意思とオケの意欲が完全調和!”
■音源について
「フィデリオ」と「献堂式」の両序曲は、クリップスのが唯一の録音。「ブラ1」は、1958年のVPOとの録音(TRE-012)に続く2度目の録音。ウィーン音楽祭管弦楽団の実体はウィーン交響楽団ですが、国内盤の解説には、「毎年6月にウィーンで開催されるフェスティヴァルのためのオーケストラ」という記載もあります。ブラームスは、最も高音質と思われるスイスTU盤を採用。その威力は終楽章コーダで実感していただけることでしょう。ベートーヴェンは、数種ある国内盤中でも最も音抜けが良いと思われるコロンビア・プレス盤を採用。

ブラームスは、ウィーン・フィルとの録音から4年も経たないうちに再録音されたものですが、その趣きはかなり違います。共に独特の魅力に溢れているので優劣など付けられませんが、ウィーン・フィルならではに響きにこだわらなければ、むしろ濃密な表現意志力を注がれている62年盤ををお薦めします。
 第1楽章は、荘重なリズムとテンポに乗せて全体が渾然一体と化した響きが見事。そのため、演奏時間もウィーン・フィルより2分程遅くなっています。主部ではティンパニとの融合が素晴らしく、弦の全身全霊を込めた鳴りっぷりも心を揺さぶります。主部以降は、一音一音を丹念に積み上げ、攻撃的でも微温的でもない、真の中庸美を貫徹。
 第2楽章では、とかくウィーン・フィルの二番煎じのように思われがちなウィーン響の固有の魅力を再認識。それはあたかも、クリップスが満足するであろう表現をオケが率先して発しているかのよう。特に夕映えを思わせるホルンの響きは聴きものです。
 終楽章は、まさに熟練技の連続!まず、冒頭の弦のピチカート(0:30〜)が比類なき量感!しかも、単なる誇張ではなく、決然とした意思の塊として迫ります。ホルンからフルートへの連動を中心とした主題登場前のシーンも、最高の黄金率と言える声部バランスでこれまた魅了。一切力みを見せない自然体を通しながら溢れんばかりのロマンを放射するスタイルは、後半に進むに従ってますます濃密さを増し、コーダに至っては、オケの自主的な表現意欲が極限に達したことをに如実に反映した感動的な響きに達します。 
 ベートーヴェンの序曲では、特に「献堂式」が必聴!演奏会での登場頻度が低い分、録音での名演が意外と多い佳曲ですが、これはその中でもトップクラスの風格美を誇ります。最後のティンパニ強打の何と自然なこと!【湧々堂】

TRE-210
バッカウアー/展覧会の絵、ペトルーシュカ他
ムソルグスキー:展覧会の絵*
リスト:ハンガリー狂詩曲第12番**
ブラームス:パガニーニの主題による変奏曲第2巻Op.35#
ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3章##
ショパン(ブゾーニ編):ポロネーズ第6番「英雄」+
ジーナ・バッカウアー(P)

録音:1956年6月6-7日*、1963年2月26日**、1963年2月20日#、1963年2月26-27日##、1963年2月25日+(全てステレオ)
※音源:英EMI SXLP-30233*、米MERCURY SR-90349
◎収録時間:71:25
“強引さ皆無! ロマン溢れる風格美で聴き手を牽引する究極芸!”
■音源について
ギリシャが生んだ名ピアニスト、ジーナ・バッカウアー(1913-1976)の十八番集。彼女のピアニズムを端的に象徴する「英雄ポロネーズ」は、CD化されていないと思われます(2019年9月現在)。「展覧会の絵」も、かつて山野楽器がCD化したものがありましたが、その後CDを見たことがありません。ステレオ最初期の録音で、レコードは長らくモノラル・バージョンのみが流通していました。ホロヴィッツ同様、「サムエル・ゴールデンベルク…」後のプロムナードは割愛されています。

★真っ先に激賞したいのは「英雄ポロネーズ」!コルトー門下のバッカウアーのピアニズムは、アクロバット的な技巧が聴き手の耳を喜ばせることを十分に認識しつつもそれを目的化せず、感覚的な愉しさを音楽ニュアンスに完全転化。気がつくと元々そういう曲であるかのように聴き手を自然に納得させてしまう「閃きのパワー」に溢れています。この「英雄」はその魅力を知るのに不可欠であるばかりか、同曲トップクラスの超演です!ブゾーニ版で最も特徴的なのは中間部。左手のオクターブ連打を一切休止させることなく、急に歯止めが効かなくなったモーターのように進撃するシーン。ここで何が起こるか十分に知っているはずなのに、私は聴くたびに決まって背中に電流が走ります。彼女独自のヴィルトゥオジティを発揮させるために、このブゾーニ版の選択はいかに必然であったか、どなたもご納得いただけることでしょう。ちなみに、同版を用いた録音は、ブゾーニ自身のものやデジタル時代のものありますが、どれもバッカウアーとはランクが違いすぎます!
 他の作品も、各曲における屈指の名演揃いですが、もう1曲「ペトルーシュカ」だけは触れないわけにはいきません。作品に没入するというより、一歩引いて俯瞰しながらユーモアと悲哀をダイナミックな造形のうちに描き尽くします。“ロシアの踊り”のルバートのセンスは、19世紀ロマンティシズムの片鱗を垣間見せますが、古臭いどころか呼吸の深さと造形の大きさに圧倒されるばかりで、後半の打鍵も、殊更に強打鍵ではないにもかかわらずこの重量感。第3楽章は色彩の宝石箱!情報量が多すぎて窒息しそうなほどですが、とにかくこれほど全ての音に血肉を与え尽くした演奏は他にないでしょう。7:34からの、テンポ切り替えと同時にタッチも質感も完全に別物にすり替える凄技など、ただただ唖然。この演奏を聴くまで、あらゆる点でパーフェクトなポリーニ盤さえあれば十分と思っていましたが、浅はかでした!【湧々堂】

TRE-211
ギーゼキング/バッハ〜シューマン
バッハ:イギリス組曲第6番BWV.811
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第15番「田園」*
シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集Op.6#
ワルター・ギーゼキング(P)

録音:1945年1月23放送録音(ドイツ・ザールブリュッケン)、1949年6月(ドイツ・ザールブリュッケン)*、1947年9月13日放送録音(ドイツ・フランクフルト)#
※音源:米B.W.S_IGI-380、英SAGA_XID-5148#
◎収録時間:73:21
“新即物主義の枠に収まらない閃きとロマン!”
■音源について
バッハとシューマンの2曲に関しては、ギーゼキングはスタジオ録音を遺していません。ベートーヴェンの「田園」の録音データは、レコード(IGI-380))には不詳と記されていますが、ジョン・ハントのディスコグラフィでは1949年6月と記されているので、それを採用しました。ちなみに、TAHRAやAndromedaのCDには1949年8月17日と記されていますが、両者は明らかに別録音です。比較試聴の結果、ここに収録しているのはAndromeda盤と同一と思われます。

イギリス組曲の何と素晴らしいこと!まず冒頭、清潔なタッチに心を奪われますが、その根底には感情の制御とバッハへの敬意が息づき、高い集中力で一気に芸術的な高みを確立。“ガヴォット”では、その集中力が、音楽に宿る律動を最大限に立ち上がらせて息を呑むばかりです。“サラバンド”は、精神的にも音色的にも一音ごとの結晶度が極めて高く、まさに宝石のよう。ペダルに頼らずにここまで幻想世界を現出できるのです!
 ベートーヴェンでは、ギーゼキング特有の歌のセンスを堪能。何度も申しますが、ギーゼキングに新即物主義者というレッテルを貼っては説明がつかない感動がここにもあります。後のシューベルトをもわせる息の長いフレーズを高潔に歌い上げる様に、心が洗われるよう。1楽章の最後の3音の優しい置き方は、感性不足のピアニストには現出不可能でしょう。ギーゼキングは、終楽章のコーダのように作品の技巧的な側面をあえて全面に立てることがありますが、それが大きな渦の中に吸い込まれていくようなぎりぎりの切迫感を生んでいるのです。記憶力だけでなく想像力も人並み外れていたことの証しです。
 シューマンもファンの間では知られた名演。この作品が持つ溢れんばかりのロマンを清潔なフィルター通して繰り広げつつ、各楽想の性格を妥協なく描き切る技は並ぶ者なし!第4曲で恐るべき激しさを放出しながら、続く第5曲ではこれ以上考えられないほど甘美で可憐な空気を振りまきますが、これなどは「明確なコントラスト」などという次元ではなく、振れ幅のあまりの大きさに、音楽を捉える視野の広さのみならず人間的な度量の大きさを見る思いです。第8曲、9曲、13曲などは、無窮動的な激しさを例によって徹底的に掘り下げますが、特に13曲は憑かれたような怒涛の渦を巻き起こしながら、外面的な技巧のひけらかしに陥らない点にご注目を。第12曲の本能的なリズムの弾力にも感服。最後の2曲はギーゼキングが持つ濃密なロマンが静かに立ち込めますが、そこには、この先のストーリーを予見させる意味ありげな何かを孕んでいるのです。
全て放送音源なので、音質も上々。【湧々堂】

TRE-212
オーマンディ/米COLUMBIAモノラル名演集4〜「白鳥の湖」他
プロコフィエフ:古典交響曲
チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」*
バレエ音楽「白鳥の湖」(抜粋)#
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1955年12月18日、1955年1月9日*、1956年19月17日#(全てモノラル)
※音源:米COLUMBIA_ML-5289、英PHILIPS ABL-3228*、米COLUMBIA ML-5201#
◎収録時間:79:42
“1950年代のオーマンディを象徴する色彩とリズムと品格!”
■音源について
プロコフィエフは3回のセッション録音のうちの第2回めの録音。「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、2回の録音のうちの第1回目、「白鳥の湖」(いずれも抜粋版)は、全4回のうちの第1回目の録音。

「古典交響曲」は、まさに50年代半ばまでのオーマンディの粋タイルを象徴する名演。速めのテンポ、もったいぶらないキリッとしたリズム、洗いたてのシャツのようなパリッとした清々しさは、この作品の命だと確信させるほど。第2楽章は弦のシルキーな質感にうっとり。速めのテンポで汚れを知らない進行を見せつつも、2:16付近のアクセントや、2:34からの木管の下降音型が愉しさを醸し出すなど、細部にわたる配慮が音楽を一層引き立てます。3楽章はコーダのテンポ選択が絶妙!
 「白鳥の湖」も、わざわざモノラル盤を聴く意味あるの?と思われる方にこそお聴きいただきたい素晴らしさ!次のステレオ録音で割愛された“乾杯の歌”(トラック8)を聴けば一目瞭然。後年の録音よりももちろん表現はアグレッシブで、テンポも、次第に鈍重に傾いた後年の録音とは別人のように生命力に溢れています。それと忘れてならないのは、色彩力。オーマンディ自身も独自の音色作りには並々ならぬ自負を持っていたようですが、モノラルであることを忘れるほどのキラキラ感を目の当たりにすればは、その自信も大いに頷けます。一方“スペインの踊り”ではリズミの重心をぐっと下げて荘重感を演出しますが、リズムの芯は一切萎えず、神々しささえ漂います。そして変に見栄を切らずにストレートに締めくくるハイセンスぶり!同曲のハイライト版としては、決して外せない名盤です!【湧々堂】

TRE-213
ラインスドルフ&ボストン響・厳選名演集Vol.4〜モーツァルト:交響曲集
交響曲第36番「リンツ」
交響曲第41番「ジュピター」*
エーリヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO

録音:1967年12月22日、1963年1月6日*(ステレオ)
※音源:英RCA CCV-5050、日VICTOR SHP-2307*
◎収録時間:73:33
“音楽における「豊かさ」とは何か?その答えがここに!”
■音源について
★ラインスドルフが若い頃から情熱を傾けてきたモーツァルトへのアプローチの最終結論。「リンツ」は1955年(ロイヤル・フィル)、「ジュピター」は1954年(ロチェスター・フィル)、1955年(ロイヤル・フィル)に録音していました。「ジュピター」は、メリハリの効いた音が刻まれている国内プレス盤を採用しています。

★モーツァルトの天才的な筆致の妙を味わうには、精度の高いオーケストラは不可欠とは言え、セル&クリーヴランド管ではちょっと厳しすぎる…、という方に真っ先にお薦めしたいのがこれ!ラインスドルフは、セル同様、情に欠けると思われがちですが、ここではそんなことは微塵も感じさせません。 オケは決して小編成ではないにもかかわらず、テクスチュアの透明度は極めて高く、ボストン響ならではの欧風サウンドも健在。そこから湧き立つ音の粒を丁寧に紡ぐラインスドルフの眼差しは愛に満ち、ベートーヴェンの交響曲録音での禁欲モードとは好対照。
 特に「リンツ」は空前絶後の素晴らしさ! 第1楽章序奏部、折り目正しい造型から引き出されるハーモニーの何と豊かなこと!主部冒頭の伴奏音型の濁りのなさは、モーツァルト一途な愛を象徴。第2楽章も冒頭から憧れと慈しみの結晶体!0:19からの弦とホルンのユニゾンの美しさは、他の演奏では味わえません。終楽章は声部の解析力の高さが際立ちますが、分析的な冷たさは皆無。それどころか、冒頭ファゴットとの融合では、モーツァルトとしては異例の色彩美さえ漂わせるのです!展開部の声部の連動ぶりも有機性抜群。コーダに進むにつれて表現への気迫は増幅するばかり。テンポ加速ではなく、ただただ緊張感の増幅によってヴィルテージを高める手法の何と鮮やかなこと!
 「ジュピター」もモーツァルトへの敬愛が尋常ではないことを窺わせる名演。中でも第2楽章の美しさは格別で、2:31からの神秘的なニュアンスには言葉を失い、7:14あたりからは神々しささえ立ち昇ります。第3楽章で遅めのテンポを採用した例としてはスウィトナー&ドレスデン盤が有名ですが、凛とした佇まいといい自然な呼吸感といい、このラインスドルフ盤の方が優ります。終楽章も、テンポ自体はワルター&コロンビア響に近いゆったりとしたものですが、繰り広げられるのはアポロ的な世界観。注目すべきはコーダの情報量!単純に第1主題を連鎖させるだけの演奏とは異なる全声部参加型ハーモニーの技をご堪能あれ。なお、最後の締めくくりを完全イン・テンポのまま突き抜けるのは、この頃のラインスドルフの録音に頻出する特徴の一つ。【湧々堂】

TRE-214
バルサム〜モーツァルト&ベートーヴェン
モーツァルト:ピアノ協奏曲第5番ニ長調K.175*
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲ニ長調Op.61(原曲:ヴァイオリン協奏曲)
アルトゥール・バルサム(P)
ブロニスラフ・ギンペル(指)交響楽団*
クレメンス・ダヒンデン(指)ヴィンタートゥールSO

録音:1951年*、1950年代初頭
※音源:英NIXA PLP-229*、仏Guilde Internationale Du Disque MMS-3002
◎収録時間:65:09
“没入しないのに芯は熱い!2つのニ長調の名曲で見せるバルサムの凄い感性!”
■音源について
全てコンサートホール音源。モーツァルトのオケは、レコードには「交響楽団」と表記されていますが、マイケル・グレイ氏のディスコグラフィではヴィンタートゥール市立管とされています。モーツァルトの終楽章のカデンツァは、バルサムの自作。

K.175はモーツァルトの初のオリジナルのピアノ協奏曲(それまでは編曲もの)で、天才的閃きが満載の名作ですが、その持ち味をこれほど漏れなく引き出した演奏が他にあるでしょうか?堅実でありながら華のあるバルサムのピアニズムはこの名曲を再現するのに不可欠!自分を前面に立てず、モーツァルトの筆致のみを炙り出すことに成功した最高の実例がここにあります!第1楽章後半のカデンツァの曲想は多彩な表情を孕んでいますが、そこでも自己顕示をせず、その多様なニュアンスを取り零しなく再現。第2楽章は、情緒たっぷりに歌い出す例が多い中、バルサムの朴訥なタッチはかえって涙を誘います。終楽章はスケールが大きく、確信あふれる進行。ベートーヴェンのような威厳さえ見せ、作品の偉大さを更に印象づけます。ギンペルの指揮も立派。
 ベートーヴェンは、聴いている途中で一度は元のヴァイオリン版が頭をよぎるものですが、バルサムの演奏は、そんな暇を与えないほど、オリジナルのピアノ協奏曲としての魅力を徹底的に聴き手に突きつけます。第1楽章のピアノの開始部からそれを実感していただけるはず。ヴァイオリンの持続音をピアノに置き替える際に不可欠なのはトリルは、この作品でも当然頻出しますが、4:56〜に象徴されるように、バルサムの鈴を転がすようなトリルは、全編に渡ってこの作品に華やぎを与えています。第1楽章展開部はクールさの極み!ポーカーフェイスを通しながら、唯一20:25からはテンポを落として纏綿と歌うと思わせておいて没入はせず、妖しいオーラのみを表出。結果的に陶酔的な空気を敷き詰めており、一音たりとも聴き逃し厳禁!
 終楽章に至ると、むしろピアノ版の方が作品としての訴求力が高いのでは?と思わせる魅力にますます惹きつけられるばかり。特にハーモニーの俊敏な移ろいの妙味!1:22からのピアノの左右のパートが怒涛の融合を見せるなど、ヴァイオリンではありえない現象です。前のめりなほどアグレッシブな進行を続けながらも自己をひけらかさない矜持はモーツァルトと同様ですが、2:25からはまさに男泣き!ダヒンデンの深い呼吸(3:24からの強弱振幅!)に満ちた指揮とともに感動的なシーンです。
 最近はこの作品の録音も珍しくないですが、その多くが「ヴァイオリン曲をピアノで弾いてみました」という説明調か、スケール感に欠ける物が多いことを考えると、バルサム盤はこの作品の録音の魁としてというより、作品解釈の指針として認識すべきではないでしょうか。 【湧々堂】 

TRE-215(2CDR)
エチェベリーのバレエ音楽集
ドリーブ:バレエ組曲「シルヴィア」
[前奏曲と狩りの女達/間奏曲と緩やかなワルツ/ピチカーティ/酒神のコルテーズジュ]
バレエ組曲「コッペリア」[間奏曲/ワルツ/チャールダーシュ/ハンガリー舞曲/自動人形のワルツ/スラブ主題の変奏]
グノー:歌劇「ファウスト」のバレエ音楽
マイヤベーア:歌劇「預言者」〜バレエ組曲「スケートをする人々」]*
ルイジーニ:バレエ組曲「エジプト舞曲」*
ショパン(ダグラス編):レ・シルフィード*
イェシュス・エチェベリー(指)
コンセール・ラムルーO

録音:1958年5月23-24日&6月10-12日(全てステレオ)
※音源:日VICTOR SFON-7506、SFON-7526*
◎収録時間:104:27
“最高の名演奏で堪能するルイジーニ唯一の名曲!”
■音源について
Philips音源。LP2枚分のバレエ音楽集の全てを収録。エチェベリーのフィリップスへの録音は、「ピーターと狼」「動物の謝肉祭」等以外は全て伴奏ものばかり。日本の初期ステレオ盤を使用。

イェシュス・エチェベリー(1911-1988)は、フランス・ボルドー出身。幼少よりヴァイオリンを学び、神童として多くのオーケストラとも共演。20歳でカサブランカSOのヴァイオリニストとして入団。21歳で同地の音楽院の教授に就任。カサブランカ歌劇場での「リゴレット」の公演の際に急病の指揮者の代役を務め、その成功が評判を呼び、1944-49年にこのオケの指揮者に就任。1957年からはオペラ・コミック座の首席指揮者となりました。そのスタイルは、オケの自主性と潜在能力を引き出しながら、作品の魅力を過不足なく伝える典型的な職人気質。録音は際めて少ないですが、劇場経験の豊富なエチェベリーがバレエ音楽集をステレオで遺してくれたことは嬉しい限りです。
 中でも最大の聴きものは、マスネの弟子のルイジーニの「エジプト舞曲」(日本盤のレコードには「エジプト人」と表記)でしょう。この曲を知らない方も、一度聴けばハマること必至!過去に、フィストラーリ、ボニング、ジャン=バティスト・マリ等の録音があり、中ではマリの録音が魅力的ではありますが、いずれにしてもエチェベリーほど恥じらいを捨ててこの曲のエキゾチシズムを炙り出した演奏はありません。リズムの湧き立ちはもちろんのこと、眩いほどの色彩の降り注ぎ方は、クラシックの格調から逸脱できないスーパー・オーケストラには真似できない芸当です。「レ・シルフィード」1曲目のハープが入るシーンのなど、あまりの艷やかさに身も心もとろけそうです。
 モントゥー&パリ音楽院の「春の祭典」や、シューリヒト&パリオペラ座のモーツァルトなどのように、ステレオ初期に録音されたフランスのオケの演奏は、技術的に低水準に聞こえる場合がありますが、これは決して演奏技術が低かったのではなく、ステレオ初期の録音技術の限界と使用楽器の特性などから、感覚的にそのように聞こえるだけなのではないでしょうか?なぜなら、モノラル録音や加工技術が進んだ後年の録音ではあまり起こらない現象なのですから。このエチェベリーの録音もまさにこの例に該当しますが、とにかく、そんな表面的な「聞こえ方」に惑わされず、演奏に充満している本気の表現と、無理に後付けしたのではない筋金入りの色彩をを是非体感していただきたいと思います。【湧々堂】

TRE-217(2CDR)
ノエル・リー〜ラヴェル:ピアノ曲選集
鏡/高雅で感傷的なワルツ
ソナチネ/夜のガスパール*
亡き王女のためのパヴァーヌ*
水の戯れ*/クープランの墓*
ノエル・リー(P)
※使用ピアノ:ホルヌンク&メラー(デンマーク)

録音:1966年9月、1967年6月* コペンハーゲン(全てステレオ)
※音源:仏Valois MB-791、MB-792*
◎収録時間:106:40
“ミラクルなタッチで浮かび上がるラヴェル作品の色彩の深部!”
■音源について
ノエル・リーが遺したLP2枚分のラヴェル録音の全てを収録。ドビュッシー(TRE-114〜117)と同様、ここでもデンマークのホルヌンク&メラー製ピアノを使用。
★作品と絶妙な距離感を保ちながらも自己主張が際立ちすぎることなく、作品自らが自然と主張するような雰囲気を導き出すノエル・リーならではのピアニズムはここでも全開。
 最初に強調したいのは「亡き王女のためのパヴァーヌ」の素晴らしさ!冒頭テーマではあえてペダルを抑制してそこはかとない悲しみを滲ませ、2:10以降はわずかに色彩を加味して艶やかな幻想空間を表出。ホルヌンク&メラーの温かみのある音色美も効果絶大。打鍵後の音の余韻を充分の噛みしめるゆとりが、この曲の表現には不可欠であることも再認識させます。コーダで、希望の光を全身に浴び、ここまで強固な意思を漲らせた演奏も珍しいでしょう。
 「水の戯れ」が鳴り出した途端に水の泡立ちが目に浮かぶほど、意思を持たない水の流動性をこれほど完璧に表現した例が他にあるでしょうか?クライマックスのグリッサンドへの運び方も流麗の極み。3:55あたりから次第に生気を減じていくタッチの加減の見事さにも唖然。
 「クープランの墓」はまさに、ノエル・リー独自のミラクル・タッチの魅力が横溢!この作品を語る際に不可欠の超名演です。"プレリュード"では、無窮動な走句を一気呵成に走らせつつ、微妙な陰影は確実に表出。"フーガ"の音の積み上げは、堅牢でありながら力みのない自然体も併存。"フォルラーヌ"は、テーマの付点リズムをあえてぼかしている点に象徴されるように、音楽の水平的な流れを優先して、絶妙な浮遊感を演出。メランコリックな旋律に感情移入し過ぎると陳腐な曲に成り下がるということを十分に心得ているのでしょう。それを徹底すると後味が冷たくなりがちですが、そこで功を奏するのがこれまたホルヌンク&メラーの美音。 "リゴードン"では、一転して粘着質なタッチに変貌するのは想定外!リズムの重心もグッと落とします。この曲にこんな人間臭いニュアンスが隠れていたのかと、ハッとさせられます。"メヌエット"に至っては、躊躇なく今までに聴いた演奏の最高峰ど断言!タッチは徹底的に吟味し尽くされ、型通りではないアゴーギクののセンス、ほんのりと漂う寂寥感など全てが高次元。中間部の2拍目の高音の単音(2:11以降)は、他では絶対に聴けませんし、3:11からのテーマの再現で、左右の声部を対等に扱って予期せぬ幻想世界に誘うシーンも必聴。
 ラヴェルのピアノ作品の色彩的な特徴を引き出した名演は数々あれど、ここまで様々な角度から光を当て尽くした演奏は、後にも先にもないでしょう。 【湧々堂】

TRE-218(2CDR)
クルト・レーデルのバッハ
バッハ:ブランデンブルク協奏曲BWV1046-1051(全6曲)
クルト・レーデル
ミュンヘン・プロ・アルテ室内O
ラインホルト・バルヒェット(Vn)
ピエール・ピエルロ、レオンハルト・ザイフェルト、ヴィルヘルム・グリム(Ob)
クルト・リヒター、ヴィ・ベック(Hrn)
カール・コルビンガー(Fg)
モーリス・アンドレ(Tp)
クルト・レーデル、パウル・マイゼン(Fl)
ロベール・ヴェイロン=ラクロワ(クラヴサン)
ゲオルク・シュミット、フランツ・ツェッスル(Va)
イルミンギルト・ゼーマン、ロルフ・アレクザンダー(gmb)
ヴィルヘルム・シュネッラー(Vc)
ゲオルク・フェルトナーゲル(Cb)

録音:1962年5月1-6日(ステレオ)
※音源:日COLUMBIA OS-472、OS-473
◎収録時間:101:20
“親和的なアンサンブルから浮かび上がるバッハの温もり!”
■音源について
レーデルはブランデンブルク協奏曲6曲をエラートに2回を録音していますが、これは錚々たるメンバーによる2回目の録音。バッハの音楽の骨格の堅固さを伝える、60年代コロンビアの優秀プレス盤を採用。

★一切の衒いを寄せ付けない、誠実・堅実路線の代表的名盤。ピリオド的アプローチとは無縁の従来型のスタイルをひとくくりにして「旧スタイル」と片付けられることもありますが、厳格な鎧が見え隠れするリヒターやミュンヒンガーとは明らかに違う温かな手作り感覚は、時代を問わず色褪せることのない魅力です。
 「第1番」第2楽章2:21からの弦のヴィブラートは、全ての音をノン・ヴィブラートにしてしまうことがいかに乱暴なことか、痛感するばかり。終楽章の第1トリオでのオーボエとファゴットのハーモニーも、5:48以降の第2トリオも、何の変哲もないイン・テンポですが、感覚的な美しさ以上の息遣いに魅了されます。特に後者の美しいハーモニーは奇跡的と言いたいほど!「美しいハーモニー」とは、単に縦の線を揃えればいいということではないと再認識させられます。
 「第2番」のトランペットをアンドレが務める録音は他にもありますが、最も興が乗り、かつ他の声部との対話も絶やさない点で、この録音の魅力はダントツでしょう。
 「第4番」冒頭のフルートが醸し出す雰囲気は、従来型の同曲の演奏の典型のように聞こえますが、リズムの方向性は下方へ暗く沈みがちなリヒターやクレンペラー、ティーレガント等とは明らかに異なり、ここにはバッハの音楽が持つ人間味と香りがあるのです。
 「暗く沈む」といえば、「第5番」第1楽章の3:17以降にもご注目。決して沈鬱に傾かず、微かに影が差す程度。それがかえって心に染みるのです。【湧々堂】

TRE-219
A・ギブソン〜若き日のシベリウス録音
「カレリア」序曲/交響詩「吟遊詩人」
組曲「歴史的情景」〜「祭り」
カレリア組曲*
交響曲第5番変ホ長調Op.82*
アレクサンダー・ギブソン(指)
スコティッシュ・ナショナルO、LSO*

録音:1966年頃、1959年2月9-10日*(全てステレオ)
※音源:英HMV:HQS-1070、英RCA VICS-1016*
◎収録時間:66:00
“自然体の音作りに孕む瑞々しい感性と熱情!”
■音源について
交響曲のレコードは英デッカ・プレス。ジャケ・デザインは米盤より。
★ステレオ初期から大量の録音を行いながら、CD時代になってCHANDOSレーベルに登場するまでは日本ではきちんときちんと認識されないままだったギブソン。それだけに、知られざる名演を発掘する頻度は他の指揮者とは桁違いです。ここに紹介するシベリウスも例外ではありません。
 特に交響曲第5番は、紛れもなく同曲屈指の名演!ロンドン響の機能美も手伝って、音の隅々まで意思を張り巡らせたサウンドに一切淀みなし。牧歌風のスケルツォ主題に入る前の瑞々しさと緊張感の融合、堂に入った呼吸は、もはや巨匠芸。トランペットによるトリオ主題以降はLSOの精妙なアンサンブル自体が物を言い、自然発火的なコーダへの疾走へと見事に連動させています。
 決して作り込みすぎないギブソンの素朴な表現が生きているのが第2楽章。弦が変奏を繰り返す中、管楽器が確実に背景の色彩を操る様は要注目。
 終楽章はホルンのモチーフの技術力と色彩的な魅力が不可欠ですが、この演奏はまさに盤石。また、4:25以降の弦のスフォルツァンドを意味深く響かせるには音程の正確さが大前提ですが、その技術が決して前に出ることなく、音楽的ニュアンスのみが伝わるので味わいもひとしお。そして感動的なコーダ!この僅かな雑味を含んだ音の広がりに、シベリウスの醍醐味を感じる方も多いはずです。
 「吟遊詩人」も無視できない感動作!音の色彩感、ひんやりとしたテクスチュア、甘美な抒情の漂よいなど、これほど正鵠を得た解釈が他にあるでしょうか?ホールトーンと融合した冒頭ハープの艶やかさから心釘付け。他の空気感なありえないと思わせる説得力です。
短い走句のコラージュ風でありながら、全体に通底する深々とした呼吸感も絶妙で、後半の壮大な音像の築き方にはその特質が凝縮されています。ここで、盛り上げようとする意図が露呈していたら、さぞ興が削がれていたことでしょう。
 名盤ひしめくカレリア組曲も、当時のギブソンの瑞々しい感性が溢れた名演奏。あくまでも純朴路線ながら、フレージングは常に温かな共感と共にあるので、音楽が野暮に響くことがありません。第2曲はしっとりと歌わせるだけでそれなりの雰囲気は出ますが、かすかな心のざわめきを滲ませるこの感覚は、シベリウスの真の第一人者である証し。第3曲をいかつい行進曲にせず、程よく力の抜けた愉悦感を引き出すところにも、ギブソンのセンスが光ります。【湧々堂】

TRE-221
A・ギブソン〜シベリウス&ドヴォルザーク
シベリウス:組曲「クリスティアン2世」
ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」*
交響曲第9番「新世界より」*
アレクサンダー・ギブソン(指)
スコティッシュ・ナショナルO、LPO*

録音:1966年頃、1967年1月27-28日*
※音源:英HMV HQS-1070、World Record Club ST-650*
◎収録時間:72:32
“「ケレン味のなさ」が凡庸と同義ではないことを実証する恰好の名演!”
■音源について
ドヴォルザークは、ワールド・レコード・クラブのオリジナル録音。ギブソンは、「謝肉祭」を1959年(Reader's Digest)にも録音していました。

★ギブソンの音楽表現の最大の魅力は「素直さ」だと思います。品良く振る舞おうと か、立派に響かせようなどといった計算を用いずとも、持ち前の感性とセンスで音楽が最 も光るツボを瞬時に察知する能力一本で勝負できた稀有な指揮者だったのではない でしょうか?このタイプの演奏家は、個性と主張に欠けることをオブラートに包んで「ケレン味のない」と形容されることがありますが、ギブソンの場合は一見模範的でありながら、単に凡庸なだけの演奏とは一線を画します。日本ではまともに紹 介されませんでしたが、ステレオ初期からの膨大な録音は、そのいずれにも澄み切 った響きと瑞々しい情感が息づいているので、聴後には全身の血液が浄化さ れたような清々しさを覚えることもしばしば。
 そんなギブソンが再現する「謝肉祭」は、単なる喧騒に陥らないのは言うまでも ありません。瑞々しさの点では小澤&サンフランシスコ盤が忘れられませんが、ギブソ ンは更にテクスチュアの透明さと風格美で優ります。タンバリンが明確に打ち込まれるのも痛快。第2主題も決して表面的ではなく、真に身を焦がすような節回し。 中間部は、静謐美の中にも意外なほど深い呼吸が脈打つ点にご注目を。5:56から のチューバの唸りのリアルさは比類なし。コーダは安易な加速に走らず、音楽を芯から着実に加熱させるので、音楽がしっかり体内に根付いたような満足感を得られることでしょう。
 「新世界」も声部の見通しが効いた清潔な音彩感覚が冴え渡る名演。第1楽章だけでもひしひしと伝わるのは、オケの各奏者の本気度!伸び伸びと各自の音楽を奏でているようでいて、気づくとギブソンの導く方向へ突き進んでいるかのよう。
 第2楽章後半(8:28〜)では、ハーモニーが澄み渡っているだけでなく、破格のバランス力も発揮。この高揚感の中で響きがズブズブになる例がいかに多いことか。
 終楽章では、どんな名指揮者でもちょっとした瞬間に響きが平板になったり、音楽の骨格が脆弱になったりするものですが、その危険性がここでは皆無。また、特に4:28あたりからは主題の回想が頻出するせいか緊張が緩みがちですが、その回想のたびに微妙に色彩を変えて淀みを回避しているのは流石という他ありません。もちろんそこには少しのあざとさもなく、これぞ指揮者の矜持と言うべきでしょう 。また、8:55からの盛り上がりでは、高揚の到達が曖昧なことが多い中、ここでは盤石の着地を果たしているのもお聴き逃しなく。 【湧々堂】

TRE-222(2CDR)
スメンジャンカ&スメテルリン〜ショパン名曲集
■レギーナ・スメンジャンカ
夜想曲ヘ短調Op.55-1
マズルカ第15番ハ長調Op.24-2
マズルカ第46番ハ長調Op.68-1
マズルカ第42番ト長調Op.67-1
幻想即興曲Op.66
即興曲第1番変イ長調Op.29
練習曲変ト長調Op.10-5 「黒鍵」
夜想曲第9番ロ長調op.32-1
夜想曲第2番変ホ長調op.9-2
夜想曲第10番変イ長調op.32-2
マズルカ.第3番ホ長調Op.6-3
練習曲ホ長調Op.10-3「別れの曲」
■ヤン・スメテルリン
マズルカ第20番変ニ長調Op.30-3
ワルツ第3番イ短調Op.34-2
マズルカ第25番ロ短調Op.33-4
マズルカ第17番変ロ短調Op.24-4
マズルカ第5番変ロ長調Op.7-1
ワルツ第1番変ホ長調Op.18「華麗なる大円舞曲」
ワルツ第6番変ニ長調Op.64-1「小犬のワルツ」
マズルカ第37番変イ長調Op.59-2
ワルツ第5番変イ長調Op.42-5
ワルツ第8番変イ長調Op.64-3
マズルカ第13番イ短調Op.17-4
マズルカ第42番ト長調Op.67-1
マズルカ第15番ハ長調Op.24-2
マズルカ第38番嬰ヘ短調Op.59-3
ワルツ第4番ヘ長調Op.34-3
レギーナ・スメンジャンカ(P)
ヤン・スメテルリン(P)

録音:全て1960年代初頭(?)。スメテルリンはステレオ。
※音源:蘭CNR FL-016-017
◎収録時間:92:28
“気品のスメンジャンカと、幸せオーラのスメテルリン!!”
■音源について
1960年代初頭に発売された2枚組LPの全てを収録。ただ、両者とも録音年がはっきりしません。スメテルリンはPHILIPSへの夜想曲全集の録音が比較的知られていますが、ステレオ録音となると皆無に近いので、これは貴重!スメンジャンカは、MUZAへの録音ではありません。

★レギーナ・スメンジャンカ(1924-2011)は、ショパン音楽アカデミーの教授を1996年まで務めたポーランドを代表するピアニストで、多くの門弟を世に送り出しています。誇張を排しつつも決して教科書的な演奏に傾くことなく、ショパンの比類なき芸術性を余すことなく後世に伝えた功績は計りしれず、ここに聴く演奏もその説得力は破格で、一つとして凡演なし。
 さっそく心を打つのが最初の夜想曲Op.55-1。前半の淡々とした進行の中で微妙なルバートが感情の微かな陰影を与えるセンス、中間部の決然としたタッチの威力、コーダの全てを浄化し尽くしたピュアな鎮静美と、全てがバランスよく配置された例は極めて稀。しかも予定調和感ゼロ!4つのマズルカはどれもリズムの弾力が筋金入りで、フレーズも歌うというより喋る風情。それでいて土臭さ色を全面に出さずに気品溢れる佇まいに転換させるところがスメンジャンカの凄さ。「黒鍵」は、これ以上の演奏を探すのは無理というもの。タッチの硬軟、強弱が完全に呼吸とセットでフレーズを形成し、たおやかな雰囲気を湛えながらも音楽の根幹は緊張の糸がピンと張り詰めています。
 同じポーランド出身ながら、これと好対照なのがヤン・スメテルリン(1892-1967)。師のL・ゴドフスキーと通底するものが感じられ、晩年特有の達観とも相俟って、自身のイディオムと感性を惜しげもなくショパンに重ねます。と同時に、短調の曲でも根暗な表現に陥るのを避けているのが特徴的で、ワルツOp.34-2のような内省的な作品でも濃厚なアゴーギクを容赦なく注入。抑制したペダルが独特の悲哀を湛えますが、決して涙を想起させません。マズルカOp.33-4でも、前半の装飾音の音価を極限まで詰めたスウィング感が暗さを払拭。中間の2:19以降はスメテルリンの陽性の音楽性が見事に開花し、とことん甘美に歌い上げて幸福感が部屋一杯に広がります。表現自体が明るいうえに、それが曲想とマッチしていることを作品自体が喜んでいるように聞こえるのが、マズルカ第5番Op.7-1。マズルカの中で最も有名なこの曲は名演も数え切れませんが、これは絶対にトップ5にに入ります。華麗なる大円舞曲も同様。彼がいかに全身音楽漬けであったかを窺わせます。ただし、ミスタッチを数えながら聴くような方はご遠慮下さい。他にマズルカ第37番変イ長調Op.59-2など、特に長調作品は必聴! 【湧々堂】

TRE-223(2CDR)
エドゥアルト・シュトラウスU世/ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスの音楽
ヨーゼフ・シュトラウス:鍛冶屋のポルカ
J・シュトラウス:喜歌劇「千一夜物語」間奏曲*
 ワルツ「ウィーンのボンボン」*/加速度円舞曲*
 ワルツ「南国のバラ」/ワルツ「ウィーン気質」
 ポルカ「ハンガリー万歳」*/常動曲
ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ
J・シュトラウス:ワルツ「酒・女・歌」*
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「風車」
J・シュトラウス:ワルツ「美しく青きドナウ」#
 ワルツ「春の声」#/「ジプシー男爵」行進曲*
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「憂いもなく」*
J・シュトラウス:ワルツ「ウィーンの森の物語」
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「オーストリアの村燕」
J・シュトラウス:ワルツ「朝の新聞」*
 喜歌劇「ウィーンのカリオストロ」序曲*
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「騎手」*
J・シュトラウス:皇帝円舞曲#
 トリッチ・トラッチ・ポルカ
 ワルツ「芸術家の生涯」
ヨーゼフ・シュトラウス:ポルカ「女心」
 ワルツ「わが人生は愛と喜び」
エドゥアルト・シュトラウスU世(指)
インスブルックSO
シュトゥットガルトPO*
ウィーン国立歌劇場O#

録音:1960年代初頭(全てステレオ)
※音源:日VICTOR SWK-7501-3
◎収録時間:156:12
“近年のウィーン・フィルが置き去りにしてきたウィンナ・ワルツの本当の息吹!”
■音源について
VOX音源による国内初期LPボックスの全てを収録。エドゥアルト・シュトラウス2世(J・シュトラウス1世の三男エドゥアルトの孫)は、シュトラウス管やフィルハーモニア・フンガリカとも同様の録音を遺していますが、最も謎が多いのがこのVOX録音。まず、オケの実体が判然としません。ウィーン国立歌劇場管と書かれていても、実体がフォルクスオパーだったり主要オケ団員の寄せ集めだったりということは珍しくありませんが、これも例外ではありません。「皇帝円舞曲」などは、日本では7インチでも発売されていますが、一貫して「ウィーン国立歌劇場管」と表記(その方が立派に見えるから?)されていますが、米VOX盤では、「ヒズ・オーケストラ」や「フォルクスオーパー管」等が混在。いずれにしても、ウィーン・フィルともシュターツオパーとも関係なさそうです。そして、ここでインスブルックSOによるとされている曲は、日本コロンビアから発売されたレコードでは「ヒズ・オーケストラ」となっておりいるというように、混迷を極めます。
また、録音年もはっきりしません。この国内盤の発売時期と米盤にはスピーカー・ラベルが存在することなどから、ここでは1960年代初頭としておきます。
さらに悩ましいことに、これらの音源が本当にVOXによるセッション録音なのか?という点。ウィーン音楽マニアの方の推察では、放送局音源などを買い上げ、商品化したのではないか、ということです。

★どんな作品でもそうですが、特にシュトラウス一家のようなシンプルな作品を魅力的に奏でるには、指揮者とオケが個性を発揮しつつも、その個性が作品の持ち味を邪魔するのではなく後押しするものでなければならないと思います。その点で、理想を極めた名演奏として絶対に外せないのがこれです。
 まず、思わず膝を打ったのは「鍛冶屋のポルカ」!結局この曲の最高の演奏は、ボスコフスキー&VPOに帰結するのが常でしたが、これを聴いて迷わず順位逆転。速めのテンポでの颯爽とした進行がなんとも潔く、小細工は一切なし。0:33で音を短く切り上げる自然な処理は何度聴いても痛快で、これを単純に真似しても同じテイストなど生まれないでいでしょう。この小股の切れ上がった解釈はエドゥアルト・シュトラウスの最とも顕著な個性で、全編に渡って作品を瑞々しく息づかせる大きく役立っているのですが、決して快速テンポ一辺倒ではありません。
 「美しく蒼きドナウ」はこってりと歌う箇所とあっさり流す箇所のチョイスが明確で、アゴーギクも少しも媚びません。つまり不健康さが皆無。是非、対極的なクナのウィンナ・ワルツと共に堪能していただきたいものです。
 「春の声」も音楽の流れが素直でフレージングは伸びやか。3:13からの滑り出し方などはその象徴で、「音を感じる」とはこういうニュアンスのことを指すのでしょう。コーダ直前のテンポの落とし方(5:38〜)も、にわか振りではこんな自然には振る舞えません。
 「憂いもなく」は、誰しもオケ団員の掛け声を期待するでしょうが、ここではそれは無し。しかし、音自体にニュアンスがあるので、それを邪魔しない選択はまさに慧眼。
 「ウィーンの森の物語」は、個人的にはその長さが苦手で、大抵はツィターが終わるまでに辟易するのですが、ここではツィター登場前の大仰さを避けた純朴な表情に心奪われてしまいました。そして驚くべきはツィターのソロ!、こんな色っぽい…というよりエロチックな演奏は決して他にはなく、これ以降はどんな演奏も満足できない体になってしまいました。そして主部以降は再び純朴一筋。少しも冗長さを感じさせず愛くるしい表情とともにノスタルジーを醸し続けます。そこで、この曲を今まで苦手と感じていた原因に気づいたのです!どの演奏も立派に響かせ過ぎていたのです。
 そこで思い起こすのが、毎年元日のウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート。私はここ数年、元日からクラシック音楽界の縮図を見るようで暗澹たる気持ちになるので、まともに見れなくなりました。そして2020年元日、あのなんとも雑な指揮に接し、この伝統行事は完全にその役目を終えたと確信しました。ちょうどNHKの紅白歌合戦と一緒です!そもそもこれらの珠玉の小品たちを心から愛しているのか?なぜそんなに立派に響かせようとするのか?いちいち大きなジェスチャーで指揮する意味は?等々わからないことだらけで、音楽を味わうどころではないからです。かつてのライナーやセルのウィンナ・ワルツは、ウィーン情緒とはかけ離れていながらも聴き手を唸らせるだけの独特の味がありました。一方、最近のニューイヤーコンサートでは、オケがウィーン・フィルにも関わらず、流石と思わせる味わいが感じにくいのです。難解な作品など全く無く、指揮者にとっては名誉なことですから指揮を断る理由もないのでしょうが、作品に対して思うところが特にないのなら、安易に引き受けずに名誉ある撤退を強く望みますし、オケの側も「仕事のしやすさ」で選ぶのはやめていただきたいものです。と言っても、ガチガチにビジネスの体制が確立してしまった以上、今更突き崩すことなどできないでしょう。しかし、何でも「オリジナル」という単語に飛び付く習慣も出来上がったようですから、ここに聴くエドゥアルト・シュトラウスのような空気感こそがオリジナルだと自覚し、今の自分達の演奏が別に方向に向かっているということにそろそろ気づいても良い頃だと思うのですが、それすら期待できないようです。このエドゥアルト・シュトラウス盤を強くお薦めするのは、そんな思いが根底にあるからのです。【湧々堂】

TRE-224(2CDR)
レーヴェングートSQ〜フランスの弦楽四重奏曲集
■Disc1
フォーレ:弦楽四重奏曲Op.121
ルーセル:弦楽四重奏曲
ドビュッシー:弦楽四重奏曲
■Disc2
フランク:弦楽四重奏曲
ラヴェル:弦楽四重奏曲
レーヴェングートSQ
【アルフレッド・レーヴェングート(1Vn)、ジャック・ゴトコフスキー(2Vn)、ロジェ・ローシュ(Va)、ロジェ・レーヴェングート(Vc)】

録音:1965年(ステレオ)
※音源:VOX SVBX-570
◎収録時間:147:33
“むせ返るほどの芳醇な香りを湛えたレーヴェングートQの至宝!”
■音源について
レーヴェングートQの代表的名盤ボックス(3LP)の全てを収録。このセットは彼等の最大の偉業と言っても過言ではないはずですが、まとまった形でCD化されないのが不思議です。

★決して多いとは言えないレーヴェングートQの録音の中で真っ先にお勧めしたいのがこのセット。中でもドビュッシー&ラヴェルは、同カップリングのレコードの中でも最高の逸品と信じて止みません。しかし、通常はモノラル録音とステレオ再録音が存在する場合、大抵はモノラルが忘れわれるものですが、レーヴェングートQの「ドビュッシー&ラヴェル」に関しては、名演として紹介されるのは専らDGのモノラル録音ばかり。両者を比較した上でモノラルの方に軍配を上げるのなら理解もできますが、ステレオ盤については紹介すらされないことが多いのは、レーベルに対するイメージが災いしたのか、単に聴いていないのか?何れにせよ、このVOX録音に存在する無類の魅力を無視してよい理由などあり得ません!
 なんと言っても、ラヴェル冒頭から溢れ出す甘い香りにイチコロ!それはホールの残響等で加工した空気感ではなく、彼らの楽器から直接発せられる素の香気なので、生々しさと真実味はひとしお。それにカラフルな色彩と人肌の温もりも含めて、ステレオだからこそ捉えられた珠玉のニュアンスがここにはあります。
 但し、デジタル的なアンサンブルに慣れた耳には、第一印象では音程がフニャフニャと感じるかもしれませんが、それだけで拒否反応を示したり、「下手」というレッテルを張ってしまったらこの先の音楽人生の大損失!こんな魅惑的な表現を味わえないまま一生を終えるなど悲しすぎます。そもそも、ただの下手くそだったら、プロとして通用していないはずです。
 音程に対する感覚、弓圧、ヴィブラートのさじ加減などの技術は見事なまでに4人に共通。だからこそ、どのフレーズを取っても、まるで一人の人間が語っているかのように響くのです。特にヴィブラートに関しては、極力抑制しているのがポイント。もちろん、昨今主流の無分別なノン・ヴィブラートとは意味が違うのは言うまでもありませんし、そもそもヴィブラートとは、付けるか付けないかの二者択一ではなく、音楽の持つ雰囲気によって使い分けるものであり、それが人間の生理にも適っているということを強く思い知らされます。コーダ数小節の粋な余韻も真似のできない技。
 第1楽章の第2主題に関しても、こんなアンニュイな雰囲気を湛える演奏は他に聴いたことがなく、まさに彼らの技術のこだわりの結晶。第2楽章のピチカートは、ピチピチ跳ねる魚の如く、瑞々しいことこの上なし。こんな水分を感じる音を他で聴けるでしょうか?第2楽章中間部や第3楽章は、芸術的なノン・ヴィブラートの連続!「ノン・ヴィブラート=無機質」という思い込み一瞬で吹き飛びます。
 ドビュッシーとラヴェルとではアプローチを大きく変える演奏というのは少ないと思いますが、ここではドビュッシーにおいては、持ち前に音色美に加えてより強い意思を漲らせている点にもご注目を。 【湧々堂】

TRE-225(2CDR)
超厳選!赤盤名演集Vol.2
クリュイタンス/ラヴェル:管弦楽曲集
(1)ボレロ*/(2)スペイン狂詩曲*
(3)ラ・ヴァルス*/(4)マ・メール・ロワ#
(5)クープランの墓/(6)古風なメヌエット
(7)道化師の朝の歌/(8)海原の小舟
(9)亡き王女の為のパヴァーヌ、
(10)高雅で感傷的なワルツ#
アンドレ・クリュイタンス(指)
パリ音楽院O

録音:1961年11月30日(1)、1961年11月29日(2)、1961年11月27日(3)、1962年4月20&25日(4)、1963年9月26,27日&10月2,3日(5)、1962年10月2日(6)、1962年9月26日(7)、1962年9月27日(8)、1962年10月3日(9)、1964年4月19日(10)
※音源:東芝 AA-9006*、AA-9007#、AA-7281
◎収録時間:133:33
“色彩の魅力を引き出すためのテンポ設定の妙に改めて覚醒!”
■音源について
「赤盤」をいろいろ聴き漁った結果、「東芝の赤盤は音が良い」という噂は、あながち間違いではないという結論に達しました。音に確固とした芯があり、音場は豊かに広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別です。ただ、当時のセールスポイントであった帯電防止材や、赤い色素が音質向上に直接繋がったとは考えにくいので、英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術が結果的に赤盤に集約されたと見るのが妥当だと思います。事実、1971年に御殿場に大工場を新設して以降、音質は下降の一途を辿り、赤盤も消えてしまいました。
 注意スべきは、初期の盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高いこと。CDR復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。
 ここにはクリュイタンスがステレオで遺したLP4枚分のラヴェルの管弦楽曲集から、「ダフニスとクロエ」以外のLP3枚分を全て収録していますが、ここでもそれを考慮し、音源は、全集LPボックス以外の単売盤(AA-7281)も採用しています。

★これもあまりにも有名な歴史的録音ですが、赤盤で聴くと個々の録音の質感の差が明確となり、中でもスペイン狂詩曲ラ・ヴァルスが突出して鮮烈な録音であり、セッション録音の枠を超えた凄演であることがわかります。
 「スペイン狂詩曲」第1曲は、余計な雰囲気作りなど必要し!無機的なまでの静謐美を支えるのは、オケの潜在的な色彩力のみ。3:47のティンパニの微かな一打のニュアンスもお聴き逃しなく!第2曲はその色彩力が、壮大なスケールで艶めかしいオーラを放射。フランス音楽は軽い筆致で弾かねばならないという先入観は全く無意味。2:04からのサリュソフォーンの威力もたまらない魅力。第3曲の1:24からのホルンの持続音が醸し出す余韻もパリ音楽院ならでは。終曲の徹底した原色での色彩攻撃も比類なし。中間部の生々しい肉声を聴くような対話の妙味といい、この曲に必要な要素の全てが詰まっていると言っても過言ではありません。
 「ラ・ヴァルス」も、色彩的な眩さでは歴代屈指。オケの機能美そのものを芸術的に昇華させた名演の第1号はベイヌム盤だと思いますが、フランスの風味にこだわるならやはりクリュイタンス&パリ音楽院。。特に3拍子の結尾でフワッとした力の抜き加減は、表面的に真似はできても、大概は香りが伴いません。2:44からの弦の旋律にごく僅かにポルタメントが掛かりますが、このさじ加減がまた絶妙!6:01のルフト・パウゼも最高のお手本。更に驚愕は、コーダにかけてのパワー粉砕力!録音は1日だけのセッションだったようですが、一発録り的な緊張感と気迫も加味された完璧な熱狂が捉えられています。
 テヴェのソロが光る「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、今後二度と耳にできない至芸。テンポ設定を含む全てのニュアンスに、含蓄の深さを感じずにはいられません。
 「クープランの墓」は、頻出するオーボエ・ソロがチャルメラ風に響く例が珍しくないなか、ストレスなくオーボエのノスタルジックな響きをしっかり堪能させてくれる演奏として真っ先にあげるべき名演。第2曲のコーダは弱音にしてデリケートに締めくくる例がほとんどですが、このクリュイタンスを聴けばそういうやり方はただの誤魔化しでは?と思ってしまいますし、終曲も、ピアノ版と同じような高速演奏では拾いきれないニュアンスがあることを痛感させられます。 【湧々堂】

TRE-227
カイルベルト〜J・シュトラウス&R・シュトラウス
J・シュトラウス:ポルカ「浮気心」
 加速度円舞曲/エジプト行進曲
 ワルツ「ウィーン気質」
 トリッチ・トラッチ・ポルカ*
 ワルツ「南国のバラ」*/アンネン・ポルカ
 ペルシャ行進曲**/常動曲
R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」より
 ワルツ第1番#&第2番#
ヨゼフ・カイルベルト(指)
バンベルクSO、
バイエルン国立歌劇場O#

録音:1960年7月11-12日、1959年7月24-25日*、1959年7月25日**、1963年8月5-8日#(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN NT-110、英TELEFUNKEN SMA-106#
◎収録時間:63:37
"演出無用!オケとのコンビネーションがそのままニュアンス化したシュトラウス!!"
■音源について
J・シュトラウス作品集は、当初は独初期盤(黒金ラベル)を採用する予定でしたが、「浮気心」冒頭の音の掠れ(TELEFUNKENの初期盤に多々あり)があり、音自体も冴えないので却下。この後発のNT-110(V字赤ラベル )は音に芯が通り、モヤモヤも一掃!青ラベルより前のシリーズで、製盤もしっかりしていて侮れません!

★カイルベルトがテレフンケンに遺した録音は、彼の誠実で純朴な人柄をそのまま映した名演揃いですが、その特色を最も端的に示しているのがJ・シュトラウスでしょう。指揮者とオケとの強固なコンビネーションと言えば、ムラヴィンスキー&レニングラード、ライナー&シカゴのような厳格な縛りを連想される例をまず思い浮かべがちですが、一朝一夕では成し得ない阿吽の呼吸によるニュアンス醸成力は、カイルベルト&バンベルクのコンビにも共通します。
 考えたら、このコンビのように温かな相思相愛による絆で一時代を築いた例は極端に少ないように思えます。しかも、そのコンビネーションに流れる空気感をそのままニュアンス化したような「無垢なJ.シュトラウス」となると、オーマンディもバルビローリもちょっと違うので、これが唯一無二?そうです。カイルベルトのJ・シュトラウスは巷間言われる以上に有り難い存在なのです!
 「浮気心」中間部は悪のり感がなく、リズムを際立たせてやり過ごすだけの演奏とは次元が違います。「エジプト行進曲」は、意外にも小気味好いテンポとリズムでサクサク進行。中間部ではオケ団員の合唱など入れません!オジサン達のダミ声で音楽を汚したくなかったのかもしれませんが、そのおかげで隠れていた楽器の魅力に気づかれる方も多いことでしょう。「常動曲」ラストも、もちろんただのフェードアウト。
 「アンネン・ポルカ」は極めてシンプルな楽想の端々から可憐なニュアンスが零れ、取って付けたようなアゴーギクなど不要。これぞコンビネーション芸!
 全曲を通じて最も絶賛したいのは「加速度円舞曲」。ドイツ的な骨太サウンドと構築の積み上げ感が、音楽を一層風格豊かに変貌させています。2:29からのテンポを落としての甘美な囁きは、カイルベルトにとって最大の濃厚表現。そこにはにかんだような表情が見え隠れするので、尚更温もりが伝わります。正直、私はこの作品に冗長さを感じてしまうことが殆どなのですが、この演奏だけは別です!【湧々堂】

TRE-228
ブライロフスキー/ショパン&サン・サーンス:ピアノ協奏曲、他
リスト:メフィスト・ワルツ第1番
 愛の夢第3番
 2つの演奏会用練習曲〜小人の踊り
サン・サーンス:ピアノ協奏曲第4番*
ショパン:ピアノ協奏曲第2番#
アレクサンダー・ブライロフスキー(P)
シャルル・ミュンシュ(指)ボストンSO

録音:1953年4月18日、1954年11月24日*、1954年11月29日#
※音源:HMV ALP-1110、米RCA LM-1871*,#
◎収録時間:71:56
“華麗な技巧だけで煽らないインスピレーション優先の芸の極み!”
■音源について
最初の3曲は、全9曲収録の「リスト・リサイタル」からの抜粋。メフィスト・ワルツはブライロフスキー唯一の録音と思われます。2つの協奏曲も、共に唯一の録音。ショパンの「第1番」は計4回録音していますが、「第2番」はなぜかこれのみです。使用したのはその初出盤。なお、全て一発録りに近いと思われますので、それを窺わせるトラック9-10間は、あえてフェード処理を行っておりません。

★ブライロフスキーの閃き芸をたっぷり堪能できる一枚。まずは名刺代わりに「メフィスト・ワルツ」。楽譜は楽譜でしかなく、演奏家がそこに命を吹き込んで初めて音楽となる、という当たり前のことを成し遂げている人がどれだけいるでしょうか?特にこの曲などは、ここまで魂をぶちまけてくれないと困ります。古今通じてヴィルトゥオーゾと呼ばれる人は多くいますが、技巧が音楽表現のためだけに注がれていることを感じさせる例も稀。「小人の踊り」は完熟を極めたブライロフスキーのテクニックがキラキラと放射され、それが感覚的な痛快さを超えて訴えかけてくるのは、常に熱い表現意欲と「語り」が寄り添っているためでしょう。
サン・サーンス&ショパンは、ミュンシュとの唯一の共演盤にして、ブライロフスキーの協奏曲録音の最高峰と言えるでしょう。2人のコンビネーションの絶妙さを思うと、他に共演録音がないのが残念でなりません。
2曲とも、ネチネチとした表現を嫌う2人のコンビだからこそ実現した快活でダイナミックなアプローチ。サン・サーンスは、冒頭の神妙な楽想を健康的に変換し、純粋な詩的なイメージのみを注入。2楽章後半アレグロ部の凝縮度の高いフレージングと華麗なダイナミズムはこの曲にこそ相応しく、3:50のティンパニ一撃以降の豪放な進行は痛快この上なし!
男性的なアプローチが更に際立つのがショパン。第1楽章序奏でミュンシュが甘美さを寄せ付けない枠組みをガチッと固め、ブライロフスキーはまずそれに従うしかないといという趣で開始しますが、かなりペダルを抑制してタッチの明瞭さを確保している点からも、ミュンシュのスタイルに無理に従っているのではなく、むしろ完全に協調していることが窺えます。第2番だけは録音を避けてきたブライロフスキーも、「このスタイルならやれる!」と録音を決断したのかも知れません。かと言って進軍あるのみではなく、第2主題ではテンポを落とし、最小限ながら心からのアゴーギクを駆使して愛の香気を放つことも忘れません。第2楽章では別人のようにウェットなタッチを敷き詰め、濃厚な歌を披露しますが、大柄で健康的な音楽作りは不変。4:12からも悲しみよりも、熱い決意表明のように響きます。そしてコーダ。8:29からの単音の連なりをフォルテ寄りの決然とした音で締めくくるのがなんとも粋!終楽章は冒頭が正三角形の3拍子ではないことからも、マズルカを意識していることは明らかですが、民俗色の再現に専心するのではなく、リズムのスウィング感のみを拝借し、あくまでも自身の直感による正直な音楽に邁進。その潔さが演奏のニュアンスに結びついていると言えましょう。【湧々堂】

TRE-229
ルイ・マルティーニ/シャルパンティエ&フォーレ
シャルパンティエ:真夜中のミサ曲*
フォーレ:レクイエム
マルタ・アンジェリシ(S)*、エディト・セリ(S)*、アンドレ・ムーラン(C.T)*、T:ジャン=ジャック・ルジュール(T)*、ジョルジュ・アプドン(Bs)*、ジョスリー・シャモナン(S)、ジョルジュ・アブドアン(Bs)
アンヌ=マリー・ベッケンシュタイナー(Org)*、モーリス・デュリュフレ(Org)*-[1][2]、マリー=クレール・アラン(Org)、オリヴィエ・アラン(Org)
フランス音楽青少年cho
パイヤールO*
コンセール・コロンヌO
ルイ・マルティーニ(指)

録音:1961年3月8-10日ノートルダム・デュ・リバン教会(パリ)*、1963年11月22日サン・ロック教会(パリ) 全てステレオ
※音源:日COLUMBIA OS-939-R*、VOX STPL-512.720
◎収録時間:75:34
“「心の故郷」と呼びたいほどの真の安らぎがここに!”
■音源について
2曲とも様々なレーベルから発売されています。フォーレは世評の高いスピーカー・ラベル盤を採用。録音年は、マイケル・グレイ氏によるものを記載しています(シャルパンティエは国内盤記載の日付と異なります)。

★マルティーニは、仏エラートに多くの録音を遺したフランスの合唱指揮者。2曲とも、これより何倍も軽いフットワークで、透明なテクスチュアを誇る演奏が多く存在しますが、音楽としての深い味わいを求めるなら、結局のところ、ここで聴くような地道な手作り感覚に徹したスタイルに行き着く、と言う方も多いはず。フレーズの端々から、熱い共感と慈愛に満ちたニュアンスが何の邪念も混じえずに連綿と流れるさまを目の当たりにすれば当然のことと言えますが、こういう演奏は「学者」「研究者」にとってはその素材を見い出しにくいので、とかく古いスタイルとして片付けられがち。しかし、声楽陣の技術的な高さも含め、芸術的見地から無視してよい理由などあろうはずがありません!
 「真夜中のミサ曲」はクリスマスの名曲として知られますが、一年を通じて味わいたい逸品。ここで最も強調したいのは青少年合唱(年齢層は不明)の音程の良さ。2人のソプラノ歌手が音程の「揺らぎ」補正の役も担っているのかもしれませんがだとしたら、そのバランス配分も含めて絶妙です。「クレド」では、真心から出たニュアンスとともにも心打たれ、大人の真似をした上手なだけの歌とは違うことを痛感。「アニュス・デイ」の締めくくりも、正確に音程を配置しつつも決して精緻さは目指さず、語りに専念しているので、聴き手の心にしっかりと音楽が宿ります。
 もちろんその特色は、フォーレでも全く同じ。シャルパンティエ以上に多種多様な演奏が存在しますが、今世紀に入ってリリースが減ってきたのは、スタイルのネタ切れでしょうか?その上で、結局湧々堂が一番に推したいのは、このマルティーニ盤!
 「キリエ」での男声合唱の高音域は、どんな高水準の団体でもどこかヒステリックになりがちですが、ここでの柔らかな響きは、この曲の最低条件と呼びたいほど琴線に触れます。女声とのユニゾンには、慈しみぬいた音だけを発するという、この演奏全体に一貫するコンセプトが集約されています。
 「オッフェルトリウム」は、ヴィブラートが楽想によって使い分けるべきものであることを示す実例。作品の時代が下れば下るほど議論の的になるテーマですが、冒頭の合唱部のほぼヴィブラートなしの歌唱、テノール独唱の相当大きな振幅を伴うヴィブラートとノン・ヴィブラートとの使い分けなど、まさに自然な選別技の妙を堪能。どの時代のどんなジャンルの曲でも、相応しい使い方をするだけのことではないでしょうか?最初から全てをノン・ヴィブラートにするのも、長い音の全てにヴィブラートを掛けるのもナンセンスなだけです!
 「ピエ・イエズ」は、ソプラノのシャモナンが、純朴、無垢の極みの歌唱!歌手の存在感はは完全に消滅し、祈りの空気のみを醸し出すという感覚は、他の演奏では味わえません。
「リベラ・メ」でのアブドアンの柔和な歌声がまた泣けます!最後のユニゾン合唱の温かな佇まいも無類!音の強弱というより、押し引きの妙とでも言いましょうか。何度聴いても息を呑みます。
終曲「イン・パラディスム」は、もはや音楽を奏でているという「行為」を超越し、空気中の粒子のようにニュアンスが浮遊します。
 往年の名演と言えば、クリュイタンス、アンセルメ、コルボなどが常連ですが、マルティーニの名を殆ど見かけなくなってしまったのは誰の責任でしょうか? 【湧々堂】

TRT-231
オーマンディ/米COLUMBIAモノラル名演集5〜「英雄の生涯」他
チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」
R・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」*
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO
ジェイコブ・クラチマルニック(ソロVn)*

録音:1953年12月23日、1954年3月14日*
※音源:英PHILIPS ABL-3228、米COLUMBIA ML-4887*
◎収録時間:63:59
“美くしさと迫力を兼ね備えたオーマンディの音作りの凄さ!”
■音源について
オーマンディは両曲とも4種のセッション録音を遺していますが、「ロメオとジュリエット」は第1回目、「英雄の生涯」は2回目の録音。

R・シュトラウスの作品が持つ色彩感や風格美ほど、オーマンディの音楽性と合致するものはないでしょう。年齢を重ねるごとにリズムの腰は低くなり、性急なテンポを遠ざけたどっしりとしたステレオ再録音盤も大名演ではありますが、このモノラル期の録音は、アグレッシブな表現がたまらなく魅力的。音楽する喜びを思う存分放出する清々しさに溢れ、これまた絶対に無視できません。
 冒頭テーマからリズムは冴え渡り、声部バランスの良さは驚異的。フィラデルフィア管の巧さにも舌を巻きますが、それが尊大な自己アピールとして響かないのは、オーマンディの人間性の表れでしょう。またこの冒頭部では、きちんんと句読点を打つようなフレーズ感の間の取り方がハンガリー出身であることを感じさせ、音楽をフォルム内にカチッと収めるような配慮は、この時期のオーマンディならではの特徴の一つです。
 「英雄の敵」での管楽器の発言の応酬はドキッとするほど生々しく、嘲笑う人間の声そのもの。「英雄の伴侶」はクラチマルニックのソロの素晴らしいこと!スティーヴン・スタリックの前のコンサートマスターだったこの人、独特の妖しさを伴う美音といい、芯のぶれないフレージング感覚といい、相当の名手であることは明らか。彼のソロが聴けるだけでもこの録音の価値が絶大です。「英雄の戦場」は、物凄い迫力にもかかわらず、乱雑さや狂気とは無縁なのは、いかにもオーマンディ。オーマンディと言えば、「比類なき豊麗サウンド」を連想させますが、その根本には生涯変わることのなかった品格が息づいていたことを再認識させます。「英雄の業績」では、後年ますます顕著となるメロウな響きへの志向が顕著で、過去の作品へのオマージュがメランコリックな風情を湛えつつしみじみと語られます。メランコリックであっても音色のハリを失わないの点も要注目。「英雄の隠遁と完成」ではそれが更に大きく開花します。黄昏の象徴とも言えるホルン(8:20)以降も、ヴァイオリン・ソロの陶酔美とも相まって、音像が曇ることなく、希望の光に満ちているのです。この幸福感になぜか目頭が熱くなるのは私だけでしょうか?
 チャイコフスキーは、クレッシェンド時の音の凝縮とソリッド感が印象的。主部第1主題のシンバル追加(ステレオ録音にはなし)や、中間部における最弱音を避けた分厚い響きからキラキラと色彩が溢れ出る様など、ストコフスキー的なテイストが濃厚。聴き手に苦痛を強いるような血なまぐさい表現ではなく、音楽とは耳に心地よいものであるべきというオーマンディの強いこだわりを感じずにはいられませんが、オーマンディが深みに欠ける指揮者と思われがちなのは、まさにその点だと思われます。しかし、自分の感性や趣味に正直で、それに磨きをかけ続けるのが真の芸術家ではないでしょうか?皆がフルトヴェングラーである必要なのないのですから。 【湧々堂】

TRE-232
超厳選!赤盤名演集Vol.3〜フランソワ絶頂期のショパン
即興曲集(全4曲)*
練習曲集Op.10/練習曲集Op.25
サンソン・フランソワ(P)

録音:1957年11月*、1958年9-10月&1959年2月(全てモノラル)
※音源:TOSHIBA CA-1015*、CA-1016
◎収録時間:77:58
“技巧を目的ではなく手段として使い切った閃き芸の極北!”
■音源について
フランソワが遺したショパンの作品が数多く遺しましたが、Op.10&25、4つの即興曲はその中の一部の抜粋を除き、ステレオ録音は存在しません。良質な赤盤(仏スタンパー)からの復刻で、まさに絶頂期の妙技を堪能していただけることでしょう。

★サンソン・フランソワ(1924-1970)没後50年記念復刻。演奏行為とは自己表現に他なりませんが、フランソワにとっては、自身の魂を曝け出すというよりも、本人にも制御不可能な発火装置の爆発感じられることが多々あります。即興曲第1番などはその典型。特に中間部後半1:33以降の激烈なうねりなど、人間が持ち得る感情を超越しおり、まさに究極の閃きとはまさにこのこと!即興曲第2番中間部、行進曲風の部分での美観度外視の大音量も同様。
 一方で、フランソワの演奏には、普通の人の何倍も濃密な人生を丸ごと暴露するような場面も多々ありますが、そんなとき私はそこに強烈なエロチシズムを感じずにいられません。幻想即興曲中間の美しいカンタービレを弱音でぼかすことなく、強固なタッチで刻印するたびにフランソワのフェロモンが押し寄せますが、逆にそれを流し去ったら抜け殻のような音になることは必至。どちらが存在価値のある芸術であるか、言わずもがなです。
 4つの即興曲は「第2番」以外の全てが3部形式で書かれていますが、形式を意識させずに文字通り即興的にニュアンスが導き出されるかが重要な鍵。その点でもフランソワの演奏は永遠に不滅でしょう。 
 エチュードと言えば、その究極形とも言えるポリーニ、アシュケナージの2大名演は無視できませんが、今やそれらに比肩する演奏は多く存在します。しかし、フランソワの感性の敏感さ、尋常ならざる色彩センスに肉薄し、「エチュード」の概念を突き破るほどの高みまで達した演奏は、出現したでしょうか?
Op.10-6は、暗く耽溺しないでロマンの香気を惜しげもなく醸し、Op.10-8でのこんな無邪気でチャーミングな付点リズムは他では聴けませんし、跡を濁さず清々しい香りのみを残るラストは、まさに名人芸。リズムそのものの発言力の凄さはOp.25-3も同様。Op.10-10は0:18からタッチの質感が変わる点にご注目!この絶妙なペダリングによるバラエティに富んだ色彩はコルトーを彷彿とさせますが、もちろんニュアンスの決まり方は一枚上。ポリーニの演奏でさえ無難な演奏に聞こえるほど、色彩の光の方向が千変万化する様をご堪能あれ。!Op.10-11は、極上のエレガンス!体の深部から滲みでるフェロモンがここでも横溢し、こでぞ愛の美醜を知る人間のみが表出可能な空気感です。Op.10-12「革命」は、テクニックの完璧さが目的ではないことはもちろん、波乱万丈の人生そのものを音化し尽くした稀有な例。気ままにも思えるルバートも聞けば聞くほど背後でコントロールが効いているのです。Op.25-12は、粘着性があってもべとつかず、真にドラマティックなレガートで魅了。中間部直前やコーダの激烈な衝撃力も破格。
そして怒涛の「木枯らし」!フランソワは「気に入らないフレーズは弾き飛ばす」というイメージを持っている人が今も昔も存在し、常人には真似のできないフランソワ独自のルバートを単なる「気まぐれ」としか捉えられない人に限って「技術的にも不備がある」とケチをつける傾向があるようです。「ミスタッチ=不備」ならば全盛期のホロヴィッツなど一昔前の大家の殆どは不備だらけになってしまいます。そんなミスタッチにしか反応しない残念な耳を改善する方法があるとすれば、この「木枯らし」を何回も聴き直しすことくらいでしょう。「木枯らし」どころの騒ぎではない決死のドラマを目の当たりにしても心が動かないのなら、音楽が生まれる衝撃や感動に興味がないわけですから、常識では測れないフランソワの芸術を的確に判断できる道理がないのです。的外れなイメージを安易に吹聴するなど謹んでいただきたいものです。【湧々堂】

TRE-233
ヘブラー&ホルライザー/モーツァルト:ピアノ協奏曲集Vol.1
ピアノ協奏曲第8番ハ長調 K. 246
ピアノ協奏曲第15番変ロ長調 K. 450*
ピアノ協奏曲第18番変ロ長調 K. 456#
イングリット・ヘブラー(P)
ハインリヒ・ホルライザー(指)
ウィーン・プロ・ムジカSO(ウィーンSO)

録音:1955年4月28.30日、1953年*,#(全てモノラル)
※音源:英VOX PL-9290、 PL-8300*,#
◎収録時間:76:48
“「ヘブラーのモーツァルトは甘ったるい」というのは明らかに誤解です!”
■音源について
ヘブラーは生涯に「第8番」「第15番」を各2回づつ、「第18番」を計3回録音していますが、ここに収めたのはそれぞれ初回録音。VOXへのモーツァルト:ピアノ協奏曲集のうち、ホルライザーとは8曲共演しています。使用音源は、良質な英国盤(RIAA)。

第8番の第1楽章出だしを聴けば、ヘブラーの出す音がいかに純度が高いかわかるはず。ただ弾いているだけのようでいて、タッチの一つ一つに鋭敏な感性が息づいています。展開部の転調においても、その妙味を強調することなくクールに進行。無機質に陥る寸前まで余分な表情を排除するセンスこそ、モーツァルトには不可欠だとおいもい知るばかりです。 汚れを知らぬタッチは第2楽章で一層意味を持ち、音楽を炙り出そうとしなくても、そのタッチが全てを語ってくれます。
 第15番では、タッチの純度の高さはそのままに、明らかに自己表現を上乗せしているのが興味深いところ。特に、第1楽章の前のめりなほどのテンポ選択においてそれが顕著。ニュアンスが上滑りするどころか、手放しの幸福感を表すのにはこれしかないと唸らされます。そのテンポを指揮者とピアニストのどちらが主導したのかがわからないところがまたミソで、これこそ音楽観をしっかり共有できている証し。因みに、ステレオ再録音ではより落ち着いたテンポを採用しており、その安定感と内省味も捨てがたいのですが…。第2楽章では、少ない音符の隙間に虚しい空気など入り込むことなく音楽が充満。そこには、共感の深さ以上の大きな力が作用しているとしか思えません。終楽章は音の跳躍の何という楽しさ!これぞ「ザ・モーツァルト!」と叫びたいほど。この作品は、ケンプ&ミュンヒンガー盤の素晴らしさが忘れが忘れがたいですが、少なくともこの楽章はヘブラーに軍配を上げざるを得ません。
 第18番になると、作品の充実度が高まるのに伴い、ヘブラーはタッチもフレージングも深淵さと意思の注入度を高めます。へブラーのモーツァルトに「模範的」とか「甘ったるい」というイメージを持つ人が多いようですが、それが明らかに誤解であることは、この第1楽章だけでも明らか。第2楽章は白眉中の白眉!モーツァルトの悲しみが最も高次元に昇華しているのは、この第2楽章では?と思えてなりませんが、それは、ヘブラーのみならず、同様の純度を誇るホルライザーの指揮があまりにも素晴らしいため。もし、モーツァルトの交響曲の録音を遺していたなら彼の名は稀代のモーツァルト指揮者として記憶されたことでしょう。ヘブラーはVOXにモーツァルトの協奏曲を他の指揮者とも録音していますが、もちろんホルライザーの含蓄には遠く及びません。 【2020年10月・湧々堂】

TRE-234
ヴァルガ〜ブルッフ&チャイコフスキー
チャイコフスキー:「懐かしい土地の思い出」Op.42〜瞑想曲(グラズノフ編)*
 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.35
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番Op.26#
ティボール・ヴァルガ(Vn)
ジャン=マリー・オーバーソン(指)
ボリス・マーソン(指)*
ウィーン祝祭O

録音:1965年(ステレオ)
※音源:Comcert Hall SMS-24110、SMS-2587(TU)#
◎収録時間:74:10
“潔癖かつ鉄壁!造形美への並々ならぬ執着がもたらす凛然たるニュアンス!”
■音源について
★何度も繰り返しているとおり、コンサートホール・レーベル特有のステレオ・サウンドですが、最も条件の整ったスイス盤とフランス盤を使用。

★ティボール・ヴァルガ(1921-2003)は、フバイ、フレッシュ等の薫陶を受けたハンガリーの名手。メジャー・レーベルにほとんど録音がないので知名度は低いですが、品格溢れるその演奏は異彩を放っています。
その最大の特徴は、岩盤のように厳しいフォルムの決め方でしょう。そのフォルム内に濃密なフレージングを刻印し続けるスタイルは情に流れされることがなく、聴き手にも一定の緊張をもたらすほど。しかし、ロマン溢れる2つの協奏曲にはそれは禁欲的過ぎるのでは?という心配は御無用。むしろその緊張こそが感動の源であり、その凛とした佇まいを前にして居住まいを正して聴き入るばかりです。
 チャイコフスキーの協奏曲は、冒頭からヴァルガのスタイルを強烈に刻印。丹念な音の置き方に共感の限りを尽くし、品位の高い美音も心に染みます。第2主題以降もテンポを急がず、これ以上不可能なほど音を噛み締めつつ進行しますが、持ち前の緊張感によって音楽が淀むこともありません。カデンツァなどまるでバッハです。第2楽章の呼吸の深みと持久力も素晴らしく、しかも音程が極めて正確なのでフレーズの美しさが一層際立ちます。第2主題はもっと髪を振り乱すほど情感をぶつけることも可能でしょうが、心の内面の高揚に徹しているのがかえって涙を誘います。
 造形美の保持に対するヴァルガの執念は、より古典的な形式を持つブルッフでは更に大きく開花。楷書スタイルの一点一画が強固な意志で充満しており、この作品を一般的なイメージ以上の高次元へと昇華させています。
まず第1楽章冒頭のフレーズの結尾(0:36〜,1:05〜)にご注目。音の消え入り方のなんという儚さ!
ヴァルガの楷書芸術の最高の結晶と言えるのが終楽章。特に主題の奏で方は鳥肌必至!浮足立たず、弾き飛ばしも崩しも許さない厳しい姿勢が精神の燃焼に完全直結!このテーマがこんなに光り輝いた例を他に知りません。媚びとは無縁の第2主題も潔癖かつ鉄壁。この作品の価値を極限まで押し上げるために、全ての音に魂を込め尽くす内燃エネルギーの凄まじさは、最後まで途絶えることがありません。【湧々堂】

TRE-236
ケンドラ〜MUZA録音集(リスト&ショパン)
ショパン:演奏会用ロンド「クラコヴィアク」Op.14*
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番
 コンソレーション第3番
 パガニーニ大練習曲〜ラ・カンパネッラ
 ハンガリー狂詩曲第6番
 演奏会用パラフレーズ『リゴレット』
 愛の夢第3番/メフィスト・ワルツ第1番
 巡礼の年第2年イタリア〜ペトラルカのソネット第123番/第104番#
 忘れられたワルツ第1番#
ヴァディスワフ・ケンドラ(P)
ヴィトルド・ロヴィツキ(指)*
ワルシャワ国立PO*

録音:1960年6月28-29日*、1962年6月18-22日、1965年3月15-18,22日ベルリン、キリスト教会#(全てステレオ)
※音源:MUZA SX-0067*、MUZA SXL-0162、ETERNA 825-554#
◎収録時間:75:34
“ポーランドの名手、ケンドラが繰り広げるコクと香りを込めたリスト!!”
音源について
★ケンドラが1965年に録音したリスト作品集(ETERNA)は日本でもCDが広く流通しており名盤として名高いですが、それ以前にポーランドのMUZAにもほぼ同じ曲目の録音があることはあまり知られていないようです。両者とも演奏の特徴がほとんど同じなので、ケンドラが頻繁に演奏会でも取り上げていたお気に入りの選曲だったのでしょう。音質も共に明瞭ですが、ETERNAは、教会の残響を含んでいるので、MUZAの方がややピアノのタッチがが生々しく感じられます。ここでは、ETERNA盤でしか聴けない2曲を最後に収録しています。

★戦後初のショパン・コンクールで、ダヴィドヴィチ、ステファンスカと1位を競い合ったケンドラ(1918-1968)の比類なき音色の深み、呼吸の妙をたっぷり堪能できる一枚。指先の力だけで鍵盤を叩くのではなく、十分に弾き込んだ自信と確信に満ち溢れたピアニズムは新旧の録音に共通し、解釈もほとんど同じなのでとても優劣など付けられませんが、タッチに意思を明確に感じ取れるMUZA録音の方をまず第一に挙げたいと思います。
 中でも、明らかに新録音よりも魅力的なのは「ハンガリー狂詩曲第2番」。速いフリスカのリズムには足腰の強さと逞しさがあり、自作カデンツァの打鍵の威力、迫力、コーダの畳み掛けの決まり方も、こちらが優っています。
 「リゴレット・パラフレーズ」における、体全体で感じたリズムの惜しげもない表出ぶりが印象的。テーマをどこまでも愛おしんで歌い上げる様も清々しい限り。
 一方、ETERNAでまず印象的なのは教会の残響とブレンドした音像美。「ペトラルカのソネット第104番」などは、微かに鳥のさえずりが聞こえ、それらとのコラボレーションが独特の幻想的な空気を醸し出します。
 ETERNA(徳間)盤のレヴューに、「間のとり方に時代を感じる」とあるのを見たことがありますが、私にはどの部分を指しているのか見当がつきません。例えそうであっても、演奏の良し悪し、説得力、生命力とは何の関係もないはずです。古いせいで音楽の何かを歪めているのでしょうか?
 とにかく、このディスクから、ケンドラというピアニストの芸の粋を感じていただくことを願ってやみません。【2020年12月・湧々堂】

TRT-237
カンテルリ〜シューマン&ブラームス
シューマン:交響曲第4番
ブラームス:交響曲第1番*
グィド・カンテルリ(指)
フィルハーモニアO

録音:1953年5月5月15&21日、1953年5月21-23日* (共にモノラル)
※音源:仏EMI 2905761、W.R.C SH-314*
◎収録時間:68:48
“厳つい鎧を剥ぎ取り、音楽の実像を清らかな感性で刷新!”
■音源について
「ブラ1」は、初期のALP-1152をはじめ、XLP-30023、ENC-116等をを比較試聴した結果、音抜けの良さはダントツでこのW.R.C盤でした。ただ、終楽章の13.:46辺りから微かにジリジリという異音が混入します。この現象は同スターンパーを用いた仏TORIANONシリーズでも確認できるので、明らかにスタンパー自体の問題と思われます。ALP-1152の音質はモヤモヤ感が拭えませんし、ENC-116(ENCOREシリーズ)やXLP-30023は異音がないものの音の鮮度は明らかに落ちますので、あえてW.R.C盤を採用した次第です。なお、ラベルにはSTEREOと印字されていますが、もちろん誤表記。
カップリングは、ほぼ同時に録音されたシューマン。レコードでは各楽章間のインターバルが長めに取られており、ここではそのままの形で収録しています。

★たとえブラームスであっても重厚さを目指すのではなく、カンテルリの本領とも言えるスタイリッシュで瑞々しいアプーロチを徹底し、しかもそれがブラームスの本質であるかのうように響かせる手腕は、やはり只者ではないと改めて痛感するばかりです。
 第1楽章から物々しさと決別するために徹底的に響きを洗い直した跡が伺え、その見通しの効いた音像には希望の光すら感じられます。余計な粘度を排除し、アンサンブルの縦の極限まで揃えることで実現した響きが爽快さ以上の説得力を持つのは、フィルハーモニア管の潜在能力の高さに因るとろこも大。展開分後半7:29以降では過剰な神秘性には目もくれず音を芯から内燃させ、再現部11:25からは完璧な声部バランスを保ちながら緊張を極限まで増幅させるなど、まさにカンテルリの芸の真髄。
 第2楽章冒頭は筆舌に尽くしがたい透徹美!その透明なテクスチュアが冷たさではなく純粋さに繋がっている点にご注目を。
 終楽章のホルンからフルートに引き継がれる主題も、隅々まで隈取り克明。弦の第1主題は押し付けがましい歌とは無縁で、楽想の持つ魅力を信じ切った素直なフレージングが心を打ちます。また、スタッカートをかなり鋭利に刻ませているのも特徴的で、特に8:19からの強烈な圧には思わず仰け反ります。最後のファンファーレはトスカニーニと同じティンパニ追加がありますが、「第3番」同様、大仰に傾くことがないのもセンスの賜物。このティンパニ改変はオーマンディ、ヨッフム、小澤、ミュンシュなど数々あれど、違和感の欠片もなく当然のように響くのはカンテルリだけかもしれません。
 シューマンも、物々しい威圧感とは無縁の自然な緊張感を貫徹。第1楽章6:01からの木管楽器による合いの手のタイミングの鮮やかさと有機性は比類なく、コーダに掛けて勢いに任せず着実に全声部を立体的に構築する様も30代前半の技とは信じ難く、しかもそれが無理に落ち着き払った嘘臭い印象を与えない点がまさに天才の証しと言えましょう。第2楽章は過度に陰鬱に向わず、音色はあくまでも清明。その清々しさは第3楽章中間主題の低弦(1:32、1:39など)にも垣間見られ、決して恣意的な操作を感じさせません。
 終楽章は特に感動的!まずリズムの良さが破格で、そこに各パートの強固な連動と熱いフレージングが加わって一分の隙もない推進力を見せます。名手揃いの団員も、カンテルリの崇高なビジョンに覚悟して臨んだのでしょう。アンサンブルの精度はここでも驚異的です。コーダにおいてテンポに溜めを差し入れない洗練されたセンスもカンテルリならでは。
 2曲とも、カンテルリの音楽作りの基本理念を知る上でも欠かせない録音だと思います。【2021年4月・湧々堂】

TRE-238
チェコのピアニズム〜ジョセフ・ブルヴァ・1
リスト:パガニーニによる大練習曲 S.141*
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第13番Op.27-1
 ピアノ・ソナタ24番「テレーゼ」
 ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
ジョセフ・ブルヴァ(P)

録音:1966年5月23-27,31日*、1967年7月10-14,17日
※音源:SUPRAPHON SUAST-50891*、SUAST-50929
◎収録時間:70:29
“音に対するイメージ具現化のために全てをやり尽くす芸術家魂!
■音源について
ブルヴァのチェコ時代の録音はベートーヴェンとリスト(ハンガリー狂詩曲集)しか確認できません。そのリストの作品集が、初の本格的な録音だったと思われます。

★私が初めてジョセフ・ブルヴァ(1943-2020)の名前を意識したのは、1990年代に聴いたチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番のCDでした。ロシア的な野趣に背を向けたその演奏はまるでモーツァルトのようにピュアでリリカルな美しさを湛えていました。なぜこんな独特の感性の持ち主がメジャーレーベルに登場しないのか、色々想像を膨らませているうちに月日は経ってしまいました。ブルヴァはブルノ出身。ナパイェドラの音楽学校でヴァーツラフ・ランカに師事。13歳でリサイタルを開き将来を嘱望されていましたが、1971年の交通事故で演奏活動を一時中断。復帰後にルクセンブルクへ亡命。殆ど知られていない存在でしたが、晩年のBMG録音等で少し認識されるようになった矢先、2020年8月に亡くなりました。
ここに聴く録音は、ブルヴァ20代、亡命前の貴重な録音で、既にブルヴァ以外にはあり得ない美意識とダイナミズムが確立しており、楽想の捉え方にはニュートラルな余白のない強固な確信が漲っています。
 リストは練習曲の概念を超えていることはもちろんのこと、その先のニュアンスの追求度が凡百のピアニストの及びもつかない次元に達しています。まず第1曲で、音の強弱の変化には常に緊張の増減も伴っていることを実感。スタインウェイ以外(ブランド名は記載無し)のピアノの選択も功を奏したトレモロの色彩変化も聴きもの。スタインウェイは和音が混濁するとの理由から使用を避けるピアニストがいますが、ブルヴァもその考えだったのかも知れません。特に音が入り組む終曲ではそう感じさせます。第2曲の急速に上下降するフレーズは、グリッサンド風にサクッと駆け抜けるのが通例ですが、ここでは可能な限り語らせるテンポを貫徹。その上でタッチの強弱と硬軟を徹底的に詰め込み、通常の何倍もの色彩を加味。「ラ・カンパネラ」も同様にタッチの粒立ちを極限まで突き詰めるために、遅めのテンポで開始。クリスタルなタッチと共に音楽の輪郭が明瞭に浮き上がると同時に、どこを取っても心からの歌が内在。1:58からの左手のリズムがこれほど研ぎ澄まされ、ニュアンスに富んでいる例が他にあるでしょうか?ブルヴァの凄さを最も端的に示す一曲です。
 曖昧さを許さないピアニズムは、ベートーヴェンでも同じ。ブルヴァは、何気ない純朴なフレーズにも豊かな表情を絶え間なく与えますが、その背後の知的な統制も忘れません。それによって音楽が高潔な美しさを放つことを痛感させるのがの第13番、第1楽章の主題。中間のアレグロとの対比と連動の微妙な間合いも流石。穏やかな第3楽章でも情に溺れず明快なタッチを維持。そこには、音楽のフォルムを曖昧にして豊かな音楽など実現できないという強い信念を感じさせ。そして心を捉えるのが、1:14から1:40にかけての息の長い呼吸の持続と広がり!終楽章は左右の声部が強固なユニットとして発言しまくり、「ソナタ形式的なロンド」の構築性を徹底再現、まさに盤石なベートーヴェンを体感できます。【2020年11月・湧々堂】

TRE-239
アンセルメ〜オーディオ・ファイル名演集2〜ファリャ&アルベニス
アルベニス(アルボス編):組曲「イベリア」*
ファリャ:「はかなき人生」〜間奏曲/スペイン舞曲
 バレエ音楽「三角帽子」#
エルネスト・アンセルメ(指)
スイス・ロマンドO
テレサ・ベルガンサ(Ms)#

録音:1960年5月5-20日*、1961年2月12&17日(全てステレオ)
※音源:LONDON CS-6194*、日KING SL-1138
◎収録時間:79:05
“明晰さを共有するアンセルメとデッカ録音の強力合体が織りなす色彩と迫力!”
■音源について
アンセルメ最大のオーディオファイル盤と言っても過言ではないでしょう。打楽器群の強烈な打ち込みと重量感は、まさに鋼鉄の鉄槌。ヴィクトリア・ホールの特等席で聴いているような豪奢なサウンドは圧倒的です。既存のCDでは音の明快さ以外の要素はあまり感じられません。「イベリア」は、最後の6曲目に「ナバーラ」が追加されています。英スタンパーによるキング盤の威力にも是非ご注目を。

★ベートーヴェンでは意外にもパワーをダイレクトに放出していたアンセルメですが、その意外性は、お得意のラテン系作品で音を外に放射せず、空気中にしばらく音の余韻を留まらせるようなある種の重みを湛えた音、決して極彩色ではなく、むしろ制御された寒色のトーンがアンセルメの音のイメージとして固定化されていることに拠るのだと思います。しかも、ほぼ全てがデッカ録音なので、一貫したイメージの定着度は他の指揮者の比ではありません。中でも、60年代初頭のこれらの録音は、明晰さの一つの頂点に達していたデッカ録音の技術とアンセルメの精巧な音作りが最高次元で完全融合した超逸品揃いだと言っても過言ではありません。
 「イベリア」第1曲は、雰囲気を演出する素振りがどこにもありません。そんなことをしなくても、録音技術に全幅の信頼をおいた上で丁寧に音符を紡ぐことだけに専心することへの強い確信を感じます。第2曲「セヴィリアの聖体祭」も、キラキラした音を決して空気中に放射せず、空気中の隅々にまで余波が浸透するまで寝かせるようなゆとりと風格が比類なく、6:20以降の深々とした静謐美は誰も足元にも及ばないでしょう。第3曲「トゥリアーナ」では、アンセルメの特徴的な重心の低いリズムの威力とスケール感が全開。多くの場合、リズムのエッジが立ちすぎてエキゾチシズムが後退しているような気がしてなりません。
 「はかなき人生」の舞曲は均整の取れたフォルムとぶれないテンポ感による品格美が印象的。硬質のティンパニが真にスパイスとして活きている点にもご注目を。このティンパニの一撃が、強弱共にピンと張り詰めた音で迫るのは60年代中頃までで、それ以降はデッカは全体の中にマイルドに溶け込む路線へ舵を切ったとように感じられます。
 そのティンパニの威力を徹底的に思い知るのがなんと言っても「三角帽子」。第1曲冒頭連打や第2曲中間部など、皮の質感まで生々しく伝えた例が他にあるでしょうか?余計な演出を加えずに、作品の佇まいを具に引き出すことに注力する姿勢はここでも一貫。そのように評される演奏の蓋を開けてみれば毒にも薬にもならない演奏、というのはこの演奏には無縁の話。作品を信じる力と共感は誰にも負けないという自負が脈々と張り巡らされているので、淡白に流れているように見えるシーンでも、常に一定の訴えかけがあるのです。緩急自在のアゴーギクのセンスも絶品で、どんなにテンポを畳み掛けても音が腰高にならなず、スケール感も失わないのはまさに熟練技。
 アンセルメの音作りが「知的でクール」と評されるの意味と内実を知るうえで、これらは絶対に外せない録音だと思います。 【2021年10月・湧々堂】

TRE-240
ヘブラー/シューベルト:ピアノ曲集
16のドイツ舞曲D.783
楽興の時D.780
ピアノ・ソナタ第21番D.960*
イングリット・ヘブラー(P)

録音:1960年4月、1967年10月22-27日*(全てステレオ)
※音源:日Victor SFL-7992、蘭PHILIPS 839700LY*
◎収録時間:73:00
“「いかにも名演」とは一線を画すヘブラーが目指した無垢なシューベルト!”
■音源について
「ソナタ」以外はあえて日本のビクター盤を採用。日本フォノグラムへ移行する前のビクター盤の音の良さを実感いただけると思います。

★シューベルトの純真さと素朴さをこれほど素のままに届けてくれる演奏も珍しいでしょう。ヘブラーといえばまずはモーツァルト。一般的にはその甘くまろやかなニュアンスが特徴的と受け取られていますが、演奏を聞けば聞くほど、内面に強い芯を湛え、リズムの腰もやや低めに保持されており、それが独特の安定感と平和な空気感を生んでいることを感じます。シューベルトも同じ。歌を意図的に前面には出さず、共感の無理強いもせず、その素直な屈託のない表情にシューベルトの真の姿を見る方も多いことでしょう。
 「ドイツ舞曲」では、ゆったりとした3拍子のリズムを刻む際のタッチの絶妙な粘度にご注目!ヘブラーのあの笑顔を思わせる特有のおやかさは、シューベルトの他の録音でも垣間見られる魅力で、この1点だけでもヘブラーの魅力が「甘さ」だけではないのは明白です。
 「楽興の時」はどの曲も唐突に始まり唐突に終わる印象を与えますが、その構えなのなさがこれまた「ヘブラーのシューベルト」の魅力。第1曲は肩の力の抜け切ったまま滑り出し、それでいて強弱変化への対応は機敏!中間部では楽想の明暗の切り替えも絶妙。暗いニュアンスはより暗く炙り出そうとしがちですが、ヘブラーはコントラスト付けをあえて避け、旋律線の美しさを保持。第5曲は先述の粘度を持つリズムの魅力が一杯。終曲では、ヘブラーのシューベルトに対する思いの全てが凝縮。平板に受け取られ兼ねないことも厭わず、フレーズの息の長さを大切に育み続けることで導き出される音楽は、まさに素顔のシューベルトそのもの!
 作品のありのままの息吹を大切に育むスタンスは、シューベルトの生涯最後のピアノ・ソナタでも変わりません。第1楽章の主題は徹底的に物憂げに、低音トリルは慟哭のように…といったイメージは皆無で、清潔なフォルムの中でただただ美しい旋律が息づくだけ。そこからじんわりと立ち昇る余韻をぜひ感じてください。それだけでは聴き映えがしないとばかりに、意味ありげな表情を加えた瞬間にシューベルトが死んでしまうことをへブラーは直感的に理解していたのでしょう。その点、提示部最後のニュアンスは最大限にコントラストを施しているのが意外ですが、展開部冒頭の沈んだニュアンスとの対比に繋がっており、それが計算なのか偶然なのか分からないのがまた絶妙!5:56以降、上下の声部が付かず離れず意思を交わす様も聴きもの。第2楽章も「これがシューベルトだ」と唸らせる名演。暗闇に閉じ込めすぎない主題もさることながら、中間部3:31からの晴朗さは古今随一で、その無垢な佇まいに涙を禁じえません。とにかく、全身でシューベルトだけを感じたい方必聴!終楽章冒頭0:22からの硬軟入り混じったようなリズムの独特の弾力性も、ヘブラーの音楽を光らせる重要な要素。
 「死」と直結させた解釈が当たり前のように思われているこのソナタ。その路線での感動的な演奏はたくさんありますが、作品の力を信じ切り、邪念を捨てて演奏に臨むことがいかに凄いことであるか、そして「名演らしくない名演」が明らかに存在することをどうか忘れないでください。【2021年10月・湧々堂】

ベートーヴェン没後250年記念復刻

TRE-241
ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調Op.21
シューベルト:交響曲第9番「グレート」*
アルトゥール・ローター(指)
BPO、ベルリンRSO*

録音:1951年12月6日ティタニア・パラスト、1950年代中期?(共にモノラル)
※音源:Club Mondial Du Disque CMD-A302、URANIA URLP-7152*
◎収録時間:71:04
“BPOの一時代を支えたローターの恐るべき洞察力!”
■音源について
ベートーヴェンは、TUXEDOから擬似ステレオでCD化されていたURANIA音源。使用盤はフランスのフラット盤でもちろんモノラル。フラット盤特有の雑味感がかえって演奏の濃密さを炙り出しています。ロータの同曲は1959年のステレオ再録音もあり、TRE-202で発売済み。一方のシューベルトは、このURLP-7152ではオケ名がBerlin Symphony Orchestraと表記されていますが、Symphony Orchestra Of Radio Berlinと書かれているレコードもあります。ここではM.グレイ氏の記載に従っておきます。

★アルトゥール・・ローターは、フルトヴェングラーヴェンより1歳年長。戦前〜戦後のBPOを下支えした功労者です。1954年12月9日のベルリン・フィルのフルトヴェングラー追悼演奏会の指揮者は、ローターでした(メイン・プロは「英雄」!!)。劇場畑らしく、フレーズの意味の捉え方、場面転換時の鮮やかな間合いは、フルヴェン以上と思える箇所さえあります。
 まずベートーヴェンの凄さ!フルトヴェングラーを思わせる凄まじい精神的高揚感が感動を呼び、後年のステレオ再録音(TRE-202)とは趣が全然違います。第1楽章は、この先のドラマの予感をふんだんに湛えた序奏から、主部は前身あるのみの一途な進行。第2主題は一旦テンポを落としますが、ここでインテンポで切り抜けるなど到底考えられないほど、自然なテンポ操作で、それがいつの間にか今までの速いテンポに戻っている点も熟練の業!唐突感が先行して古さが際立つメンゲルベルクのテンポ感とは訴えかけが違います。
第2楽章は、冒頭からピュアな美しさ!これほど伸びやかで慈愛に溢れたアンダンテ・カンタービレは稀有。フレーズの末端までニュアンスが充満。展開部の幻想性と音像の広大さは、これぞ懐の深い音作りの最高の実例!最後の2小節の音符をこんなに丁寧に置いた例も他に知りません。
 第3楽章は、トリオ直前にルフト・パウゼが入るのは典型的な旧スタイルなので、不感症の評論家などはその古さだけをあげつらうでしょうが、心ある音楽ファンならそうしなしないとかえって不自然であることを実感していただけるはず。中間部のクラリネットのメロウな響きも忘れられません。
 終楽章冒頭は、指揮芸術の粋の結晶!第1音でごく僅かにフルートが先走るその音色のなんと神々しいこと!その序奏部で、杓子定規に音符が置かれる瞬間は皆無なのです。
 この曲は先人の影響下にあることを強く意識させるか、ベートーヴェンらしさを印象づけるために様々なデフォルメを施越されることが多いですが、ローター、音楽の根源的な力でベートーヴェンらしい豪放さを具現化。その姿勢は絶対忘れてはならないのではないでしょうか?
 シューベルトもベートーヴェンと同様にスコアを単純に捉えて愛の不足する演奏とは一線を画します。テンポ設定は、もちろん「遅めのアンダンテ」から主部へ向けて徐々に加速する従来型。テンポ設定のセンスを問う試金石であるこの作品dすが、いちいちテンポ処理センスには舌を巻くばかり。第1楽章第2主題の入りでテンポを落とす例は珍しくないですが、第2主題を徹底的に歌うために、直前に心の準備をするように信じがたい減速を敢行。再現部の同じ場面はそのコントラストがさらに明確化します。展開部6:45からの低弦のゴリ押しは実にいなせ。そして泣く子も黙るコーダの畳み掛け!
 第2楽章は切なさを湛えつつも、音楽に毅然とした精神が宿っているので1:08のスフォルツァンドとも自然に連動している点にご注目を。最高潮に達した直後、9:08のピチカートの得も言われぬ幽玄さ、誰よりも孤高さを滲ませたフレージングとテンポ感にも感涙。
終楽章は10分台の熱い高速モード!0:19以降ヴァイオリンが細かい音型を刻む中で低弦が持続音を鳴らし続けますが、それをはっきり活かすことで音楽が痩せるのを防ぐというように、常に声部バランスを注視する指揮者の眼力が光ります!【2020年12月・湧々堂】

TRE-242
ベートーヴェン:交響曲第2番
シューマン:「マンフレッド」序曲*
 交響曲第2番ハ長調Op.61#
カール・シューリヒト(指)
ベルリンRIAS響、
フランス国立放送O*,#

録音:1953年11月19日ベルリン、1963年5月14日シャンゼリゼ劇場(ライヴ)*、1955年9月(モントルー音楽祭ライヴ)#
※音源:MOVIMENT MUSICA 08-001、ERATO ERL-16009*,#
◎収録時間:78:58
“モーツァルト寄りの解釈でじっくり紡ぎ出すベートーヴェン!”
■音源について
ベートーヴェンは、ワルラー、フルトヴェングラー等のライヴ音源で構成された交響曲全集の一部。この「第2」は放送音源と思われます。シューマンは、フランス国立管弦楽団創立50周年記念盤。日本では1985年に初めて紹介され、宇野功芳氏も激賞していた名盤。なお、交響曲第2番第1楽章の4:15で、マスター・テープの傷みと思われる音揺れがありますが御了承ください。

ベートーヴェンの「第2番」は、ハイドン、モーツァルトの延長線上に誕生したことを改めて実感させるアプローチ。近年ではこの曲のスリリングな側面にこだわったエキセントリックな演奏が多いですが、シューリヒトのこのアプローチこそが、作品の身の丈にあった本寸法の解釈なのではと思えてきます。羽のような軽みを帯びた音作りはまさにシューリヒト節。。それがピタリとハマっているのです。
 第1楽章冒頭、いささかも間を置かず一息でフレージングするのは、文節を区切るようにゴリゴリと進行するドイツ主流派の手法と異なります。主部は颯爽としたテンポながら、内声部は驚くほど有機的な鳴り方。展開部ではそれがより顕著となります。第2楽章は、透明感の高いフレージングで、シューリヒトの気力は盤石。古今を通じ、これほど高純度の音楽はめったに聴けません。短調に転じる4:04以降、音色の微妙な変化に確実に対応する繊細さや、16分音符の刻み(7:45〜など)に明確な意思を宿らせるのもシューリヒトならでは。終楽章は、中庸テンポの進行ながら噛めば噛むほど味が出る独特の佇まい。展開部2:00以降の弦の連動ぶりには是非ともご注目を。シューリヒトが引き出すハーモニーはいつも軽みと柔らかさを湛えていますが、それはこういう有機的連動を実現するためだと思えます。響きを分厚く盛っていてはこうは行かないはずです。最後の激しい強弱変化への対応も至ってクール。
 この演奏は、いわゆる「通好み」な演奏の一言で片付けられそうですが、シューリヒトの芸の醍醐味を知る上では不可欠の名演だと確信する次第です。
 シューマンの「マンフレッド」は、誰も異論など挟みようのない超名演。ベートーヴェンでは冒頭を一息のフレージングで開始しましたがた一方、こちらは冒頭の3つの和音を一振りで一気にぶつけます。以降も、シューリヒトには珍しいほど白熱的な演奏を展開。しかも勢いに任せた感がなく、呼吸が恐ろしいほど深く、リズムの足取りも揺るぎなし。造形の大きさも特筆ものです。
 同「第2」も、不健康さとは無縁の雄大なスケールで、渾身の呼吸で描ききっており、フランスのオケの明るい色彩とも融合して、陰にこもった演奏にはない味わい。この曲のアプローチの重要な指標と言えましょう。【2020年12月・湧々堂】

TRE-243
超厳選!赤盤名演集Vol.4〜フルトヴェングラーの「エロイカ」
ワーグナー:歌劇「ローエングリン」第1幕前奏曲*
リスト:交響詩「前奏曲」#
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
ウィルヘルム・フルトヴェングラー(指)
VPO

録音:1954年3月4日*、1954年3月3日#、1952年11月26,27日ウィーン・ムジークフェラインザール(全てモノラル)
※音源:日TOSHIBA HA-50609*,#、AB-7081
◎収録時間:77:10
“歴史的名演の真価を最大限まで堪能できる理想の復刻!”
■音源について
この「英雄」の赤盤はこれより前にHA5056でも出ていますが、ここでは音の見通しが格段に良い後発のAB-7081(「スタンパーは同じ)をあえて採用。単に溝の経年差ではなく、製盤技術の差が感じられます。また、ブライトクランクで気になった微妙な音の震えもここには皆無。芯の強いサウンドで鳴ってくれます。

★湧々堂では、フルトヴェングラーの録音は意図的に紹介を避けてきました。手を変え品を変え再発盤が氾濫し続ける状況は異常だと思うからです。しかし、この「英雄」だけは取り上げないわけには行きません。この説明不要の超名演を私も大方の評判どおり枯淡の境地に達したフルトヴェングラーの芸術の極みと捉え、殊にこの録音に関しては、ブライトクランク盤の方が、無駄を排した精神的な響きを味わうのに最適と思っていました。ところが、この赤盤(HA-5060)に接して、そのイメージがあまりにも短絡的だったと気付かされました。まず、響きの厚みと太さ、リズムの生命力!それはまさにフルトヴェングラーそのもので、枯れたいう形容が当たらないのです。そこにVPOならではの柔和さも加味されて、人間の業の全てを許すようなおおらかな空気となって広がり、独特のスケール感を醸成。こうなると、ブライトクランクの音はただの痩せた音としか思えなり、我ながら閉口します。
 そういった素晴らしさを引き出してくれる他のレコードの存在をご存知の熱心なファンの方もいらっしゃることでしょうが、少なくとも私が知り得た範囲では、音楽的な要素を最大限まで再現していると実感できたディスクは、この赤盤だけなのです。例えば、第1楽章2:30からのホルンの補強の意志の強さ!ちなみに、高域が伸びが良くなったとか、低音の力感が増した、といったオーディオ的(?)な意味での高音質だというのではありませんので、念の為…。
 リストに関しても、この復刻で初めて血の通った強靭な名演と実感。7:35からの魂の結晶度の高さはトップクラスですし、一つの楽想から次の楽想への以降が全く器用さがなっく、そういう手工芸的な作業がから人間臭いドラマが引き出されます。コーダの濃密な音のブレンド感もCDでは感じにくいのではないでしょうか?【2020年12月・湧々堂】

TRE-244
ハイドン:交響曲第22番変ホ長調 「哲学者」 Hob.I:22
 交響曲第90番ハ長調 Hob.I:90
ベートーヴェン:交響曲第4番*
エルネスト・アンセルメ(指)
スイス・ロマンドO

録音:1965年10月、1958年11月*
※音源:LONDON CS-6481、豪DECCA SDDA-104*
◎収録時間:79:18
“作品への誠実な愛を成就すべくクールな姿勢を堅持”
■音源について
 アンセルメのハイドンは「パリ交響曲集」が初のステレオ録音として名高いですが、その後に録音された22番&90番は見落とされがち。ベートーヴェンの4番は全集の中でも比較的初期の1958年録音ですが、この年代でこれだけの鮮烈な音が鳴ること自体、はやり驚異的なことです。スケール感と見通しの良い音像を兼ね備えたオーストラリア盤を採用。ジャケットはフランス盤のもの。

 ハイドンの2曲は、1962年に録音された「パリ交響曲集」よりも音楽的な感興が優り、アンセルメの思い入れも一層色濃く反映されていると思います。ピリオド的解釈に拠らない演奏としても、今や貴重な存在です。第1楽章特徴的なホルンとコーラングレの対話が導き出す空気感は宇宙的な広がりと幻想を感じさせ、第2楽章では、リズムの沸き立ちのみならずエレガンスが常に寄り添います。第3-4楽章にかけては、この曲の独特の音色的とシンプルな構成との調和がアンセルメの音作りの志向と見事にマッチ。この曲をあえて選択したのも大いに頷けます。
 90番は、第1楽章の生き生きとしたリズムが耳を捉え、メンデルスゾーンやビゼーの交響曲のような鈍重さがないのが嬉しい限り。第2楽章は、短調の変奏部における決然としたハーモニーの打ち出しが印象的。第3楽章は、ベームは立派すぎて笑顔が少な過ぎると感じる方にうってつけ。特にトリオのオーボエ・ソロの後の弦の下降音型の楽しさ!終楽章は、逆にベーム以上に表情のコントラストを抑えて、作品の潜在力だけで勝負。その分、転調や例の偽休止のユーモアが実感できます。やはり、この楽章も面白さを分解して説明調になってしまっては野暮というものでしょう。
 ベートーヴェンの4番は、3番、5番、7番で見せた意外過ぎる闘志剥き出し型ではなく、いつものクールなアンセルメ・スタイルで、作品との一定の距離感を崩さず、精巧に音楽を構築、常に地に足のついた進行を続けます。
第1楽章主部に入ってすぐ、3:18〜、3:42〜などのティンパニ連打の明確な打ち出しは、まるで鋼鉄のような強靭さ。この響きは、終楽章ではさらに音像の性格を決定づける重要な役割を果たすことになります。第2楽章は、3:43からのクレッシェンドが実に効果的。この作品を聖地に構築した名演は数々あれど、自身の演奏スタイルを徹底的に刻印しつつ、作品の持ち味と同化させたという点で、この演奏は決して見逃せません。1,4楽章は提示部リピートあり。【2020年12月・湧々堂】

TRE-245
超厳選!赤盤名演集Vol.5〜クリュイタンスの「運命」&「未完成」
ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第3番
シューベルト:交響曲第8番「未完成」*
ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」#
アンドレ・クリュイタンス(指)BPO

録音:1958年3月10&13日、1960年11月* 、1958年3月10-11&13日# ベルリン・グリューネヴァルト教会 (全てステレオ)
※音源:日TOSHIBA AA-7025、AA-7040*,#
◎収録時間:73:42
“古き佳きBPOの響きを更に美しくブレンドした味わい深いベートーヴェン!!”
■音源について
クリュイタンスの「運命」の英国初期盤は「第9」と並んで高値で取引されています。しかし、最初期の英HMV*ASD267を何種類も聴きましたが、確かにスケール感はありますが、どんな綺麗な盤でもこの演奏の繊細なニュアンスが削ぐ雑味や濁り、カッティングに起因すると思われる音の掠れが否めません。そこで時代を下ってWRC盤や日本盤なども含め、特にティンパニの皮の感触までしっかり感じ取れることを念頭に厳選に厳選を重ねた結果は、最も納得できたのは、意外にも日本の、それも初期盤ではない赤盤のAA-7040でした。オリジナル通りの「レオノーレ3番」とのカップリング盤は、盤の材質によるのかチリチリ音が混入して問題外。その後は「未完成」とのカップリングばかりですが、1楽章の終盤や終楽章前のティンパニの硬質な響きが確実に聞き取れるのはAA-7040だけだったのです。もちろんこのティンパニの音はCDでは丸く柔らかく変質しており、それが音楽全体の印象にも影響を与えていることは言うまでもありません。

「運命」における古風な響きはいかにもフルトヴェングラー時代の響きを想起させますが、そこにクリュイタンスならではのスタイリッシュさ、流麗さが加わり、唯一無二の品格溢れる大名演となりました。クリュイタンスのベートーヴェン:交響曲全集の中で、一般には「田園」の評価が高いですが、湧々堂としては「第5」と「第9」をトップに挙げます。
 第1楽章は、フルトヴェングラー時代の癖を一旦端正な楷書体に戻した上で、内面から滲む精神的なニュアンスをしっかり活かした音作りに、唸らされます。展開部冒頭3:19の古風なホルンの強奏が醸し出す切迫感、6:57のティンパニの、これ以上考えられない含蓄ある打ち込み、コーダの造形を保持した中での熱い闘志など、聴き手を惹きつけて離しません。第2楽章冒頭の低弦は序奏的な前置きではなく、確実にニュアンスを刻印。緩徐楽章に相応しい優美さを湛えつつ音楽を脆弱にしないのは、クリュイタンス特有の詩的なニュアンスの賜物でしょう。教会の残響が伴うと音楽全体の重厚さは軽減される傾向があるにもかかわらず、特に3楽章において、運命の動機が荘重を保持いしているのは印象的。終楽章は、騒ぎ立てない大人の風格美!そして何度も申しますが、ティンパニの惚れ惚れする響き!肝心なのは、それが決して強打ではないという点。ベートーヴェン作品においていかに重要な楽器であるか思い知るばかり。後半のフルート、ピッコロが全体にこんなに美しくブレンドしている演奏も他に類例を見ません。
 そのブレンドの妙味は「レオノーレ第3番」も同じ。15分台のかなりの低速ですが、弛緩は一切なし。噛んで含めるようなニュアンスが全体に安定感と、作品へ共感する時間的なゆとりを与えて味わいもひとしお。序曲集の全ての曲が名演です、一時代前のBPOの響きを堪能する上でも、指揮者の最良の個性が生きた演奏としても、これは突出しています。
 「未完成」は、最初のコントラバスのゴリゴリ感が最高!どうか、弦のブルブルと震えていることをしっかり感じてください!2つの楽章とも遅いテンポが設定されており、大抵はメリハリを欠く演奏に陥りがちですが、クリュイタンスはフレージングに停滞感が皆無。
0:41の本当に微細なリタルダンド!この力の減衰と音色の影の落とし方は奇跡的!そういうほんの僅かなニュアンスの陰影が音楽全体に無限とも思える内容味を想起させるのです。第2主題直前でこんなに大きくテンポを落とす演奏はもはや聴けませんが、何度も申しますが、そこに「古臭さ」などあるでしょうか?その第2主題がまた絶品!純粋な憧れを優しく育むような信じ難いニュアンスです。第2楽章は、特に木管の素晴らしさにご注目を。2:38からのクラリネット、オーボエはその音色美自体最高の音楽で、そこに何の添加物も要しません。【2020年12月・湧々堂】

TRE-246
ヨッフムのベートーヴェン&シベリウス
シベリウス:交響曲第7番
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」*
オイゲン・ヨッフム(指)
ハンブルク国立歌劇場O、BPO*

録音:1943年(ライヴ?)、1951年3月19日RIASスタジオ*
※音源:Melodiya M10-46747-009、MOVIMENT MUSICA 08-001*
◎収録時間:63:41
“フルトヴェングラーへの尊敬と独自のこだわりを完全一体化した異色の「田園」!”
■音源について
ヨッフムとシベリウスは結びつきにくいですが、1955年に「夜の騎行と日の出」などをセッション録音しており、決して縁遠い作曲家ではなかったようです。「田園」は1954年のセッション録音(DG)が知られていますが、これはフルトヴェングラーも元気だった頃の録音。

★「田園」は、第1楽章の気が遠くなるほどの低速テンポが、ヨッフムが尊敬するフルトヴェングラーそっくり。ただ、フルトヴェングラーはその個性が全面に出ているのに対し、ヨッフムはもっと作品の持ち味に寄り添っているのが特徴的です。しかもここでの解釈の多くは最晩年の録音まで継承されているので、キャリアの早い段階から解釈を練り込みじっくり固めていったことが窺えます。第2楽章最後のカッコウの鳴き声はあえて音価を短くして、実際のカッコウの鳴き声のコピーを試みているのが興味深いところ。後年の再録音ではスコア通りに戻しています。第3楽章は中間部主題(1:53)にご注目を。殆どの演奏が「ファー・ドー・ファー・ドー」と2音しか響いてきませんが、実際の音符は「ファー・ソ・ファ・ドー・レミ・ファー・ソ・ファ・ドー・レミ」です。その差のあまりの違いにこの演奏で初めて気づく人も多いのでは。因みに、54年盤でもこの配慮がと取られています。第4楽章は後半のピッコロの活かし方の何といういう入念さ!ティンパニを全て強打させるような短絡的なことはしないことも含め、ヨッフム自身が語っている「美しく響くこと」を優先する美学の表れでしょう。終楽章もコンセプトが明確。感謝の気持を全面に出す推進力溢れる音楽を徹底させており、安堵感で包み込むゆったりとした演奏とは一線を画します。放送用録音と思われ、ノイズ感のない聞きやすい音質です。
 シベリウスは、果敢に作品の核心に肉薄する緊張溢れる演奏。録音年は古いですが、アプローチには微塵もカビ臭さなどなく、本物の共感に最後まで引き込まれます。【2020年12月・湧々堂】

TRE-247
カラヤン&VPO/デッカ録音名演集Vol.1
ベートーヴェン
:交響曲第7番*
J・シュトラウス:「こうもり」序曲
 アンネン・ポルカ
ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ「うわごと」
J・シュトラウス:「ジプシー男爵」序曲
 ポルカ「狩り」
 ワルツ「ウィーンの森の物語」
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指)
VPO

録音:1959年3月9 - 10日*、1959年4月7-8日(全てステレオ)
※音源:独RCA SMR-8010*、SMR-8012
◎収録時間:77:36
“作品の生命感とカラヤンの美学がバランスよく共存した名演!”
■音源について
カラヤンVPOのデッカ録音(CD9枚分)の最初の録音なので、「ドボ8」などと比べ、なんとなくモヤッとした音なのが残念でしたが、このドイツ盤では音が引き締まり、フレッシュな演奏を堪能できます。

★カラヤンが繰り返し録音を重ねたベートーヴェンの中で特に傑出した名演。内声部を抉り出すような精緻さよりも、自然で健康的な推進力を最優先。VPOの個性も伸び伸びと開放していますが、ルーティンに流れやすい箇所はしっかり引き締めているので造形は崩れず、音楽の流れに淀みがありません。第2楽章のカラヤン特有のレガートも、VPOの響きのおかげで人工的に傾かず心に染みます。
 後年、弦を中心とした音像や、あからさまな強弱のコントラストも抑制するカラヤンの志向はqここでもはっきり現れています。例えば終楽章0:33からや4:57からなどは、主役は管楽器へ移るのが普通ですが、ここでは明らかに弦が主役のまま。終楽章では後半の盛り上がりも迫真。この楽章はリズムが命であることは言うまでもないですが、リズムの正確さは目指していないからこそVPOの自発性に火が付き、この白熱的な高揚に繋がったと思われます。
 シュトラウスの作品でも、そのVPOの自発性はもちろん尊重し、カラヤンの抑制美、巧妙な演出力が一体となり、実に聴き映えのする演奏を実現。特に2つの序曲と「うわごと」は、少なくともVPOによる演奏としては最高峰と言えるでしょう。【2020年12月・湧々堂】

TRE-248
メンデルスゾーン:序曲「静かな海と楽しい航海」*
 序曲「フィンガルの洞窟」*
ベートーヴェン:「エグモント」序曲**
 「アテネの廃墟」序曲#/トルコ行進曲#
 交響曲第8番ヘ長調 Op. 93+
ヨーゼフ・カイルベルト(指)
BPO*,**、ハンブルク国立PO#.+

録音:1962年2月9日*、1960年4月11日-5月1日**、1960年4月26日#、1958年2月6-10日+(全てステレオ)
※音源:独TELEFUNKEN SNA-25016*、NT-361#、SNA-25016-T-2**,+
◎収録時間:64:12
“これぞ「ベト8」演奏史上に輝く偉大なスタンダード解釈!”
■音源について
ベートーヴェンの「8番」は、「テレフンケン録音集」(22CD)などではモノラル・ヴァージョンが採用されていますが、ステレオ・マスターが失われたのでしょうか?すべての録音がステレオを無条件に選ぶべきだとは思いませんが、少なくともこの録音に関する限り、ステレオでなければ演奏の偉大さは伝わりません!

★カイルベルトによる一連のテレフンケン録音の中でも、ハンブルク国立POとの録音は全てが名演と言っても過言ではありませんが、特にこの「ベト8」はダントツのトップ!コンパクトにまとめた演奏が一般的な中、堂々と不屈のベートーヴェン像を投影し尽くすというカイルベルトの信念には、いくら感謝しても足りません。近年ではノリントンに象徴されるような、この曲の面白さに焦点を当てた演奏も増えていますが、カイルベルトは仕掛け」などには目もくれず、クナのような極端な確信犯にも走ることもなく、ただスコアを誠実に鳴らしているに過ぎません。それでいながらこの風格美!そしてその風格自体が音楽的な感興を携えて胸に迫るのです。
 第1楽章は、軽快に3拍子を刻むのではなく、拍節感を音楽の底流でしっかり脈打たせて、根底から推進力を与えるという奥深い配慮!ごく中庸のテンポでの進行に圧倒的な風格を感じさせる要因は、その辺にあるのかもしれません。2:04や4:09ではティンパニがいかに音楽の肝として作用しているか思い知らされるはず。展開部では、各声部の連動力が尋常ではなく、他の演奏ではなかなか感じられない精神の高揚を明確に突きつけます。第2楽章も、センス満点のインテンポ進行。楽章結尾でもリタルダンドなどしません。
逆に、第3楽章冒頭でごくわずかにテンポが粘るのには、唸らされます。このわずかな粘り腰があるのとないのとを想像してみてください。中間部は録音の良さとも相まって、単なる素朴さを超えた広大な空間を現出。終楽章は、全曲の締めに相応しい安定感抜群のテンポに乗せて、作曲家への揺るぎない敬愛を誠実に注入し尽くした演奏で、これ以上何を求められましょう!
 メンデルスゾーンは描写力の凄さに感服。と言っても決して絵画的なそれではなく、あくまでも音の構築による陰影によってドラマを導くく手法。地味ながら着実な歌心と共に、劇場経験の豊富さも大いに発揮された名演です。【湧々堂】

TRE-249(2CDR)
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱つき」*
フリードリヒ・ヴィット (1770-1836):イエナ交響曲.ハ長調
コリー・ベイステル(S)
エリザベス・プリッチャード(C.A)
デイヴィッド・ガレン(T)
レオナルド・ヴォロフスキ(Bs)
ワルター・ゲール(指)
オランダPO&cho

録音:1955年*、1952年(共にモノラル)
※音源:Musical Masterpiece Society MMS-2034*、 MMS-2034F
◎収録時間:67:11*+21:18
“伝統的な演奏スタイルを洗い流すことで顕在化した希望の光!”
■音源について
ゲールは「第9」を同じコンサートホール・レーベルにフランクフルト放送響とも録音していました。ネーデルラント盤はステレオ・バージョンも存在(モノラルがオリジナル)することから、こちらの方が新しい録音とも思われますが、M.グレイ氏のディスコグラフィではフランクフルト盤が1960年と記載されており、判然としません。
 ボーナス・ディスクには「イエナ交響曲」を収録。ベートーヴェンの習作と考えられていた作品ですが、1957年にベートーヴェンと同時期に活躍したヴィットの作だと判明しました。この録音は偽作と判明する以前に行われたので、もちろんヴィットの記載はどこにもなし。気合の入った演奏ぶりからも何の疑いもなくベートーヴェンの作品として録音に臨んだものと思われます。使用LPは共にMMS-2034ですが、こちらは結尾にFが付いているフラット盤です。

★この「第9」を高尚な芸術作品然とした音楽ではなく、より人間の本質に肉薄する音楽、ベートーヴェンの意思に叶う音楽として再現することを これほど本気で目指した例も珍しいのではないでしょうか?
第1楽章冒頭トレモロから曖昧さはなく、気合十分。往年の独墺系指揮者のような重厚さやテンポ・ルバートの多用から解き放った立体的な構築を土台として、全てのフレーズに共感の限りを尽くします。提示部最後の3:56からのリズムの高潔さと意志力はジョージ・セルよりも優り、7:43からは噴射力が凄まじく、弦のトレモロをはじめ、全パートが必死。過剰に音像を肥大化させずに、一途に突進するコーダは、毅然と生きる決意表明のよう。
 第2楽章も推進力に一切淀みなし。ホルンの被せ処理を行わないのも、慣習的な演奏スタイルを洗い直そうとする意志の表れで、レイボヴィッツ等にも共通する先鋭的な姿勢が窺えます。ここまでイン・テンポを基調として来た中、トリオ後の後半でわずかにテンポを落として、リズムの重心も落とすのは実に意味深長。
 第3楽章の敬虔な祈りを湛えた名演は数々ありますが、ゲールの祈りは単なる雰囲気ではなくまさに迫真。「田園」の終楽章の様に清々しテクスチュアに希望の実現を確信する力が融合。しかもここで遂に人間的な温もりを持つフレージングの注入させるという意外さも手伝って、他では味わえない感動を届けてくれます。
 終楽章は一気呵成の突進のように見えて、決して浮足立った響きにしないのは流石。4:20からの弦の高潔美もさることながら、5:06からのテーマ斉奏には渾身の歌が注入されており、この後の合唱と対等の存在感を示しています。しかも、フレーズ結尾の5:49をスタッカートで切り上げるという離れ業まで!10:11からのマーチのリズムの良さや、19:15から突如低速モードに転じて戦慄を呼ぶなど、とにかく表現に妥協がありません。
 独唱陣の歌唱が高水準なのも嬉しい限り。21:51からの四重唱では各人の一歩も引かぬ表現の応酬を見せ、それが強烈な説得力を持つのは、4人共自身の技術と音楽性に自負を持っている証し。そしてコーダは、たがを外す寸前まで歓喜を爆発させるのです! 【2020年12月・湧々堂】

TRE-250
ホーレンシュタインの「新世界」
コルンゴルト:歌劇「ヴィオランタ」前奏曲と謝肉祭*
ワーグナー:「さまよえるオランダ人」序曲+
 「タンホイザー」〜ヴェーヌスベルクの音楽#
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」##
ヤッシャ・ホーレンシュタイン(指)
ロイヤルPO
ビーチャム・コラール・ソサエティ**

録音:1965年5月28日&6月2日*、1962年9月30日+,#、1962年1月26&30日##(全てステレオ)
※音源:Quintessence PMC-7047*,+、日Victor GMS-6#、Quintessence PMC-7001##
◎収録時間:73:27
“ビーチャムのオケが豹変!郷愁よりも苦悩が滲む異色の「新世界」!”
■音源について
★音を立体的に音を積み上げながらスケール感溢れる演奏を展開するホーレンシュタインの特徴を存分に味わえる一枚。プロデューサーのチャールズ・ゲルハルトによると、「ヴェーヌスベルクの音楽」ではタンブリンが4つ使われているとのこと。「新世界」はVOX録音(1952年)に次ぐ再録音。コルンゴルトは、これが世界初録音でした。

★この「新世界」の魅力は、何と言っても暗さ!「春の祭典」でも記したように、どこか屈折した眼差しで作品を見据え、音色も開放的な明るさとは正反対。しかも、ホーレンシュタインを象徴するその音色を、ビーチャム流のポップな感覚が染み付いているロイヤル・フィルから引き出しているのですからびっくりです。
  第1楽章序奏部のティンパニは、VOX録音での奇妙な改変を修正し、装飾音風に一気に強打。その熾烈さは、人生の予期せぬ悲劇を象徴するかのようで、アプローチの方向性も印象づけます。主部はリズムの腰が強靭で、フレージングはどこまでも厳しく、牧歌的なフルートの小結尾でも弛緩なし。展開部4:58からののチェロのアクセントも同様で、オケがこのアプローチに心から共鳴していることが窺えます。5:32からの金管のテーマに呼応する弦の絶妙な粘着ぶりも、絶好調のホーレンシュタイン節。身も心も藻掻いています!楽章最後の一撃も内燃力の凄いこと!
 第2楽章はノスタルジーに甘んじず、高潔な精神を絶やしません。微妙な強弱とテンポの揺らしはかなり即興的なニュアンスを湛えますが、その全てが十分に練り尽くした完熟の味わい。8:05からのエネルギーの増幅と鎮静を巧みに織り交ぜた呼吸芸は、ホーレンシュタインを二流呼ばわりする人にぜひ聴いていただきたいものです。
 第3楽章もビーチャム指揮下では聴けないニュアンスの連続。リズムの厳しさは相変わらずですが、オケはむしろその厳しさを新鮮に感じて積極的な表現に転化しているようにも思えます。
 終楽章もまずは暗く這うような滑り出し。その後は発作的な加速を経て、ホルンの強烈な後打ちリズム、4:26からの徹底したスフォルツァンドと露骨なまでに克明に響かせるなど、立体的な音像にこだわり抜きます。4:41からのフルートのテーマを支える弦の刻みもその一環ですが、そこには死へのカウントダウンのような不気味さが。それゆえ、曲の最後のフェルマータ後の余韻も、他に類のない不思議な感触が漂います。
 このように、表現の多様性と思い入れの熱さではマーラー以上のものを感させる「新世界」。もしかしたら、ナチスに追われたホーレンシュタイン自身の体験を投影させているのかもしれません。【2021年4月・湧々堂】

TRT-251
ソンドラ・ビアンカ〜ショパン&リスト
リスト:ハンガリー幻想曲*
ショパン:ワルツ集(14曲)【第.2,3,8,6,9,7,11,1,4,10,13,14,12,5番】
ソンドラ・ビアンカ(P)
カール・バンベルガー(指)北ドイツSO*

録音:1950年代中期?(モノラル)
※音源:Musical Masterpiece Society MMS-166*、MMS-2131
◎収録時間:61:56
“ワルツ各曲の個性を絞り出した、ソンドラ・ビアンカの筆頭名盤!”
■音源について
日本では1970年代の廉価盤でお馴染みだったソンドラ・ビアンカは、コンサート・ホールやMGM、米Remingtonなどに録音がありますますが、その多くがヴィルトゥオーゾ作品で、「ハンガリー幻想曲」は、米Remington(彼女のデビュー録音で指揮はマルティノン!)に続く2度目の録音。

★ソンドラ・ビアンカは1930年ニューヨーク生まれ。幼少期にハロルド・バウアー門下のフランク・シェリダンに師事し、5歳で放送用のコンサートに参加、9歳でニューヨーク・フィルとモーツァルトの協奏曲で共演するなど、10歳になる以前にキャリアを確立するという神童でした。その後は欧米各地で好評を博しましたが、録音はマイナーレーベルばかりなので謎の部分が多く、日本では廉価盤でしか接する機会がなかったので今日まで「マニア向け」という範疇を超えないままですが、もしこのショパンの素晴らしさが広く知られていたら、状況は違っていたことでしょう。
 ワルツ集は「前奏曲集」のように個々の曲が緊密に関連付けられている作品ではないものの、全体を一貫したニュアンスで統一した演奏も少なくありません。ビアンカの演奏はそれとは正反対で、各作品の個性の炙り出しに全てを掛け、曲の配列も独自のもの。その表現手法は直感と知性の合せ技とも言うべき絶妙なもので、少なくとも完璧なフォルム確立が目的ではないことは明らかで、いわゆる「女性らしさ」という形容も無意味。とにかく、全てのニュアンスに奥行きあり、余韻が香り、何度聴いてもどこから聴いても絶品としか言いようがありません。
 名作第2番(Op.34-2)は冒頭から人生の悲哀を一身に背負った響き!4:09からの淡く明るい光を湛えた音色も忘れられません。第8番(Op.64-3)は、フレーズの頭にごく僅かに溜めを置くセンスと、中間の憂いのニュアンスと緊密に連動ブリに脱帽。第6番「小犬」では刃こぼれ皆無の軽妙なタッチでテンポを絶妙に伸縮させて、この曲の多面的な楽しさを再現し。第9番(Op.69-1)は、0:55からの笑顔で喋りかけるようなニュアンスにうっとり…。第11番は間違いなく同曲の究極名演!とてつもない速さで疾走しながら最高音に輝きを与え、中間部ではゴージャスで濃密なロマンが渦巻き、コーダでは冒頭同様の疾走のまま唐突に締めくくり、その後味が何とも粋!第1番(Op.18)は、ルバートのセンスが天才的で、単に慣習に則ったのではない正直な表現として説得力を誇ります。3:38で一旦テンポを落としてのテーマに戻るそのニュアンスも比類なし。第4番(Op.34-3)も第11番と並ぶ大名演。まず第2主題の空前絶後の雄弁さ!しかも0:45の左手の一瞬のアルペジオに変える洒落た感覚!0:58でのルフト・パウゼも閃き全開!第10番(Op.69-2)は全ての音を滑らかなタッチで統一し、0:16の装飾音を同音価に均すことも厭わず、結果的に憂いを湛えぬいたモデラートに結実。安易に酔いしれると演歌調になりがちな楽想が、嘘のない涙で敷き詰められるのです。第14番ホ短調(遺作)は、トリオのホ長調の旋律の結尾のニュアンスが刻々と変わる点にご注目を。特に1:51などでタッチを寝かせ、エレガンスな香気を振り撒くのには息を呑みます。【2021年4月・湧々堂】

TRE-252(2CDR)
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」 ジョン・バルビローリ(指)
ニュー・フィルハーモニアO

録音:1967年8月17-19日
※音源:独ELECTROLA 1C161-01.285
◎収録時間:83:34
“バルビローリの南欧的感覚によって作品が壮大な愛の讃歌に変貌!
■音源について
上質なドイツ盤を採用。2枚組の3面に全曲が収録されており、第4面は空白。元々が鮮烈な録音なので、どの盤も音質的な差は少ない気がしますが、このエレクトローラ盤が最も腰の据わったサウンドに感じられます。

★このとてつもない名演を可能にしたのは、バルビローリ独自のマーラーへの共感の仕方と音作りの特徴が最高次元に昇華された結果だということを決して忘れてはならないと思います。まず度肝を抜かれるのは、第1楽章の異様な超低速テンポ。「行進曲風」というイメージにきっぱりと背を向け、拍節を垂直に刻むことも避け続け、鮮明な録音からはバルビローリの唸り声も随所に聞かれるなど、前途への不安をとことん煽りますが、不思議とどん底の壮絶劇として響かない点がポイント。かつての英国指揮者のベートーヴェンが精神的な熾烈さよりも優雅さが際立つのと同様の現象とも言えますが、ここでは、イタリアとフランスの血を引くバルビローリならではの色彩感覚と歌のセンスが物を言っていると思われますが、それがなんとも不思議な聴後感をもたらすのです。そして「アルマのテーマ」(3:10〜)の全身での愛の放出ぶり!そのむせ返るほどの色艶の煌めきに肩を並べる演奏を他に知りません。展開部の6:10からの高潮部も、ただの激昂ではなく、マーラーの悲しみへの最大限の共鳴の表れとして響きます。再現部14:40からの夢遊病的なシーンで、色彩を曖昧にせず、テンポを落として音の粒を確実に拾い上げるのもバルビローリならでは。こういうことを心ではなく頭で考える昨今の指揮者がやれば、作為的に響くことは想像に難くありません。
 第3楽章は、バルビローリの全人格の投影と言っても過言ではありません。第2主題(2:02〜)の未来への期待と不安が入り混じったようなニュアンスの底流にはバルビローリのの優しい眼差しが寄り添い、ホルン登場以降はまさに天国的な美しさ!
 終楽章のスケールの大きさも尋常ではなく、音量パワーには同等の感情が常に伴っているのですから、生易しい感動では済まされません。特にハンマーの打ち込み(2回)前後の凄さ!敢えてハンマーを使用しなければならない必然的な流れを感じさせる演奏というのも、他に思い当たりません。後半の緊張の持続も申し分なし!それは汗まみれのスタミナ勝負ではなく、夢中にのめり込んでいるうちに結末を迎えていたという、まさに怒涛の進行。最後の締めくくりでは、ティンパニが次第に乾いた響きに変化する様をお聴き逃しなく!【2021年7月・湧々堂】

TRE-253
ペナリオのドビュッシー
ドビュッシー:前奏曲集(全2巻)
レナード・ペナリオ(P)

録音:1965年3月15,16,26日(ステレオ)
※音源:日Victor SHP-2495-2496(2LP)
◎収録時間:71:48
“過度な緊張から開放したカラフルな前奏曲集!”
■音源について
ペナリオが遺した純クラッシック作品の中でも最も重要な録音の一つ。いわゆる白犬ラベルはどのレコードも微妙にノイズが混入しており、弱音部のニュアンスが削がれるのが難点でしたが、このビクター盤はもちろんその心配はなし。音にも量感があり、打鍵の色彩感と奥行きを十分に伝えてくれます。

★ペナリオが決してライト・クラシック専門のピアニストではないということを証明するのに、これ以上の録音は思いつきません!タッチの色彩の豊かさ、音楽の自然な流れの引き出し方が絶妙の極みで、ただ器用さに任せてレコードを量産していたのではないことは明らかです。
 ドビュッシーの作品は色彩が命とされますが、多くの演奏は色彩の幅はむしろ抑制的で、音楽の流れもガラス細工のような精巧さを目指すあまりどこか硬直し、推進性と大きな呼吸感が減退している気がしてなりません。
 第1巻の第1曲、冒頭の下降音型の温かみ、ハーモニーに細心の注意、音楽を萎縮させずに荘厳さとエレガンスを両立させるあたりに早速唸らされます。第2曲冒頭の32分音符の下降は喋り掛けるように一呼吸で過ぎ去って粋。喋るようなニュアンスは第11曲「パックの踊り」で更に開花。ここではペナリオのポップな色彩とリズムの軽みも最大に作用。続く「ミンストレル」や第2巻の第6曲もアカデミズムに拘泥していては現れようのないコミカルさ。単にリズムを柔軟に崩せばいいというものではないと気付かされます。
 第2巻の第5曲「ヒース」は、旋律美だけに焦点を当てず、りハーモニーから醸し出される色彩の揺らぎの表出が際立ちます。第9曲のストーリー性と壮大さ、第11曲の細かいパッセージにおける蝶や蛾の羽ばたきを思わせる視覚的な描写の的確さ、最後の「花火」等は、瞬発力が不可欠だと再認識。タッチの俊敏さだけではなく、硬軟や温度までも瞬時に対応させるそのテクニックは、真のヴィルトゥオーゾと言えましょう。
 40代の絶頂期にこの録音が行われたことにも感謝。色彩はポップでも、音楽への向き合い方は決して浮つかず、愛で埋め尽くしたドビュッシー。是非ご一聴を! 【2021年11月・湧々堂】

TRE-254
アルベール・ヴォルフ〜1960年代の貴重ライヴ!
(1)ベルリオーズ:序曲「海賊」*、
(2)ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」*
(3)ベルリオーズ:「ベンベヌート・チュエルリーニ」序曲
(4)オネゲル:交響詩「夏の牧歌」
(5)フランク:交響曲ニ短調
アルベール・ヴォルフ(指)
パリ音楽院O*、デンマークRSO

録音:(1)(2)1955年6月20-22日
(3)1962年3月15日ライヴ
(4)1962年3月1日ライヴ
(5)1965年1月28日ライヴ、全てモノラル
※音源:(1)(2)LONDON LL-1297、(3)-(5)ARTE SYMFONIA ARTE-SYMFONIA-003
◎収録時間:76:58
“アルベール・ヴォルフの知られざる晩年の完熟至芸!”
■音源について
アルベール・ヴォルフ(1884-1970)はパリ生まれ。パリ音楽院で学んだ後ストラスブールで指揮者としてデビュー。1921年にオペラ=コミック座の首席指揮者となった後、コンセール・ラムルー管(前任者ポール・パレーは2歳年下)、コンセール・パドルー管の首席指揮を歴任。1935年にルーセルの交響曲第4番を初演するなど、パリ楽壇にとって欠かせない存在でした。1951年からはデッカとの録音を開始。ステレオ初期までに数点のレコードを遺していますが、その後晩年に至るまでの録音は皆無に等しいので、定期的に客演を重ねていたとされるデンマーク放送響とのこのライヴ録音は極めて貴重です。

★ヴォルフは同じフランスの指揮者で言えば、年齢的にはモントゥーとミュンシュの間の世代ですが、その芸風は馬力で押しまくるのではない手作り感が特徴的なので、モントゥーに近いと言えましょう。
 50年代の2曲の序曲(セッション録音)は小気味好いリズムに乗せて華やかな色彩が飛び交う佳演ですが、「ベンベヌート・チュエルリーニ」ではテンポがグッと遅くなり、一点一画を丁寧に描くスタイルがより顕著になります。注目はこの遅いでもリズムが単なる鈍重に傾かず、温かな風合いを帯びていること。第3主題(6:14〜)のシルキーなフレージングも、ヴォルフの人柄とセンスを表わすかのよう。そのシルキーさはオネゲルで全開に。特に弦の響きは、技術的な性能の良さとも相俟って得も言われぬ透明度で心に染みます、中間部の舞曲もそれまでの深い呼吸感をそのまま維持しているので、この箇所だけが突出して浮き立つ印象を与えません。
 そして稀代の名演、フランク!第1楽章3:14のヴィブラートに象徴されるように、作品の構造解析型のアプローチとは一線を画し、琴線に触れる音を紡ぐことに専心。その結果として導き出された大柄で懐の深い音像は、聴き手の心を捉えてやみません。再現部における声部感の熾烈な絡みも聴きもの。第2楽章では、イングリッシュホルンの主題登場後から弱音器付きの弦によるスケルツォ開始までの幽幻なニュアンスと呼吸の深さは、史上屈指。終楽章はクレンペラーと似た低速モードですが、透明度はヴォルフが断然優位。アゴーギクの操作はむしろ抑制して一定の推進力を確保する配慮も感じられます。「勝利の動機」(4:23〜)の開放感も、とかく過度に深刻になりやすいこの作品に相応しいスパイスとして作用し。コーダに至るまでアグレッシブな表現を敢行し続けます。
これほどの表現意欲を保ちながらレコーディングから遠ざかってしまったのは、商業主義的な世界から距離を置きたかったせいかもしれませんが、いずれにせよ、音楽家として最高に幸せだったであろうことは、想像に難くありません。【2022年6月・湧々堂】

TRE-255
モイセイヴィチの十八番協奏曲集
ディーリアス:ピアノ協奏曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」*
ベンノ・モイセイヴィチ(P)
マルコム・サージェント(指)BBC響

録音:1955年9月13日プロムス(モノラル・ライヴ)、1963年3月6日ロイヤル・フェスティヴァル・ホール(モノラル・ライヴ)*
※音源:米Discocorp BWS-725
◎収録時間:56:09
“死の影なし!溢れる生命力を惜しげもなく放射した輝かしい「皇帝」!”
■音源について
「皇帝」は、1963年4月9日に亡くなったモイセイヴィチのラスト・コンサート。イギリスで人生の大半を過ごしたモイセイヴィチにとって、ディーリアスも大切なレパートリー。ランバートと組んだセッション録音(1946年)もありました。なお、J.ハントのディスコグラフィには録音日が「1955年8月」とありますが、となっていますが、ここではGuild HistoricalのCDに記載されている日付を記しておきます。

★モイセイヴィチは一般的には「ラフマニノフ弾き」と言われますが、師のレシェティツキ譲りと思われるベートーヴェン演奏における説得力の高さも決して忘れてはなりません。
 「皇帝」第1楽章、モイセイヴィチの最初のソロは、有り余るパワーをようやく放出できる喜びで一杯!入念なアゴーギク、強弱対比が絶妙なバランスで迫って一気に魅了されます。その勢いを受けて立つサージェントの指揮もいつになく燃え盛り、早くも大名演を確信させますが、その期待を最後まで裏切りません。
 モイセイヴィチの最晩年のセッション録音ではミスタッチが散見されますが、録り直しや発売差し止めもせずに発売されていることでも、モイセイヴィチにとって重要なのは技巧よりも作品の生命力だったことは明らか。ここでも微細なミスこそあれ、音楽を歪めるどことかどこを取ってもベートーヴェンの精神を感じさせ、そこに長年の経験による自信と確信が加味されたフレージングが、熱い奔流となって迫るのです。
 第1楽章9:01からのトリルはただの細かい指の運動ではなく、確実に息遣いが感じられ、硬質のタッチも保持して凛とした佇まいを貫徹、9:52からは敢えて弱音で通して幻想味を加え、6:48からのカデンツァでの生きる喜びを映すリズムの冴えなど、ゾクゾクする瞬間の連続です。第2楽章は、夜露の光を思わせるタッチの美しさを敷き詰めながらも弱音に逃げず、次第にくっきりと音色の明暗を浮き上がらせ、その軟弱さとは皆無のバンカラな一途さにしびれます。終楽章は最後の締めまでピアノを掻き鳴らし続けるのも大納得!綺麗事のベートーヴェンなどもうたくさん!とお嘆きの方、「皇帝の中の皇帝」を追い求めている方、必聴です!
 ディーリアスは、深い親交のあったグリーグの協奏曲からの影響を強く感じさせる甘美な佳曲。【2021年6月・・湧々堂】

TRE-257
ノーマン・デロ=ジョイオ(1913-2008):ピアノと管弦楽のための幻想曲と変奏曲*
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第5番ト長調 Op.55#
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調 M.83
ロリン・ホランダー(P)
エーリヒ・ラインスドルフ(指)ボストSO

録音:1963年2月17日(世界初録音)*、1964年3月28日#、1963年1月16日、ボストン、シンフォニー・ホール(全てステレオ)
※音源:米RCA_LSC-2667、日VICTOR_SHP-2370#
◎収録時間:65:55
“洗練を極めたタッチから紡ぎ出される作品の本質!”
音源について
ホラダーの初録音は1958年のピアノ小品集で、その時何と14歳!デロ=ジョイオとラヴェルを収録したレコードは、ホランダーにとって3枚目にして初の協奏曲録音で、当時18歳のピアニストの驚くべき才能は、世界各国で賞賛されました。
ノーマン・デロ=ジョイオ(1913-2008)は、ワーヘナールやヒンデミットらに師事したアメリカの作曲家。1957年にはピューリッツァー賞を受賞。「幻想曲と変奏曲」はこれが世界初録音。

★ホランダー(1944-)は、ニューヨークに生まれ。11歳でカーネギーホール・デビューを果たすなど早くから神童として知られ、レオン・フライシャー、ルドルフ・ゼルキンらに師事。RCAへの録音は1960年代に途切れ、その後は教育活動に移行したようです。その数少ない録音はどれも逸品揃いで、この3曲の協奏作品も例外ではありません。
 デロ=ジョイオは日本では殆ど知られていませんが、「幻想曲と変奏曲」のどこかノスタルジックで親しみやすい楽想とリズムの躍動との対比が素晴らしい佳曲。クールで洗練されたホランダーのタッチは、叙情的なフレーズでも決して溺れずに曲の美しさを際立たせ、速いパッセージでダイナミズムを炸裂させる曲の最後は、淀みを知らない打鍵の威力で圧倒します。
 ホランダーのピアノの最大の魅力は、高い洗練度を誇るタッチを貫きながら作品の持ち味は消し去らず、むしろリアルに楽想を浮かび上がらせる点。プロコフィエフの第1楽章の土俗性が、厚塗りの表情を盛ることなくキリッとしたテクスチュアで迫り、強打鍵でも一定の品位を保つバランス感覚は特筆もの。
第2楽章冒頭のグリッサンドの切れ味は尋常ではなく、しかも血の通った温もりとさりげない語り口も併せ持ち、それらの魅力が強固に凝縮された形で迫る魅力は比類なし。
第4楽章は、ほぼ同時期に書かれたラヴェルの協奏曲の第2楽章を思わせますが、そのニュアンスをホランダーの濡れたタッチが余すことなく引き出します。中間部でのオケの高密度の響にもご注目を。
 オケが優秀でないと話しにならないのは続くラヴェルも同様。これほどオケの技量で唸らされる演奏は稀ですし、ホランダーも持ち前の洗練タッチの魅力を遂に大全開させます!
最初の衝撃は、第1楽章のコデッタ動機(1:45〜)で8分音符を連打するシーン。これがまるで別のピアニストが弾いているかと錯覚するほど木霊のようは雰囲気を湛えているのです。
4:20からの下降音型に象徴されるようにリズムの打ち込みとテンポの柔軟性にも徹底配慮。快速テンポで逃げ切るような演奏とは一線を画します。5:33から連続するトリルも刃こぼれ知らずで、その均整美に息を呑みます。
 第2楽章では、ホランダーの天才性を更に確信。右手の一音ごとのニュアンスの感じ方、閃きはこれ以上望めないほど豊か。後半のコーラングレとの寄り添い方も涙を誘います。
 終楽章は、テクニックも推進力ももちろん盤石。決してタッチが上滑りしないので、感覚的な痛快さ以上の手応えを感じさせるのです。
 ステレオ初期は腕の立つ若手ピアニストが花盛りでしたが、次第にテクニックの衰えが音楽家としての存在意義も失わせたかのように消えていくのが常でした。ホランダーも表舞台の活躍は短かったものの、このディスクで明らかなように音楽を感じるセンスがあまりにも高次元で息づいているので、他のピアニストとは同列視などできません。短期間に全てを出し切ったために指よりも精神が疲弊してしまったのかもしれませんが、ホランダーの録音の少なさは、返す返すも悔やまれます。 【2022年7月・湧々堂】

TRE-258
バックハウス〜珠玉の協奏曲
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲付き」
 ピアノ協奏曲第27番変ロ長調Op.83*
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番#
ウィルヘルム・バックハウス(P)
カール・ベーム(指)VPO*
ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指)VPO#

録音:1955年5月-6月、1955年5月*、1959年6月29-30日#(全てステレオ)
※音源:日KING_SL-1029、SLC-1620#
◎収録時間:71:19
“バックハウスによる協奏曲の二大筆頭名演!”
■音源について
とかく軽視されがちな日本プレス盤を採用。但し、60年代中頃までは盤の材質のせいか微妙なチリチリノイズが混入している場合が殆どなので、それが解消される1960年代後半の英メタル使用盤であることが必須。音楽を堪能するためなら英国初出盤を絶対視する必要などないと思います。

★バックハウスといえばベートーヴェンを第一に思い浮かべますが、モーツァルトも忘れるわけにはいきません。そのモーツァルトの天才性への全幅の共感をペダルを抑制したタッチから滲ませた音楽は、ベーゼンドルファーの魅力とも相まって、かけがえのない財産です。
 ピアノ・ソナタの第1楽章のテーマの温かな語り掛けや、後半のリズムの愛くるしさは、ベートーヴェンのソナタにおける剛直さからは想像できないほど。第2楽章中間部は、ルバートを抑えたスッキリとしたフレージングが洗練美を生み、加えて珠を転がすようなタッチでも魅了。第3楽章は単純な軍隊マーチの模倣に目もくれず、純粋なモーツァルトの再現だけに集中していることは、25小節からのフォルテの勇ましい楽想をあえて弱音で開始していることでも明らかです。
 ピアノ協奏曲第27番は、同曲のまさに不滅の名演!第1楽章序奏は徹底的にウィーン情緒で通したベームの指揮に、淡々となんの変哲もないフレージングで通すバックハウスのピアノが加味すると、得も言われぬ気品が生まれるのです。カデンツァでは音色の魅力が全開で、タッチのコントロール能力の高さも絶妙。そして白眉の第2楽章!この楽章のアプローチが聴けるだけでもだけでも、この録音の価値は絶大です。何と言っても冒頭主題のリズムのニュアンスの活かし方!緩やかなテンポに引っ張られてリズムを平板化させてしまう演奏が多い中、楽譜の忠実な再現こそが最良のニュアンスを生むということを証明であり、中間部のなんの邪念もない無垢な響きも比類なし。6:21からのアルペジオ風フレーズの幻想性に至っては、奇跡としか言いようがなく、「モーツァルトとは何か?」の答えがここに集約されていると言っても過言ではありません。終楽章は第2主題が全てを削ぎ落とした後の浮遊感にご注目を。
 「バックハウスはベートーヴェン弾きであってモーツァルト弾きではない」と言い切る人がいますが、こういう無垢のモーツァルトに触れた後で、どうしてそんな選別など出来ましょうか?
 一方ベートーヴェンの協奏曲は、全集の中では特に「第4番」が名演として紹介される例が多いですが、同等かそれ以上に賞賛したいのが「第2番」。バックハウスにとってもウィーン・フィルにとっても演奏回数が少ない作品であるせいか、どこを取っても瑞々しく、音楽する喜びに溢れています。
第1楽章のピアノの入りから、真珠を散りばめたような艶やかさ!バックハウスとベーゼンドルファーの相思相愛ぶりを思い知らせれます。その音色美は第2楽章で最大に開花すると共に、バックハウスの人間性と精神力によって、音楽が深く大きく押し広げている様がひしひしとと感じ取れます。宇野功芳氏がこれを大絶賛していたのも大いに頷ける超名演。 【湧々堂 2022年3月】

TRE-259(2CDR)
ウェルドンの「ポピュラー・コンサート」
■Disc1
(1)ポンキェルリ:時の踊り#
(2)ニコライ:「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲#
(3)シベリウス:交響詩「フィンランディア」#
(4)メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」#
(5)サン・サーンス:交響詩「死の舞踏」#
(6)サン・サーンス:「サムソンとデリラ」〜バッカナール#
(7)ヘンデル(エルガー編):序曲ニ短調*
(8)バッハ(ウィルヘルミ編):G線上のアリア*
(9)バッハ(ヘンリー・ウッド編):無伴奏バイオリン パルティータ第3番〜ガヴォット*
(10)ヘンデル:「ソロモン」〜シバの女王の入場*
(11)ヘンデル:オケイジョナル・オラトリオHWV 62〜行進曲*
■Disc2
(1)サリヴァン:序曲「舞踏会で」*
(2)エルガー:朝の歌*
チャイコフスキー:スラブ行進曲*
(3)スッペ:「軽騎兵」序曲+
チャイコフスキー:「眠りの森の美女」〜ワルツ+
(4)マスカーニ:「カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲+
(5)バッハ(ウォルトン編):『羊は安らかに草を食み』+
(6)リスト:ハンガリー狂詩曲第2番(ミュラー=ベルクハウス編)+
(7)オッフェンバック:「天国と地獄」序曲+
(8)イッポリトフ・イワーノフ:酋長の行列+
ジョージ・ウェルドン(指)
フィルハーモニアO#.+、LSO*

録音:1954-1956年#、1953年10月23-29日*、1951-1953年+(全てモノラル)
※音源:英COLUMBIA 33SX-1032+、1045*、1054#
◎収録時間:71:55+67:00
“解釈の痕跡を残さないウェルドンの美学の結晶!”
■音源について
ウェルドンは小品の録音を多く遺していますが、このロンドン響とフィルハーモニア管を振り分けた「ポピュラー・コンサート・シリーズ」(全3LP)は、ハイセンスなウェルドンの芸術の宝庫。ここではその全てを収録しています。サン・サーンスの2曲はLSOとの1950年の録音に次ぐ2回目の録音。#はステレオ最初期の録音ですが、これはモノラルしか確認できませんでした。
※シベリウスの「フィンランディア」とサン・サーンスの「バッカナール」は音が混濁気味ですが、複数の同品番レコードで同じ現象であることを確認しました。予めご了承ください。

★こういった小品をじっくり味わいたいときに、ニュアンスがいちいち説明調に聞こえてしまっては台無しですが、音楽の素の持ち味だけを確実に抽出することを旨とするウェルドンにはそんなことはあり得ず、そのセンスに敵う指揮者はなかなかいません。ここまで純音楽的アプローチを極めると、各曲のローカル色の味付けも不要となり、楽譜を追っただけのロマンの欠片もない演奏とも似て非なる奥ゆかしい佇まいとフォルムが生まれるのです。
 「時の踊り」は、テンポの速い後半に差し掛かるまでの詩的なニュアンスが心を捉えますし、8:26からはチェロの対旋律を際立たせるのが通例ですが、声部の操作感が出ることが皆無なのもウェルドンの音作りの特色の一つ。それでも、健康的でチャーミングな表情ははっきり浮かび上がるのです。
 「ウィンザーの陽気な女房たち」は、聞き慣れた音楽よりも更に上質に聞こえます。7:15のルフト・パウゼも意識しないと分からないほど自然さで、これもウェルドンのセンスの賜物。
 ウェルドンの折り目正しい造形力が作品に相応しい気品を与えて稀有な名演に結実したのが「フィンガルの洞窟」。劇的効果を狙えば狙うほど空振りしがちなこの名曲の本質を知り尽くしているからこそ、堂々と自然体を通すことができるのでしょう。それだけに6:46からのクレッシェンドでの凄みはあまりにも意外で、強烈な印象を残します。単なる風景描写ではない、聴き手の想像力を刺激して止まない普遍的な解釈の極みと言えましょう。
レコードの「第2集」は、バッハ、ヘンデルの編曲物を中心に収録されていますが、これらはまさにウェルドンの十八番。「G線上のアリア」「ガヴォット」は、LSOの弦の機能美を十分に活かし、輝かしく再生。「シバの女王の入場」のオーボエの巧さにも唖然。
 ウェルドンによるエルガーで最も有名なのはステレオ録音の「威風堂々」だと思いますが、その何倍も素晴らしいのがこの「朝の歌」で、同曲トップクラスの名演であることは間違いなし!温もりと慈愛に満ちた表情が自然な呼吸とともに繰り広げられ、至福の空気感を生み出すのです。
 フィルハーモニア管の「天国と地獄」といえば、後のカラヤンの驚異的名演がありますが、ソロの自由度と屈託のなさ、リズムの洒脱さ、色彩の魅力は明らかにこちらが優ります。そして「酋長の行列」。洗練とは対極にあるこの曲の野暮ったい味は、このテンポ以外では引き出せないのはないでしょうか?
基本的に「演奏行為=自己表現」だと思いますが、自己を投影させないというスタンスをとことん突き詰めると、抜群の安定感と説得力を持つ演奏が生まれることがあるのです!ただ、そんな成功例が他になかなか思い当たらないことを考えると、指揮者ウェルドンの認知度はあまりにも低すぎます! 【湧々堂・2022年4月】

TRE-260
フー・ツォン〜若き日のショパン録音Vol.1
バラード(全4曲)/子守歌Op.57
夜想曲Op.15-2/ピアノ・ソナタ第3番*
フー・ツォン(P)

録音:1959年、1959年2月*(全てモノラル)
※音源:英WRC TP-48、英MFP MFP-2026*
◎収録時間:73:49
“歌に必ず詩情が寄り添うフー・ツォン独自のピアニズム!”
■音源について
フー・ツォンのショパンは1977年録音の「夜想全集」が最も有名ですが、その名演は決してにわかに実現したものではないことは、それ以前の録音を聞けば明白で、この1959年の録音も例外ではありません。

★バラードもソナタも作品の構成感を意識した演奏が多い中、フー・ツォンはあくまでも作品に宿る精神を丹念に抽出することに専心し続けます。
 バラード第1番冒頭部の含蓄力は数多の名演の中でもよ突出しており、4:40からの高揚でも、フレーズの根本を見つめつつ、単なる開放感への邁進ではない憂い感じさせます。曲の終盤はもっとヴォルテージ全開の演奏もありますが、特にコーダで顕著なように、音同士の間合いに言葉にならない声が充満しているのです。第3番、4:12からの絶妙で集中力に満ちたルバートから気品が溢れる様は、フー・ツォンの人間そのものを映すかのよう。コーダでは盤石の技巧で華やかな空気を広げますが、技術力も明るさも決して表面化せず、得も言われぬ聴後感。痛快さとは無縁のこのニュアンスをご堪能下さい。第4番は全4曲の中でも白眉!序奏の8分音符の音価が均等ではなく、フー・ツォンのイマジネーションが並外れていることを象徴。したがって、第1主題の変奏も単調さとは無縁。2:32以降の深いニュアンスは比類なく、展開部に至っては、これ以上表出不可能なほどの深遠さに息を呑むばかり。8:38からの緊密な音の連動力と育み方が天才の閃きに満ち溢れているのです。
 「子守歌」は、単純な旋律が大きな変化を見せないにもかかわらずニュアンスの豊穣さを感じさせ、なおかつ作品全体の密やかなニュアンスも保持するという奇跡の技!シンプルな低音部の静かな発言力にもご注目を。
 作品の構成を重層的築くのではなく、歌を貫くことで結果的に作品のフォルムを形成させるフー・ツォンの特質が最も発揮されているのが、ピアノ・ソナタ第3番。これも同曲屈指の名演であることは疑いようもありません。
 第1楽章第2主題は、幸せそのものの表現ではなく幸福への憧れであり、その儚さまでも予見するかのようなニュアンスが他の誰に可能でしょうか?2:15から数秒間の美しさや、2:58からのペダルを抑制したタッチの可憐さも例えようのない素晴らしさ!第2楽章はフー・ツォンの技巧力の凄さを痛感。トリオ以降の畳み掛けは、フー・ツォンには珍しい現象と言えますが、それが表面的に終止することがないのは言うまでもなく、テクニックとニュアンス完全に合体しているので、手応えも格別です。第3楽章(ラルゴ)のでは、音の空間に隙間風が通ることなく歌が充満。弱音に頼らずにむしろ音の輪郭を明確にしながら濃厚なロマンを敷き詰める確信的なアプローチを知った後では、他の演奏が感覚美に終止しているように思えてしまいます。
終楽章では更にタッチを深くし、リズムの重心も低く保って、リリカルな作品でこそ真価を発揮すると思われがちなフー・ツォンの重量級の妙技を披露。特に3:46からのテーマの再現で見せる濃密なうねりは意外さとも相まって強烈な印象を残し、盤石な安定感を誇るコーダまで緊張の糸が途切れません。
 決して録音は多いとは言えないフー・ツォンの命は、2020年12月に新型コロナウィルスが奪ってしまいましたが、繊細さと豊かさを兼ね備えたその稀有なピアニズムがメジャーレーベルのビジネスに餌食にならなかったのは、芸術家としては幸福だったかもしれません。【2021年7月・湧々堂】

TRE-261(2CDR)
A.コリンズ〜ディーリアス&V=ウィリアムズ
■ディスク1
ディーリアス:イギリス狂詩曲「ブリッグの定期市」
 歌劇「村のロメオとジュリエット」〜「楽園への道」
 パリ(大都会の歌)*
■ディスク2
ディーリアス:春初めてのカッコウの声を聞いて
 川面の夏の夜*
 夏の庭で*/夏の歌
ヴォーン=ウィリアムズ:グリーンスリーヴス幻想曲#
 タリスの主題による幻想曲#
アンソニー・コリンズ(指)
LSO、ロンドン新SO#

録音:1953年2月23-25日、1953年10月20-21日*、1952年3月31日-4月1日#
※音源:英DECCA ACL-245、米LONDON LL-758、英DECCA ACL-144
◎収録時間:104:29
“ディーリアスの音楽にビーチャムとは異なる光を与えた歴史的名演!”
■音源について
A.コリンズのディーリアスとV=ウィリアムズの全録音を収録。ディーリアスといえばビーチャムの存在を無視できませんが、あまり英国関連作品の録音には積極的ではなかったDECCAに、コリンズがまとまった録音を遺してくれたのは幸運でした。エンジニア、ケネス・ウィルキンソンの明瞭な録音にもご注目を。

★アンソニー・コリンズ(1893-1963)の最も有名な遺産であるシベリウスの交響曲全集にはっきり刻印されている確信溢れる音作りの特徴は、ディーリアスにおいてもはっきりと聞き取れます。録音の数こそ少ないですが、その演奏は、ビーチャムと並ぶ2大ディーリアンと讃えたいほど魅力的。どんな弱音でも音楽が萎縮せず、芯を脆弱化させない意思の強さが静かに息づいていことが、これほどの名演を生む土台となっていることは間違いないでしょう。
 「春初めてのカッコウの声を聞いて」の導入から、曖昧模糊とした雰囲気に流れずに人間臭い呼吸をふんだんに盛り込み、しかも目の詰んだ音彩が心に染みます。弦の第2主題も音の隈取が克明で、そこに温かな歌が脈打ちます。この感覚的な雰囲気以上の入念な音作りだけでも、コリンズのディーリアスへの共感が尋常ではないことは明らかでしょう。
 「夏の庭で」の瞬発的な色彩の変化も鮮やか。特に第3主題(4:51〜)のヴィオラの静謐美と、それを取り巻く木管等の融合ぶりは鳥肌必至!ちなみに、コリンズは指揮者に転向する前に、LSOの主席ヴィオラ奏者でした。
 「ブリッグの定期市」は、グレインジャーが合唱曲に編曲したイングランド民謡を基にした管弦楽曲。その民謡主題は1:33からオーボエによって歌われますが、続くフルートも含めて常に残り香を感じさせるフレージングが絶品。その後の腰の入ったリズムの躍動と呼吸も迫真で、大きなスケール感で描き切ります。
 スケール感といえば「楽園への道」も。音の密度が極めて高い上に、フレージングはどこまでも伸びやか。どの部分を取っても心が震え、もはやLSOが遺した全録音の中でも別格の名演と言えるのではないでしょうか。
 「グリーンスリーヴス幻想曲」は、とっくに中間部が聴きもの。安易にテンポを速めず、各音をじっくりと吟味しながら歌い抜く一方で、ここでも声部間の連携が緊密で音楽を弛緩させないあたりに、コリンズの真骨頂が伺えます。
 ホルストから学んが作曲技法と眼力、音楽への共感力の強さ、アンサンブルの統率力の高さと、指揮者に必要な条件を兼ね備えていたコリンズ。その指揮者としての活動は30年にも満たないものだったのが残念でなりません。 【2021年9月・湧々堂】

TRE-263
超厳選!赤盤名演集Vol.6
シューベルト:「ロザムンデ」〜序曲/間奏曲第3番/バレエ音楽第2番
マーラー:交響曲第1番「巨人」*
パウル・クレツキ(指)
ロイヤルPO、VPO*

録音:1958年10月27&29日、1961年11月13-15日*(全てステレオ)
※音源:東芝 ASC-5003、AA-7302*
◎収録時間:75:51
“ユダヤ的情念を湛えつつ決してべとつかないクレツキ特有の美意識!”
■音源について
集中的に「赤盤」をいろいろ聴き漁った結果、「東芝の赤盤は音が良い」という噂は間違いではないという結論に至りました。音にしっかり芯が宿り、音場は豊かに広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別です。当時のセールスポイントであった帯電防止材や、赤い色素が音質向上に直接繋がったとは考えにくいので、英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術が結果的に赤盤に集約されたのでしょう。事実、1971年に御殿場に大工場を新設して以降、音質は下降の一途を辿り、赤盤もなくなりました。
 ただ、初期の盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高く、CD-R復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。なお、2枚のLP共に英国スタンパー使用盤です。

★この「巨人」は、ユダヤ人としての作品への共感の熱さを独自のバランス感覚で普遍化した名演として、ワルター&コロンビアSO盤と並んで忘れてはならない存在。クレツキは両親をホロコーストで殺害されるという悲惨な過去を持ちながら、指揮者として引き出す音楽にはその壮絶さはほとんど感じられませんが、作曲活動を停止してしまったことも考えると、その体験は受け止めきれる極限を超えたものだったために、むしろ達観に向かわざるを得なかったのかもしれません。
 クレツキは、同じユダヤ系のマラーの作品には並々ならぬ共感を示していることは言うまでもありませんが、ここでも感情爆発型の演奏とは一線を画す、再現芸術家の矜持を示すかのような調和を重んじたスタイルを貫徹しています。ただ、音楽のフォルムは一見楷書風でも、各ニュアンスの奥行きがとてつもなく深いのです。しかも、それを奏でているのは人間味溢れる全盛期のウィーン・フィルなのですから、音の有機性が尋常ではありません。
 第1楽章1:43からのホルンの深淵さとその直後の強烈なピチカートのコントラスト、8:03辺りからの音色のブレンドの妙味は、未だにこれを超える演奏に出会えません。ティンパニの革の風合いにも惚れ惚れ。その響きの魅力は、第2楽章後半のテーマの再現での、ハンブルク稿を踏襲したティンパニの追加(ワルター&コロンビア響と同じ)や、第3楽章冒頭で一層際立ちます。
 その第3楽章は、冒頭コントラバス・ソロがメロウな響きですすり泣き、その後のパロディ旋律を奏でるトランペットは優しさと哀愁を湛えるなど、これまた魅力満載。しかも中間部はウィーン・フィルだからこそ実現した芳しさの極み!
 終楽章は、主部直前のリタルダンドで縦の線がずれながらも帳尻が合ってしまうのが、いかにもかつてのVPOらしさ。それを録り直ししないのもも、「音楽の本質に関わる問題ではない」と言わんばかりでかえって天晴です。
1:40からの金管のスフォルツァンド、1:47からの強靭な突出、その直後のティンパニ強打は、メリハリ重視のクレツキの音作りの特徴が強烈に刻印されています。第2主題の甘美なフレージングはウィーン・フィルの真骨頂ですが、ポルタメントに恣意性が皆無な点にご注目を。決して淡白なのではなく、団員の体に染み付いている自然体のこの奏法は、ウィーン・フィルという名器とクレツキのヴァランス感覚の賜物と言えましょう。そして訪れるコーダ直前の謎の大胆カット! 終楽章冒頭の打楽器のズレもそうですが、こういう現象を即マイナスと捉える人がいます。ただ、「普通ではない」という事実だけで安易に非難する人がいることは百も承知の上であえてスコアの指示を曲げてでも敢行する意味があると確信したことは明らかですし、そこにはクレツキの作曲家としての読みと美意識が働いていることは想像に難くありません。批判を恐れず申し上げますが、マーラー不在の異常に軽薄な音楽に貶めたのならともかく、私はこのような改変そのものを以て演奏の価値を下げることは、演奏家に対して失礼だと思いますし、今後SNS等でそれを発信しやすくなると、世間に流れる音楽は「誰からも批判されない」演奏ばかりになってしまうという危惧さえ抱いています。ですからここでも、むしろそのカットの真意をあれこれ想像して楽しみたいと思うのです。逆に、カットした意味を解説書に明記するような野暮なことがあれば、失望していたかもしれません。その箇所をなぜそのように演奏するのか、それを想像し、感じ、意味を見出すことこそが、音楽を味わう最大の醍醐味ではないでしょうか?【湧々堂・2021年8月】

TRE-265
ヴェルディケ〜ハイドン:交響曲集Vol.1
交響曲第100番ト長調 「軍隊」 Hob.I:100
交響曲第101番ニ長調 「時計」 Hob.I:101
交響曲第102番変ロ長調 Hob.I:102*
モーゲンス・ヴェルディケ(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1956年6月ウィーン楽友協会小ホール(ステレオ)
※音源:墺amadeo AVRS-12013St*、AVRS-12014St
◎収録時間:74:20
“今こそ聴きたい、永久に光を失わないハイドンの究極形!”
音源について
★ステレオ最初期とは思えぬ高音質録音としても知られるヴェルディケのハイドン。Vanguard原盤ですが、米プレス盤はどれも音がやや腰高で粗雑感が否めません。その点このamedeoのライセンス盤は腰の座った風格溢れる響きが素晴らしく、米盤では気づかなかった多彩なニュアンスに出会えて感動もひとしおです!

★作品への一途な愛や表現の貪欲さよりも、使用楽譜、楽器、奏法等で他者と差別化を図ることに熱心な演奏が増えつつある昨今、その傾向が最も顕著なのが、ハイドン、モーツァルト。中途半端にピリオド奏法を採用している時点で表現の伸びしろが抑えられているのですから、一時代前の巨匠のような、自身の全てを注入して魂を揺さぶる演奏など生まれにくいのは当然と言えましょう。ましてや、世の中全体の技術の進歩に伴って人間力がますます低下するとあっては、手応え満点の演奏なんて無理な注文かもしれません。ただ、ビーチャムやクレンペラーのような演奏はもう聴けないにしても、他に目指す道がある!と思わせてくれるのがヴェルディケのハイドン。全ての曲が、指揮者の存在を超越して作品の潜在的な魅力が絶え間なく放出される驚異的な名演ですあり、これぞ普遍的芸術の極みです!
その成果の最大の要因は、ヴェルディケの堅固な造形力と響きの凝縮力。音符を素直に見つめ、バランスよく配合することで生まれる凛とした威容は他に例を見ませんし、オケもウィーン的な風情を残しつつ、過度に甘美に傾くことを制御することで得も言われぬ気品が醸成されます。ハイドン特有のユーモアおw拡大解釈しない姿勢、全ての演奏家の規範と言えましょう。
「軍隊」第1楽章序奏からして、その声部バランスの完璧さと品格に息を呑み、コーダでの内声の充実による響きの厚みには惚れ惚れするばかり。そこに誇張は一切ないので、全ての表情が瑞々しく、音楽に生命が宿るのです。第2楽章の打楽器の鳴らし方も同様。こういう場面で単純にどんちゃん騒ぎしてハイドンらしさを出していると勘違いしている演奏がなんと多いことでしょう。
 「時計」1楽章序奏でもまず響きの美しさと厚みに惹きつけられ、特に1:16からの低弦の唸りから木管への橋渡しの絶妙さは必聴!主部以降は中庸のテンポで何もしていないよでいて、指揮者が成すべき任務を全て完遂し、気づくと最後まで心地よい緊張の虜に。このパリッとした風情は、作品の力と指揮者の義務を十分に知り尽くした人だけが醸し出せるものでしょう。第2楽章も淡々とした進行の中に楽器同士を有機的に連動させることに専心。2:50からはトランペットが突如として浮揚しますが、これが誇張に響かず、不思議な幻想を招くのです。終楽章でハッとさせられるのはテンポ。従来からよく耳にしてきた何の変哲もないヴィヴァーチェですが、多くの指揮者が採用したのにはそれだけの理由があるのだと思い知らされます。2:05からの管楽器の立ち上がりを聴けば、このテンポ以外以外にあり得ないと痛感されることでしょう。そして展開部以降の壮絶なドラマ!メリハリの効いたリズムと折り目正しいフレージングがウィーン流儀の甘美な感触と見事に融合し、極上のコクが醸し出されるのです。
102番も、ハイドンの交響曲は楽譜を丁寧に紡ぎ出せば楽しさも味わいも自然に湧き出るということを実証。突飛なアクセントやデフォルメなど出る幕なし。ハイドンの音楽は、演奏者自らが楽しんでしまっては音楽自体が微笑んでくれないのかもしれません。第2楽章は弦のシルキーさが心に染み、特にチェロ・パートの美しさは格別。第3楽章の中間部のウィーンのオケの特質が最大に活きた響きそれ自体が音楽!オケの合奏力の高さも特筆もの。終楽章はまず推進力が見事!最近はもっと高速でシャープな演奏が溢れていますが、「スピーディ」では困るのです!温もり、潤い、まろやかさを伴った爽快さががピリオド奏法ではほとんど見出だせないのは悲しい限りです。
今後、指揮者の人間的な魅力がますます稀薄になろうとも、ヴェルディケが示したような指揮者の本分だけは忘れないでほしいものです。「分かりやすい演奏効果」優先では、「豊穣な音楽」など本当に過去の遺物となってしまうと思うのです。 【2021年12月・湧々堂】

TRE-268
ワイエンベルク/R.シュトラウス&ガーシュイン
R・シュトラウス:ブルレスケ*
ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー
 ピアノ協奏曲ヘ調
ダニエル・ワイエンベルク(P)
クリストフ・フォン・ドホナーニ(指)*
フィルハーモニアO*
ジョルジュ・プレートル(指)
パリ音楽院O

録音:1963年6月16&19日*、1960年頃(全てステレオ)
※音源:蘭CNR SKLP-4145*、蘭EMI 5C045-11656
◎収録時間:69:03
“リズムと色彩が常に共存する驚異のガーシュウィン!”
■音源について
ワイエンベルク(1929-2019)の父はオランダ人で、幼少期もオランダで過ごしていたせいか、オランダ盤のレコードの流通が目立ちます。R・シュトラウスはW.R.C、ガーシュウィンはDucretet-Thomson原盤。

★ガーシュウィンの2曲は、ジャズ寄りかクラシック寄りかといった単純な区別に収まらない強烈な説得力を誇る名演としてお薦め!その最大の魅力は、色彩の豊かさと作品への愛の深さ!とにかく「そこそこの表現」などどこにもありません。
 「ラプソディ・イン・ブルー」は、まずはプレートルのいつもながらのやる気全開の指揮に釘付け!冒頭クララリネットの繊細さと洒脱さ!0:44からの濃厚でクリーミーなサックスなど、パリ音楽院の技術とセンスの高さは言うまでもないですが、それに加え、全ての表現が「多くの選択肢の中からの選りすぐり」感が尋常ではなく、プレートルという指揮者が音楽への愛の実現に向けて死ぬまで体を張っていた指揮者だったことを思い知らされます。そして、10:58からの陶酔的なメランコリー!こんな深い呼吸を見せた演奏が他にあるでしょうか?
 ワイエンベルクのピアノは、ジャズの真似事に傾かず、これまた痛快。6:02からのカデンツァなど、スウィングというよりクラシカルなルバートとフレージングを基調としていますが、全ての間合いが絶妙。タッチも硬軟織り交ぜ、チャーミング囁きから強靭なフォルテまでニュアンスの幅も広く、プレートル同様にセンスの塊。このような両者ががっぷり四つに組んだ演奏がワククァクさせるか、容易に想像いただけると思います。
 ピアノ協奏曲も、指揮・ソロ共々、作品への共感の熱さとベストと確信した表現を臆せず敢行する意思力が尋常ではなく、これほどの名曲だったかと認識を新たにするばかり。
 第1楽章では、4:02からの狂おしい熱情が聴きもの!6:55からのキラキラした色彩からの幸福感溢れる空気には、涙を禁じえません。8:24からのリズムの応酬にも悪乗りせず、ワイエンベルクはタッチの粒立ちの良さを全開にさせ、音楽の軸を保持しながら確固としたフォルムを形成。「ジャズの真似事」に逃げない姿勢はここにも色濃く反映させています。
 第2楽章は、冒頭オケによる気だるいブルースと決然と打ち鳴らされるピアノ・ソロのコンロラストが絶妙。終楽章では、この演奏の凄さを更に痛感!速い走句でも混濁しないワイエンベルクのタッチの魅力はここでも大発揮され、リズムだけに乗っかることのないように響き全体を凝縮しようとする意志が全体に漲っているので、痛快さ以上の圧倒的な手応えをもたらしてくれるのです。
 ここでもプレートルのオケの鳴らしっぷりは見事!特に終楽章コーダは、ガーシュウィンが初めて自力で全て行ったオーケストレーションの天才芸を余すことなく引き出しています。
 「ブルレスケ」は、ワイエンべレクの硬質に煌めくタッチを武器として感覚的な美しさを絶やさない一方で、厳格なアーティキュレーションで音楽の立体的に再現することで、とりとめのない演奏になりがちなこの作品の魅力を再認識させてくれ、そこには洗練されたニュアンスがぎっしり凝縮されています。
 若きドホナーニの指揮も堂に入っており、壮大さと繊細さを兼備。ティンパニの巧さも特筆もの。この作品をティンパニ協奏曲にさせない配慮にもご注目を。【2021年8月・湧々堂】

TRE-269
F.ブッシュのベートーヴェン「第9」
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付」
フリッツ・ブッシュ(指)
デンマーク放送SO&cho
シェシュティン・リンドベリ=トルリンド(S)
エリセ・イェーナ(Ms)
エリク・ショーベリ(T)
ホルガー・ビルディン(Bs)

録音:1950年9月7日 ライヴ
※音源:MELODIA M10-46963-003
◎収録時間:62:08
“理性と直感で一時代先を見通すフリッツ・ブッシュのベートーヴェン!”
■音源について
フリッツ・ブッシュ指揮によるベートーヴェンの「第9」の全曲録音は、死の前年のこの1950年盤が唯一。DGGやReliefからもレコード化されましたが、どれもLP1枚での発売でした。ここで採用しているメロディア盤は、余裕の2枚3面カッティング!なお、瑞西Guild HistoricalからCD化もされていますが、過剰なノイズ処理のせいでパサついた響きと化していました。

★フリッツ・ブッシュにとってデンマーク放送響は、ナチス・ドイツを離れてから亡くなる年まで首席指揮者を務めた最重要拠点。その名コンビによる集大成ともいうべき感動的な演奏がここの展開されます。
 まず、第1楽章冒頭の弱音序奏部の緊張が、大袈裟な見栄の前触れではなく、有り余る主張を必死に抑えながらすっきりとした造形美も兼ね備えている点にご注目を。その序奏と主部の爆発とが見事にコントラストを成す様に、並外れたバランス感覚と普遍的な美への志向が垣間見られます。どこまでもイン・テンポを基調に厳しいフォルムを堅持しますが、オケの自発性に根ざした推進力が絶えないので、強引さや窮屈さとは無縁。
 第2楽章のティンパニは、こうでなければという粉砕力!慣習的な管楽器の補強も恣意感ゼロ。トリオ主題がこれほど強靭なイン・テンポ進行を遂げる例も稀で、明るく楽しい音楽に傾く素振りなど見せないこの厳しさは、戦争等の局限の苦難の末に獲得した不屈の意思がなければ実現不可能でしょう。
 第3楽章も、ルバートはほとんど用いず、情緒的な陰影を超えた音楽。敬虔な静謐とは異なる美中の美がここにあります!雑味を排したテクチュアは、音楽の本質のみを厳選し尽くした成果。6:00辺りからはこれ以上ないほど淡白に進行しますが、それだけにその後に登場するピチカートは瑞々しく響き、希望の光を宿すのです。
 終楽章は声楽陣が充実。特に合唱の完成度は極めて高く、「歓喜の合唱」でオケと合唱の縦の線が合っているだけでなく、ここまでリズムと呼吸が一体化している例は稀でしょう。その直前にティンパニのロールが加わりますが、クナ的な猛獣モードに傾かないのがブッシュらしいところ。その合唱を核として、アンサンブルは最後まで弛緩せず、時代を先取りしたようなスタイリッシュなフォルムを纏いながら着実にエネルギーを貯え、コーダではそれを余すことなく放出するのです!【湧々堂・2022年12月】

TRE-270(1CDR)
アンチェル〜ヤナーチェク&ドヴォルザーク
ヤナーチェク:タラス・ブーリバ
ドヴォルザーク:交響曲第6番*
カレル・アンチェル(指)チェコPO

録音:1963年4月16-20日、1966年1月22-24日*(共にステレオ)
※音源:日COLUMBIA WS-3033、OS-2339*
◎収録時間:64:45
“アンチェルが潔癖な響きに込めた強烈な共感と民族魂!”
■音源について
両曲とも、SUPRAPHON原盤。復刻に使用したのは極めて良質な日本COLUMBIA盤。ジャケットはチェコ盤を採用しています。

ヤナーチェクは、「シンフォニエッタ」がなぜか冴えなかったのに対し、「タラス・ブーリバ」は彼の特色である引き締まった造形力と揺るぎない内燃パワーが完全に調和した名演!第1曲の冒頭のテーマは淡白なフレージングながら色彩的なニュアンスが濃密に刻印されているので、独特のロマンの香気が横溢。戦闘シーンやコーダの追い込みも、響きの凝縮力が尋常ではありません。第2曲は、色彩的な魅力が更に浮き彫りに。楽想変化の対応も無慈悲なまでに機敏かつ生々しく、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」同様、人間ドラマをベースにした音楽の素材の特色を浮き彫りにするアンチェルのセンスは、傑出しています。終曲最後の開放感とテクチュアの安定感も盤石。この作品を緊張感を維持しつつ、これほど精妙に描ききった演奏も珍しいでしょう。
 これと好対照のアプローチを見せるのがドヴォルザーク。響きにもテンポにも無駄がないのは言うまでもないですが、作品をを立体的に浮き上がらせることより、牧歌的な側面の育みを優先しているので、知らずに聞いたらアンチェルの指揮だと気づかない人も多いのではないでしょうか。アンチェルは、作品を自分の美学に引き寄せる引き寄せるタイプではなく、一定の合理性は堅持しつつも自らを作品の側にピタッと嵌め込むセンスにおいても史上屈指の存在だと、この録音で確信した次第です。
 例えば、第1楽章冒頭の不純物皆無のテクスチュア。通常アンチェルはそれを更にシェイプアップさせて室内楽的な精緻な響きを生み出すことが多いのですが、ここでは、その引き締め操作を感じさせません。しかも、その絶妙な緩ませ方を全楽章で貫徹。決して短絡的に楽章単独の雰囲気に合わせているのではなく、スコア全体を俯瞰し集約させて一貫した流れを生み出しているのです。コーダで一瞬音楽が静まりますが、そこでのノスタルジーはワーグナー風の堅牢さを目指していては生まれないはずです。
 第2楽章は、何と言ってもチェコ・フィルの潜在的な素朴な響きが命。アンチェルの仕事はそれを清潔に維持するのみですが、4:54からの舞曲風のフレーズや、その直後の突然の断末魔のような響きが濁りがちなシーンでも素朴さと美しさを共存させているのは流石です。
 アンチェル特有の透徹美を最もストレートに感じるのが第3楽章。特に中間部の5:26以降のアンサンブルの制御がそのまま音楽の気品に結びついている様は、息を呑むばかり。
 終楽章では遂に揺るぎない造形力を発揮しますが、響きの純度の高さはもちろん不変。楷書スタイルで一点一画を丁寧に描くことに徹し、ボヘミア的色彩を添加する必要もなし。それで聴き手を惹きつけてやまないのは、誰よりもその作品を愛し、魅力的に再生できるという強い自負が演奏の根幹に流れているからでしょう。9:17のルフト・パウゼには民族の誇りを感じずにはいられず、何度聴いても胸が熱くなります!【湧々堂・2023年1月】

TRE-271
ハンゼン〜ベルリンでの協奏曲録音

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番*
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
コンラート・ハンゼン(P)
ウィレム・メンゲルベルク(指)BPO*
ウィルヘルム・フルトヴェングラー(指)BPO

録音:、1940年7月11日ベルリン*、1943年10月30(31)日(ライヴ)、 共にベルリン、フィルハーモニーホール
※音源:PAST MASTERS_PM-18*、Melodiya M10-460067
◎収録時間:65:56
“ハンゼンとフルトヴェングラー、双方の強烈なシンパシーが完全融合!”
■音源について
ベートーヴェンはフルトヴェングラー・ファンの間でも名演として知られている録音。初出は1969年の英UNICORN盤ですが、1楽章冒頭の咳払いが不自然に消されていおり、「運命も」もカップリングされており詰め込み感が拭えませんでした。ここで使用したのは後発のメロディア盤ですが、収録はこの1曲のみで、咳払い(元々大音量ではない)の処理もなく、ピアノのタッチも明瞭。DGのLPと似たような音質に思えます。なお、他の多くの例と同様に、この録音日も30日か31日が、戦火で資料が消失して厳密には確定できないようです。チャイコフスキーは、TELEFUNKEN音源の復刻。ハンゼンは、同曲を後にサヴァリッシュとの録音も遺しています。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でもこの4番は「女性的」と形容されることが多いですが、この演奏はそんな一面的な捉え方で収まるはずがなく、ベートーヴェンならではの精神的な深みと広がり、この作品ならではの静と動の対比の妙味など、全ての要素がそうあるべきだと確信できる形で内包されている点で傑出した名演です。しかも、作品の真価を知り尽くした上で自身の表現力ぶつけるという次元を遥かに超え、人生の全てを捧げて何の代償も求めない尋常ならざる魂の表現は、音楽家のセンスのみならず、時代背景も無関係ではないことを考えると、同様の緊張感を持つ演奏が今後聴けるとは思えません、故・宇野功芳氏も「この<第4>に関するかぎりバックハウスよりも遥かに見事だ」(フルトヴェングラーの全名演名盤』)と称賛しています。
 第1楽章冒頭のピアノ・ソロで、希望と不安が入り混じった詩情が見事に結晶化されていることに先ず息を呑み、その全てを優しく大きな懐で受け止めるフルトヴェングラーの指揮!とは言っても、フルトヴェングラーが受け身に徹しているのではなく、ハンゼンとフルトヴェングラー双方が互いの只ならぬ表現に触発され、主導権の優劣など発生し得ない程の一体感溢れる演奏が最後まで続くのですから、その素晴らしさは例えようもありません。9:05から超低速で深々と歌うハンゼンが次第にテンポを上げる箇所の互いの寄り添い方!10:58から、音量を弱めることなく堅固なタッチ貫徹し、曖昧な雰囲気に流れるのを回避しているのも印象的。カデンツァがこれまた聴きもの。ベートーヴェンの自作で開始し、途中からこの直前に書かれた「熱情ソナタ」の断片を含むハンゼンの自作に移行するという、4分に及ぶ大作です。
 第2楽章はピアノとオケの掛け合いにおいて、これ以上に含蓄を湛えた演奏など実現可能でしょうか?ハンゼンのピアノはルバートとの究極形ともいうべき迫真の表情に満ち、タッチが極美ながら旋律の美しさに陶酔しているだけの演奏ではないのです。フルトヴェングラーの気力もいかにも全盛期のそれで、次第に消沈する過程の中にもリアルなドラマを感じさせます。
 終楽章はどこにも「女性的」な部分など存在せず、内燃エネルギーで精神を極限まで昇華し尽くします。そして。奇跡的なコーダの追い込み!
 チャイコフスキーはピアノも指揮も、この曲の技巧的な側面を曲芸的に披露することなく、自然な感情のうねりを大切にしたアプーロチ。ペダルの使用もテンポの揺らぎも抑制し、一点一画を丁寧に打鍵するハンゼンに対し、メンゲルベルクがしびれを切らしたようにまくし立てるような場面(特に終楽章)もありますが、結果的に互いの協調がうまく達成されています。あの辺りのフルトヴェングラーの場合の化学反応との違いにもご注目を。なお、サヴァリッシュとの再録音は、これよりもっと禁欲的に聞こえます。【湧々堂・2022年8月】

TRE-272
ムラデ・バシチのモーツァルト
フリーメイソンのための葬送音楽 K. 477*
交響曲第46番ハ長調 K. 96*
交響曲第26番変ホ長調 K. 184*
行進曲ニ長調 K. 335-1
セレナード第9番 「ポストホルン」
行進曲ニ長調 K. 335-2
ムラデ・バシチ(指)
ザルツブルク・モーツァルテウムO

録音:1964年5月、1960年代後期*(全てステレオ)
※音源: KING RECORD SH-5230、ORBIS 79-271*
◎収録時間:75:44
“笑顔と涙が美しく共存するモーツァルトの中のモーツァルト!”
■音源について
全てオイロディスク音源。ポスト・ホルンと行進曲は、1966年にキング・レコードから発売された日本初出盤を採用。オイロディスクの初出盤は、「ポストホルン」が2つの行進曲に挟まれる形で収録されていましたが、このレコードではホストホルンの後に2つの行進曲が収録されているので、この復刻ではオリジナルどおりの配列にしています。

★ムラデン・バシチ(ドイツ語読みでバジーク)(1917-2012)はザグレブ出身で、1960〜69年モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者を務めた名匠。オケに染み込んでいるイディオムに任せ過ぎず、自身のモーツァルト愛と信念を確実に注入することで、生き生きとした普遍的なモーツァルト像を打ち立てています。
 まず驚くのが、「フリーメイソン」冒頭の管楽器のバランスの良さと低音の威力!野太さの中に人間的な温かみを湛えたその響きには、作り込んだような要素は微塵もなく、どこまでもピュア。バシチの音作りの特徴が如実に表れています。葬送音楽であること誇示するかのように重さと暗さで塗り固めた演奏とは異なり、大き過ぎない編成によるハーモニーは常に見通しがよく、リズムもキリッと立ち上がるという健康的なスタイルなので、長調に転じた瞬間に垣間見れる「明るい涙」が際立ち、それが聴き手の涙もも誘う…、そんな演奏は他に見当たりません。そして最後の和音の見事な調和!正に浄化された美がここにあります。
 「ポストホルン」は、宇野功芳氏も激賞した名演。1967年の再発盤のライナーノートには「同曲レコード中、疑いもなくベストであって、第5楽章以降の美しさは言葉につくせない。強めに吹きならすポストホルン、そして終楽章のテンポの良さ。それは優美で洒落たウィーン趣味とはまた違う…」とあります。
 気の置けない仲間と楽しく演奏しているだけのようでいて、アンサンブルの凝縮力は極めて高さは、楽想のエッセンスの共有力の強さの為せる技と言えましょう。第1楽章は、テンポ自体は快速でもどこかローカルな雰囲気を湛えているので、人懐っこいニュアンスが自然と滲み出ます。「人懐っこい」と言えば第3楽章のフルート、オーボエ、ファゴットのソロがまた屈託のない表情に溢れ、モーツァルトが体に染み付いている強みをしみじみ痛感。終楽章は宇野氏の言うように、このテンポでなければ表出されないであろう愉悦感が満開。特に展開部でのニュアンスの多彩さ、愉しさは無類で、これぞモーツァルトを聴く醍醐味と言えましょう。【2022年10月・湧々堂】

TRE-273(1CDR)
イッセルシュテット/シューベルト&ワーグナー
シューベルト:「ロザムンデ」*〜間奏曲第1番/間奏曲第3番/バレエ音楽第1番/バレエ音楽第2番
ワーグナー:「ラインの黄金」〜ワルハラへの神々の入城
 「ワルキューレ」〜ワルキューレの騎行/魔の炎の音楽
 「ジークフリート」〜森のささやき
 「神々の黄昏」〜ジークフリートのラインへの旅/ジークフリートの葬送行進曲
ハンス・シュミット=インセルシュテット(指)
北ドイツRSO

録音:1955年12月7-15日(モノラル)
※音源:米Capitol P-18021*、仏ODEON XOC-113
◎収録時間:70:28
“自然な佇まいの中に作品の本質を見出すイッセルシュテットの揺るぎない信念!”
■音源について
全てキャピトル音源。ワーグナーの「魔の炎の音楽」と「森のささやき」は、イッセルシュテット唯一のセッション録音。TAHRAのCDは、高域寄りの音が耳障りに感じました。※トラック9の冒頭は、使用レコード盤に起因する背景ノイズが目立ちます。予めご了承ください。

★イッセルシュテットと最も相性の良い作曲家はシューベルトだと心底思わせるほど、この「ロザムンデ」は絶品!端正な造形の中で手作りの風合いを持つフレーズがどこまでも自然に息づき、心を捉え続け、たった4曲の抜粋なのが残念至極です。
「間奏曲第1番」は、いかにもドイツ的な勇壮な響き自体が極めて音楽的ですが、オケの自発性と求心力の高い指揮が相まって一切弛緩を生じず、それがコーダの最後の和音の調和力と余韻の素晴らしさに結実しています。
有名な「間奏曲第3番」での木目調の弦の響きも、まさにこの曲のためにあるようなもの。それに何という優しい笑みと語り掛けでしょう!ト短調のトリオ(1:32〜)の呼吸の深みとときめきは、美しさだけを目指したフレージングでは成し得ないはず。「間奏曲第1番」と同じ素材による「バレエ音楽第1番」では木管のハーモニーの妙を存分に堪能。「バレエ音楽第2番」の程よく丸みを帯びたリズムの愉悦も聴きものです。
一方のワーグナーは、何と言ってもドイツ本流の燻し銀の響きが格別!作品の様式美に配慮しながら風合いを大切にする姿勢はシューベルトと変わらず、誇張や扇動とは無縁。味わい重視のファン必聴の名演です。
特に「ヴァルハラ城への神々の入場」は、弦のさざ波の幻想、ピチカートの艶やかさは無類で、後半に向けても耳を突き刺すような金管の咆哮には目もくれずに全体のエネルギーを見事に増幅させる手腕を目の当たりにすれば、ワーグナー嫌いの方の心も溶けるのではないでしょうか?
「森のささやき」の木管群の瑞々しさも単なる感覚美ではなく、これほど生命の息吹まで確実に表出される例も稀でしょう。俊敏なテンポ・ルバートの切り替えが、音楽に一層の躍動を与えている点にもご注目を。最後の畳み掛けはアンサンブルの縦の線をバシッと合わせるだけでも痛快ですが、この演奏は「それ以上」の音楽的要素が充満!【湧々堂・2023年1月】

TRE-274
フー・ツォン〜若き日のショパン録音Vol.2
マズルカ集
 Op.6-2/ Op.7-4/ Op.17-2
 Op.41-3/ Op.17-4/ Op.24-2
 Op.59-1/第58番変イ長調.遺作
 第49番ヘ短調Op.68-4.遺作
 第52番変ロ長調.遺作
幻想ポロネーズ*
マズルカOp.67-2*/ Op.67-4*
夜想曲Op.62-1*/ Op.62-2*
マズルカOp.50-3*
フー・ツォン(P)

録音:1959年2月London, Conway Hall、1956年3月2-6日チェコ* (全てモノラル)
※音源:MFP MFP-2026、PARLIAMENT PLP-159*
◎収録時間:67:40
“身を粉にして心の呟きを吐露するフー・ツォンの独壇場!”
■音源について
前半のマズルカ集は、英W.R.Cのオリジナル録音。後半は、フー・ツォンのショパン・コンクール第3位&マズルカ集受賞の翌年にチェコを訪問した際の貴重な録音(Supraphon音源)。

★フー・ツォンの音楽性の本質を掴むのには、何と言っても「マズルカ」が不可欠!現にここに収録されているマズルカの全てが異次元の名演であることは明らかです。最初のOp.6-2から感動の極みで、これほど身を粉にし尽くした演奏が他の誰に可能でしょうか?第1音が鳴った瞬間、独り言のように暗く呟く風情に惹きつけられ、主部以降は心の律動と呼吸が絶妙なルバートに転嫁して揺らぎ続けます。同時に、吸い付くような弱音の感触に感涙!それに比べ、ただそれっぽくテンポを揺らしているだけの演奏がなんと多いことでしょう。
 そのルバートのセンスは、高速で駆け抜けるOp.7-4でも同じ。まさに天性の感受性の為せる技。長調作品であっても開けっぴろげの明るさに傾かないのもフー・ツォンならでは。Op.17-4はどこまでの繊細でありながら、そこに宿る精神は軟弱さとは無縁。その芯の強さが音楽の構成をキリッと引き締めているので、単に耽溺的に酔いしれる演奏では感じられない気品が常に備わっているのです。
 Op.59-1は、独創的な転調と共に音彩も確実に変化する様に息を呑みますが、特に中間部において、左右の声部の完璧なバランスをとりながらきめ細かくニュアンスを刻印し、かつドラマティックに音楽を押し上げるセンスにも唖然とするばかり。
 ショパンの「白鳥の歌」である「第49番」も、その沈みきった心情をフー・ツォン以外に代弁できる人を想定できません。
 チェコ録音も、全て聴き逃がせません。Op.62-2の至福感が曲の進行と共に増幅され、終いには全人類を大きな愛で包み込むような空気感まで醸し出すのも印象的ですが、幻想ポロネーズの素晴らしさは更に空前絶後!各主題の連動力と全体の凝縮力の高さ、マズルカの時とは異なる確信漲るタッチの魅力は他の追随を許しません。第2部後半の長いトリルも呼吸の持久力が維持され、第3部冒頭での序奏の再現での低音の響きの意味深さも必聴。【2022年8月・湧々堂】

TRE-275
超厳選!赤盤名演集Vol.8
ギーゼキングのシューベル

3つの小品D.946〜第2番*
即興曲集Op.90&142(全8曲)
ワルター・ギーゼキング(P)

録音:1956年10月*、1955年9月(全てモノラル)
※音源:東芝 AB-9047-48
◎収録時間:70:04
“新即物主義者という縛りを解いて味わいたいギーゼキングの真心の歌!”
■音源について
東芝の「赤盤」をいろいろ比較試聴した結果、音が良いという噂は間違いではないという結論に至りました。音にしっかり芯が宿り、音場は豊かに広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別で、英国EMIから技術者を招き、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術が集約されています。残念ながら、1971年に御殿場に大工場を新設して以降の音質は下降の一途を辿り、赤盤もなくなりました。
 ただ、初期の赤盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高いので、CD-R復刻に際してはそれが回避された第二版以降の盤を選択せざるを得ません。採用したのは、英COLUMBIAと同一スタンパー XAXを使用した赤盤。LP2枚に「即興曲全8曲+3つの小品D.946」が収録されています。

★何度も申し上げて恐縮ですが、ギーゼキングは常に「新即物主義者」というイメージから、機械的で情に欠けるピアニストと捉えられがちで、特にモーツァルトの作品では、作曲当時には存在していなかったという理由でペダル不使用を原則としているため、感覚的にドライに感じやすいという点も、そのイメージに拍車を掛けたのかも知れません。しかし、そのピアニズムの本質は、聴けば聴くほど熱い共感を込めた「ひらめき型」であり、決して完璧を目指したものではないことはないことは明らかです。特にライヴ録音ではミスタッチも少なくなく、粗暴なまでに打鍵が飛び交うこともしばしばですし、本当に情に乏しいなら、切なさと慈しみに満ちた「トルコ行進曲」(1953年録音)は実現しなかったはずです。
 その独特の哀愁は決して偶然ではなく、真のロマンチストによる芸術だと確信させるのが、シューベルトの「即興曲集」です。中でもOp.142-3は驚くほどの低速で歌の限りを尽くし、これほど内面からじっくりと愛を紡ぐ演奏を他に知りません。しかも、音楽の楚々としたフォルムも同時に確保。それらの要素をバランスよく配置する感覚も音楽の感じ方と同様に理論先行ではなく、一瞬の閃きに拠るところが大。冒頭のテーマでは一音ごとに音価が異なって聴こえるほど絶妙なルバートを見せ、その過剰スレスレの入念なニュアンスは第4変奏までまで変わりません。第5変奏でようやく天衣無縫な流れが顔を出しますが、その上声部の可憐さが無類!終結のノスタルジーの湛え方も感動的です。
 Op.90-2は演奏時間が4分6秒と相当高速ながら、一息による軽やかなフレージングのために不可欠なテンポだと合点。録り直し可能なスタジオ録音にもかかわらずミスタッチをそのまま収録しているのは、無頓着というより、芸術の目標は「ノーミス」ではないという信念の表れではないでしょうか。
 Op.90-4の2小節目の最後の8分音符はペダルでふわっと流すのが通例ですが、ギーゼキングはそれを回避。孤独な呟きが一層リアルに迫ります。この箇所、ぜひ内田光子の演奏と聴き比べてみてください。中間部は太い芯を伴ってドラマティックに進行しますが、呼吸が実に深く心地よい緊張が持続し、シューベルトの音楽の繊細な佇まいを決して汚しません。
 シューベルトには「歌」は不可欠ですが、その音楽に相応しい歌い方があるはずで、それを直感的に感知してそのまま音化させたピアニストとして、ギーゼキングの存在を無視してよい理由など全く思い当たりません。ギーゼキングというピアニストに対して、ぼんやりとしたイメージしか持たれていない方にもオススメです!
なお、「即興曲集」のヘレン版の楽譜には、ギーゼキングによる運指が書かれており、その合理性に師のカール・ライマーとの共通点を垣間見ることができます。【2022年8月・湧々堂】

TRE-276
S・ゴールドベルク指揮によるモーツァルト
アイネ・クライネ・ナハトムジーク*
交響曲第5番K.22
交響曲第21番K.134
交響曲第29番K.201
シモン・ゴールドベルク(指)
オランダ室内O

録音:1960年12月6-10*、1961年7月6-8日(全てステレオ)
※音源:日VICTOR SFON-10516*、FONTANA SFL-14073
◎収録時間:65:02
“高潔かつ清新!S.ゴールドベルクの美学がここに凝縮!”
■音源について
ビクターが発売していたフィリップス音源盤は、同時期のキングレコードと同様、極めて優秀。特にオケ作品において、等身大のスケール感を再現しているように感じます。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」1曲だけでも、ゴールドベルクが真のモーツァルティアンであることは明らか。ゴールドベルクばらではの味わいを十分に湛えながら、迫りくるのは只々モーツァルトの音楽のみ。関係の深かったカザルスの露骨なまでに濃厚な演奏とは好対照と言えます。
 第1楽章、0:30からのヴァイオリンのヴィブラートの一瞬の幻想!ノン・ヴィブラートでこのニュアンスを無きものにすることがいかに残酷であることか思い知ります。快速イン・テンポを通しながらも少しもメカニックに走らず、全ての音符には慈愛が横溢。しかもその愛の注入には強引さがないので、品格ある音楽のフォルムが保たれているのです。
 第2楽章も清潔なヴィブラートが琴線に触れますが、その至福な空気を一変させる3音(5:15〜)の毅然とした切込みは、ゴールドベルクの美学の象徴と言えましょう。
 第3楽章中間部の透明なテクスチュアも聴きものですが、終楽章は、オケの人数設定の絶妙さがものを言い、軽妙さを保ちつつ響きの厚みと内声の無理のない連動を確保しているのが流石。
 そのゴールドベルクのモーツァルト観が更に飛翔するのが交響曲第29番で、クレンペラーやカンテルリと並ぶ同曲トップクラスの名演です。
第1楽章はかなりの高速進行。このテンポでは、特に連続する18分音符が「ただ弾いているだけ」に陥りがちですが、ここでは「アイネ・クライネ…」同様、機械的な運動性以上の凛としたニュアンスが確実に沸き立っているのです。
第2楽章も、単なる感覚的な美を超えた至芸。各パートのブレンドと自然な呼吸が常に一体化しており、だからこそアンサンブルの精緻さも有機的な佇まいの醸成に繋がっているのでしょう。そして、終楽章ぼあまりにも素晴らしいピュアな生命力の飛翔!0:50からの装飾音がかくも瑞々しく弾んだ例が他にあるでしょうか?バーンスタイン&VPO盤の同じ箇所を比べると、まるで別の曲のようです。その音型の微笑みの表情が、曲の最後にはピークに達する様にもご注目下さい。【2023年3月・湧々堂】

TRE-277
マタチッチの「シェエラザード」
ムソルグスキー(R=コルサコフ編):交響詩「禿山の一夜」
R=コルサコフ:序曲「ロシアの復活祭」*
 交響組曲「シェエラザード」#
ロヴロ・フォン・マタチッチ(指)
フィルハーモニアO*

録音1958年9月4日、9月5日*、9月1-2日#(全てステレオ)

※音源:仏TRIANON TRI-33114、TRI-33107*
◎収録時間:70:03
“マタチッチの常人離れした色彩力と心理描写力を全投入した空前の名演集!”
■音源について
英COLUMBIA盤ではなく、音抜け感が上回ると思われるフランス盤を採用しました。ジャケ写は「シェエラザード」のAngel盤。

★3曲とも究極の名演!テンポの緩急の変化に劇的効果を与え続け、そのテンポ自体には一定の重量感が宿っている点、音像の色彩が強固にイメージされている点など、R=コルサコフの曲の再現に必要な要素の全てが完備している演奏を、ステレオ初期とは思えぬ録音の良さがそれを余すことなく伝えています。
 「はげ山」は、1:16からのギア・チェンジと加速の妙は何度聴いてもゾクゾクさせられ、3:01からの畳み掛けの隙のなさ、3:17からの束の間の静寂から湧き上がる霊気も特筆もの。これだけ入念に表情を与えながら下品さがないというのは、なんというバランス感覚でしょう!魔物退散後の静けさに漂う温かみ、夜明けを伝えるクラリネット・ソロの何と感動的なことででしょう!
 「ロシアの復活祭」は、郷愁の表情と芸術的な昇華が常に同居し、色彩の幅を極限まで拡大した恐るべき名演。冒頭の管楽器のユニゾンから土臭さがたっぷり塗り込まれているのを他の演奏で感じたことがありません。この導入部でニュアンスが緩慢になる演奏が多い中、ここでもマタチッチのアンサンブルを凝縮する力が発揮され、アレグロに突入する際のキラキラ感とときめきも鮮烈な印象を残します。5:59からの「キリストは起てり」のテーマでは、その後もテンポを落とし、慈愛を持って奏でた例は他になし!明らかにこの作品の核に据えています。12:44からの艷やかな色彩も比類なし!
 名指揮者と呼ばれる人は、各音楽に対する確固たる音色イメージを持っていますが、マタチッチのそれは古今の指揮者の中でその資質がずば抜けており、フレージングには常に繊細さと大胆さが同居していることを考えると、「シェエラザード」ほど最適な作品はないでしょう。
第1楽章では、的確な絵画的描写のみならず、千変万化する心象風景も徹底的に刻印。そこから立ち昇る世界は聴き手の想像力を上回るものばかりなので、ただその凄さに酔いしれながら音楽の航海に身を委ねればよいという安心感に包まれます。第2楽章は、“王子のテーマが”最初にファゴットで登場する際は即興的な軽みを持って奏で、その後様々な楽器へ引き継ぐ中で次第にフレージングのフォルムに硬軟を与えながら王子の実像を表現するセンスに脱帽。中間部では、管楽器の巧さのみならず、4:21からのピチカートのニュアンスの入念さをお聴き逃しなく。第3楽章は、若い王子と王女の姿が、シルキーかつ官能的に浮上。中間部は舞曲の性格を全面に出す演奏がほとんどですが、マタチッチはここでも官能の空気を捨て去ることはありません。終楽章は、オケの技量とセンスの高さが不可欠であることを再認識。オケの全能力を引き出しつつ、スコアの実音化を超えた真のドラマ描いた点で、これ以上高次元に達した演奏が他にあるでしょうか?各奏者のヴィルトォーゾ的な痛快さを全面に出すだけでも愉しい楽章ですが、それだけで終わらないのがマタチッチ。例えば、埋もれがちな走句を浮き立たせる手段としては、他のパートの音量を抑えるのが通例ですが、そんな小賢しい真似をせず鉄壁のバランスを確保。しかも圧倒的な推進力も同時に遂行するのですから、これはもはや魔法でしょう。縦の線がズレては途端に興ざめとなる6:11からの速い走句も、完璧!そこから難破シーンに向けての展開はまさに手に汗握る緊張の連続。最新技術を駆使した録音の鮮烈さによるインパクトとは違う、音楽的な手応えをぜひ体感してください。ラストのヴァイオリン・ソロの持続音もパーフェクト!【2023年7月・湧々堂】

TRE-279
ノイマンのブルックナー
グリンカ:幻想曲「カマリンスカヤ」#
リスト:交響詩「前奏曲」
ブルックナー:交響曲第1番*
ヴァーツラフ・ノイマン(指)
ライプチヒ・ゲヴァントハウスO

録音:1967年10月17日#、1965年12月13-14日ライプツィヒ救世主教会*、1968年2月22-23日 (全てステレオ)
※音源:独DECCA _SXL-20087*、ETERNA 8-25-847
◎収録時間:74:34
“ノイマンの端正な造形力にオケの魅力が完全バックアップ!”
■音源について
全てETERNA音源。ノイマンは、1964年からライプチヒ・ゲヴァントハウス管の音楽監督に就任。プラハの春へのソヴィエの介入を東ドイツが賛同したことに抗議して1968年に辞任。その後のチェコ・フィルでの活躍はご存じのとおりです。

★ノイマンのチェコ・フィル時代の録音の多くは高い評価を得ていますが、端正で丁寧な音作りである反面、どこか根源的な力が希薄だと感じる方も多いのではないでしょうか。腰高のサウンド自体はチェコ・フィルの持ち味であり、マタチッチのような巨匠でも、チャイコフスキーの録音において重厚な音を引き出すのに苦労していることが窺われますし、スプラフォンの録音やホールの特性も関係しているかもしれません。
 では、そのそもノイマンが目指す音色とはどんなものなのか?その答えはゲヴァントハウス時代の録音にあると思います。過度な重圧感を避け、楷書風のフォルムを守る姿勢はこの頃から変わっていないことがまず分かります。しかも、この頃の録音は、マーラーの「5番」など名演揃い!そう考えると、ノイマン&チェコ・フィルの録音の薄味感は、清潔さを重んじるノイマンの音作りがチェコ・フィルの個性によって過度に際立ってしまった結果とも言えそうです。
 一方で、その前のたった4年間だけのゲヴァントハウス時代の録音は、指揮者ノイマンの魅力の本質を知る意味で聴き逃がせないものばかり、中でもこのブルックナーは、マーラーの「5番」等とと並ぶ名演で、ノイマンの威圧感を嫌う音作りがゲヴァントハウス管のいぶし銀の響きに清潔感を与え、野武士的な演奏では気づかない木工細工のような佇まいをもたらしている点で、他に類を見ない魅力を誇ります。
 第1楽章冒頭の弦の刻みは確実に音色ニュアンスが滲み、単調なリズムしか感じさせない演奏との差にハッとさせられます。随所に顔を出す管楽器も意味深く呟き、トゥッティでは伝統美を有していた頃のこのオケの魅力が炸裂。峻厳にして端正な造形力で惹きつけます。必要以上にルバートを効かせない第2主題の歌い口も、後年まで一貫していたノイマンの特色が現れていますが、オケの音色と相まって、その伸縮性の少ないフレージングが素朴さを更に押し広げます。展開部の混沌とした楽想も、再現部への以降の進行も少しも物々しくなく、ノイマンの音楽性と作品との親和性が独特の説得力を醸成。コーダでは、フェルマータ後の弦(13:12)が灼熱のフォルティッシモを掻き鳴らし、後年のノイマンからはあまり想像できない凝縮度の高い響きを発するのです。
 第2楽章も見通しの良いテクスチュアを基調とし、折り目正しくフレージング。ヴィオラのアルペジオ以降の副主題にみる純朴さなどは、ノイマンの誠実さの賜物。3楽章の荒くれたた楽想も徹底して楷書で制御し尽くしますが、内面に静かな闘志を湛えます。中間部でドヴォルザーク的なノスタルジーを感じるのは、気のせいでしょうか?
 「火のように」という指示のある終楽章でも端正な造形美を崩さないのを目の当たりにすると、ノイマンにとってこのスタイルが単なる個人的嗜好ではなく、譲れない矜持であることをまざまざと思い知らされます。その信念の達成に向けた意志力が音楽に精神的な強さを与え、野暮ったいドイツ流儀一辺倒の演奏とは違う均整の取れた安定感をもたらすのです。第2主題に入る前や、展開分後半のヴァイオリンとチェロの執拗な応酬等で、かなり熾烈な響きを発しますが、クナッパーツブッシュ的な毒気はなく、構築美一筋で貫く頑固さそのものが音楽に独特の生命力を注入しているかのよう。そして極限まで魂が昇華したコーダの凄さ!大げさな大伽藍に貶めないノイマンの品格があればこそのこの感動!ゲルハルト・ボッセやペーター・ダムが在籍していた頃のゲヴァントハウス管の魅力とともに、とくとご堪能ください。
 教会での録音なので残響は長めですが、響きが混濁することなくブルックナーに相応しい雰囲気を醸し出しているのも嬉しい限りです。【湧々堂・2022年8月】

TRE-280
ダイゼンロート/ゴールデン・マーチ集
●ドイツ・オーストリア編
ハイドン:ドイツ国歌#
 レオンハルト:アレクサンダー行進曲#
 マイスナー:故郷をあとに(シュテットル行進曲)#
 フリーデマン:フリートリヒ大帝行進曲
 フチーク:剣士の入場#
 シュランメル:ウィーンはウィーン#
●イギリス編
 アーン:ゴッド・セイブ・ザ・クイーン+
  ルール・ブリタニア+
 グラハム:勝利者#
●フランス編
 リール:ラ・マルセイエーズ*
 ブランケット:サンブル・エ・ミューズ連隊行進曲*
 モウガー:金髪美女*
●アメリカ編
 スミス:星条旗
 ツィンマーマン:錨を上げて
 クロフォード:アメリカ空軍の歌
 グルーバー:アメリカ野砲隊の歌
 スーザ:海を越えた握手
  闘技士/シカゴの美人
  星条旗よ永遠なれ/雷神
  士官候補生/ワシントン・ポスト
  エル・カピタン/忠誠
マジョール・ダイゼンロート(指)
バッハバタリオン軍楽隊
フランス軍楽隊*、
ドイツ軍楽隊#
英国軍楽隊+

録音:1950年代末〜1960年代初頭(ステレオ)
※音源:日Victor SGW-7020、SGW-7021
◎収録時間:61:29
“ドイツ魂溢れる強靭なリズムが体の芯から鼓舞!”
■音源について
米VOX原盤。日本のビクターから「ゴールデン・マーチ」Vol.1&2として発売されていた2枚のLPの中から、ダイゼンロート少佐指揮による演奏の全てを録音。なお、楽団名が国別に分かれていますが、レコード解説によると、実体は全てバッハ・バタリオン軍楽隊とのこと。

★バッハバタリオン軍楽隊は「戦後、西ドイツの再軍に合わせて西ドイツ国防省親衛隊軍楽隊として発足。団員は音楽大学出身の優秀な奏者のみで編成されていました。発足当初から1962年の引退までこの楽団のレベルアップに貢献して続けたのがダイゼンロート少佐で、その豊かな表現力、ドイツ的な重厚味を期待するファンを裏切らない凄み、楽団の牽引力と、少佐という肩書からは想像できないセンスに圧倒されること必至です。
 「フリートリヒ大帝行進曲」は、音楽にも造詣が深く、バンドの中にクラリネットの使用を命じたドイツ軍楽隊の父と言われるフリードリヒ2世を讃えた作品。当然この楽団が手中に収め尽くした作品でのはずで、その精神的高揚感は無類。ただもっと驚くのは、そのスタイルをスーザにもそのまま持ち込んでいること!各国のテイストに寄せた演奏などそもそも念頭になく、ただ自分たちの流儀を通す実直さ、不器用さが表現に昇華され、聴き手の心と体を揺さぶるのです。
 特にオススメは「シカゴの美人」(トラック19)。強靭に腰が入ったリズムが火を噴くスタイルが最もハマった逸品。灼熱の高揚感が尋常ではないのに威圧感がなく、むしろ清々しく響くのは、そこに嘘がないからでしょう。
 有名な「剣士の入場」も一点一画を疎かにしない剛毅な演奏で、トリオにおけるルバートの呼吸感は、ダイゼンロートの高い音楽性を如実に表しています。
 ただ軽快なだけのマーチでは飽き足らない方はもちろん必聴ですし、あれこれ理論武装した演奏が評価されがちな昨今、体に染み付いたリズムと歌心を素直に出すという音楽表現の基本を体現するダイゼンロートのような姿勢は、ますます意義深いものとなることでしょう。【湧々堂・2022年5月】

TRE-281
F.レーマン〜モーツァルト:作品集1
オペラ序曲集*
 後宮からの誘拐/フィガロの結婚、
 ドン・ジョヴァンニ/コシ・ファン・トゥッテ、
 劇場支配人/魔笛/イドメネオ
交響曲第40番ト短調K.550
フリッツ・レーマン(指)
BPO*、ウィーンSO

録音:1952年7月9日*、1953年5月3-4日(共にモノラル)
※音源:DGG LPEM-19040*、29311
◎収録時間:64:20
“今こそ傾聴すべき、楽器や奏法を弄るではない真の原点回帰!”
■音源について
共に1960年代のドイツ盤を採用。

★フリッツ・レーマン(1904-1956)は、ドイツ・マンハイム生まれ。ソプラノ歌手ロッテ・レーマンの弟。アルヒーフレーベルから後にリヒターに引き継がれることになるバッハのカンタータなどの指揮を託されて、グラモフォンには管弦楽の王道レパートリーの録音を多く遺していますが、ステレオ録音が本格化する前に他界したせいか、その真価は広く認識されているとは言えません。
 レーマンの芸風を知るには、上記のバッハやブラームスのドイツ・レクイエムなどの声楽を伴う作品は必聴ですが、オーケストラ作品でまず傾聴すべきはモーツァルトでしょう。端正で内省的な音作りは、ここに聴く「40番」との相性が抜群。決して激情に任せることがないので、第一印象は極めて地味に感じられますが、聴けば聴くほど無垢のモーツァルトがひたひたと迫ります。
 第1楽章は上品に滑り出しますが、そのまま平板に流れるのではなく、高い集中力で全体を凝縮しながら起伏の大きな音楽を展開。第2楽章は極めて遅いテンポを取りながら息の長い呼吸が弛緩することなく一貫しているところに、レーマンの楽想への趣味の良い寄り添い方を痛感。これみよがしに語るのではない、どの箇所も一音一音が大切に育まれています。特に展開部ではゆったりとしたモードに甘んじることなく音楽を熱く内燃させている点にもご注目。第3楽章は実に美しく清潔なインテンポが印象的。それが中間の平和な光を湛えたニュアンスと確かなコントラストも成した例は稀でしょう。終楽章も感情を制御し、声部バランスを吟味しながら作品の造型を丁寧に紡ぎ出します。こういう真面目なスタイルの演奏はとかく無為無策なだけの場合もありますが、レーマンはそれとは明らかに異なることを実感していただけることでしょう。
 一方、序曲集においては、本編のドラマを連想させるニュアンスを誰しも期待するところですが、過度なテンポ・ルバートや外面的効果を狙わず純音楽的なアプローチは不変。ただ、「後宮からの逃走」「魔笛」などのテンポの速い曲ではオケの自発性に任せて推進力を確保している点もあり、レーマンが決して柔軟性のない堅物ではないことが分かります。特に「魔笛」の一途な推進性は比類がないほどで、BPOの巧さとも相俟って、この序曲の最高位の録音だと確信しています。「フィガロの結婚」は、いわゆる「名演」という形容が似合わない名演!これほど指揮操作を聴き手に意識させず、楽譜に書かれた音符以外の素材を排除し、音楽の力だけで押し通した演奏は珍しく、しかも、その真摯なアプローチがトスカニーニ的な強烈な圧ではなく、自然で人間的な配慮の上に為されているので、そこから導かれる音楽に窮屈さは皆無。それが美しくも伸び伸びとしたニュアンスとして結実し、確実に訴えかけるのではないでしょうか。
 フリッツ・レーマンの指揮には、今まで聞き慣れた作品であっても「そもそもこういう曲だったな〜」と聴き手を原点に立ち返らせ、作品の素晴らしさを再認識させる作用があると思うと、50代で世を去ってしまったのは実に痛恨の極みです。【2023年11月・湧々堂】

TRE-282
スワロフスキー/シューマン&スメタナ
スメタナ:歌劇「売られた花嫁」序曲
 交響詩「モルダウ」
シューマン:交響曲第1番「春」*
 交響曲第3番「ライン」#
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン祝祭O、
ウィーン国立歌劇場O*、ウィーンSO#、

録音:1958年頃、1959年*、1955年1月19&21日#(全てモノラル)
※音源:W.R.C TT-17、仏ODEON XOC-819*,#
◎収録時間:75:27
“模範解答的な佳演の域を超えるスワロフスキーの熱き表現!”
■音源について
シューマンの「春」の一部で音が震える箇所がありますが、マスターに起因するものと思われます。

★特にシューマンの2曲は、同じくウィーンのオケを振ったベートーヴェンの交響曲と並ぶスワロフスキーの魅力を知る上で欠かせない録音。「春」は、何と言っても冒頭のファンファーレが通常版より三度低いマーラー版を採用しているのが特徴ですが、演奏そのものが実に意欲的で、文字通り春のワクワク感一杯の快演!序奏部から細部まで表情に抉りが効いており、主部はキビキビしたテンポで居ても立っても居られない愉しさを炸裂させますが、内声の抉りは変わらず貫徹。コーダ9:01からのイン・テンポ進行は、脂肪過多の造がこの作品に不釣り合いだと言わんばかりに確信に満ちています。第2楽章も耽溺せずに推進性を維持しつつロマンの息吹をふんだんに放出。第3楽章はオケの響きに惚れ惚れ。その古き佳き音色と洗練されたスワロフスキーの音楽作りとのブレンド感が絶妙。終楽章は2:57からのホルン合奏とフルートのトリルの美しさを経て、春の日差しが優しく微笑むかのような再現部冒頭の表情が忘れられません。
 「ライン」(こちらは通常バージョンと思われます)は、第1〜2楽章が相当な高速イン・テンポ進行ですが、スワロフスキーが速めのテンポを取る際の常として、ここでも強引さのない自発性が音楽に伸びやかな生命感を与えています。第4楽章も荘厳さを誇張せず、ルバートを抑えて淡々と進行しますが、少しも無機質感はなく、この作品の「陽」の部分に比重を置いたアプローチの中でのこのスタイルは、むしろ見事に調和が取れています。終楽章もイン・テンポが基調で、後半4:02でも少しもテンポを落とさないは珍しいですが、良質なモノラル録音が立体感のある音像を刻んでいるおかげで、まさに淀みを知らない川の流れを具現化しています。なお、楽章開始直後の9小節目のトランペットが割愛されていますが、そういう版があるのでしょうか?少なくとも、トスカニーニ、ワルター、セル、ジュリーニ、レイボヴィッツでは同じ現象は確認できませんでした。
 2曲のスメタナも共感度満点!特に、「モルダウ」のテーマにおけるハープとヴァイオリンの織りなす色彩とホルン合奏の深淵さは古今を通じて傑出しており、中間の舞曲のリズムを丁寧に育みながらの温かなスウィング感、夜の場面のきめ細やかなフレージングと艶やかさはもはや恍惚境と言ってよく、本場チェコ勢の演奏でもここまで愛を注ぎ尽くした例は稀でしょう。
【2023年6月・湧々堂】

TRE-283
カークパトリック/フォルテピアノによるモーツァルト
ピアノ・ソナタ第17番 変ロ長調 KV 570
組曲 ハ長調 KV 399
幻想曲とフーガ ハ長調 KV 394
ピアノ協奏曲第17番 ト長調 KV 453*
ラルフ・カークパトリック(フォルテピアノ)
アレクサンダー・シュナイダー(指)*
ダンバートン・オークスCO*

録音:1952年、1951年3月*
※音源:W.R.C CM-30、日Victor LH-25*
◎収録時間:71:33
“楽器へのこだわりが音楽表現と不可分であることを証明する最高の実例!”
■音源について
バッハ、スカルラッティの権威者カークパトリックの貴重なモーツァルト録音。ソロ作品はバルトーク・レコード音源で、作曲家バルトークの息子ピーターが録音を担当。協奏曲はハイドン・ソサエティ(ロビンズ・ランドンが1949年に設立)音源。カークパトリックのモーツァルトはモダン・ピアノによる録音もありますが、ここに収録した作品は、全てジョン・チャリスが復元したフォルテピアノを使用しています。

★カークパトリックは若き日にランドフスカに学んでいますが、その奔放な表現方法をそっくり踏襲するのではなく、基調をなすのはあくまでも端正な造形力と温かなフレージング。
 ソナタの第1楽章は、大型の現代ピアノでは表出困難な小気味良いリズムとチャーミングなニュアンスが魅力で、展開部へ滑り込む際の心のときめきの明確な音化ぶりには息を呑みますし、第2楽章の慈愛溢れるタッチから引き出されるピュアな歌心には、ハ短調の中間部の悲哀を頂点として愛が充満!終楽章の推進力も、その原動力はあくまでも歌!
 「組曲」の“アルマンド”以降における呼吸の深さと長さは、控えめなルバートと絶妙なバランスで共存。理屈に固執してニュアンスの薄い昨今のピリオド・アプローチとは、そもそも音楽の愛し方が違うのでしょう。そのことを更に意識させ、心揺さぶるのが協奏曲
 まず、シュナイダーの指揮が醸し出す纏綿たる空気!いきなり心がとろけること必至。このゆったりとしたテンポでなければ浮かび上がらないニュアンスの豊穣さは盟友カザルスを思わせますが、その濃厚な進行にカークパトリックが完全に歩調を合わせて作品への愛を注入し尽くすのですから、涙を禁じえません。第1楽章は、展開部の後ろ髪引かれるようなルバートの妙味にはもう涙腺崩壊!第2楽章では、特に休止部分で顕著なように、余韻を存分に噛み締め尽くした上でニュアンスを絞り出し、丁寧に音楽の明暗を描き分けます。終楽章は、究極のアレグレット。そのたおやかなテンポで大切に育んだ音のみを表出。中間の悲しみと後半の幸せの絶頂感とのコントラストと連動も見事。間違いなく同曲トップクラスの名演であることはもちろんのこと、モーツァルトの天才的な筆致を楽譜の表面上で解析ではなく、音符の裏側の意味まで掘り下げ、感じ取ったまさに歴史的名解釈と言える逸品です。【2022年11月・湧々堂】

TRE-284
超厳選!赤盤名演集Vol.9〜_メニューイン/バルトーク&ベートーヴェン
バルトーク(シェルイ編):ヴィオラ協奏曲
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲*
ユ−ディ・メニューイン(Vn)
アンタル・ドラティ(指)
オットー・クレンペラー(指)*
ニュー フィルハーモニアO

録音:1966年9月28-29日、1966年1月22,22,24,25日*(共にステレオ)
※音源:TOSHIBA AA-8257、HA-1186*
◎収録時間:66:24
“弱音のニュアンスに逃げず呼吸の持久力で作品の精神を徹底音化!”
■音源について
「東芝の赤盤」は、音にしっかり芯が宿り、音場は豊かに広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別です。英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術が結果的に赤盤に集約されたのではないでしょうか。事実、1971年に御殿場に大工場を新設して以降、音質は下降の一途を辿り、赤盤もなくなりました。
 ただし、初期の盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高く、CD-R復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。採用した2枚の赤盤は、音質も盤質も極めて優秀です。。

バルトークは、希望と不安が入り混じったような冒頭テーマの微妙なニュアンスの全てを可能な限り炙り出そうと専心。その決して陰鬱に傾くまいとするメニューインの意思の強さに先ず打たれます。第1楽章5:12付近からのリズムの湧き立ち方はまさに希望の象徴として響き、不遇な最晩年のバルトークが、必死に光を見出そうとしている姿とも重なります。後半8:22からは諦めと慰めが交錯し、まるで自問自答しているかのような語り掛けが印象的。しかもフレージングの息がとても長く、その間に緊張がしっかり保たれています。第2主題(2:44〜)では、ニュアンスを後から上乗せするのではなく、あくまでも内面から抉り出す姿勢をはっきり確認でき、それがまた音楽の淀みのなさに繋がっていると思われます。
第2楽章の清らかな空間表出は、暗く埋没しないメニューインの音作りの特徴とも合致して、これまた説得力大。終楽章は、ヴィヴァーチェを技巧重視で突っ走るだけでやり過ごす演奏が多い中、メニューインはここでも「語り」を忘れません。とかく技術的な弱さを指摘されることの多いメニューインですが、技巧の完璧さよりも譲れないものがあるからこそ編集等の細工をせず世に問うているのです。第一、音楽を破綻させるような不備など他の録音も含めて聴いたことがありませんし、ここでは生命力漲る真の技巧を披露しています。特に最後の追い込み方!感情に任せることなく音楽の芯のみを加熱させていくので、痛快さとは違う余韻が漂うのです。
そして忘れてならないのは、初演も努めたドラティの確信的な指揮。録音の良さも踏まえると同曲最高峰の名演あることは間違いないでしょう。
 メニューインによるベートーヴェンの協奏曲は、フルトヴェングラーとの共演盤ばかりが注目されがちですが、ステレオ録音の全てが高い説得力を誇ることは疑いようもありません。特にシルヴェストリ盤とクレンペラー盤では、微細なニュアンスまでそっくりの演奏であることから、この作品のアプローチはこの時期に完全に固まり絶対的な確信を持っていたことが窺えますが、それでもマンネリに陥らずに瑞々しい表情を保っているのですから驚きです。もちろん、両者に甲乙など付けられませんが、あえて言うなら全体の一体感はシルヴェストリ盤、個々の芸の深みを味わうならクレンペラー盤でしょうか。今回はバルトークとの録音の質感の近さからクレンペラー盤を紹介させていただく次第です。
 「平和で楽しく仕事を終える」ことを最優先させる指揮者などほとんどいなかった時代に、唯我独尊を貫き通した最後の大指揮者はクレンペラーではないでしょうか?第1楽章冒頭のティンパニから孤高感全開!低弦の張り出しも強靭。決して枯れた芸ではありません。9:23からの緊張は、思わず腰が引けるほど。
メニューインはどこまでも自然体を貫き、神妙さな雰囲気を繕う素振りなど微塵もなく、こちらも自身の信じる芸を貫徹。11:25以降に見られるように、これみよがしの弱音を用いずに旋律線を克明に描いて末端まで血を通わせるスタイルも盤石。12:44からの旋律への移行時にほとんどリテヌートせずに淡々と進行。必要以上のコントラスト付加を避けて呼吸の長さと緊張の持続が図られています。カデンツァは感覚的な美しさやスマートさとは無縁。恐るべき集中を見せながら人間的な温もりも決して蔑ろにしない芸は、まさに人間力の為せる技としか言いようがありません。その後のテーマ再現も弱音に埋没せずにくっきりと旋律を引き出すことの重要さを思い知らされます。
 弱音に逃げないと言えば第2楽章。特に高音の上行音型の結尾は媚びたような表情に陥りがちですが、それをしないのがメニューイン。終楽章はまずクレンペラーの指揮が最高次元に昇華!と同時にメニューインも内燃力をマックスに引き上げ、その相乗効果で破格の名演奏を実現させています。第2副主題(8:32〜)がこれほどハリツヤを保持して飛翔する例も珍しく、その神々しさはクレンペラーの美学とも絶妙な化学反応を起こして感動的ですし、カデンツァ以降は全てが渾然一体となって押し寄せる音楽の力に言葉を失うばかりです。【湧々堂・2023年1月】

TRE-285
ヘブラー/シューマン&シューベルト
シューマン
:子供の情景Op.15*
シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番D.664
 ピアノ・ソナタ第18番D.894「幻想」
イングリット・ヘブラー(P)

録音:1959年8月28-31日*、1960年4月(全てステレオ)
※音源:日Victor SFL-7992*、蘭PHILIPS 835363AY
◎収録時間:67:18
“ヘブラーのピアニズムの品格を支える恐るべき打鍵制御力!”
■音源について
ヘブラーがフィリップスへ録音を開始して間もない頃の録音を集めています。この頃の録音を日本のビクター盤で聞くとタッチがやや骨太に響く傾向があり、「子供の情景」第6曲ではその特徴がプラスに作用しています。一方のオランダ盤はそれとは好対照にすっきりとした響きが特徴的で、ピュアなシューベルトの音楽にピッタリと言えましょう。
ヘブラーが遺したシューマンのピアノ独奏曲の録音は、他には「蝶々」があるのみ。シューベルトの2曲は共に1969年の再録音もあり。

★シューマンの精神的な「闇」や「屈折」はどう考えてもヘブラーには不釣り合いですが、この「子供の情景」はヘブラーの慈愛に満ちた音作りと見事に合致しています。強調したいのは、その慈愛の表情に媚びる様子が皆無なこと。第4曲「おねだり」や第7曲「トロイメライ」などは、もっとしんねりとした表現も可能でしょうが、ヘブラーはルバートを最小限に抑えてタッチの柔らかさのみで勝負。第5,第6曲などは感覚的には淡白で、特に第6曲は、へブラーに対して「温和」なイメージしか抱いていない人にとって、このリズムの力感は意外かも知れません。
 シューベルトでも作品と一定の距離を保つことによる自然なニュアンス浮揚を目指していますが、シューマンよりも踏み込んだ解釈が聞かれます。実は私がヘブラーに対して巷間語られる「上品さ」だけではない直感力とタッチの制御力の凄さに気付いたのは、シューベルトの「幻想ソナタ」の第3楽章がきっかけで、モーツァルトの演奏の素晴らしさを本当に実感したのはその後でした。
 第1楽章は、自然発生的なニュアンスを大切に育み続け、思慮深くあろうとして流れが淀み、ニュアンスがやたらと曇っている演奏とは大違い。展開部の楽想の起伏の激しさも、純粋なシューベルトらしい「もがき」として迫り、決して大仰に傾きません。そして、大注目の第3楽章は、何度聴いても奇跡的な美しさ!いくら賞賛しても足りません!まずテンポがこれ以外のものを想定できませんし、何と言ってもリズム自体が微笑みながら語り続ける演奏など他にあり得ません!しかも驚くのは、9年後の再録音も、よほど慎重に聞かない限り区別がつかないほど表情がまるで瓜二つ!それほど作品に対するイメージとビジョンが体の中にしっかり根付いており、決して一時の思いつきではないということです。終楽章主題の8分音符の4連音の素晴らしさもこれに通じるところがあり、愛、気品、微笑み、語り口…全ての要素が芸術的に昇華し尽くすと、これほど得も言われぬ音になるのです!
 「第13番」第1楽章の主題は一度聴いたら耳から離れない名旋律ですが、この純真無垢な美しさを過剰なペダルやルバート、持って回った低速テンポで台無しにする演奏の何と多いことか!かねてからそう思う方なら、このヘブラーの演奏には大きく膝を打つことは必至!真のシューベルティアンと呼ぶのになんの躊躇もありません!第2楽章も小細工など無用。陰影の変化を丁寧に再現しているだけなのにこの余韻の深さ、手応え!終楽章は、全体の響きの凝縮力の高さが音楽に一層の気品と輝きをもたらし、見事な緊張感のうちにドラマを完結させます。硬軟自在に使わけるこのピアニズムは、へブラーはモーツァルト以外は聴いたことがないという方は、きっと衝撃を受けることでしょう。
 アーチストの中には極端にレパートリーを限定している人がおり、それは時にプロとしてあまりにも怠慢に感じられる場合ももありますが、ヘブラーのレパートリーの狭さはそれとは異なり、意味のある必然だったと言えましょう。ヘブラーは2023年に93歳で天寿を全うしましたが、その芸術の真価と本質は広く認識されたでしょうか?「教科書的にモーツァルトばかり弾いていた人」ではないということにこのシューベルトを通じて気づいてくれる人がいれば、彼女もきっと喜んでくれることでしょう。【2023年8月・湧々堂】

TRE-286
超厳選!赤盤名演集Vol.10〜シルヴェストリの「幻想」
ファリャ:「はかなき人生」〜間奏曲&スペイン舞曲第1番
 「恋は魔術師」〜火祭りの踊り
ベルリオーズ:幻想交響曲*
コンスタンティン・シルヴェストリ(指)
パリ音楽院O

録音:1961年1月31日&2月1日、1961年2月6-8&11日*(全てステレオ)
※音源:東芝 WS-23 、WS-10*
◎収録時間:64:26
“伝統に阿らないシルヴェストリに必死に食らいつくパリ音楽院管!”
■音源について
状態の良い「東芝の赤盤」の音の素晴らしさを堪能するシリーズ。英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の高い技術の一端を知ることができます。
但し、初期盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高く、復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。
 ここでは、日本の「ワールドレコードクラブ特選」と称するボックスに収められている赤盤レコードを採用。「幻想」終楽章のラストは残響が尻切れのように聞こえますが、正規CDでも同様でしたのでマスターに起因する現象と思われ、修正は行いませんでした。
 なお、1971年に御殿場に大工場を新設して以降はレコードの音質は下降の一途を辿り、赤盤も消滅しました。

★この「幻想」は、奇想天外な解釈の面白さというより、シルヴェストリの作品に対する純粋な共感力とオケの発信力を前面に立てたアプローチが特徴的で、シルヴェストリの芸風を単に奇を衒ったものと捉える向きも納得せざるをえないでしょう。とは言え、並々ならぬイマジネーションが隅々に敷き詰められていることに変わりなく、1楽章2:30以降の木管の意味深い浮遊や、3:11からの強弱の入念な対比、5:30からの固定観念のメロディのもがき、12:25からのピチカートの生々しさなど、凡百の演奏とは明らかに次元が異なります。コーダの木管による低音の響きはパリ音楽院ならではの魅力!
第2楽章は冒頭の弦のみならず、ハープの末端の音まで克明に描写し、3:07で唐突なアクセントを施すなど、優美さ流れすぎて不安と苦悩を無視した演奏にはないこだわりが心を捉えます。4:27〜4:35までのテンポ操作は指揮者のセンスが問われる箇所ですが、ここでの誤魔化しのないニュアンスにもご注目を。
3楽章は全体を通じて最大の聴きもの!イングリッシュホルンはもちろんのこと、6:27以降のチェロの明るい音色など、パリ音楽院特有の響きで初めてハッと気づかされる表情が満載。雷鳴が遠ざかる際の呼吸の脱力感も実にリアルで、その後の孤独な情景が絶妙な遠近感を伴って迫る演奏など他に滅多にないでしょう。フランス人以外の指揮者がパリ音楽院を振った「幻想」は、先にアルヘンタ盤がありますが、ニュアンスの突き詰め方の差は、この楽章を聴けば歴然でしょう。
 明るい音色と言えば、第4楽章冒頭のホルンも他では聴けない風合い。その後、終楽章に掛けては生々しい原色で塗り固めながら血湧き肉躍る進行を見せ、洗練のヴェールを完全に払拭。ミュンシュやクリュイタンスの「幻想」がどんなに熱狂的でもフランス的なエレガンスを捨て去ることがないのに対し、シルヴェストリは全く唯我独尊。音色以外の全てのニュアンスを自身のイメージに塗り替え、それに対してパリ音楽院管は対抗するのではなく、むしろ想定外のニュアンスが溢れ出るのを楽しんでいるかのように熱演を展開。
名手揃いのオケに対して、その伝統的流儀をも超えて表現意欲を奮い立たせてしまうシルヴェストリの指揮者としての力量は、もっと広く認識されるべきではないでしょうか?【2023年4月・湧々堂】

TRE-287
ワルター・ゲール/メンデルスゾーン&チャイコフスキー
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」*
 「真夏の夜の夢」〜序曲/スケルツォ/夜想曲/結婚行進曲
チャイコフスキー:「地方長官」Op.78#
 エレジー.ト長調 「イワン・サマーリンの思い出に」#
 幻想序曲「ロメオとジュリエット」#
ワルター・ゲール(指)
チューリッヒ・トーンハレO*、オランダPO

録音:1950年、1951年#
※音源:独Concrt Hall MMS-2005、米Concrt Hall MMS-66#
◎収録時間:76:56
“史上最高の「ロメ・ジュリ」に見るゲールの妥協なき心理描写力!”
■音源について
「真夏の夜の夢」は序曲も含め全6曲が録音されていますが、ここでは収録時間の関係で、「間奏曲」と「ベルガマスク舞曲」の2曲は割愛しております。

★まずは「フィンガルの洞窟」の感動的なこと!シンフォニックな響きを十分に湛えながら、絵画的描写のみならず細やかな心理描写を盛り込んだ見事なアプローチです。4:17付近からの各木管は、即興的に歌いながら繊細に連携。その直後のテンポの弛緩にも共感が溢れ、展開部の入り(4:47〜)で第1音を置くまでの余韻を感じ方は鳥肌もの!4:57から急速にテンポを速めて不安を煽りますが、それを受けてフルートが恐怖感を秘めた迫真の響きを発するのです。7:11から第3主題を歌い抜くクラリネットの巧さと情感の滲ませ方も、史上屈指の素晴らしさ。コーダの追い込みもまさに渾身。曲の結尾のリテヌートがこれほど美しく収まった例も珍しいでしょう。
 「真夏の夜の夢」では、特に“夜想曲”のホルンが繰り広げる隈取りが克明で深淵な響きが心を打ちます。
 チャイコフスキーの「地方長官」は極端に録音が少ないですが、これを聴くとその理不尽さを痛感するばかり。チャイコフスキー自身は駄作だと言っていますが、ゲールは渾身の力作であると確信していることは、チェレスタを含む楽器の色彩の綾を着実に紡ぎ出していることからも明らかです。
 演奏頻度の少なさは「エレジー」も同じですが、ここで登場するテーマはいかにもチャイコフスキー節で、中間部の身を引き裂くような迫力とのギャップがたまらない魅力。それを知らしめてくれるのは、もちろんゲールの入魂の解釈のおかげ。
 そして、空前絶後の名演「ロメオとジュリエット」!この録音を聴かずしてこの作品は語れないはずですが、そうなってはいないのが現実です。18分台という演奏時間からも分かる通り、音像の濃淡付与の的確さの点でも妥協なき劇的演出においても凝縮度の高さが尋常ではなく、まさに息もつかせず結末まで聴き手をグイグイ牽引しまくります。まず序奏部のテンポの速さに腰を抜かしますが、そうでなければ表出し得ない切迫感に完全脱帽。第2主題へ移るまでの呼吸と陰影の深さも並外れていますが、7:22からの弦のフレーズのようにレガートを排して呟く演出など、表情の多彩さは一筋縄では収まらず、7:49から希望の光が差し込むような色彩変化を確実に実現した演奏も他に知りません。後半はまさに激闘の連続で、16:02の衝撃のルフト・パウゼを経ての超硬マレットを駆使したティンパニの乱れ打ち!!コーダにおいても、これ以上は不可能と思われるほどの感情の没入ぶり。これさえあれば「ロメ・ジュリ」は十分と言っても過言ではありません。【2023年6月・湧々堂】

TRE-288
若き日のマゼール/モーツァルト
交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」 K. 504
交響曲第39番 変ホ長調 K. 543
ロリン・マゼール(指)
ベルリンRSO

録音:1966年9月23日-9月1日(ステレオ)
※音源:英PHILIPS 6856019
◎収録時間:62:10
“モーツァルトで浮き彫りになるマゼールの「ケレン味のない」音作り!”
■音源について
マゼールによるモーツァルトの交響曲のセッション録音は、1960年代のに数曲(1,28,25,29,38,39,40,41番)遺したのみ。

★マゼールの芸風について語るとき、「ケレン味満点」という表現がよく使われます。そのイメージを決定づけたのは、来日時のベートーヴェンの交響曲ではないでしょうか?ティンパニを追加しまくり、埋もれた対旋律を強調したりと、楽譜至上主義の人からは擬い物扱いさえされました。「作曲家が楽譜に書き込めることには限界がある」との考えのもと、スコアをあえて再構成することを終生貫徹したマゼールですが、私はその根底にあるのは強烈かつ純粋なな音楽への愛情であり、その愛を演奏に確実に内包させる手腕はは古今を通じて屈指のものだと思っています。
 そう思う最大の理由は、マゼールの引き出す音楽から「こうやって鳴らせば面白いでしょ?」という説明めいたものを感じたことがないからです。それはおよそ「ケレン味」とは正反対で、美しいと思うもの浮かび上がらせるにはこうするしかない!という当然の欲求から出た表現なので、感覚的な異質感を超えて聴く者を感動へと導くのです。その「こういうアプローチもありますよ!」的な音楽作りをする指揮者はむしろ最近増えている気がしており、残念でなりません。本気でそうしたいという切実さがなければ理屈しか伝わらず、聴き手は「そうですか。だから何?」と言うしかない。研究発表であって表現にはなり得ず、感動とも無縁です、そういう演奏こそ「ケレン味満点」と呼ぶべきではないでしょうか?
 マゼールの真の音楽愛を裏付けるもう一つの事実は、彼が遺した数少ないモーツァルトの素晴らしさ。見せかけの効果を狙って何とかなる代物ではないのです。「プラハ」」は、最晩年にN響を振って創意と瑞々しさを兼ね備えたたむせ返るほど濃密な名演を聴かせてくれましたが、それより半世紀も前のこの録音も然り。しかも驚くべき完成度!
 第1楽章序奏部に、愛のない音などどこにも見当たりません。1:40からの低弦とファゴットの連携ラインを克明に浮上させるのはいかにもマゼールですが、そこに無頓着な演奏と比べると、全体のニュアンスの豊かさと意味深さは雲泥の差。主部4:42からのヴィブラート全開の第2ヴァイオリンも愛に溢れかえり、4:55のヴィオラの突出もこれなしの演奏が考えられなくなるほどの説得力。その間の木管群による色彩表出にも余念なし。展開部はさらに声部の連動が密となり、その凝縮力には唖然とするばかりです。
第2楽章は、ニュアンスの微妙な移ろいへの反応が機敏かつ的確で、特に4:08からの色彩の陰りをこれほど感じ取って順応した演奏も稀でしょう。
第3楽章ではテンポのセンスの良さに感服。ごく標準的なテンポですが、そのテンポ自体が音楽的と呼びたいほど、全ての楽想が確実にニュアンスを発揮し尽くしており、その直感的なセンスはモーツァルト演奏において不可欠な条件でしょう。
 宇野功芳氏の指揮した演奏について何度も申し上げた通り、いわゆる常識的な演奏ではない演奏に対し単純に変な演奏だと決めつけることほど虚しいことはありません。そうシなければいられない真意を感じ取れず、未知の感動を期待せず、自分の好みしか信用できない…、そんな人間ではないと自覚されている全ての方なら、マゼールのモーツァルトの比類なき魅力を認識ていただけることでしょう。 。【2022年9月・湧々堂】

TRE-289
コリングウッドのエルガー:小品集
組曲「子供部屋」*/弦楽セレナード*
朝の歌/「伊達男ブランメル」〜メヌエット、
「スターライト・エクスプレス」〜我が古き調べ#/子供たちへ
愛の挨拶
「子どもの魔法の杖」第2組曲〜飼いならされた熊#
3つのバイエルン舞曲 Op. 27〜子守歌
夢の子供たち(全2曲)
組曲「子供部屋」〜シリアス・ドール
「子どもの魔法の杖」第1組曲〜セレナード/太陽の踊り
フレデリック・ハーヴェイ(Br)#
ローレンス・コリングウッド(指)
LSO*、ロイヤルPO

録音:1953年11月11日(モノラル)*、1964年3月(ステレオ)
※音源:英COLUMBIA 33CX-1030*、英ODEON PCSD-1555
◎収録時間:79:23
“エルガーの小品に感覚的な美しさ以上の息遣いを注入した比類なき名演!”
■音源について
晩年のフルトヴェングラー&VPOによるベートーヴェンの交響曲等のプロデューサーとしても知られるコリングウッド。プロデューサー業を始めるまでは指揮活動がメインで、20代はロシアを拠点に活動。ロシア革命後はイギリスへ帰国し、ロシア・オペラの紹介に尽力しました。ステレオの「小品集」はプレスによっては部分的に音が濁る箇所がありますが、やっとクリアな音を発するレコードに出会えました。この中の「夢の子供たち」第2曲と「3つのバイエルン舞曲」(全3曲)は、1953年にも録音しています。

★まず、モノラルでは、「弦楽セレナード」が同曲トップクラスの名演。第1楽章の慈しみぬいたフレージングと生き生きとしたリズム、第2楽章の2:18以降の胸を焦がす歌い回しと、その後の響きの増幅加減、声部バランスの見事さ等、指揮者コリングウッドのセンスの高さを証明するのに十分なもの。
 そして、エルガーの小佳曲集の録音で真っ先に挙げなければならないのも、このコリングウッド盤!同種の録音は他にも存在はしますが、表面的な可憐さに照準を当てすぎて、こじんまりとした置物のような演奏が多いのが実情です。その点コリングウッドの演奏は、共感の深さと度量の大きさが呼吸の深さに繋がり、美しい旋律に人肌の温もりが常に寄り添っているのです。「朝の歌」は、序奏部の響きからしてイマジネーションが明確で、柔らかな陽の光をを浴びながら平和に朝を迎えられたことに感謝する姿までも想起させる絶妙な響き!主部のテーマもはハイセンスなアゴーギクを盛り込み、響きも他の演奏ではもっと整然としたものが多いはず。第2テーマがこれまた涙を誘い、恥らいながら溢れる感情を抑える素振りがたまりません。「伊達男ブランメル」のメヌエットも、切なさの極み。しかも構えが大きく懐も深いので、説得力が違います。有名な「愛の挨拶」は、先へ進むのをためらうかのように一音ごとの慈しみが尋常ではなく、これ以上の演奏は想定できません。他の曲もそうですが、良い意味で響きに雑味を残している点も、聴き手の琴線に触れる要因と言えましょう。 「夢の子供たち」も、何の予備知識も不要!
 恐らくエルガー自身の知遇を得ていたであろうコリングウッドは、きれいに演奏するだけでも様になるこれらの小品を通じて、表現することの大切を再認識させてくれるのです。 【2023年9月・湧々堂】


TRE-290(2CDR)
ヴェルディ:レクイエム レオニー・リザネク(S)
レジーナ・レズニック(Ms)
デイヴィッド・ロイ(T)
ジョルジオ・トッツィ(Bs)
フリッツ・ライナー(指)
シカゴ・リリック・オペラO&cho

録音:1958年4月3日シカゴ、リリック・オペラ・ライヴ(モノラル)
※音源:Melodram MEL-238
◎収録時間:95:53
“ライナーのエモーショナルなアプローチが作品の核心に肉薄!”
■音源について
放送用音源。アナログ盤でのリリースは、2枚組のLPのみと思われます。ほぼ未通針のディスクからの復刻です。なお、演奏後の拍手は、余韻が台無しですので削除しています。

★ライナーの「ヴェル・レク」は、VPOとのセッション録音(1960年)がもちろん大名演には違いないですが、モノラルというハンデを考慮しても、音の凝縮度も感銘の深さもこのライヴの方が優ります。
 共に90分を超える恐ろしく入念なアプローチは共通していますが、第1曲目の冒頭から2:48までを聴き比べると、VPO盤の合唱は終始最弱音に徹しているのに対し、こちらは露骨に感情を吐露して語り掛けるので強弱の振幅も大きいですが、これこそがこの演奏全体の特徴を象徴。合唱の巧さ、造型美の強固さも早々に確信します。
 “キリエ”以降の4重唱がかなりの低速なのも共通していますが、シカゴ盤ではそのテンポ感を4人全てが体に染み込ませているので説得力が高く、その技術と安定感もVPO盤を上回ります。続く“怒りの日”はVPOよりテンポが速いだけでなく、精神も体力も完全に燃焼させるだけの土台が備わっていることがこの曲の再現には不可欠であることを再認識。“Quid sum miser”におけるソプラノは、VPO盤のL.プライスの声の魅力も捨てがたいですが、ここでのリザネクの歌唱は、感覚美を超えてより切実に胸に迫ります。“Rex tremendae”2:27以降は、VPO盤では格調が際立つのに対し、シカゴ盤は全員が芯から燃え立ち、心からの救済の叫びそのもの。“Recordare”はソプラノとメゾソプラノとの親和性が極めて高く、感銘もひとしお。“Ingemisco”は、ビョルリンクの輝かしさよりもこのロイドの精悍な歌唱に打たれる方も多いことでしょう。バスのトッツィは両盤に参加しており共に名唱ですが、ここではライナーの果敢な表現に驚かされます。“Lacrymosa”は、全曲中の白眉!気の遠くなる程の低速を貫きながら絞り出す悲しみは、冷徹なライナーのイメージからは程遠いだけに余計に胸に迫り、またこのテンポ感を完全に意味あるものに昇華しているレズニックの歌唱も、いくら称賛しても足りません。そして、5:03に訪れる奇跡的な高潔美!ここもVPO盤とテンポ感こそ瓜二つですが、内実は大違い。“Sanctus”で決して浮かれず、最後に厳格なリテヌートを見せるのはいかにもライナー流。“Agnus Dei”は、冒頭ユニゾンが一切の色彩を消し、完璧なフォルムでフレージング。ヴェルディがここをあえてユニゾンにした理由がこれほどひしひしと意味深く迫る例も稀でしょう。最後の“Libera me, Domine”は、VPO盤においては、リズムの切れが後退しているのを「風格」と呼ぶこともできますが、作品の真髄に迫り、高い説得力で迫るのは、このシカゴ盤だと強く確信する次第です。【2023年10月・湧々堂】

TRE-291
デルヴォー/ラヴェル管弦楽曲集(Command録音)
道化師の朝の歌*/スペイン狂詩曲
ボレロ/ラ・ヴァルス*
「ダフニスとクロエ」第2組曲*
ピエール・デルヴォー(指)コロンヌO

録音:1961年5月17日パリ・サル・ワグラム(ステレオ)
※音源:米Command Classics CC-11005SD*、CC-11007SD
◎収録時間:69:00
“デルヴォー特有の色彩力と官能美がもたらすラヴェル作品の底知れぬ魅力!”
■音源について
★デルヴォーが、米Command(35mmマグネチック・フィルム)に録音したラヴェルの作品(LP2枚分)の全てを収録。デルヴォーは、「ラ・ヴァルス」と「スペイン狂詩曲」をConcert Hallにも録音。「ボレロ」は他に仏HMV、独OPERAへの録音も遺されていますが、「道化師の朝の歌」と「ダフニスとクロエ」はこれが唯一の録音。なお、これらの録音は日本では最初キングレコードから発売され、70年代には日本コロムビアから廉価盤で再発売されましたが、当初の鮮烈なサウンドは後退していたことは言うまでもありません。

★デルヴォーの指揮によるラヴェルを聴くたびに、ラヴェルのオーケストラ作品を再現するには色彩センスが不可欠だと痛感するのみならず、体を張ったその放射力は古今を通じて並ぶものがないとさえ思えます。
 「道化師の朝の歌」はその典型で、冒頭部の弦のピチカートの瑞々しさと眩しさはあまりにも生々しく、ファゴットのソロを皮切りに肉感的なダイナミズムで捻じ伏せるのですからたまりません!ファゴットと言えば、中間部のソロのエロティックな語り口も聴きもの。後半以降はリズムの湧き上がりとキレは増すばかり。その色彩は生々しいことこの上なく、それは決して録音の優秀さだけに起因するものでないことも実感していただけることでしょう。間違いなく同曲の史上屈指の大名演!
 このデルヴォー特有の色彩力とエロスは、これ以降の全ての曲にも共通して注がれており、それがこのレコードの隠れコンセプトでは?と思えるほど。
 「スペイン狂詩曲」では、第1曲冒頭の弦の音型が微妙な強弱を伴って繰り返されますが、単なる音量の変化だけでなく確実に妖しい遠近感が醸成されている点にご注目!第1テーマの呼吸の深さは尋常ではなく、後半のカデンツァはまるで人の肉声のようにリアル。第2曲では、デルヴォーが繰り広げるリズムの躍動には、正確さ以上の意志を伴った弾力が常に宿り、しかもそこに妥協やルーティンな惰性が存在しないのは、ラヴェル作品に掛けるこの名コンビのプライドの高さゆえでしょう。第3曲の0:49以降の弦のアンサンブルの濃厚な艶も、一朝一夕に出せるものではありません。終曲はあまりの情報量の多さに頭が追いつかないほどですが、その強烈なニュアンスを巻き散らかすことなく制御しようとする意志も働いており、デルヴォーの指揮者としてのドライブ能力の高さを窺い知ることも出来ます。
 「ラ・ヴァルス」も、早速冒頭からこの上なく濃厚な語りで度肝を抜きます。先へ進むのを恥じらいつつも誘惑するようなそのフレージングを品位を落とすことなく実現することなど、他に誰が可能でしょう?2:31から急に陽が差し込んだようなハープの鮮烈さに続き、弦のグリッサンドがこれでもかと時間をかけて流線型を描く様にびっくり!これを聴いてしまうと、ほとんどの指揮者がここを素通りしてしまうのに物足りなさを覚えてしまいます。第3エピソード(4:20〜)の急激な畳み掛けの中でサラッとルフト・パウゼを挿入する職人芸、第5エピソード(6:06〜)の一筋縄ではいかないテンポ・ルバートは鳥肌もの!コーダの追い込みは、デルヴォーのダンディズムとダイナミズムが炸裂!もちろん、最後の締めくくりをリテヌートするなど野暮な真似しません!
 「ダフニスとクロエ」で最も印象的なのが、“パントマイム”。テンポの緩急と共に、静謐の空気感をも確実に現出。色彩パレットの豊かさは相変わらず。呼吸はとてつもなく深く、たっぷり余韻を感じながらのフレージングの何という素晴らしさ!“全員の踊り”は一気呵成の迫力に圧倒されますが、ここでも造型美を決して蔑ろにしません。なお、合唱も参加していますが、団体名は表記されていません。
 ラヴェルの色彩を余すことなく引き出しながら、そこに官能美も投入した時の比類なき魅力をどうぞご堪能あれ!【2023年11月・湧々堂】

TRE-292
ストコフスキーのビゼー
「カルメン」組曲【前奏曲/衛兵の交代/アルカラの竜騎兵/ジプシーの踊り/間奏曲/密輸入者たちの行進/アラゴネーズ】*
「アルルの女」組曲第1番【前奏曲/メヌエット/アダージェット/カリヨン】#
「アルルの女」組曲第2番【田園曲/間奏曲/メヌエット/ファランドール】
交響曲第1番ハ長調+
レオポルド・ストコフスキー(指)
フィラデルフィアO*、ヒズ交響楽団#,+

録音:1927年4月30日,5月2&10日*、1952年2月29日#、1952年3月20日+
※音源:日RCA RVC1523*、英RCA VIC1008#,+
◎収録時間:79:58
“50年代のストコフスキーの本能的な美への執着と妥協なき表現!”
■音源について
「カルメン」はSPからのLP復刻。ストコフスキー&フィラデルフィア管の録音を集めた10枚組(1977年発売)の中の1枚を採用。他の曲は英国盤(Large,溝)を採用しています。

「カルメン」は、往年のフィラデルフィア管の各奏者のセンスを存分に堪能。“衛兵の交代”3:48からののトランペットのリズムの感じ方は、全ての音楽家の鏡と称したいほど。“アルカラの竜騎兵”冒頭のファゴットも、コーダのフルート・ソロも然り。
“間奏曲”の弦楽器登場以降のシルクのような感触にうっとりしない人などいるでしょうか?古い録音のハンデを超えて迫る艶やかさは、後輩のオーマンディに引き継がれることになるのです。
 「ヒズ響」を振った他の曲は、これらの曲の最高峰の名演であることは間違いなし!濃密な色艶はもちろんのこと、本能的な美への執着とその表現の妥協のなさは、全てを浄化してしまった1976〜1977年のステレオ盤から見出すのは困難です。
 「アルルの女」第1組曲の“メヌエット”のリズムの弾力と切実さ、中間部のむせ返るほどの香気、“アダージェット”の弱音の官能美、第2組曲“ファランドール”(後半を一部短縮)の生の満喫度全開の推進力と喜び、そして最後の一音の天空に届けと言わんばかりの引き伸ばしなど、他の演奏では望めないものばかりです。
 そして、より強くお薦めしたいのが交響曲!ストコフスキーと言えば先ず派手なスコアの改変が想起されますが、アレンジは人を驚かせるのが目的ではなく、自身が感じる作品の魅力を最高に引き上げる一手段に過ぎなかったことをこの演奏によって痛感させられます。1977年のストコフスキーの最後の録音を聴くと、最後の仕事としてスコアへの忠誠を目指したのかもしれませんが、肉体的老化による表現意欲の減退からか、全てが無作為のまま流れがちでしたが、この録音はもちろん意欲満々。アレンジ云々以前に、とにかく音楽に対して積極的に愛を注入しているので、表現に訴求力があるのです。
 第1楽章は疾走型ではない上にモノラル録音なのに、このハリツヤはどうでしょう!本物の色彩感覚が備わっていれば、モノラルでもその威力がはっきりと音化されるのです。一音ごとにニュアンスをしっかり刻印しつつ、リズムは決してぶら下がらずにキリッと爽快。1:44からのピチカートがこれほど微笑んでいる演奏も他に知りません。4:19では低弦の下降音型の追加がセンス満点ですが、1977年盤ではオリジナルに戻っていました。4:21からのヒュンヒュン鳴りまくる弦や4:43からの強弱の細かい指示も、生煮え感ゼロ!
 第2楽章のオーボエ・ソロは、この作品のイメージからするとやや太めの筆致にも思えますが、ルバートの指示が極めて綿密な上にここまで切実に訴えかけられると、それもむしろ納得。ちなみに、この箇所も1977年盤では常識的なフレージングに徹していました。
 3楽章のトリオは、木管の浮き出しを克明にすることによって牧歌的な空気がリアルに立ち込めます。
 終楽章は、第1楽章と同様1977年盤よりもテンポはゆったりしていますが、音の芯の強靭さは明らかにこちらが上で、第2主題の色合いの絶妙な変化も旋律の魅力もこのテンポでなければ浮かび上がリにくいことは、高速で走る他の録音を聴いても明らかです。その辺の直感的なさじ加減も最晩年にはできなくなってしまったのか?と思うと悲しくなりますが…。
 それにしても、「人生最後の録音」というだけで手放しで持ち上げる風潮は何とかならないものでしょうか?このビゼーはその最たる例で、1977年盤の方が優っているのはステレオ録音(但し残響過多)であることと、オーボエの巧さくらいではないでしょうか?
 いずれにしても、精神力も体力も最高に充実していたと思われる50年代のストコフスキーの究極芸を味わうのに、このビゼーを無視することなどあり得ません!録音もモノラルながら素晴らしく、1977年盤と比べてどちらが「音楽的」な響きを発しているか、言うまでもありません。【湧々堂・2023年1月】

TRE-293
超厳選!赤盤名演集Vol.11〜クレンペラーの「大地の歌」
マーラー:大地の歌
フリッツ・ヴンダーリッヒ(T)
クリスタ・ルートヴィッヒ(Ms)
オットー・クレンペラー(指)
フィルハーモニアO、ニュー・フィルハーモニアO

録音:1964年2月&1966年7月(ステレオ)
※音源:東芝 AA-8100
◎収録時間:63:53
“永遠に光り続ける普遍的芸術の象徴!”
■音源について
「東芝の赤盤」のしっかり芯が宿った音、音場の豊かな広がり、音を発した瞬間に音の粒子まで感じさせる手応は格別!英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の優秀な技術の結晶と言えますが、初期の赤盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高いので、CD-R復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通して最良のものを採用しています。
なお、1971年に新設した御殿場の大工場に移設以降の音質は下降の一途を辿り、赤盤もなくなりました。

★言わずと知れた同曲の不朽の名演奏。晩年のクレンペラーのイメージを覆すアグレッシブな表現と、声楽陣揺るぎなき共感とフォルムが一体化してたこの説得力を超越するものは未だに登場せず、今後も考えられません。
第1楽章でまず耳に飛び込むのは、冒頭における懐の深さとスケール感を兼ね備えたクレンペラーの指揮。老境特有のリズムの弛緩がないので、音量の大きさではなくあくまでも空間の広がりが見事に再現されます。続くヴンダーリッヒは、持ち前の清々しい美声より幾分くすみを帯びた重心の低い音色を発し、その色合いがクレンペラーの敷き詰める色彩と絶妙にマッチして、この楽章に不可欠な厭世観を余すことなく表出。3:45以降のオケのみで奏される箇所は、奏者の顔もクレンペラーの顔も浮かばない程ひたすら音楽のみが淀みなく流れ、そこから導かれる諦観力に言葉も出ません。後半6:16以降、ヴンダーリッヒが放つ内なる叫びの凄さは、何度聴いても鳥肌もの。第2楽章は水墨画を思わせるオケの色彩は世の儚さを知る人間だけが為せる技。ルートヴィッヒの歌唱は、後年のバーンスタイン、カラヤンとの共演盤も高水準ながら、オケのニュアンスとの相乗効果はこの録音には敵いません。第3楽章は何と言ってもテンポが味!3分半を超えるゆったり感の中からしか五音音階ならではのニュアンスは醸し出されないと痛感するばかり。それに歩調を合わせるヴンダーリッヒも、楷書の筆致で丁寧に表情を紡ぎます。終楽章のルートヴィッヒは、バーンスタイン盤では陰のニュアンスに比重が置かれていたのに対し、ここではより自然で大きな構えの中からニュアンスが浮上。「おお見よ、銀の小船のように月が青い空に…」の一節など音楽の構えが大きく、呼吸にも伸びやかさと深みが感じられます。
 人間誰しも人生を悲観的に捉える瞬間はあるものですが、情報が氾濫し、容易に模範解答が見つかる現代においては、一人で悩み苦しむしかない闇の怖さと、やっと見出した一筋の光の有り難さ、美しさを身をもって知る人間とはその「悲観」の意味合いは異なり、それを演奏に投影させる方法も多様化して当然です。しかしこのクレンペラー盤には、時代に関係なく全ての人間が抱える「生きることの難しさ」という命題が内包されており、それを普遍的な芸術美にまで昇華させた空前絶後の名演として永遠に存在意義を失わない演奏だと確信しています。【2023年8月・湧々堂】

TRE-294
超厳選!赤盤名演集Vol.12〜クーベリック/田園&ハンガリー舞曲
ブラームス:ハンガリー舞曲集
 第1&第3番(以上,ブラームス編)
 第5&第6番(以上,シュメリング編)
 第17〜第21番(以上,ドヴォルザーク編)
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」*
ラファエル・クーベリック(指)
ロイヤルPO

録音:1958年11月20日、1959年1月21-23日*(全てステレオ)
※音源:東芝 ASC-5018、WS-19*
◎収録時間:62:41
“40代半ばにしてクーベリックに備わっていた作品の本質を突く手腕!”
■音源について
状態の良い「東芝の赤盤」の音の素晴らしさを堪能するシリーズ。英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の高い技術の一端を知ることができます。
但し、初期盤はビニールの素材が関係しているのか微妙なチリチリノイズの混入率が高く、復刻に際してはそれが回避された第二版以降にも耳を通すことが不可欠となります。
 「田園」も「ハンガリー舞曲」同様ASC規格の赤盤が存在しますが、微妙なノイズ混入があるため、後発の「ワールドレコードクラブ特選」と称するボックスに収められている赤盤を採用しました。
 なお、1971年に御殿場に大工場を新設して以降はレコードの音質は下降の一途を辿り、赤盤も消滅しました。

「ハンガリー舞曲集」は、指揮者の民族色の抽出力のみならず、潜在的な音楽センスまでも浮き彫りにする金石のような作品。チェコ出身のクーベリックは、当然ながら東欧的な土の匂いは体に染み付いているはずですが、それを露骨に表面化はせず、その「血」を原動力としながらも、むしろ洗練された普遍的なフォルムを追求し続けます。強弱や緩急を自在に組み合わせた方言丸出しの解釈には目もくれず、素直なスコアの再現に徹しながら、通り一遍の平凡な演奏に陥らない、あのチェリビダッケも認めたクーベリックの音楽センスの本質が詰まった名演と言えましょう。元々はピアノ連弾曲だったことを踏まえてか、過度にシンフォニックな響きに傾くことも避けているのも特徴的。
 「1番」第2主題の繰り返し時にわずかにテンポを落とすユニークさや、「3番」冒頭のオーボエの晴朗さは、土俗性より純音楽的な味わいとなって迫りますし、「5番」は慣習的なテンポの緩急から開放したイン・テンポ寄りの推進力が痛快。「第6番」も同様ですが、アクの強いシュメリング版を用いながらここまですっきりとした洗練美を引き出した演奏を他に知りません。「17番」「20番」は、ビーチャムが築いたロイヤル・フィルの明るい音色が功を奏し、暗い楽想に艶をもたらしています。
 「田園」は、70年代の全集があるのでこのロイヤル・フィル盤は影が薄いですが、実はとんでもない名演!個性のひけらかしとは無縁であると同時に、オケの自発性の引き出し方が尋常ではありません。第1楽章はいわゆる中庸のテンポですが、決して無為無策の結果ではなく、作品が最も息づくテンポとして結実。オケのパステル調の色彩も作品にほんのりと華を添えます。提示部リピートあり。そして、第2楽章の充実ぶり!シルキーなテクスチュアの統一感、呼吸の深さ、温かさに心奪われます。8:24〜8:44の各パートの有機的な連動ぶりや、最後のカッコウの囁きのリズムセンスは、これ以上望めないほどの素晴らしさ!第4楽章がまた独特。大音量で誤魔化した単純さとは一線を画し、真のドラマを湛えた雄渾さは比類なし!終楽章はかなりの高速なのにまず驚きますが、そこから放たれる華やぎと清流のようなフレージングを聴けば、そのテンポの意味にすぐに気づくはず。3:40以降のピチカートも水しぶきを想起させ、同じくピチカートを強調したクレンペラー盤にはない心のときめきがあります。感謝の気持をしみじみ噛みしめるのは最後の1分間!ここでようやくテンポを緩めるのです。これらの魅力的なテイストは、パリ管との再録音では完全に消滅しているのです。【2023年4月・湧々堂】

TRE-295(2CDR)
ライナーのモーツァルトVol.1
アイネ・クライネ・ナハトムジーク*
ディヴェルティメント第17番K.334#
交響曲第40番K550**
音楽の冗談K.522+
ディヴェルティメント第11番K.251##
交響曲第41番「ジュピター」++
フリッツ・ライナー(指)
CSO、NBC響団員*,#

録音:1954年12月4日*、1955年4月23&26日#、1955年4月24日**、1954年9月16日+、1954年9月21日##、1954年4月26日++ (全てモノラル)
※音源:米RCA LM-1966*,#、米RCA LM-2114 **,++、独RCA LM-1952-B+,##
◎収録時間:77:33+75:36
“厳格なイメージを超えて愛を燃や尽くしたライナーの特別なモーツァルト!”
■音源について
LP3枚分の全収録曲を2CD-R に収録、ライナーのモーツァルトの録音は、ほとんどモノラル期に集中。「ジュピター」はステレオ・バージョンも存在しますが、響きが平板なため、あえてモノラルを採用しました。交響曲では他に35番、36番、39番が遺されています。

★「ライナーのモーツァルト」と聞くと、ほとんどの人がジョージ・セルのような厳格で隙のないイメージを持たれると思います。私もそうでしたし、その手法でやられたらどんな指揮者もお手上げではないかとさえ思っていました。確かに両者は、全てにおいて妥協がないことは共通しているのですが、「第40番」を聴いて驚きました。ライナーの演奏にはセルにはない馥郁とした風合いと優しさが凝縮されているではありませんか!セルのモーツァルトが常にセルを感じさせるのに対し、ライナーのそれは徹底的にモーツァルトの息遣いだけがクローズアップされるのです。
 第1楽章はやや速めで進行しながら全てのパートが精緻に融合。一気に神々しいニュアンスを刻印しますが、主題のフレーズの結尾でフワッと力を抜くたびに香気が放たれてイチコロ!こんなこと、真の共感なくして出来るはずがありません。展開部での呼吸の振幅と虚弱の入れ替えの完全調和ぶりと声部の凝縮の高まり方には、手に汗握りつつ涙も禁じえません。緊張感を高め尽くした末にコーダで決然とリテヌートするのはいかにもライナー。第2楽章は、普段は怖いおじいちゃんが孫を抱っこしているときに見せるような雰囲気…とでも言いましょうか、これぞ無償の愛を反映したニュアンス。弦のテクスチュアは極上のシルクのようで、高潔の極み。第3楽章は厳格な3拍子の打刻よりも悲しみのニュアンスを際立たせており、ライナーが厳格な造型追求一辺倒ではなく、純粋な音楽志向の人だったことが垣間見れます。シカゴ響の上手さに関しては今更言うまでもありませんが、終楽章の特に木管群の技術と音楽性の高さは特筆ものです。
 「アイネ・クライネ…」も、これ以上に芸術的な高みに昇華した演奏を他に知りません。第1楽章1:56からのユニゾンがユニゾンとしてこれほど胸に迫る演奏があるとは思えませんし、第2楽章や第3楽章の中間部は、微笑みとか優しさとかの形容を超えた普遍的な美の結晶!この2つの楽章は、コーダのテンポの収め方にもご注目を。
 ディヴェルティメント第11番は、第3楽章の純粋な情感と透明なハーモニーが忘れられません。ここ収録した作品の中で、最も人間的な優しさを全面に出した演奏と言えましょう。第4楽章の平和なニュアンスを噛み締めながらの進行も、ロッシーニの序曲を振るライナーとは別人のよう。しかも、オケがトスカニーニにしごかれているNBC響というのが驚きです。
 「音楽の冗談」をあえて録音しているのは意外ですが、当然ながらその演奏態度も、作品への共感も、他の作品と全く変らず、不協和音を強調するといった野暮な真似はしません。あらゆる音楽的な表現の中でも最も難しいのがユーモラスな表現ではないでしょうか?普段ニコニコしている人が必ずしもユーモアのセンスがあるとは限らないですし、その逆も然り。変な演出を加えないという点ではミュンヒンガーを思い出しますが、その極度に禁欲的な演奏を窮屈に感じる方には、ライナーの演奏はより人間臭く感じられることでしょう。

 ライナーのモーツァルト録音はほとんどがモノラルであるせいか、「名盤ガイド」の類から外されるのが常ですが、その数は決して少なくなく、比類なき名演揃いであることことからも、ライナーがモーツァルトを別格の存在と考えていたことは間違いなく、だからこそ、普段のライナーの厳格な演奏の一歩先を行くような、豊かで柔軟なニュアンスがこうして開花したのだと思うのです。その点に少しでも共感していただければ幸いです。 【2024年2月・湧々堂】】

TRE-297
エッシュバッハーのベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第17番Op.31-2「テンペスト」
ピアノ・ソナタ第26番Op.81a「告別」*
ロンド・ア・カプリッチョ「なくした小銭への怒り」Op.129
ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15#
アドリアン・エッシュバッハー(P)
ウィルヘルム・フルトヴェングラー(指)#
ルツェルン祝祭O#

録音:1950年9月19日、1951年5月22日*、1947年8月27日#
※音源:独DG LPM-18220、米Discocorp RR-438#
◎収録時間:79:15
“大指揮者と対等に音楽を紡ぎ合った美しき協奏!”
■音源について
ピアノ協奏曲は廉価CDでも発売されていましたが、音の生々しさはこのDiscocorp盤に遠く及びません。エッシュバッハーお得意のベートーヴェンですが、ピアノ・ソナタの録音はこの2曲のみ。協奏曲もこの1曲しか遺していません。

「テンペスト」は、ライヴかと勘違いするほどの凄い気迫!特に提示部の第2主題からの切迫感が強烈で、リピート時の第1主題のミスタッチもなんのその。再現部では、ラルゴの走句に追加されるレチタティーヴォが実に幻想的で、第2主題は一層熱を帯びて再現されます。第2楽章は、短い音価の音符の扱いに細心の配慮を払いつつ、フレージングの淀みを回避。終楽章は主題の全貌をぼかして開始し、遠近感を与えつつ推移。展開部以降は構築感と集中力がピークに達し、4:52以降の強弱の入れ替えにおける自然なドラマ性は流石です。
 更に素晴らしいのが「告別」。第1楽章序奏の、小さな部屋にぽつんと佇む風情からハッとさせられます。主部以降は「テンペスト」とは別人のようにペダルを抑制して噛んで含めるように進行。バックハウスのような威厳とは一線を画す内省的なニュアンスが心を捉えます。展開部では、少ない音符の隙間にそこはかとない悲しみが印象的。第2楽章は不安な空気感を煽らず、楽譜をサラリと忠実に再現することで常に希望の光を滲ませませながら、終楽章の喜びへの自然な流れを築きます。
 協奏曲は、まずは冒頭、フルトヴェングラーの指揮の充実ぶりに心打たれますが、エッシュバッハーはこれと互角に渡り合えるの?という心配は御無用。端正な造形美を湛えながら可憐な表情を紡ぎます。第2主題の澄み切った音色と微笑みの表情は、この楽章にこれ以上望めないほど魅力的で、偉大な指揮者に萎縮する素振りなど見せません。構えの大きな第2楽章も素晴らしく、3:24からのふくよかな呼吸感や3:50以降の華麗なタッチは必聴。終楽章は決して疾走に傾かず、音の跳躍の愉しさが伝わるテンポをフルトヴェングラーと共有しながら確実にニュアンスを紡ぎます。特にノリだけでで進行しやすい第2副主題(2:44〜)にも丁寧に表情が刻印されていおり、その入念なアプローチが大きく功を奏しています。一方で、推進力も盤石。コーダの追い込みが高圧的な熱狂ではなく素直な歓喜として響くのも、この作品に相応しいニュアンスと言えましょう。【2023年7月・湧々堂】

TRE-298
ヴァーシャリのショパンVol.1
ピアノ・ソナタ第3番Op.58*
ワルツ集(全17曲)
 第1番変ホ長調Op.18《華麗なる大円舞曲》
 第2番変イ長調Op.34-1《華麗なる円舞曲》
 第3番イ短調Op.34-2《華麗なる円舞曲》
 第4番ヘ長調Op.34-3《華麗なる円舞曲》
 第5番変イ長調Op.42《大円舞曲》
 第6番変ニ長調Op.64-1《小犬のワルツ》
 第7番嬰ハ短調Op.64-2
 第8番変イ長調Op.64-3
 第9番変イ長調Op.69-1《別れのワルツ》
 第10番ロ短調Op.69-2
 第11番変ト長調Op.70-1
 第12番ヘ短調Op.70-2
 第13番変ニ長調Op.70-3
 第14番ホ短調遺作
 第15番ホ長調遺作
 第16番変イ長調遺作
 第17番変ホ長調遺作
タマーシュ・ヴァーシャリ(P)

録音:1963年5月17-20日*、1965年5月20-30日(全てステレオ)
※音源:DG 136450S-LPEM*、DG 104-367
◎収録時間:77:50
“激烈さとは無縁のヴァーシャリのショパンの最高峰!”
■音源について
使用した2枚のLPは、共にドイツ盤(チューリップ・ラベル)。ワルツ集は、8枚組のボックスから。

★ヴァーシャリのショパンは、不当に評価が低いように思います。確かに、強い構成力を持つ作品やシリアスな楽曲はヴァーシャリのピアニズムから最も遠い作品だと思われますが、リリシズムが優る作品では、ヴァーシャリのピアニズムが一気に輝きを放つという事実はもっと知られて然るべきです。
 その好例が「ソナタ第3番」。ソナタ形式の縛りを感じさせない優しい詩情が実に心地よく、素直に聴き手の迫ります。第1楽章でのヴァーシャリの持ち前のクリアで淀みない打鍵は、音楽への無垢な愛情をそのまま反映してかのよう。決して大向うを狙わないひたむきさが心を打ち続けます。第2主題の上品なルバートは決して取り繕ったものではなく、た至純そのもの。第2楽章は、無窮動的なテーマがこれ程丁寧に打鍵されるのも珍しく、それでいて清らかな推進性は保持。第3楽章はポゴレリッチのような耽溺とは好対照。素直で飾り気のないフレージングは、まさに今生まれた音楽のように息づきます。したがって、夢見心地の中間部も音楽がふわふわと彷徨うことなく、他の演奏では味わえない大らかで幸福な空気感を醸すのです。終楽章も、作品に内在する精神を掘り下げようと格闘するのではなく、音楽を「奏でる」ことに徹する姿勢を貫徹。ソナタを締めくくるに相応しい堂々たる威容とは一味違う世界感を醸成。
 構築性ありきの演奏では埋もれがちな瑞々しいニュアンスが散りばめられており、これこそがショパンが目指した世界では?と思えるほどの確かな説得力を誇る名演奏です。
 更にお勧めしたいのがワルツ!この趣味の良いサロン的な軽みと程よい甘さ、芳しさに触れると、頻繁に取り上げられる名演の多くは、立派に響き過ぎる気がしてきます。
第1番「華麗なる大円舞曲」からして素晴らし過ぎます!ふとした瞬間の息の抜き方と言い自然体のルバートと言いまさに理想の極みで、特に3:11からの第4部の可憐さは比類なし!第3番は、ヴァーシャリのルバートとのセンス、特に音価を極僅かに伸ばすことによる切なさの炙り出し方、リピートのたびにニュアンスを変える繊細なセンスに言葉を失い、リパッティの超名演の存在を忘れるほど。多くの演奏が豪放に走りがちな第4番「小犬」第14番は、まさに作品の実寸にフィットしたディティールを体現。第5番は、冒頭の自然発生的なトリルに4小節目から滑り込む左手声部の茫洋としたタッチの融合ぶりにハットさせるニュアンスが浮かび上がります。第7番は明るく透明なタッチが暗い楽想のニュアンスをむしろ引き立たており、1:33からの緩やかな加速の妙味も聴きもの。第9番は、マズルカ風の旋律Bを囁くのではなく、舞曲的な愉しさを表出しているのが印象的。
第10番11番は、特に声を大にして激賞したい超名演!ただただ美しい!ここに不足しているものが何かあるでしょうか?第15番の人懐っこさもアシュケナージ以上。アシュケナージといえば、第17番は恐ろしく重い演奏でしたが、ヴァーシャリはここでも好対照の屈託のない演奏を披露。とにかく魅力が尽きません!「ヴァーシャリのショパン」の最高峰と言っても過言ではないでしょう。【2023年4月・湧々堂】

TRE-299(2CDR)
コンヴィチュニー/ベートーヴェン&ブルックナー
ベートーヴェン:交響曲第7番
ブルックナー:交響曲第5番*
フランツ・コンヴィチュニー(指)
ライプチヒ・ゲヴァントハウスO

録音:1959年6月11-19日、1961年6月26-28&30日*(全てステレオ)
※音源:日VICTOR SFON-5506、日COLUMBIA OP-7084*
◎収録時間:63:21+59:40
“攻めの表現にも誇張に傾かない恐るべきバランス感覚!”
■音源について
ブルックナーだけで80分を少し超えるため、ベートーヴェンを併録して2枚組としました。これまでも国内盤で素晴らしい音を発するレコードがあれば、輸入盤初期盤に頼らず躊躇なく国内盤を使用していますが、ここでも2曲とも日本盤を選択。特にフィリップス音源のビクター・プレス盤は、音の芯と太さが顕著に感じられ(逆にピアノ録音は大味になることもある)、ゲヴァントハウス管の質感との相性も抜群です。ブルックナーにおいても。既出CDのデジタル臭に邪魔されない素朴な響きが聴き取れることは言うまでもなく、往年の録音技師、クラウス・シュトリューベンの偉大さにも感服至極。

★まず、ベートーヴェン冒頭の打ち込み音の鉄壁なバランス!ティンパニの存在が過剰だったり脆弱過ぎたりと、今一つの演奏が多い中で、この文字通り渾然一体となった響きにはどなたも膝を打つこと必至!コンヴィチュニーといえば、「いぶし銀」という紋切り型の形容ばかりが目に付きますが、それを成し遂げているのもこのバランス感覚があればこそのことだと思います。そのこだわりが音楽に脈打つ精神と一体化したときの味わいと感動は計り知れません。序奏の間、章節の頭にトランペットのアクセントがありますが、これもただの誇張ではなく心の鼓動として響くのです。6:12からのフルートの隠し味の重要性を思い知らせる演奏も稀有。展開部は内声処理能力の高さに唖然。それを突出させるのではなく、あくまでも内声の範疇で意味を持たせて響かせるというのは、近年耳にできなくなった奥義と言えましょう。11:27からの持続音は末端まで精神が充満!11:46の楽想の唐突な変化にはどんな名盤でも違和感を覚えますが、これは違和感どころか想定外のフワッとした質感があまりにも美しく、かつ移行の仕方が絶妙の極み!この箇所でこれ以上の演奏は知りません!提示部リピートあり。第2楽章は弱音に頼らない潔い進行。1:36以降の第1と第2のヴァイオリンが同等に主張させつつ、そこに恣意性を感じさせないのも流石。2:20からの内燃パワーも凄まじく、これこそ本物の渾身!第3楽章はコーダの畳み掛けに唖然。こんなこと、安易に真似しても響きを軽薄にするだけでしょう。終楽章は、微妙に前のめりになるテンポ感を一貫させることで切迫感を伴った推進性を確保し、体ごと持っていかれる勢いまで昇華!近年「ただ速いだけ」の演奏が増えているのはご承知の通り。しかも、それでもそれなりに感動する曲だから困ったものですが、「技」を感じさせるコンヴィチュニーから受ける感銘の深さは明らかに別格です。
コンヴィチュニーのベートーヴェンの全集は、一部緊張感が弱い曲もありますが、第7番は間違いなく超特選です!
 一方、ブルックナーは、コンヴィチュニーが真のブルックナー指揮者だったことを裏付けるのに十分な感動作!ここでも、大掴みなアプローチをしているようでいて実は細部まで突き詰めるコンヴィチュニーの指揮者としての力量も思い知らせれます。
第1楽章第1主題は、音量とともに求心力も同時に増幅される凄さにご注目。ピチカートの第2主題は、微妙に縦の線をずらすことにより、オケの木目調の風合いが一層活き、強弱変化が確実に表情変化に結びついています。第3主題は、純朴な楽想に対してこれ以上何のニュアンス注入も不要で、オケと指揮者の性格そのものだけで魅了するという事実に勝るものなし!7:10からリテヌートして一旦文節を区切る丁寧さは、流れを阻害するどころか、音像の自然な構築に大きく貢献。8:42から次第に姿を表す弦のトレモロの幻想性とホルンとのブレンド感は空前絶後の魅力!展開部10:40からのフルートの神秘的フレーズと弦の存在感の対比が織りなす空気には言葉を失いますが、その後も他のニュアンスが考えられないほどの音楽が展開されのですから、もはや神がかりとしか言いようがありません。第2楽章は曲頭のピチカートの説得力が尋常ではありませんが、驚きは2:57からの第2主題!そのとてつもない深淵さは人工美と対極的でありながら、一定の距離感も保たれているので、独特の超然としたニュアンスが現出されるのです。第3楽章は、野武士的な居住まいが、理知的な構築重視の演奏からは得られない勇壮さと温もりを醸し出します。
 終楽章は、まずクラリネットの第1主題(0:42)をあえて茫洋とした雰囲気に抑えているのが印象的。竹を割ったようなスパッとした響きを避けているのは、恐ろしく粘る低弦の伏線だと気づきますが、そのリズム感の後退は決して生命力の減退ではなく、続く第2主題(第1群)の可憐なニュアンスと見事なコントラストを成すことになるのです。しかも、その可憐さに幾分憂いが滲んでいるあたり、なんという感性でしょう!6:48からの第2主題(第3群)はメカニックなフォルティッシモとは無縁の雄渾さが欲しいところですが、既存のオケでは望めない以上、このコンヴィチュニーのアナログ復刻に頼るしかなく、また他を望む必要性もないでしょう。コーダでは全体が猛烈な強奏をぶちまけますが、そうでもしなければ表しきれない内容の飽和ぶりに感動を禁じえません。鼓膜を刺激するだけの煩い大音量とはわけが違うのです!
 湧々堂が推奨する「ブル5」
の名盤第1位が揺るぐことなど想像できません。【2023年5月・湧々堂】


TRE-300
モーリス・ル・ルー/プロコフィエフ&ラヴェル
プロコフィエフ:スキタイ組曲*
ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
 道化師の朝の歌
 亡き王女のためのパヴァーヌ
 ボレロ
モーリス・ル・ルー(指)
フランス公営放送PO*、
フランス国立放送局O

録音:1961年*、1966年(全てステレオ)
※音源:仏VEGA C30ST-20001*、独Concert Hall SMS-2490
◎収録時間:66:52
“人間味と洗練味が交錯するル・ルーの鮮やかな指揮センス!”
■音源について
モーリス・ル・ルー(1923-1992)は、1960年〜1967にフランス国立放送管の首席指揮者を歴任しましたが、日本ではメシアンのトゥーランガリラ交響曲(1971年録音/VEGA音源)がキングレコードから発売された際に注目された程度でほぼ無名。録音数も限られますが、ここでは特に希少なステレオ録音を収録しています。

スキタイ組曲は、間違いなく同曲の屈指の名演!フランスのオケならではのカラッとした明るめの色彩が感覚的に瑞々しく響くので、何度聴いても辟易することがありません。第1曲は、3:12からの乾いたヴァイオリンの怪しさと森の神アラを表す神秘の響きとのコントラストの生々しいこと!人気の第2曲は凶暴な咆哮が少しも煩くないばかりか、楽器の音というより生きた人間の肉声のように聞こえるのは、ただ野放図に大音響を垂れ流しているのとは違い、そこに芸術的な制御が効いている証しでしょう。コーダの目の覚めるようなレスポンスは、こうでなければ!第3曲のヌメヌメとした質感と荒涼感、コーダの濡れた質感も印象的。終曲コーダに至っては、太陽神の閃光のようなオーラの威力の前に、思わず平伏したくなるほどです。
 ラヴェルでまず強調したいのは、道化師の朝の歌の凄さ!フランスの指揮者の録音ではロザンタールと双璧を成す名演で、少なくとも色彩パレットの豊かさはル・ルーが上!冒頭の弦のピチカートのピチピチした弾け方からして強烈ですし、オーボエからコールアングレ、クラリネットのしなやかな移行も見事。大太鼓を契機とした全体の熱気放射力も半端ではない!中間部のファゴットの即興的な語り口も堂に入り、クライマックスの開放感がこれまたキラキラ眩しい!再現部冒頭はまさにスペインのギラギオらの太陽!その後6:33からチェロの官能美で悩殺したかと思うと、恐ろしく野太いファゴットが応酬。この曲のあるべき姿がここにあります!
 高雅で感傷的なワルツも、見事な推進力。「高雅」のイメージに囚われずに表現意欲を惜しげもなく注入。特に終曲の遠近感を伴った音像の表出とラヴェル特有のメルヘンチッックな空気感が素敵です。
一方、亡き王女のためのパヴァーヌは、打って変わって淡白路線。その淡々たる進行の中で作品のテクスチュアを丁寧にあぶり出します。ホルンの音色はいかにもフランス風の明るい音色ながら音楽的ニュアンスは決して楽天的ではなく、ヴィブラートが慎ましく、独自の涙色の音色を引き出しています。【2023年5月・湧々堂】

TRE-301
厳選!赤盤名演集Vol.13〜デルヴォー〜序曲&バレエ音楽集
ニコライ:ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
ロッシーニ:「セヴィリアの理髪師」序曲
ボワエルデュー:「バグダッドの太守」序曲
スッペ:「軽騎兵」序曲
グノー:歌劇「ファウスト」〜バレエ音楽*
ドリーブ:バレエ音楽「コッペリア」〜[前奏曲とマズルカ/バラード/主題と変奏/ワルツ/ハンガリー舞曲]**
 バレエ音楽「シルヴィア」〜[狩りの女神たち/間奏曲/緩やかなワルツ/ピチカート/バッカスの行進]#
ピエール・デルヴォー(指)
コロンヌO

録音:1958年、1958年7月16&17日*、20&23日**、17&18日#(全てモノラル)
※音源:東芝 HC-1037、XLP-1008*,**,#
◎収録時間:77:45
デルヴォーの粋な棒裁きで浮き彫りとなる作品の未知なる魅力!
■音源について
状態の良い「東芝の赤盤」の音の素晴らしさを堪能するシリーズ。英国EMIから技術者を招いて始動し、英仏メタルを用いてプレスしていた当時の川口工場(1955年発足)の高い技術の一端を知ることができます。なお、フランスはステレオ録音への移行が遅かったため、ここに収録した曲もステレオ盤は存在しません。
★「他の表現などあってたまるか!」と言わんばかりの強い信念を感じさせる、デルヴォーの魅力をとことん堪能できる一枚。
 「セヴィリアの理髪師」は、最後の追い込みで力任せにならず軽みを保守するセンスに感服しきり。「バグダッドの太守」は、序奏のシルキーな美しさからしなやかに滑り込む主部のキラキラした色彩の楽しいこと!第2主題の歌いまわしの媚びないダンディーも魅力。これら2曲は、デルヴォーに期待するものを全て実現してくれた名演と言えますが、以下の2曲はそれ以上のインパクトを与える世紀の名演と呼びたい逸品!
 「ウィンザーの陽気な女房たち」は、序奏の上品な香気からイチコロ。クナやケンペが描く世界とは別次元の幻想的な空気が一気に拡散。しかも、主部冒頭のリズムがこんなチャーミングに弾まれたら、他のどんな演奏もお手上げでしょう。第2主題は洗練美の極地!テンポを落とすこともポルタメントも寄せ付けないカラッとしたフレージングから引き出される雰囲気は、ニコライ本人の想定も超えているかも知れません。6:41のギアチェンジも、粘着性皆無の痛快さ!「軽騎兵」は、通俗小曲の代表格のような曲ですが、まずそのイメージが吹き飛びます。マーチ主題がいかにもフランス趣味の洒落た雰囲気を湛えているもの新鮮ですが、何と言っても聴きものは、類例のないほど熱い魂を投入した中間部主題。ほとんどの演奏がもたつく冒頭ファンファーレの再現(6:38〜)のシャキッとした推進ぶりもあっぱれです。
 十八番のバレエ音楽も文句の付けようのない絶品揃い。バレエの舞台を彷彿とさせる雰囲気作りに長けた指揮者は多いものの、シンフォニックなスケール感と色彩感、躍動感までを兼ね備えた演奏となると、いわゆる「バレエ指揮者」では物足りない場合もあります。デルヴォーはまずその心配が無用。加えて、手兵のコロンヌ管がシェフの棒さばきに心から心酔して食らいついているのが分かるほど、音の凝縮力が尋常ではありません。
 「コッペリア」は、“前奏曲”からあらゆる音楽的要素を総動員したような味わいが横溢。アンセルメやアーヴィングにはない牽引力にただただ身を委ねるしかありません。有名な“ワルツ”のゴージャスさも心躍ります。
 「シルヴィア」の“女神たち”〜“間奏曲”の想像を超える色彩の豊かさを目の当たりにすると、ヴィブラートの効いたホルンをはじめとするかつてのフランスのローカル色ふんだんに湛えた音色の魅力に適うものはないことを痛感するばかりです。“ピチカート”の艶に彩られたウィットが感じられる演奏は滅多になく、最後の“バッカスの行進”のスケール感とニュアンスの多彩さも然りです。
 デルヴォーの男気溢れる表現センスがなければ見過していたであろうニュアンスが次々と飛び出すことを考えると、デルヴォーの指揮者としての評価はあまりにも低すぎると言わざるを得ません。【2023年7月・湧々堂】

TRE-303
C.デイヴィスのハイドン&モーツァルト
ハイドン:交響曲第84番変ホ長調 Hob.I:84*
モーツァルト:交響曲第28番 ハ長調 K. 200
 交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」K.504
コリン・デイヴィス(指)
イギリスCO

録音:1960年9月30日&10月2日*、1962年12月7-8日(全てステレオ)
※音源:LOISEAU LYRE SOL-60030*、SOL-266
◎収録時間:74:23
“最後のモーツァルト指揮者、コリン・デイヴィスの真骨頂!”
■音源について
C.デイヴィスのハイドンは意外と少なく、この「84番」はデイヴィス初のハイドンで、後の70年代のコンセルトヘボウOとの録音まで途絶えます。一方、モーツァルトの録音はデビュー当初から積極的で、「プラハ」は3種の録音が存在。これはその最初の録音です。

★ワルター、ベームの次の世代のモーツァルト指揮者として真っ先に挙げたいのがコリン・デイヴィス!録音の上ではレパートリーが限定的で、マーラーやブルックナーの録音も少ないせいか、巨匠としての決定的な評価を得られないまま亡くなってしまった感が拭えず、、また、ピリオド奏法をベースにした紋切り型の演奏が主流となった昨今だからこそ、C.デイヴィスのモーツァルトの素晴らしさを再認識してほしいと強く願う次第です。
 そのアプローチに衒いや誇張が一切ないのは言うまでもありませんが、極めてオーソドックスなフォルムを丁寧に構築しながら、伸びやかさと品格を与え、更に程よい軽みも付与するという絶妙なニュアンス!これを30代前半の時点で既に実現していたことに驚きを禁じえません。
 「プラハ」は、最後のドレスデン盤の立派な演奏も捨てがたいですが、ここに聴くECOの奏者のセンスも相俟っての瑞々しさはかけがえのない魅力。表面上は何も変化していないようでいて、モーツァルトへの愛がそのまま演奏の集中力に直結したような魅力を考えると、どうしてもこのECO盤を強く推したくなります。第1楽章展開部の特に6:32以降で、各声部が締め付けすぎずに一定の凝縮性を保ったテクスチュアもその表れ。第2楽章1:08からの神の警告のような管楽器のユニゾンも同様。その呼吸の大きさと芯の湛え方、その後の鎮静への向かい方も見事で、ECOの透明度の高いアンサンブルの魅力も最大限に発揮されています。7:41からも聴き逃し厳禁!呼吸の繊細さとフワッとした感触、間合いの絶妙さは息を呑むほどです。終楽章はやや遅めのテンポがポイント。疾走すれば耳に届かない可憐なニュアンスがこのテンポだとしっかり浮き上がります。
 「第28番」も、純度の高いECOの響きを活かした汚れのない音像を実現。特に第2楽章でそれが顕著ですが、第3楽章はやや管楽器を優位に立てることによって醸し出されるハーモニーによって予想外の愉しさが零れます。終楽章は高速ながら猛進ではなく、細い弦の動きをはじめてするあらゆる内声が有機的な下支えをしている点にご注目を。
 肝心なのはこれらのニュアンスが、「モーツァルトはこうあらねば」という頭の中の理想だけで発せられたのではなく、デイヴィスの本心から溢れ出たもので、どこをとっても自然体であるということ。これを真のモーツァルティアンと呼ばず何と呼べばよいのでしょう! 【2023年5月・湧々堂】

TRE-304
ラインスドルフ&ボストン響・厳選名演集Vol.5〜ブラームス
交響曲第2番ニ長調 Op. 73
交響曲第4番 ホ短調 Op. 98*
エーリッヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO

録音:1964年12月14&16日、1966年4月26−27日*(全てステレオ)
※音源:Victor SHP-2383、RCA LSC-3010*
◎収録時間:78:30
“作品によって豹変するラインスドルフの底知れぬ魅力!”
■音源について
「第2番」は日本盤、「第4番」はフランス盤を採用。「第2番」は、ラインスドルフ唯一のセッション録音です。

★ラインスドルフは、レコーディングに際してはテンポの変動を抑えて、楽譜の忠実な再現を心掛けていたそうですが、「第2番」ではそのこだわりを貫徹しながら、有機的なフレージングも疎かにしない見事な演奏を披露しています。
第1楽章冒頭の弦の温かさは、かつてのボストン響ならではの魅力。第2主題はで、惰性的なレガートを避け、音を丁寧に切るあたりにも頑固なこだわりが垣間見れます。展開部7:11以降は、インテンポを守り抜きながら精神的な高揚をもたらし、緊張感に満ちた音像を確立。楽器間の連動も極めて密接で、安易な田園風を目指していないことは明らかです。インテンポの美学は、終楽章でつに全開に!開始しばらくはその厳格さに圧倒されますが、再現部以降、ライブのような熱気も孕み感動的なクライマックスを迎えます。最後後の最後で僅かなリテヌートも許さずに締めくくる例は前代未聞!そこまでテンポの揺れを嫌わなくても…と言いたくなりますが、感情に流されまいとする意地の張り方がかえって人間的で微笑ましく思うのは私だけでしょうか?
ところが、「4番」となると、その厳格なテンポの統制よりも、この曲をロマン派作品の爛熟の象徴として捉え、その香気にふんだんに放射することを最優先し、第2番とはまるで別人のよう。
第1楽章の第2主題に差し掛かる頃には内燃パワーが早くもマックスに達し、心の震えそのものの音化にどこまでも邁進。6:09からの管と弦のすすり泣きの応酬は心にビリビリ響き、10:50からは弦のトレモロまで必死に燃え盛り、その熱は圧巻の締めくくりまで増幅の一途を辿るのです。第2楽章は、フランス盤故か冒頭が朗々と明るく響くのに一瞬驚かされますが、すぐにクラリネットをはじめてする管の強弱ニュアンスの細やかさに惹きつけられます。第2主題(3:57〜)も実に深遠。弱音に頼らないので格別の味わいを残しますが、それが8:24では恐ろしく分厚い響きに発展。浄化された美ではないそのエネルギーの襲来に息を呑むこと必至!第2楽章は、まさに体当たり的熱演。前任者のミュンシュの同曲録音が落ち着き払ったものだったので、むしろこちらの方がミュンシュ的と言えましょう。熱気に打たれ通しで到達した終楽章冒頭では、ボストンSOの響きのブレンド素晴らしさを痛感。相変わらず演奏はどこを取っても火傷しそうなほど熱く、憑かれたような集中力も只事ではなく、最後の一音まで精神的高揚の限界に挑み続けるのです。
 ラインスドルフのクールなイメージを覆すのにこれ以上の録音はないと思われますし、もちろん「ブラ4」史上トップクラスの名演であることは疑いようもありません、 【2023年4月湧々堂】

TRE-305
カラヤン&VPO/デッカ録音名演集Vol.2
ブラームス:交響曲第3番
ドヴォルザーク:交響曲第8番*
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指)VPO

録音:1961年(ステレオ)
※音源:日KING SLC-1742、SLC-1751*
◎収録時間:69:53
“カラヤンの芸術が「人工的」でも「嘘」でもないということの証明!”
■音源について
2曲とも、国内の優秀なKING盤を採用。英メタルを使用したプレスだけでも何種類も発売されていますが、その生々しいサウンドの魅力と特有のチリノイズのなさを考慮するとここで使用した2つの盤が最良という結論に至りました。なお、SLC-1742は同じ品番でもラベルの「溝あり」と「溝なし」が存在しますが、ここでは「溝あり」盤を使用。「溝なし」は盤自体も薄く、音の差は歴然としています。

★2曲とも後の再録音がありますが、VPOの伝統美とカラヤンのスタイリッシュな指揮が絶妙に同居するこのデッカ録音の魅力には及びませんし、カラヤンの全ての交響曲録音の中でも傑出した名演と言っても過言ではないでしょう。
 ブラームスは、剛直な構築に傾かず、流線的なフレージングを中心に据えたカラヤン特有のアプローチではありますが、感覚美優先の後年の録音では埋もれてしまった素直な心の震えがここには存在します。第1楽章2:14以降や、展開部4:04以降の些細なフレーズにも細やかな慈しみを感じ、展開部後半の山場での本気の呼吸の飛翔にも感動を禁じえません。
 第2楽章の哀愁に満ちた楽想にも暗く耽溺せず、温かな慈悲の心と前向きな光さえ感じるニュアンスには言葉を失います。その最たる例が、6:10以降!これぞ、カラヤンとVPO両者が同じ理想を目指して本気で臨んだ究極の芸術美です。
 その両者の完全合致ぶりは第3楽章も同様。終楽章は素直な推進力一辺倒に見えて、ここでもVPOの持ち味を取り込んで血の通ったニュアンスに結実させるカラヤンのセンスに脱帽です。5:26ではクナッパーツブッシュ等と同じティンパニの追加があり(後の2種のBPOでは追加なし)。
 ドヴォルザークも、何度聴いても唸らせる名演!ブラームスとは打って変わって、バリバリ鳴るVPOの響きの魅力が全開。綺麗事のないカラヤンの指揮は良い意味での粗削りのアンサンブルにも表れており、その本気度に心打たれるのです。
特に展開部後半の渾身の響きは、当時のVPOの響きの魅力とも相まってワーグナー的な色彩を帯び、その生命力の放射ぶりに息を呑みます。
第2楽章冒頭の陰影も、まさに誤魔化しのない迫真のニュアンス!3:57からのウィーン訛り全開のキュートな微笑みも、カラヤンにしては意外かもしれません。
 第3楽章は、3:02からの露骨ながら統制の取れたポルタメント(85年盤はサラッとしている)が必聴。
 終楽章は、抜群の推進力を見せながらも決してスポーティに流れず味わい満点なのは、これまたVPOとのコンビネーションの賜物。聴き所の一つであるホルンのトリルの咆哮もこうでなければ!そしてコーダは、全ての鎧の脱ぎ捨てた白熱の追い込み!聴き手をその熱狂に牽引するようなカラヤンは、他のセッション録音ではまず出会えません。
 巷間、カラヤンの音楽は人工的とか嘘臭い等となど言われますが、それは必ずしもカラヤンの本質を突いておらず、そう捉えられるのは録音技術の進歩がもたらした「錯覚」では?と、この2曲を聴たびに強く思うのです。【2023年3月・湧々堂】

TRE-306(1CDR)
ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 WAB 108 (1890年稿・ノヴァーク版) ヤッシャ・ホーレンシュタイン(指)
ウィーン・プロ・ムジカO(ウィーンSO)

録音:1955年(モノラル)
※音源:英VOX PL-9682
◎収録時間:76:29
“マーラーにもブルックナーにも適応できるホーレンシュタイン独自の音作り!”
■音源について
英国の黒銀ラベル盤(RIAA)2枚組を採用。

★いかにもホーレンシュタインらしい、人間臭さに背を向けた超然とした佇まいは、まさにこの作品との相性は抜群!
 第1楽章第1主題の全く勿体ぶらない粛々としたした進行も決して淡白なのではなく、どこか突き抜けた別次元の空気感を醸し出します。第2主題も媚びる素振りは皆無。ウィーンのオケ特有の緩さに求心力を注入したフレージングが印象的で、第3主題直前(2:48〜)の木管の孤独感は、これまたホーレンシュタインならでは。再現部における第3主題の直截な放射力は、朝比奈のような無骨さとは好対照で、まさに宇宙的な空間を想起させます。
 重量的にも音色的にも鉛を思わせる音作りは、第2楽章の3拍子の重心が常に下方向へ向かって独特のスケール感を生み出すのに大きく貢献。特の後半部分は圧倒的。
 第3楽章は、辺りを払うような超然とした空気と孤高感が最高次元に結実。否、古今の同楽章の演奏の頂点に君臨するものと言っても過言ではありません。ルバートは最小限ながら呼吸は深く大きく、先を見通したフレージングの持久力も手伝って、感覚的な美しさを超えた崇高さを生み出します。第1主題B(1:50〜)は各音に内容が極限まで充満させながら決して流れは淀まず、第1主題A(4:26〜)の深みも尋常ではなく、6:01からのワーグナー・チューバの響きも格別。核心に食い込む7:27からの木管のアクセントに痺れた後は、晩年のチェリビダッケの演奏など物足りないと思う方も多いのでは。激烈な16:49以降や、シンバルを伴う最高潮の19:30以降の空前絶後のスケール感に何も感じない人などいるでしょうか?20:24以降の弦の本気度もこれ以上のものを知りません。
 終楽章は、6:44で一旦リテヌートするのが印象的な以外は各楽想に激しい緩急のコントラストを与えていませんが、音の求心力と音楽の核心のみを抉り出そうとする集中力はここでも不変。音像の安定感もこれ以上望めないほど盤石。コーダの2分半は、華麗な大団円に終止する指揮者では実現できるはずのない真の魂の音楽が結実!ここにあえてトラック[5]を追加した意図をお汲み取りいただければ幸いです。 【2023年6月・湧々堂】

TRE-307
ヨッフム&手兵バイエルン放送響とのモーツァルト
交響曲第33番変ロ長調 K. 319
交響曲第36番K.425「リンツ」*
交響曲第39番変ホ長調 K.543#
オイゲン・ヨッフム(指)
バイエルンRSO

録音:1954年11月29-30日*、1955年10月2日#、1954年6月1-2日(全てモノラル)
※音源:英HELIODOR 478-435*,#、DGG 29-307
◎収録時間:78:52
“おおらかなヨッフムと陽のモーツァルトとの幸福な出会い!”
■音源について
それぞれイギリス、ドイツの再発盤ですが、初期盤よりも明らかに素直で自然な音が出ます。

★ヨッフムの音楽作りの特徴の最たるものは「おおらかさ」でしょう。決して理詰めではなく、素直に美しいと感じるものを最良のものと確信して表出する姿勢は生涯変わりませんでしたが、壮年期の録音では、人生の重みをそのまま反映した晩年の演奏とは違い、健康的な音作りがストレートに感じられるものが多く、中でもモーツァルトは、その屈託のない楽想との絶妙な相性を示しています。 
 第33番は後半2つの楽章におけるリズムから立ち上る可憐な表情が印象的。「リンツ」は、第1楽章序奏部では深遠さや神秘さをつい求めがちですが、ここでは遅めのテンンポを採用しながらも伸びやかさを失わず、ありのままのモーツァルトを再現。主部以降も特定の声部を突出させることなく、極めてオーソドックな路線に徹していますが、再現部直前の7:28からの微細なルフト・パウゼのように、よく聴けば人間臭い隠し味が散見され、それが単に通り一遍の演奏で終わらせない魅力となっています。楽想の潜在的なニュアンスを拡大解釈しないのも特徴的。第2楽章など、もっと夢見心地の表情付けも可能でしょうがそれをせず、上記の微細なルフト・パウゼを差し挟む以外は楽譜の丁寧な再現に徹し、モーツァルトに解釈など不要とばかりの自然体を通す潔さ!
 しかし、何と言っても一番の聴き物は第39番でしょう。ヨッフムの南欧的で伸びやかな音楽作りが最も功を奏していると共に、解釈の痕跡を残さない職人芸にここまで徹した演奏も珍しいでしょう。もはや「リンツ」で顔をのぞかせていたヒューマンな表情付けさえ殆どなく、ヨッフムの顔も脳裏をよぎりません。あるのはひたすらモーツァルトのみ!第2楽章の悲痛な第2主題も過剰に泥沼化しないので、コーダの平和裏な佇まいに美しい弧を描きながら帰結。終楽章も、作品の推進性にただただ身を任せるのみです。
 一口に「おおらか」と言ってもビーチャムのような無邪気さとは異なり、これはまさに、素材の素晴らしさだけで勝負した一級の料理を味わうのと同じ醍醐味と言えましょう。【2023年5月・湧々堂】


TRE-308
オーマンディ〜「古典」名演集Vol.1
ハイドン:交響曲第101番「時計」
モーツァルト:交響曲第30番*
 交響曲第31番「パリ」#
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1962年1月28日、1962年4月8日*、1961年1月29日#(全てステレオ)
※音源:米COLUMBIA MS-6812、MS-6122*,#
◎収録時間:62:17
“オーマンディと古典的様式美との高い親和性を実証!”
■音源について
使用した2枚のLPは、共に2 eyesラベル盤。「パリ」の終楽章冒頭のみモノラルに聞こえますが、音源に起因するものですのでご了承下さい。

★オーマンディのハイドンやモーツァルトを称賛する声はあまり耳にしませんが、楽想の魅力を引き立てる端正な造形力と無理のないテンポ感を目の当たりにすると、録音の少なさは只々痛恨と言わざるを得ません。
 「時計」第1楽章序奏の晴朗さ、透明度、温もり、幻想性…これらの要素は手を取り合って同居する風情からして惹きつけられます。主部はそれを引き継ぎつつ、衒いとは無縁の素直な進行の心地よいこと!第2楽章は後半5:51以降が特に聴き物で、音量を少しも弱めずに明快な音像を保ち、6:45ので一瞬低弦を唸らせて軽いスパイスを加味する等のオーマンディらしいが、ハイドンらしさを際立たせているのです。第3楽章の淀みを知らないテンポ感も最高。終楽章は、ハイドン特有の機知を漏らさず捉えた自然な飛翔ぶりに心躍ること必至!
 モーツァルトに関しても、オーマンディが米コロンビアに遺したステレオ録音はこの2曲のみ。ワルターの存在がある以上、ワルターのレパートリーと被らないこの2曲だけを任された形だと思いますが、演奏自体は穴埋どころではなくすこぶる名演!
 「30番」は、作品の祝典的な雰囲気とオーマンディ&フィラデルフィアのコンビ特有の華やかな音色美が完全に合致。感覚的美を十分に湛えつつ、少しも軽薄さに傾かないところが流石ですが、その特質をさらに発揮した大名演が「パリ」
 一定の品格と華やかさが常に同居させながら、オーマンディには珍しほどの音楽する楽しさを全開にしたアグレッシブなアプローチに、心躍るばかりです。
第1楽章提示部の内声の充実と凝縮力の高さは、60年代以降のオーマンディがほとんど見せない快活なテンポ感と一体となって生きる喜びを発散し尽くします。展開部は、ドラマティックな流れを俊敏な呼吸で駆け抜ける様が痛快この上なし!再現部5:12の弱音ティンパニが見せる奇跡のニュもお聴き逃しなく。
 第2楽章冒頭の分厚い響きはいかにもオーマンディ・サウンドですが、常にリズムが立っているので全くもたれません。終楽章に至っては、もう理屈抜きで楽しい!一発勝負的なノリの良さと、それだけに終始せずに作品のフォルムをしっかり堅持する職人技が相俟って、中途半端な原点回帰的演奏には望めない、今を生きる人々に訴えかける芸術を築き上げているます。オーマンディのステレオ録音の名演として迷わず挙げたい超逸品です! 【2023年3月・湧々堂】

TRE-309
スメタナ:交響詩「わが祖国」 ラファエル・クーベリック(指)VPO

録音:1958年4月3-7日 ウィーン、ゾフィエンザール(モノラル・テイク)
※音源:DECCA_LXT-5475(2LP)
◎収録時間:74:51
“貧弱なステレオ・テイクでは感じようのないクーベリックの熱き望郷!”
■音源について
何度も申し上げて恐縮ですが、ステレオ最初期のデッカ録音のオーケストラの音は本来の楽器の質感と大きくかけ離れた貧相なものがほとんどですが、極めて良質なモノラル・テイクが存在するにもかかわらず、時代の趨勢とは言えステレオ盤の購買意欲ばかりを煽り続けたレコード会社と、それに強く異を唱えずやり過ごしてきた評論家の腰抜けぶりは非常に罪深いと言わざるを得ません。
バックハウスが1954年に録音したベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」のように、CD時代に入ってもステレオではなくあえてモノラル・テイクをディスク化(音質以外の問題があった可能性もあり)した例もあるのですから、ソロ楽器以上に不自然さが際立つオーケストラ録音においては尚のこと非音楽的なステレオ・テイクはお蔵入りにして、モノラル・テイクを主流にさせることもできたはずですが、現在のこの業界の状況を見れば、音楽至上主義を掲げてモノラル・テイクを丁寧にディスク化することなど到底期待できません。したがって、リスナーの側がモノラル・テイクに意識と耳を傾けて、録音会場に鳴り響いていた演奏の本当の意義を感じ取るしかないのです。もちろん、市販のステレオ盤で十分に感動されているのであれば無理強いなどいたしませんが…。

★世に広く流通しているステレオ・テイクの録音は、現実の楽器の音とは著しく乖離しているので、頭の中で正常に補正する作業が必要がありますが、モノラル・テイクで聞けばそんな苦痛とは一切無縁。弦のシルキーさもホルンの深遠さも自然に存在するこのテイクを聴くことで、この演奏の真価が初めて明白となり、クーベリックの同曲録音の中でも響きの凝縮度が一定に保持され、軸がブレずに熱い郷愁を隅々まで通わせたこのウィーン盤の魅力に初めて気づく方も多いことでしょう。
 まず“高い城”冒頭のハープ!その指の触感まで感じさせる温かな風合いに一瞬で心惹かれます。“モルダウ”はウィーン・フィルが自分事として音楽を捉え、風景描写以上の民族の切実な思いを熱く語ります。2:45からホルンはまさにウィーン・フィルで聴く醍醐味。舞曲の場面は、リズムに血が通い、その腰は強靭。切実な躍動が胸を打ちます。その点、ボストンSO盤もチェコ・フィル盤(1990)も軽妙さ以上のニュアンスが希薄です。更に息を呑むのが中間部。この弦の求心力の高さと透徹美は筆舌に尽くし難く、速めのテンポながら呼吸はとてつもなく深く、熱い!後半での熾烈なダイナミズムにも心震えます。その熾烈さが更に増幅されるのが“シャールカ”。テンポの切り返しも俊敏でが、そのレスポンスの中にもドラマがあり、クラリネット・ソロの心からの慄きも聴きもの。“ターボル”は、「フス党の主題」が執拗に繰り返しされ、やたらと休止の多い曲ですが、その繰り返しも休止もこれほど意味を持って迫る演奏は他に知らず、特に前半の独特の粘着性を持つフレージングとリズムの重みは、ウィーン・フィルが彼らなりのイディオムでクーベリックの思いを体現しよう体を張った証しでしょう。驚くのは最後のティンパニの強打!これほど露骨な一撃は、クーベリックの同曲録音の中でも他に見られない現象です。シカゴ響盤がこれに近いですが、素朴さには欠けます。最後の“ブラニーク”も音の結晶度の高さとストレートな感情表現が相俟って比類なき感動をもたらします。前半部の内声の絡みの緊密ぶりはガチッとした構築性は手に汗握るほどの緊張感を孕み、中間の牧歌は、古今を通じて傑出したニュアンスの豊かさ。3連リズムを土台と戦闘シーンの後の平和を幕開けを告げるホルン(7:13〜)の美しさと完璧なフォルム感は並ぶものなし。熱さが空回りしがちなコーダも、最後の一音まで浮足立つことなく身のぎっしり詰まった音を出し続けるのです。【2023年8月・湧々堂】

TRE-310
赤盤名演集Vol.14〜サヴァリッシュ/ワーグナー&ウェーバー
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲*
 「神々の黄昏」〜夜明けとジークフリートのラインへの旅**/ジークフリートの葬送行進曲**
ウェーバー:「魔弾の射手」序曲##
 「プレチオーザ」序曲#
 「オベロン」序曲++
 「オイリアンテ」序曲+
 「精霊の王」序曲#
 「アブ・ハッサン」序曲*
 祝典序曲「歓呼」#
ウォルフガング・サヴァリッシュ(指)
フィルハーモニアO

録音:1958年7月29日*、1958年7月28日#、1958年2月26日**、1958年2月25&28日##、1958年2月25日+、1958年2月24-25日++(全てステレオ)
※音源:東芝 AA-7129(ワーグナー)、AA-7128
◎収録時間:76:55
“惜しげもない愛でウェーバーの魅力を伝えきった若きサヴァリッシュの金字塔!”
■音源について
★フィルハーモニア管にはウィーン・フィルのような伝統的な音色美はありませんが、英コロンビアのステレオ初期の録音をレコードで聞くと、楽音にも全休止の余韻にも独特の色彩と臨場感を感じることがよくあります。ところが、CDではなぜかその風合いが感じにくいのです。この赤盤からの復刻では、特に「オイリアンテ」の前半部などでそのあたりもしっかり感じていただけるかと思います。

★ウェーバーの序曲集の最高峰の名盤として確信を持って推奨したのがサヴァリッシュ盤。もちろんスタイルは正攻法そのものですが、音楽の芯は常に灼熱と化しており、親しみやすい旋律美が剛毅なリズムと一体となって、どこまでもアグレッシブなニュアンスを伴って聴き手に迫ります。
 「魔弾の射手」は、主部に入ってすぐ4:02の四分音符にご注目を。スコア上ではスタッカートとは書かれていませんが、この四分音符を明確に短く切り、フレーズに一層の凝縮を待たせるなど、生きた表現を緻密に注入するサヴァリッシュのスタイルを再認識させられます。
 「プレチオーザ」コーダの弦の波しぶき、「オベロン」6:10からの硬質のティンパニが効いた勇壮な響きは、若きサヴァリッシュの向こう見ずな表現意欲の果実。
 「オイリアンテ」冒頭の弦の鉄壁なアンサンブル、第2主題の清らかさ、透徹されたヴィブラートがあればこそ醸し出される中間部の静寂美には、フィルハーモニアOの比類なき機能美を改めて痛感。7:34のティンパニの最強打は、何度聴いても鳥肌もの!サヴァリッシュにもこんな露骨なデフォルメ技が存在するのです。
 そして圧巻は、「精霊の王」!若きサヴァリッシュがフィリップスに行なった一連の録音の中にもスタジオ録音とは思えない熱演が紛れていますが、もの「精霊の王」はまさにそれ。しかもサヴァリッシュの独りよがりではなく、オケを根底から奮い立たせているのがわかり、他の収録曲以上の興奮をもたらします。第2主題以降では、誰も未だ実現していない清々しい空気の醸成と、オケの寸分の狂いもないアンサンブルの妙味を堪能。コーダまで集中力が途切れず、その技術の高さが感覚的な快感を超えて音楽の魂にまで昇華するする様は、カラヤン盤には望みようもありません。【2023年12月・湧々堂】

TRE-311
ヘブラー〜ソ連ライヴを含む3つの協奏曲
ハイドン:ピアノ協奏曲第11番ニ長調Op.21 Hob.XVIII : 11
モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K. 414
 ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K. 453*
イングリット・ヘブラー(P)
シモン・ゴールドベルク(指)オランダ室内O
ベルンハルト・パウムガルトナー(指)ザルツブルク・モーツァルテウムO*

録音:1960年7月9&14-15日アムステルダム・コンセルトヘボウ、1965年モスクワ音楽院大ホール・ライヴ*(共にステレオ)
※音源:蘭PHILIPS 875-052FY、MELODIYA C90-13051-52*
◎収録時間:73:34
“30代のヘブラーが織りなす気品と生命力溢れる理想のモーツァルト像!”
■音源について
ミケランジェリ、アルゲリッチなど名演が多いハイドンのニ長調協奏曲はヘブラー唯一の録音。モーツァルトの「第12番」は計3回のセッション録音があり、これは2回目のもの。後の全集企画とは別の録音。アズキ/銀内溝/ザラザラ表面/full stereo盤。
「第17番」は、2種のセッション録音がありますが、これはヘブラーがソ連を訪問した際の貴重なライヴ。しかも良質ステレオ!日本でN響との共演時にも演奏した作品で、彼女にとってのいわば勝負曲だったのでしょう。なお、トラック6の5:42付近でに電波障害によるものと思われる人の声の混入があります。ご了承ください。

ハイドンは、もちろん珠を転がすようなタッチによる愉悦感が魅力的ではありますが、単に軽いタッチでパラパラと運指を続けているだけではなく、若き日のヘブラーの闊達さが鮮烈に迫る快演!第1楽章2:55からの程よい粘度を持つリズムはまさにその象徴。第2楽章でも、後年のたおやかさが際立つ演奏スタイルの片鱗が見えるものの、曖昧なタッチはどこにもなく前抜きな主張に満ちており、決して上品さだけを売りにしたピアニストではなかったことが明らか。終楽章0:44のリズムの弾力も古典的な様式の中で煌めいているので、アルゲリッチでは激しすぎると感じる方も納得されるること必定。
 ヘブラーといえばモーツァルト。この「12番」は、後年の全集録音におけるロヴィツキの指揮とのコンビネーションがちぐはぐでトーンがどこか暗かったのとは好対照、。指揮のゴールドベルク共々伸びやかな音楽作りに邁進します。第1楽章展開部では彼女特有の優しい語りの妙が如何なく発揮され、単に清潔なフレージングだけに執着していてはここまで聴き手の心に迫ることはないはずです。第2楽章の第2主題以降の一音ごとに託した切実な思いも、ロヴィツキ盤では聞けない魅力ですし。コーダの8:26からの息絶える直前のような間合いの絶妙さは奇跡的!今更ながら、協奏曲において共演指揮者との親和性が不可欠であると再認識させられます。
 その点、「第17番」のモーツァルトのスペシャリスト同士の共演は、両者ともPHILIPSに録音を遺しながら共演録音がなかったことも含め、モーツァルト・ファン垂涎と言えましょう。人間味溢れるニュアンスを大切に育みながら丁寧に紡ぎ出す手法は、ソリッドな感覚に傾きがちなソ連スタイルとは異なりますが、心ある多くの聴衆の心に魅了したことは終演後の熱い拍手からも窺えます。第1楽章第2主題の装飾音が込み入った楽想の処理の淀みのなさと細やかさには、並の共感以上の確信が漲っており、その素直な音楽の息づきにただただ酔いしれるばかり。4:48以降は生きる喜びを惜しげもなく謳歌。しかも独り善がり的なノリに興じないよう自身を律しながら常に作品を主役に立てるヘブラーのセンスは、もっと正当に評価されて然るべきではないでしょうか。そして、展開部の無限とも思える陰影の濃さ!モーツァルトの作品の中でも屈指の幻想性を誇る第2楽章は、その特質を余すことなく引き出しますが、パウムガルトナーの含蓄のある指揮なしにはこれほど音楽の本質が抉り出されることはなかったでしょう。終楽章では、速いテンポでも決して音楽が上滑りしない打鍵バランス感覚に脱帽。特にヘブラーの演奏に後年まで見られる、強拍のリズムの重心をわずかに下げるスタイルここでも功を奏し、音楽の造形に安定感と気品を与えていることにもご注目ください。【2024年9月・湧々堂】

TRE-312
ヘブラー〜ステレオ初期の協奏曲録音集
ハイドン:ピアノ協奏曲 ニ長調Hob.18-11*
モーツァルト:ピアノ協奏曲第18番変ロ長調K.456
 ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
イングリット・ヘブラー(P)
シモン・ゴールドベルク(指)オランダ室内O*
クリストフ・フォン・ドホナーニ(指)ウィーンSO

録音:日(全てステレオ)
※音源:蘭PHILIPS 802737DXY*、日Victor SFON-7508
◎収録時間:79:52
“穏やかなだけではないヘブラーの頑なにブレないピアニズム!”
■音源について
★ヘブラーにとってハイドンの協奏曲はN響とも共演(1983年)した大切なレパートリーですが、これが唯一の録音。モーツァルの2曲はそれぞれ3種のセッション録音があり、最も有名なのは60年代にLSOと録音した選集ですが、ここに収録したのはそれとは別のフィリップスに移籍直後の録音。

ハイドンは、ヘブラー特有の可憐さと気品を兼ね備えたタッチが活ききった名演奏。「女性らしさ」の範疇を超える芯の確かなタッチがものを言い、リズムが生き生きと湧き立ち、夢のような空間を現出。第1楽章再現部5:16からの体全体で飛び込む勢いは、ヘブラーの一般的なイメージを覆すのに十分で、心躍ること請け合い!もちろん終楽章も同様。1:54からの装飾音から弾ける愉しさはひとしお。第2楽章も十分にリリシズムを湛えながらも安易な柔和なトーンでやり過ごさず、古典的様式の範疇で凛としたタッチを確実に配置。指揮のゴールドベルクとの一体感も、これ以上のものは考えられないほどです。
 指揮とのコンビネーションの良さは、モーツァルトも同じ。メジャー・デビュー直後のドホナーニの瑞々しくも配慮の行き届いた指揮に、ヘブラーは心おきなく自身のピアニズムを羽ばたかせます。「第18番」第1楽章2:38からの音型の粒立ちの良さとよく通る響き、均整の取れたフォルムは、これまたヘブラーのピアニズムが決して柔和さ一辺倒でないことの証明。展開部では、ウィーン響の素朴な木管との掛け合いの何と愉しいことでしょう。第2楽章はピアノの入りに要注目!この楽想にこれ以上のタッチのニュアンスがあり得るでしょうか?伏し目がちでありながら決して暗く沈むこまない絶妙な表情は、まさにモーツァルトをライフワークとするヘブラーの面目躍如!
同じ音を連打する際に均衡を保って響かせる手腕もヘブラーの武器の一つで、終楽章冒頭もその好例。その何でもない行為が音楽を魅力的にさせるのに欠かせないことを体で知っているのです。フレージングからだけでなく、リズムからも語りかけのニュアンスが零れ出るのもヘブラーの魅力。テンポの速い楽章でもその姿勢にブレはなく、足場を固めながらそれを実践する様をこの終楽章でご堪能下さい。
 「第27番」は、第1楽章の冒頭を極めて内省的なタッチで開始するのが意外ですが、それが楽章全体で一貫していることからも、それがただの気まぐれではないのはもちろんのこと、展開部の陰影に飛んだニュアンスへ繋げるための布石であることに気付かされます。
 第2楽章冒頭では、先述のヘブラーの「リズムで語る」魅力を痛感。それを受けるドホナーニの指揮がまた絶妙で、強弱ニュアンスへの繊細な配慮は見事。その両者が、余分なものを全て排除した少ない音符を丹念に紡ぐ8分間は、浮世の雑念とは完全に隔絶した世界です。
終楽章は、菩薩のような笑みを浮かべた表情がたまりません!「癒やし」などという安直な意味ではなく、自信をなくしている全ての人の心を一旦リセットし、「何とかなりそうだ」と思わせるような不思議な光とパワーを感じるのは私だけでしょうか?そう思わせるのも、一見温和でありながら背後では頑として譲れないピアニズムを貫くブラーの意志の強さの賜物だと思うのです。【2023年6月・湧々堂】

TRE-313
ケンプ〜シューマン&リスト:ピアノ協奏曲集
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調Op.54*
リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調
 ピアノ協奏曲第2番イ長調
ウィルヘルム・ケンプ(P)
ヨーゼフ・クリップス(指)LSO*
アナトゥール・フィストラーリ(指)LSO

録音:1953年5月26-27日*、1964年6月2&4日(全てモノラル)
※音源:英DECCA LW-5337*、独DECCA MD-1043
◎収録時間:73:03
“芸術的表現に無関係なものを排斥するケンプのピアニズムを象徴!”
■音源について
シューマンは英国の10ンインチ盤、リストはドイツ盤LP(黒金ラベル)を採用。

リストのピアノ作品は、技巧的な切れ味をまず前面に立てないと成立しないという風潮があるようですが、ケンプにはそんな既成概念は通用しません。
 「第1番」第1楽章の冒頭テーマは叩きつけるような打鍵は存在せず、ひたすら端麗。一瞬肩透かしを食った感覚に陥りますが、そこに宿る精神力に全くブレがないので、すぐにその独特のモードに惹かれてしまいます。1:01からの上行音型の音の粒立ちを実感出来るような弾き方、最高音域に達した時の「カーン!」という響きの拡散のさせ方は、いかにもケンプ流で、その人間臭さと職人的なこだわりが滲みます。1:16からの流麗さ、艶やかさも、モノラルであることを忘れるほど魅惑的。それを更に痛感させるのが第2楽章。この楽章をこれほど深く、甘美に紡ぎ出した演奏を他に知りません。緩やかな楽想の中でもリズムをキリッと立てる箇所とぼかす箇所を明確に区分している点も、雰囲気に流された安易な演奏にはない説得力を生んでいます。
終楽章では、無機的なフォルティッシモを嫌い、高音をカーン!と響かせるケンプ独自のピアニズムが全開。勢いに任せた演奏では感じることではできない、しっかり心に根付く味わいを実感していただけると思います。
 「第2番」では、より詩的なニュアンスが横溢。何気ないアルペジオにも得も言われぬ幻想が敷き詰められ、聴き手の想像力を掻き立てます。第1部から第2部にかけては、めったに見せない渾身のフォルティッシモが登場しますが、ここぞという場面でのその輝き方は、通常が温和なニュアンスを湛えているだけに一層心に響きます。それでも、無慈悲で鋭利な響きとは無縁。第5部の前半はオケの音圧に埋没しそうでしないギリギリの線で、ケンプが孤高とも言えるピアニズムを貫徹。後半のカデンツァでも全くそのモードを崩さないことからも、ケンプがオケとの協調に拘泥しすぎず、楽譜に書かれているピアノ・パートをいかに繊細に感じ取り、丁寧にロマンの香気を放つことに専心しているかを思い知らせれます。第6部のグリサンド(0:26〜)に至っては、これほど表面的な効果に背を向けた演奏も稀ですし、アクロバット的なリストの演奏スタイルに対するアンチテーゼにも思えます。 
 このリストの録音は、音楽を再現する上で、マシンのような技巧のアピールが目的にも前提にもならないということを再認識させてくれる、かけがえのない財産です!ケンプの演奏に対し、技巧的な弱さを指摘する人は後を絶たないですが、ケンプ本人が技術を強みにすることをむしろ恥と感じ、最優先しなければならない「表現」を行なっているだけだということを感知できないのでしょう。そういう人には、AIによる演奏をお楽しみいただければと思います。
 一方のシューマンでもケンプは自身の矜持を曲げないので、ここでは作品の甘美なイメージとは距離をおいたストイックな演奏にも聞こえますが、聴けば聴くほど、表情を上塗りしたような下品さとは無縁の真摯な語り口が敷き詰められていることに気づきます。第1楽章展開部の前半はその典型。これぞ本物のロマンです!カデンツァも同様。第2楽章も媚びるような表情は見せないものの、克明なタッチを湛えつつ繊細な心情を丁寧に吐露。大きな展開を見せないこの楽章を飽きさせずに聴かせるのは、それこそ技巧を超えた人間力の賜物なのでしょう。終楽章の決してサクサクとスマートに進行しないフレージングには常に人間的な温かみが通っていますが、ケンプは技巧のみならずその優しささえアピールしないので音楽が説明調になることがなく、間延びしやすい遅めのテンポを取りつつも、確実にニュアンスが琴線に響くのです。
 最近は、音楽家がこだわるポイントや方向性が以前と変化しているようです。と言うより、そもそも「どうしても譲れないこだわり」なんて見いだせないことも少なくありません。器用さ、合理性、効率性、協調性は世間を渡る際には必要かもしれませんが、音楽を再現する際にそれを先に考えては、その本質を探り出すことも導き出すことも、ましてや人を感動させることなどできないのでは?などと、ケンプの演奏を聴く度に思う今日この頃です。【2023年10月・湧々堂】

TRE-314
レイボヴィッツ/ベートーヴェン名演集Vol.1
ベートーヴェン
:序曲「レオノーレ」第3番*
交響曲第9番「合唱」
ルネ・レイボヴィッツ(指)ロイヤルPO
インゲ・ボルク(S) 、ルート・ジーヴェルト(A)、リチャード・ルイス(T)、 ルートヴィヒ・ヴェーバー(Bs)、
ビーチャム・コーラル・ソサエティ

録音:1962年2月15日*、1961年5月2-3, 5,7日(共にステレオ)
※音源:英Readers Digest RDS-1013*、日ビクター RBS-6-7
◎収録時間:74:37
“響きの機能美に隠れがちな作曲家に寄り添ったレイボヴィッツの熱き魂!”
■音源について
RCAのチャールズ・ゲルハルトがプロデュースし、エンジニアとしてDECCAのケネス・ウィルキンスンが参加したベートーヴェンの交響曲全集から。使用音源の選択はかなり悩みましたが、総合的に判断して日本盤を採用しました。ドイツ盤は音像がスッキリと立ち上がり、ティンパニの弱音ロールなど美しいのですが、その分音像の広がりが抑え気味。英盤も優秀ですが、スケール感も音の太さも日本盤の方が優ると感じました。ステレオ初期のビクター盤の優秀さが、ここでも実証されています。

★この交響曲全集は、CDで聴く限り、新ウィーン楽派の使徒レイボヴィッツならではの機能的な響きの痛快な響きは分かっても、作品に内在する闘志や精神力を感じにくく、結局は「通好み」の域を出ないのでは?と感じていたところ、この復刻によってそのモヤモヤは一気に吹き飛び、感動が一杯詰まった名演揃いであることが実感できました!
 第1楽章は、いかにも現代的な快速テンポ。情念を一切取り払ったすっきりとした響きが耳に飛び込みます。1:18や2:35のティンパニ追加など、レイボヴィッツならではの積極的なスコアの補正は、古臭さを伴わずフレッシュで斬新な響きをもたらすと共に、音楽に推進力をもたらします。再現部冒頭の激しさは尋常ではなく、音量だけを肥大化させた演奏とは違う決死の覚悟を感じずにはいられません。12:40で発作的にフォルティッシモで山場を築いたり、イン・テンポのまま敢然とコーダへ滑り込むのにも明確な意志が感じられるのです。
 第2楽章も造形はあくまでも清潔に保ちつつ、火の玉のような情熱を持って快速進行。0:45からのホルンの補強は誰よりも盛大、というより露骨過ぎて、初めて聴いた時に吹き出してしまったのを覚えていますが、知性派と思われがちなレイボヴィッツの人間臭いケレン味が出たシーンと言えましょう。
 フルトヴェングラー的な物々しさから開放し、清々しい音像と推進力を取り戻そうとする意志が最も顕著に出たのが第3楽章。演奏時間もなんと12分半!アゴーギクはほとんど顔を出さず淡々と進行しているようでいて、全ての音は共感とときめきで粒立ち、その純粋な佇まいに、宗教的な敬虔さを持ち込む必要性を感じさせません。
 終楽章は、冒頭がこれまた粘着性皆無の突進型。低弦のレチタティーヴォにここまで人間臭い語りを禁じて決然と進行させた例は極めて稀有でしょう。"Seid umschlungen, Millionen!"(トラック10)で顕著なように、伸びやかで情熱的な合唱も特筆もの。最後のPrestissimoは、冒頭で盛大にティンパニが、締めくくりではホルンが盛大に追加されますが、これらもこの復刻盤で聴けば、それだけが前時代的な誇張として目立つことなく、シラーの詩を想起させる星の彼方の神に届けとばかりに響き渡るのです!
 他のレヴューでも何度も申し上げていますが、「作曲家の意志に忠実」とは、決して古い楽器や文献を引っ張りすことではなく、作曲家がその曲を書かずにいられなかった気持ちに寄り添うことが大前提であり、再現された自分の音楽が聴衆に感動ももたらしてほしいという願いまで叶えてあげなければならないはずです。この「第9」を聴くと、レイボヴィッツは、その点を十分に体で理解していた指揮者だとつくづく思います。「古きを訪ねて何も見出さない」演奏に辟易としている方に、特に傾聴していただきたい名録音です。【2023年12月・湧々堂】

TRE-316
ハンゼン/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲集
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op. 15*
ピアノ協奏曲第3番ハ短調 Op. 37
コンラート・ハンゼン(P)、
ハインツ・ワルベルク*、イシュトヴァン・ケルテス(指)
バンベルクSO、

録音:1960年頃(共にステレオ)
※音源:独OPERA St-3959*、St-3919
◎収録時間:69:16
“小手先の演出とは無縁のドイツ・ピアニズムの真髄!”
■音源について
2曲とも10インチの初期ステレオ盤を使用。

★1906年ドイツ生まれでE・フィッシャー門下、フルトヴェングラーとの競演でも知られるハンゼンの芸風をとことん堪能できる貴重なステレオ録音。珠を転がすようなタッチから深みとコクを湛えた風情が滲み、ピアニッシモでも音楽自体を脆弱にせず、一本芯の通った精神的な逞しさを絶やさないのは、リヒター・ハーザーなどとも共通する特質です。
 第1番、第1楽章は楽想の可憐さをと古典美を湛えた演奏。第3番と共にハンゼン自身の作によるカデンツァが使用されていますがこれが実に素晴らしく、他のピアニストにも是非採用して欲しい力作。第2楽章は情に溺れず、強弱対比も控えめに淡々と進行しているようでいて、そこにはモーツァルト的な柔和な光が常に付随。特に5:40以降の弦のピチカートと共に進行するフレーズの幸福感、6:42以降のトリルの慈しみ方は、例えようもない余韻を残します。近年ではまるで速さを競うかのような演奏が多い終楽章は、まずそのテンポに膝を打ちます!このテンポだからこそベヒシュタインと思われる楽器の馥郁とした雰囲気も十分に揮されたと言えましょう。
 第3番の第1楽章は、第2主題に入ると柔和な表情に転じる演奏が多いですが、ここでは明快なタッチを崩さず全く媚びるそぶりを見せず男っぽさ満点!第2楽章も強弱の振幅を意図的に操作する印象を与えない朴訥な進行がかえって心を打ちます。装飾音やトリルは決して軽く滑らすのではなく、音の粒の一つ一つが芯から響いているのです。終楽章はもっとスポーティな演奏はいくらでもありますが、この筋金入りとしかいいようなない頑丈な構築感は何度聴いても見事。一見ぶっきらぼうとも言える1:56〜1:58のフレーズの締めくくり方は、ドイツの心意気丸出し!更に感動的なのは5:01からのまろやかなタッチに彩られた夢のようなロマン性!全く力みがなく指が勝手に動いているような自然な音楽の律動感が美しさの極み!この箇所でこんなに心奪われたことはありません。メカニックな痛快さはどこにもありませんが、逆にその技巧を武器にしない渋いピアニズムの奥底のある息遣いを是非感じていただきたいと思います。
 2人の指揮者との競演も盤石。派手さとは対極にあるハンゼンのピアニズムを見事に引き立たせつつも、オケの持つ木目調の風合いとも相まって自然な構築美を築き上げています。【2024年6月・湧々堂】

TRE-319
ブランカ・ムスリン/ショパン:ピアノ協奏曲集
ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11*
ピアノ協奏曲第2番へ短調Op.21*#
練習曲Op.25-7/Op.25-3
ブランカ・ムスリン(P)
ハインツ・ワルベルク(指)バンベルクSO*
ウィルヘルム・シュヒター(指)ベルリンSO#

録音:1960年代初頭*、1963年7月4-5日#、1964年10月3日(全てステレオ)
※音源:日KING SH-5242*,#、日KING SR-5052#
◎収録時間:77:03
“成熟した精神の昇華力で甘美なショパン像を打破!”
■音源について
独Eurodisc録音。使用したのは60年代後半のキング盤。ムスリンは1953年にも2つの協奏曲を録音しており、これは再録音。

★ザグレブ出身の女流ピアニスト、ブランカ・ムスリン(1920-1975)の貴重なステレオ録音。地元のの音楽院で学んだ後に、パリではコルトーやルフェーブルの薫陶も受けていますが、1958年からはフランクフルト音楽院での教育活動にも力を注いだせいか、遺された録音はごく僅か。
ムスリンの2つのピアノ協奏曲の旧録音ではかなり奔放な表現を発散していましたが、ここではそのピアニズムは格段に成熟。情緒的な表現は師のコルトーを思わせる点もありますが、あくまでも作品の造形美を基調として旋律線の隈取を明確に出するタイプで、普遍的な価値を持つ逸品!
「第1番」のソロの出だしは何の思わせぶりな態度を取らず、単刀直入に打鍵。第1主題に移っても音像が霞むことなく、凛とした風情を保持。第2主題でやっと表情が和らぎますが、その微かな微笑みと語らいは心に染み入ります。展開部では、内面に精神的な強さを湛えたフレージングのセンスが活き、甘美な雰囲気に流されない輝かしい推進性に引き込まれます。第2楽章開始すぐ、1:22からの長い余韻にたっぷり詰まったロマンはどうでしょう!この感性こそロマン派作品を演奏する上での必須条件だと叫びたくなります。過剰なアゴーギクを避けたつつも微妙な感情の揺れに即応したテンポの揺れと色彩の選択も見事。6:53以降の風格美と装飾音を含む細かい走句の描き出しはまさに名人芸。終楽章冒頭テーマは、付点16分音符もしっかり弾き上げながら(旧録音は16分音符で弾いている)、窮屈感が皆無という理想形を実現!
 「第2番」も同様のスタイル。傑出しているのは第2楽章で、孤高の空気感の中での結晶化されたタッチが繊細に息づく様には言葉も出ません。暗雲立ち込める中間部での確信溢れるタッチは聴く者に勇気を与え、後半では「大丈夫!」と背中を押してくれるような不思議な力を感じます。終楽章の1:10からは細かい音符が連続しますが、音の粒を揃えようとすると途端に機械的に響いてしまう昨今のピアニストとの格の違いを痛感。
 演奏家の表現への意欲が少しづつ変な方向に向かってしまっている気がしてならないのですが、作品の魅力を説明調でもなく聴き手に媚びるわけでもなく丁寧にあぶり出すかつての真摯な演奏を今こそ意識的に掘り返して耳を傾けるべきではないでしょうか?【2024年7月・湧々堂】

TRE-320(2CDR)
ヴァーシャリのショパンVol.2
夜想曲集(全20曲)
タマーシュ・ヴァーシャリ(P)

録音:1965年4月20-24日(Op.9、Op.15、Op.27、Op.32)、5月11-12日(ステレオ)
※音源:独DG 104-369、136-487
◎収録時間:50:08+51:15
“自然体の歌と呼吸の持久性を兼ね備えた理想のノクターン!”
■音源について
★2枚ともドイツのチューリップ・ラベル盤を採用。第1〜10番のLPは、8枚組のボックスの中の1枚。

★ハンガリー出身のピアニストは、タッチの隈取の克明さやリズム感の冴えが特徴的な場合が多いですが、ヴァーシャリのピアニズムはそれとは一線を画し、あくまでも「軽み」が持ち味。ショパンで言えば、スケルツォやエチュードなどではその軽さゆえ作品に肉薄しきれていない点は否めませんが、「ワルツ」「即興曲」「夜想曲」等は、ヴァーシャリの特質が全てがプラスに作用し、もっと正当に認知されて然るべきだと強く思います。
「夜想曲」はややもすると、もったいぶったり、神妙に構えたり、すすり泣いたりと、感傷的な側面ばかりに焦点を当てがちですが、素直で清らかな歌が蔑ろにされ過ぎていないでしょうか?
 「第3番」は、冒頭テーマの語りかけのテンポ・ルバートのセンスが抜群。肩の力が抜けきったなかで目の前の一人だけに囁くようなフレージングに魅了されます。コーダがこれまた奇跡的な美しさ!「第6番」「第9番」は、表情の硬軟の使い分けが明確で、ヴァーシャリにしては意外なほどのくっきりとしたコントラストの妙味で聴かせます。「第11番」は、レガートと呼吸の素晴らしい一体感!なよなよせずに音楽の芯を堅持し、高潔美が横溢。「第16番」は、3:13あたりから曲の最後にかけての弱音の漂わせ方とその香りにご注目を!「第20番」は、1:46から一気呵成に高揚する様から一瞬で静寂に戻す技の冴えに唖然!
 白眉中の白眉は「第17番」でしょう。冒頭2小節の序奏の色彩と休符の余韻にまず惹き込まれます。穏やかなテーマが途中で高音に跳ね上がる(0:19など)の心の通わせ方、1:36からの硬質タッチの見事な粒立ちも印象的ですが、3:46からのトリルに彩られたテーマの緻密で濃密なフレージングにはただただ絶句!ここであえてトリルを散りばめたショパンの意志が痛いほど伝わる演奏を他に知りません。そして、着地点をはぐらかすようなコーダのニュアンスの多彩さ!「ヴァーシャリのショパンは水っぽくて物足りない」などとぼやく御仁は、これをなんとも感じないのでしょうか?【2024年1月・湧々堂】

TRE-321
ラインスドルフ&ボストン響〜厳選名演集Vol.6〜ドヴォルザーク他
リムスキー=コルサコフ:組曲「金鶏」*
ドヴォルザーク:交響曲第6番ニ長調 Op. 60
 スラブ舞曲Op.72−2/Op.72-8
エーリヒ・ラインスドルフ(指)
ボストンSO

録音:1965年4月23-24*、1967年(全てステレオ)
※音源:日ビクター SHP-2376*、SRA-2527、
◎収録時間:77:30
“ラインスドルフこだわりの「ドボ6」の比類なき昇華力!”
■音源について
2枚の日本の初期盤を音源として使用。ラインスドルフは、ドヴォルザークの交響曲第6番を1946年にも録音。チェコの指揮者以外でこの曲を2回以上セッション録音した人は珍しく、思い入れが強さが窺えます。

★ドヴォルザークは、チェコの民族色を全面に出すことはないと想像はできても、ここまで共感の丈を伸びやかに健康的に発散するとは予想外。
 交響曲の第1楽章のテーマをゆったりと郷愁を噛み締めながら開始したかと思うと直ぐにギアをアップ。その後はイン・テンポを基調に進行するのはいつものラインスドルフですが、要所要所での柔軟なルバートはまさに共感のなせる技であり、提示部の最後の静謐における精緻なハーモニー表出も流石の職人芸。楽章最後の2分間の追い込みは、ライヴ録音かと思うくらいの熱さで、明らかにベートーヴェンに対峙する時とは別のセンサーをフル稼働し、しかも造形美には寸分の緩みもないという見事さ!
 第2楽章は、弦の主題のい美しさにまず息を呑みます。当時のボストン響の音程の正確さは周知のとおりですが、それと相まった繊細を極めたフレージングは比類なし。それに対するホルンやフルートの優しい呼応にもホロリとさせられます。9:58からのチェロのユニゾンの気品溢れる邂逅からコーダに至るまでの目の詰んだニュアンスは、この作品の魅力を知り尽くした指揮者でなけれえば成し得ないでしょう。
 第3楽章は一点の曇りもない清々しい推進を見せながら、断固とした意志力も同時に炸裂。中間部でも安穏とした雰囲気に甘んじることはありません。
 終楽章はシンフォニックな響きの凝縮力が尋常ではありません。非ローカルなアプローチの永遠の基準ともいうべき盤石の構築力と共に、音楽の持つ潜在的な魅力を余すことなく抉り出したという点で、これに優る演奏を他に知りません。
 スラブ舞曲は特にノスタルジックな作風の2曲が選ばれていますが、これらもその魅力に寄り掛からずラインスドルフの美学との調和の上に育まれたニュアンスが導き出されるので、独特の存在感と味わいが醸成されます。Op.72-2の中間部が、これほど入念に立体感を持って楽想が立ち上ったことがあったでしょうか? 
 このドヴォルザークは、演奏者の共感の丈ををいかに芸術的に昇華させるべきかを教えてくれるという意味でもかけがえのないものです。【2024年6月・湧々堂】

TRE-326
A.フィッシャー/モーツァルト&シューマン
メンデルスゾーン:ロンド・カプリッチョーソ ホ長調 Op.14*
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K. 482**
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調Op.54#
アニー・フィッシャー(P)
オットー・クレンペラー(指)*
アムステルダム・コンセルトヘボウO*
ヨゼフ・カイルベルト(指)#
ケルンRSO#

録音:1966年モスクワ*、1956年7月12日コンセルトヘボウ**、1958年4月28日 ケルン放送 第1ホール# (すべてモノラル・ライヴ)
※音源:Melodiya M10-44183*,#、Discocorp RR-527**
◎収録時間:
“造形美を確保しつつ確信を持って邁進し続けるA.フィッシャーのピアニズム!”
■音源について
メンデルスゾーンはセッション録音なし。シューマンはレコードには1961年と表記されていますが、誤表記のようです。また、シューマンはピッチが高めなので正しく修正しています。Proifilレーベルからも復刻kされていますが、疑似ステレオのような加工が施されており、音楽的なニュアンスが半減していました。

モーツァルトは、音楽を小さくまとめず、確信を持って前進し続ける姿勢が見事に結実。第1楽章第1主題は、可憐なだけではなく芯を湛えたタッチが印象的で、3:47からの短調の飛び込みも激烈。たちまち第2主題の清流へと溶け込んでいく流れにも息を呑みます。展開部前半の混沌世界で見せる求心力も見事。第2楽章はクレンペラーが引き出す敬虔な祈りの空気がまず心を捉えます。それに安心して身を委ねて同じ空気を湛えたフィッシャーのピアノは、サヴァリッシュとのセッション録音以上の内省美を湛えています。木管アンサンブルの入念な絡みも得も言われぬ素晴らしさ!その後のオケとピアノの慟哭の応酬は、クレンペラーとのコンビネーションならではの説得力。後半の微妙な陰影の移ろいも両者が渾然一体となって導き出し、コーダの長調へ転じると見せかけてすぐさま暗雲をに引き戻すモーツァルトの天才技をサラリと現出させるセンスにも脱帽です。終楽章では、クレンペラーが意外なほど愉悦に満ちたリズムの冴えを見せるなど柔軟な指揮ぶりを見せ、それに乗じてフィッシャーも伸び伸びと自身のピアニズムを羽ばたかせます。中間部後半の木管とピアノの織りなすまろやかで天国的なテクスチュアはどうでしょう!なお、カデンツカは、サヴァリッシュ盤ではフンメル版を使用していましたが、ここで使用しているのは、ドホナーニかフィッシャー自身のカデンツァかと思われます。
 シューマンは後年のクレンペラーとセッション録音がありますが、こちらもそれを上回る名演奏。第1楽章、肝心要の第1主題(0:27〜0:49)は、タッチの加減とルバートのセンスを凝縮させ、しかも自然に息づかせていることからして只事ではありません。ロマン派音楽の真髄とも言える展開部は、その息吹を全身に感じ、体現し尽くしながら、気高い芸術性を築き上げます。第2楽章は全体的にニュアンのコントラストが強く、魂の入り方にムラがありません。冒頭は、単に美しく歌うというより、花の香りを全身で感じ、その幸福と感謝を花にそっと告げるような空気感!セッション録音も外見はそっくりですが、この囁きかけが明らかに弱いのです。2:24からで発作的に情感をむき出しにするシーンも、クレンペラーでは普通に流れのみ。第1楽章ではいつもの野武士モードを貫いていたカイルベルトが、ここでは大き過呼吸の妙を見せ、フィッシャーと相乗的に見事なニュアンスを醸し出しています。終楽章では生命力が横溢。それでいて品格ある造形美もしっかり確保。1:59以降は相当の持久力を要する8分音符の連続。ここを勢いでやり過ごす演奏のなんと多いことか!その点フィッシャーはクレンペラー盤でも勢いとは無縁の真摯さで作品に対峙していますが、心のときめきを絶やすことなくタッチの隅々まで行き渡らせ、緊張の弛緩もなく、表情が冴え渡っているのは、このカイルベルト盤だと思うのです。
 東欧には「男勝り」のイメージを持つ女流ピアニストが多いですが、A.フィッシャーと同郷で、よりエモーショナルな面に焦点を当てるリリー・クラウスとの違いに思いを馳せるのも一興ではないでしょうか。 
※昨今巷ではジェンダーレスが無節操に叫ばれていますが、「男らしさ」とか「女流」という言葉はあくまでも物事を説明するうえで形容詞として用いているのであって、その言葉を使用しただけで目くじらを立てるのはお門違いというものです。【2024年11月・湧々堂】

TRE-325(2CDR)
厳選!赤盤名演集Vol.14
トルトゥリエ〜バッハの「無伴奏」

バッハ:無伴奏チェロ組曲(全6曲)
ポール・トルトゥリエ(Vc)

録音:1960年12月5日&1961年3月20日(第1番)、1960年12月5日&1961年3月20日(第2番)、1960年12月6日(第3番)、1960年12月7日(第4番)、1960年12月5-6日&1961年7月23日(第5番)、1960年12月7-8日&1961年3月20日(第6番) ステレオ
※音源:東芝_ASC-5137-9(赤盤)
◎収録時間:55:07+69:44
“トルトゥリエが格調高く謳い上げる人間讃歌!”
■音源について
トルトゥリエのバッハ「無伴奏」のセッション録音は2種存在しますが、これは第1回録音。パテの初期盤は何十万もの高値が付くこともありますが、ここに聴く東芝赤盤の生々しい音色に物足りなさなどまるで感じませんので、迷わずこれを採用しました。LP3枚分を2枚のCD-Rに収録。

★ステレオ初期の同曲の名演として真っ先に挙げたいのがこれ!一つの核心を掴み取ることだけを目指すような一途さとどんな苦難も受け入れるような度量の広さを感じさせる素晴らしい演奏です。
 第1番の「前奏曲」は、ノーブルな佇まいの中に精神的な強靭さが横溢。コーダへかけての天馬空を行く如き進行からしっとりと着地するまでの進行は、何時聴いても心に迫ります。「サラバンド」や「ジーグ」のリズムの発言力も決して独り善がりではなく、格調高いフォルムを維持しているところに、トルトゥリエの芸術的な昇華力を感じずにはいられません。
 第2番の「前奏曲」では、呼吸と精神力の持久力が見事。しかも短調ながら内省に傾きすぎず、音楽のスケール感を保っています。特にコーダの地を這うような楽想の浸透力は忘れられません。「メヌエット」はノン・ヴィブラートの箇所が頻出しますが、その意味合いは昨今の無節操に全てをノン・ヴィブラートで押し通しすのとは別次元で、楽想と一体化している点にご注目を。
 第3番の有名な「ブーレT」で他の多くの名盤に比べて傑出しているのが、各音のコントラストの強さ緊密な連動の共存。平板に流れる箇所など皆無です。カザルスの演奏でのある意味気ままな音価を本来の長さに制御した感じと言えばよいでしょうか。第4番のブーレも、まるで人間の喋り声のように生き生きと飛翔。
 トルトゥリエの演奏にはそこはかとないニュアンスはほとんどなく、常に克明な表現に徹しているのも特徴的。第5番の「アルマンド」など、ほのかな哀愁を超えた強烈な意志の力が胸に迫ります。そして「クーラント」の凄さ!これほど魂を燃やし尽くし、ハーモニーが熾烈にぶつかり合う演奏にはなかなか出会えません。続く「サラバンド」は、打って変わって魂を抜かれたような無機質さが極限の孤独感を醸し、「ジーグ」は圧倒的なスケール感!これを聴くと他のどんな名演も貧弱に思えてしまうほどです。
 トルトゥリエは同曲集を1983年に再録音していますが、録音のせいかこの1960年盤よりややスタイリッシュに聞こえます。第6番の「クーラント」のような速いパッセージの緊張感や、「ガヴォット」での渾身のリズムの沸き立ち、全6曲の各「ジーグ」における拍節感の強靭さと低音の抉り出しの手応えも、1960年盤ならではの魅力と言えましょう。
 崇拝するカザルスの精神を受け継ぎ、その歴史的名盤と並んで人間の生き様を投影したような名盤を遺してくれたトルトゥリエの業績は計り知れません!【2024年10月・湧々堂】

TRE-326
A.フィッシャー/モーツァルト&シューマン
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K. 482*
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調Op.54#
メンデルスゾーン:ロンド・カプリッチョーソ ホ長調 Op.14##
アニー・フィッシャー(P)
オットー・クレンペラー(指)*
アムステルダム・コンセルトヘボウO*
ヨゼフ・カイルベルト(指)#
ケルンRSO#

録音:1956年7月12日コンセルトヘボウ*、1958年4月28日 ケルン放送 第1ホール#、1966年モスクワ## (全てモノラル・ライヴ)
※音源:Melodiya M10-44183#,##、Discocorp RR-527*
◎収録時間:70:15
“造形美を確保しつつ確信を持って邁進し続けるA.フィッシャーのピアニズム!”
■音源について
メンデルスゾーンはセッション録音なし。シューマンはレコードには1961年と表記されていますが、誤表記のようです。また、シューマンはピッチが高めなので正しく修正しています。Proifilレーベルからも復刻kされていますが、疑似ステレオのような加工が施されており、音楽的なニュアンスが半減していました。

★モーツァルトは、音楽を小さくまとめず、確信を持って前進し続ける姿勢が見事に結実。第1楽章第1主題は、可憐なだけではなく芯を湛えたタッチが印象的で、3:47からの短調の飛び込みも激烈。たちまち第2主題の清流へと溶け込んでいく流れにも息を呑みます。展開部前半の混沌世界で見せる求心力も見事。第2楽章はクレンペラーが引き出す敬虔な祈りの空気がまず心を捉えます。それに安心して身を委ねて同じ空気を湛えたフィッシャーのピアノは、サヴァリッシュとのセッション録音以上の内省美を湛えています。木管アンサンブルの入念な絡みも得も言われぬ素晴らしさ!その後のオケとピアノの慟哭の応酬は、クレンペラーとのコンビネーションならではの説得力。後半の微妙な陰影の移ろいも両者が渾然一体となって導き出し、コーダにおける長調へ転じると見せかけてすぐさま暗雲をに引き戻すモーツァルトの天才技をサラリと現出させるセンスにも脱帽です。終楽章では、クレンペラーが意外なほど愉悦に満ちたリズムの冴えを見せるなど柔軟な指揮ぶりを見せ、それに乗じてフィッシャーも伸び伸びと自身のピアニズムを羽ばたかせます。中間部後半の木管とピアノの織りなすまろやかで天国的なテクスチュアはどうでしょう!なお、カデンツカは、サヴァリッシュ盤ではフンメル版を使用していましたが、ここで使用しているのは、ドホナーニかフィッシャー自身のカデンツァかと思われます。
シューマンは後年のクレンペラーとセッション録音がありますが、こちらもそれを上回る名演奏。第1楽章、第1主題(0:27〜0:49)は、タッチの加減とルバートのセンスを凝縮させ、しかも自然に息づかせていることからして只事ではない美しさ!ロマン派音楽の真髄とも言える展開部は、その息吹を全身に感じ、体現し尽くしながら、気高い芸術性を築き上げます。第2楽章は全体的にニュアンのコントラストが強く、魂の入り方にムラがありません。冒頭は、単に美しく歌うというより、花の香りを全身で感じ、その幸福と感謝を花にそっと告げるような空気感!セッション録音も外見はそっくりですが、この囁きかけが明らかに弱いのです。2:24からで発作的に情感をむき出しにするシーンも、クレンペラー盤では普通に流れるのみ。第1楽章ではいつもの野武士モードを貫いていたカイルベルトが、ここでは大き呼吸の妙を見せ、フィッシャーと相乗的に見事なニュアンスを醸し出しています。終楽章では生命力が横溢。それでいて品格ある造形美もしっかり確保。1:59以降は相当の持久力を要する8分音符の連続。ここを勢いでやり過ごす演奏のなんと多いことか!その点フィッシャーはクレンペラー盤でも勢いとは無縁の真摯さで作品に対峙していますが、心のときめきを絶やすことなくタッチの隅々まで行き渡らせ、緊張の弛緩もなく、表情が冴え渡っているのは、このカイルベルト盤だと思うのです。【2024年11月・湧々堂】
【2024年11月・湧々堂】

TRE-327
ルートヴィヒ/モーツァルト&ブラームス
モーツァルト
:歌劇「魔笛」序曲*
 歌劇「後宮からの逃走」*
ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲#
 交響曲第1番ハ短調Op.68+
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
ハンブルク国立歌劇場O*、ハンブルク国立PO#,+

録音:1960年代中期*、1959年頃#,+(全てステレオ)
※音源:独EUROPA E-177*、日COLUMBIA MS-101-K#、独maritim KLASSIK 47473NK+
◎収録時間:73:37
“質実剛健一辺倒ではないルートヴィヒの人間味豊かな職人芸!”
■音源について
2つのオケの実体は同じものと思われますが、ここではレコードの表記のまま分けて記載しております。交響曲は独Opera録音。ここでは、音の輪郭が明瞭に立ち昇るライセンス盤を採用しました。ます。

★このブラームスは、マーラーの第9やチャイコフスキーの第5と並んで指揮者ルートヴィヒが残した屈指の遺産です。
 ハイドン変奏曲は、第2〜第3変奏のオケの潜在能力を活かした無垢な響きが印象的。無窮動的な第5変奏では、軽妙なリズムの冴えを見せつつ決して浮足立たない安定感が流石。終曲は、開始直後は意外なほど柔らかなテクスチュアを敷き詰めますが、次第に芯を湛えたマッシブな響きへと次第に醸成させる手腕に脱帽。
 交響曲はまさに男気溢れる快演!これほど衒いと無縁な演奏も珍しく、したがって造形の立派さで圧倒しようなどという魂胆もさらさらありません。スコアの丁寧な再現を最優先させる一途さには迷いも嘘もないので、聴き手は演奏に対すして高い信頼を寄せ、結果的に積極的に演奏のエッセンスを感じ取ろうとするのめり込む…というような独特の牽引力を孕んだ演奏と言えます。
 安易な演出とは無縁の基本姿勢は第1楽章序奏部からして明確ですが、表面的な煽りを超えたティンパニの激流とソリッドな強打が熱い響きを醸成し、早速これが生半可な演奏でないことを窺わせます。第2楽章冒頭部の呼吸の長さと深さはどうでしょう!しかも、繊細であっても決して痩せない音作りの妙味!第3楽章は、演奏時間4分台と速めのテンポを取りながら、響きのブレンドの良さは第2楽章と何ら変わらず。終楽章は、冒頭部のティンパニの奔流にまず息を呑み、第1主題に差し掛かるまで、ブラームスと縁の深いハンブルクのオケ特有の佇まいが自然に息づきます。特に2:39からのホルンからフルートへと続く確信に満ちた響きには、広大さというより一匹狼的な凄みすら感じます。第1主題の目の詰んだ弦の響きが深淵な空気を醸し出す様は実に感動的。ルートヴィヒの人間臭さを感じずにはいられないのが最後の締めくくり。ジョージ・セルが意図的にテンポを落として風格と品格を徹底的に刻印(2種のステレオ録音に共通!)して終わるのとは正反対の開放的な進行ぶりに、ルートヴィヒの子どものような純粋さを感じるのは私だけでしょうか?
 本来、職人芸と人間味は矛盾するかもしれませんが、音楽を過剰に立派な芸術品として祭り上げることのないルートヴィヒの音楽作りにおいては、この2つは共存するのです。【2024年9月・湧々堂】

TRE-328
スワロフスキー〜ベートーヴェン&シューベルト
シューベルト:交響曲第8番「未完成」
ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調*
ハンス・スワロフスキー(指)
ウィーン国立歌劇場O

録音:1957年(モノラル)
※音源:ORBIS 21224、仏VEGA 30MT-10.107*
◎収録時間:69:51
“品格と内燃エネルギーを共存させるスワロフスキーの知られざる手腕!”
■音源について
スワロフスキーのシューベルトの交響曲は、他に「グレイト」が、ベートーヴェンは他に第2、3、5、6、8番の録音があります。

★まず「未完成」が掛け値なしで世紀の名演!この作品の潜在的な魅力をこれほど根底から炙り出した演奏が他にどれだけあるでしょう?第1楽章冒頭から、ふくよかで地に足のついた音に「あ〜この音!」と叫びたくなると同時に、単に楽器を器を弾くのではなく「奏でる」ことによる味わいの大切さを思い知らされます。第2主題直前のホルンのハーモニーの共鳴度も、昨今の薄っぺらさとは別次元の深淵さはどうでしょう!第2主題のチェロのユニゾンでさえ互いの共鳴を感じ取っている様が胸に迫ります。展開部冒頭は心の慄きがジリジリと増す過程では、呼吸に過度な振幅を与えず、その持久力によって全体の緊張感を確実に積み上げているのは、流石の職人芸。8:37の抑え難い内燃を表す弦の唸りも必聴!再現部0:50以降では、音の色彩と精神が一体化したように音楽が粒立ち、どこを取っても愛が強固に結晶されていて感動を禁じえません。とかく平板に流れがちな第2楽章も、何の変哲もないようでいて彫琢豊かな音像を形成しながら、惜しみない愛を投入。一切弛緩のない有機的なフレージングと尋常ならざる豊かなハーモニーで魅了し続けます。自己顕示や衒いを受け入れないこういう作品こそ職人的な指揮者の本質が活きるのでしょう。
 一方のベートーヴェンも、これまた心揺さぶる名演。第1楽章冒頭の打ち込みはまさに迷いのない意思の塊!「英雄」冒頭もそうですが、こうでなければなりません。近年ではマイルドにふわ〜っと開始するスタイルも散見されますが、そのどこに作曲家の意思を感じろというのでしょう?主部以降はデフォルメや誇張を用いない自然体のアプローチが続きますが、シューベルト同様、内声の連動力が極めて高いので音楽が常にキリッと立ち上がり、漫然と流れることがありません。展開部はテンポを一段落としてクレンペラーに近いテンポになりますが、瑞々しも緊張感も見事に維持。第2楽章は弦の美しさが古今を通じて傑出。言うまでもなく弦のブレンド具合が物を言う楽章なので、この点は見逃せません。特に2:23以降の血と汗を一杯に湛えながら一定の品格も保った進行は、この指揮者の矜持の表れとも言えましょう。終楽章は超高速を避け、リズムをきっちり浮き出るやや遅めのテンポを採用し、最後までイン・テンポで通します。テンポが遅くなるほど響きの凝縮と緊張の持続が困難となり、力量のない指揮者が安易に高速で突っ走る例が多いのは御存知の通り。暴走による痛快さよりも作品の造形を確実に打ち出しながら、誠心誠意演奏に集中するスワロフスキ-の指揮の下では、もちろん音楽が淀むことなどありません。コーダ最後の締めくくりで、あからさまに「句点」を打ち込むのも、この進行なら当然と納得させるものがあります。
 なお、2曲とも全てのリピートを敢行していますが、ベートーヴェンの終楽章提示部の繰り返しでは一部カットして演奏されています。 【2024年8月・湧々堂】

「チャイコフスキー:交響曲第5番」特集

TRT-001
ハイドン:交響曲第99番
チャイコフスキー:交響曲第5番*
ヨーゼフ・クリップス(指)VPO

録音:1957年9月9-14日、1958年9月15-16*(共にステレオ)
※音源:DECCA SXL-2098 , SXL-2109*
“宇野功芳氏激賞の意味を真に伝える、極上フラット盤の威力!”
■音源について
このクリップスの「チャイ5」こそ、まさに自主復刻スタートのきっかけとなった録音。ギレリスのベートーヴェン(DG)で初めてCDの音を体験した時、ノイズがないということがこんなに心地良いものかと衝撃を受けた一方、この「チャイ5」のCD(確か初CDは米盤)を初めて聴いて、あまりにも貧相な音に失望したことは今でも忘れられません。以降、何度もCD化が繰り返されましたが、どれを聴いてもその失望を払拭できません。宇野功芳氏が激賞する意味も、既存のCDでは体現できないはずです。それだけ思い入れが強いだけに、レコードも10種類以上は聴き比べましたが、最終的に極上と判断したのが、このSXL-2098(スタンパー=ZAL2D,ZAL2E)。但し、英国盤ではなく稀少なスペイン・プレス。約210グラムの重量フラット盤です、金管のバリバリ張り出す力感、ティンパニの微かな衝撃と余韻など、これ以上に肌で感じることができる盤はまずないと思われます。

ハイドンの「99番」は、楽想の変化の妙とウィーン・フィルの持ち味が融合することで、同時期に録音した「驚愕」以上にワクワクさせられる名演。
クリップスのチャイコフスキー録音は、他に「悲愴」があるだけ。当時のウィーン・フィルにとっても、「チャイ5」は十分体に染み付いている作品ではなかったはず。だからというわけではないでしょうが、クリップスは音楽のイメージの大枠だけを示し、あとはウィーン・フィルの流儀で伸び伸び演奏させることに徹しており、結果的に「ロシア的な哀愁とダイナミズム」とは全く別世界の独自の音楽を確立することができましたという、特異な名演と言えましょう。
特定の声部をデフォルメしたり、ニュアンスのコントラストを強調する素振りも皆無。オケの響きのバランスは弦が主体で、金管はあくまでもスパイス。随所で顔を出すポルタメントも、完全に素のウィーン・フィルそのもの。それらが音楽的な味わいに全面的に作用することを前提として成り立った名演であり、だからこそ、激しい激情の放出も甘美な演出もなく、第2楽章締めくくりのテンポが誰よりもそっけないく通りすぎても、無機質どころか独自の魅力として胸に迫るのでしょう。
テンポも、ウィーン・フィルにとっての自然体が生かせるものが常に選択されていますが、、終楽章の展開部の途中から加速するのは非常の珍しい現象なので、妙に興奮を掻き立てられます。また、これだけウィーン流儀に徹しながら、第3楽章ではウィンナ・ワルツの片鱗を見せず、独自のメルヘン世界を築いていいる点にも、控えめながら決してこだわりは捨てないクリップスの意思が感じられます。
ウィーン・フィルは、この後マゼール、シャイーとも「チャイ5」の名演を遺すことになりますが、ここまでウィーン・フィルの魅力を全面に立てた演奏は他に無く、次第にこのオケがウィーン・フィルらしさを失っていったという事実を差し引いても、これだけ魅力的な演奏に結実したというのは、奇跡に近いのではないでしょうか?例えば、このコンビは同時期にJ・シュトラウス作品集を録音していますが、これは何度聴いても「ウィーン・フィルらしい演奏」という以上の感興が湧き上がってこないことを考えると、なおさらそう思えてなりません。【湧々堂】 →
さらなる詳細コメントはこちら。
ワルター・ゲール
TRT-002
チャイコフスキー:弦楽セレナード*
交響曲第5番ホ短調Op.64
ワルター・ゲール(指)
ローマPO*、フランクフルト室内O

録音:1955頃(ステレオ)
※音源:英CONCERT HALL SMSC-2188*、仏 PRESTIGE DE LA MUSIQUE SR-9629、日CONCERT HALL SM-6108
◎収録時間:76:04
“オケのイタリア気質と相まった濃厚な節回しで翻弄する「チャイ5」!”
■音源について
コンサート・ホール(C.H)のステレオ録音は、バイノーラル方式を採用したものが多いため、それが不自然な音でないことを確認しなければ、安易にステレオ盤を採用するわけには行きません。この2曲のステレオはかなり上出来で、演奏の特徴をより効果的に伝えていると判断して採用しました。しかし、「チャイ5」の最良盤選びには苦労しました。ステレオでの発売は、米・仏と日本のセット物だけだと思われますが、音質的に最良なのは日本盤。ところが、2楽章後半でピッチの揺れがあったため全面採用を断念。そのため、、日本盤と音質的に大差のない仏盤(1969年頃発売)を選択するしかないのですが、たまたま誤って同じレコードを2枚購入してしまったことから思わぬ発見がありました。両者を聴き比べると、一方だけ特に2楽章のひずみが多く、音も曇り気味。それぞれのマトリックスを見ると、マスター自体が異なることが判明したのです。ここでは、ノイズの少なさも含め、その2枚から楽章単位で「いいとこ取り」をすることとしました。ジャケ写には、最もアーティスティックな独盤を採用。

★この「チャイ5」は、世紀の大奇演!ワルター・ゲールという指揮者は、作品の持ち味を生かすことに主眼を置きつつも、オーケストラの個性との相乗効果を取り込むことも重要視していたと見え、どんなニュアンスを引き出すのか、聴くまで全く予想がつきません。このチャイ5も例外ではありません。
いきなり驚かされるのが、作品の核であるクラリネット主題冒頭の付点四分音符を思いっきり引き伸ばし、複付点音符のように奏でていること。この現象は、終楽章最後のトランペットまでほぼ一貫していることから、単なる思いつきでも奏者のクセでもなく、ゲールの指示であることは明らか。スコアを神聖化し過ぎずに、オケに染み付いている歌心を極端なまでに刻印せずにはいられないゲールの芸術家魂に、まず拍手を送りたいのです。
最大の聴き所は、何と言っても終楽章。小さいことに拘らない大らかさが、曲の終盤へ向かうに連れて王者の風格へを変貌を遂げる様は惚れ惚れするばかりで、スコア表記の意味を考えすぎた演奏ではこうは行きません。特に、モデラート以降の風格は、コンサートホールのバイノーラル録音としては異例のバランスの良さとも相俟って、圧倒的な感銘をもたらします。「大らかさ=大雑把」ではないことを痛感するばかりです。
なお、ゲールの「チャイ5」は、Forgotten Recordsによるモノラル盤復刻も存在しますが、「音源について」に記したように、この演奏の面白さをより強く感じさせるのは、明らかにこのステレオ盤です。
一方の「弦セレ」は、これに比べるとはるかに誠実な演奏ですが、決して凡庸な演奏ではなく、フレージングの端々から心からの共感が感じられ、ニュアンスのコントラストに配慮した素晴らしい演奏を聴かせてくれます。【湧々堂】

TRT-003
チャイコフスキー:フランチェスカ・ダ・リミニ
交響曲第5番ホ短調Op.64*
コンスタンティン・イワーノフ(指)
ソビエト国立SO

録音:1955年、1956年*(共にモノラル)
※音源:Melodiya C-1024221-009、独TELEFUNKEN LT-6624*
◎収録時間:69:23
ローカル色に安住せず、入念にニュアンスを注入したイワーノフの真価!”
■音源について
第5交響曲は、既にVISTA VERAレーベルからCD化されていますが、全休止が完全無音状態になるなどノイズ・リダクションが強過ぎ、弱音の音量を意図的に上げたような編集も気になり、これを聴いた際のレヴューでは結果的に「どこか焦点が定まらない演奏」という判断をせざるを得ませんでした。ところが、改めてレコードで聴き直したら、思いも寄らなかったニュアンスが続出!特に、古い音源を使ったCDは全面的には信用出来ないよいうことをまたしても思い知った次第です。

「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、イワーノフならではの豪快な音楽作りの典型。細部へのこだわりを感じさせない推進力とダイナミズムを信条としながらも、よく聴くと各楽想の扱い方に明確な主張が隠されており、単に勢いに任せた演奏ではないことが分かります。序奏部から入魂の限りを尽くし、主部以降は血で血を洗うような壮絶なドラマを展開。そして、中間部冒頭クラリネット・ソロの完全孤独の空気との対比!ソ連勢のこの曲の演奏としては、ムラヴィンスキー、ロジェストヴェンスキーの各レニングラード・フィル盤と共に無視できない名演です。
それが交響曲では、豪放なイワーノフのイメージとは、ちょっと様相が異なります。まず特徴的なのが、まるでドイツ系の指揮者のように構成を見据えた正攻法であること。その上で、第1楽章序奏に象徴されるように、行き場のない孤独感を表出し、ダイナミズム放射を抑え、「内向的なチャイコフスキー」に比重をおいたアプローチを行っているのです。極端なコントラストも持ち込まず、ド迫力で圧倒する瞬間も少ないですが、ただ渋いだけの演奏だと思ったら大間違い!第1楽章だけでも、イワーノフが慣習的なロシアン・スタイルから一旦離れて、スコアを丁寧に読み込んでいることが窺えます。第2主題の直前(4:31〜)では、管楽器を抑えて弦の響きをキリッと立たせたり、第2主題冒頭のスフォルツァンドは、これほど求心力を持った例は稀。副次主題が現れる直前(5:44〜)の木管の音型は、わずかにディミニュエンドして弦との橋渡しが実に流麗。大詰め495小節から一瞬ピアニッシモにしてからのクレッシェンドする見事さ等々、パワーで押し切ることを第一に考えていては成し得ない技ばかりでう、全てに細やかな共感が息づいています。そのよう繊細な配慮を持ちながらも、音楽自体は十分に大きく輝かしく聳えているところが、また魅力です。第2楽章のホルン・ソロも、屈指の名演奏で、まさに風格美で魅了。
これは、ロシア的な臭みが苦手という方にも、その臭みこそ命と信じる方にも、両方に訴え掛ける力を持つ名演奏と言えましょう。オケがもしもバイエルン放送響あたりだったら、更に普遍的な価値を誇る存在になったことでしょう。【湧々堂】さらなる詳細コメントはこちら。

TRT-004
ハイドン:交響曲第100番「軍隊」
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調Op.64*
フェレンツ・フリッチャイ(指)
ベルリンRIAS響、ベルリンRSO*

録音:1954年5月4日、1957年1月24日ライヴ*
※音源:伊LONGANESI PERIODICI GCL-70、GCL-38*
◎収録時間:66:19
“安定感も燃焼度も申し分なし!フィリッチャイの比類なきロマンチシズム!”
■音源について
ハイドンは放送音源。チャイコフスキーはAuditeのCDでも演奏のテンションの高さは伝わりますが、唯一気になるのが、ホットな演奏にもかかわらず、音自体に熱量があまり感じられないこと。マスタリングに際し、高域を少し持ち上げて明瞭に聞こえるように調整したせいかもしれません。この復刻では、そのような齟齬は感じず、迫真の表現が更にダイレクトに突き刺さります!

★フリッチャイ特有の妥協なき共感の注入ぶりは終始凄まじいばかりで、命がいくつあっても足りないと思えるほど燃焼の限りを尽くした凄演です。テンポ設定等の基本構成はベルリン・フィルとのスタジオ録音から大きく変化はしておらず、映像にも残っているようにここでも緻密にリハーサル行なったことを十分に伺わせますが、フリッチャイの演奏は、演奏しているまさにその瞬間におけるオケとの精神的な一体感、高揚感の共有の微妙な差が、本番の演奏の密度もダイレクトに反映されやすい、危険を孕んだスタイルであったとも言えるでしょう。第1楽章はストックホルム盤が終始音楽が激高しているのに対し、こちらでは各シーンの表情のメリハリがより強調され、特に提示部と再現部の暗い翳リの表情と、展開部のイン・テンポで一貫した決然とした推進力のコントラストは見事。第2楽章は命を擦り減らすカンタービレの応酬。第3楽章でも決して気を抜かず、最後の最後まで綿密な設計と情感の融合を実現。終楽章は明らかにストックホルム盤を上回る素晴らしさで、阿吽の呼吸でオケが反応しなければ実現不可能。まさに体で感じきり、アンサンブルの点でも高次元に昇華された演奏が繰り広げられます。最後のプレスト以降のテンポの速さは凄まじく、しかも音楽としての重みを損なうことなく熱い塊として決死の勢いで迫り来る様は圧巻。フリッチャイのチャイコフスキーとしては、ORFEO盤の「悲愴」と共にお勧めしたい録音です。【湧々堂】 さらなる詳細コメントはこちら。

TRT-005
グリューナー=ヘッゲ/グリーグ&チャイコフスキー
グリーグ:「ペール・ギュント」第1組曲Op.46
 「ペール・ギュント」第2組曲Op.55
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調Op.64*
オッド・グリューナー=ヘッゲ(指)
オスロPO

録音:1959年、1958年6月*(全てステレオ)
※音源:英RCA CCV-5019、英Camden SND-5002*
◎収録時間:78:28
“静かな闘志と確信がセンチメンタルなチャイコフスキーを払拭!”
■音源について
幼き日にグリーグに音楽的な才能を認められた、グリューナー=ヘッゲの名演。チャイコフスキーは、ReDiscoveryといレーベルからCDRが発売されていましたが、過剰なノイズ除去のため、無残な音に変質していました。ジャケ写は、米Camden盤を採用。

★グリューナー=ヘッゲ(1899-1973)はノルウェーの名指揮者。ワインガルトナーに師事し、1928年に指揮者としてデビュー。生涯を通じてノルウェーに本拠を置いていたので世界的な認知度は低いですが、幸いにもRCA(Camden)の録音で、静かな確信が宿るその音楽性を知ることができます。
グリーグは、指揮者もオケも正真正銘の本場物。しかし演奏にはその意地を誇示するような大げさな表情は一切なく、ひたむきに丁寧に音楽を紡ぎだしているところに、かえって強い自信が窺われます。特に、「オーゼの死」や「ソルヴェーグの歌」のような静かな曲での慈しみは比類なし。同曲の最も信頼の置ける歴史的名演と言えましょう。
一方のチャイコフスキーは、打って変わってかなり大胆。終楽章で短縮版を採用している点も大きな特徴ですが、まず第一に印象的なのが、オケの響き。北欧のオケにはドイツ系の指揮者の客演が多かったせいか、ここでのオスロ・フィルの響きも、いかにも北欧的な透明さよりも、かつての北ドイ放送響のような渋みを感じさせます。それがプラスに作用し、第1楽章序奏は、腰の座った低弦の響きを基調とした鬱蒼としたニュアンスが心を捉えます。主部以降は、繊細さを装うことのない男性的な推進力が見事!スコアに書かれた極端なまでのテンポ指示もセンス良く中和し、その勢いを決然と貫徹。第2楽章のホルン・ソロは、ピカピカの一流品ではないものの、音楽の感じ方はまさに一級。弦が歌う主題(3:58)も、綺麗事の弱々しい音など皆無。第3楽章も、優美さよりも野武士的な雰囲気が濃厚です。終楽章は、主部を低速で開始して次第に加速する点や、展開部でメンゲルベルクと同様のカットを行うあたりに古いスタイルの片鱗が見られますが、押し付けがましくないので、その勢いに自然に惹き込まれてしまいます。ケンペンのような男らしいチャイコフスキーをお好みの方は、必聴です!【湧々堂】

TRT-006
スタインバーグのチャイコフスキー
チャイコフスキー:弦楽セレナード
交響曲第5番ホ短調Op.64*
ウィリアム・スタインバーグ(指)
ピッツバーグSO

録音:1953年11月30日&1954年4月14日シリア・モスク・ピッツバーグ、1953年頃*
※音源:米Capitol P8290、英mfp MFP-2008*
◎収録時間:75:08
“潔癖でありながら綺麗事ではないフレージングの意味深さ!”
■音源について
スタインバーグが、ピッツバーグ響の音楽監督に就任(1952年)した直後の録音。交響曲の録音日は判然としませんが、1954年のシュワンのカタログには掲載されているので、ここでは1953年頃としておきます。交響曲の音源には、初出のキャピトル盤が高域がきついため、mfp盤を使用。なお、交響曲の第3楽章に、消去しきれないノイズがありますこと、ご了承下さい。ジャケ写は、初出のキャピトル盤。

★スタインバーグの録音は、何を聴いても「誠実だけど胸に迫らない」という印象しか得られなかったのが、この2つのチャイコフスキーには、時を忘れて聴き入ってしまいました。音楽を歪曲しない誠実さの背後には、鉄壁なまでのアーティキュレーションへのこだわりが垣間見え、それが音楽の清潔な流れと呼吸の源となって確実に音楽を突き動かしていることに気付かされたのです。
弦楽セレナード」は、冒頭の弦のブレンドの美しさと清潔さに釘付け!その決して表面的ではない心の襞を震わせた美観は、スタインバーグの他の録音にも宿っていたのなら、猛省して全て聴き直さなければなりません。主部以降の躍動感と無理なく伸びやかに推進するフレージングも瑞々しいことこの上なし。第2楽章はさらに感動的。テーマの結尾のキュートな微笑み掛けに続き、0:31では心の衝撃を映したようなルフト・パウゼの鮮やかさ!弦の音程が正確で質感が統一されていないと、これほど意味を持って響かなかったことでしょう。第3楽章は、響きのみならず、そこに込める感情にも汚れ許さぬスタインバーグの信念が結晶化。主部冒頭のピチカートの一粒一粒に、切なくも希望を感じた光が滲んでいるのには、涙を禁じえません。声部間の絡みも単なる音の行き来ではなく、身を焦がすような愛の交感と化しているのです。
清潔なフレージング対する確固たる信念は、ドイツ生まれのスタインバーグの血のなせる技とも言えますが、交響曲においてもその資質が十分に生き、情に溺れない清新な作品像を打ち立てています。最大の特徴は、テンポの緩急、強弱の変動に極端なコントラストを与えていないこと。ニュアンスを強調する箇所が皆無に近いので、感覚的には堅物な印象しか与えないかもしれませんが、決して楽譜絶対主義ではなく、聴けば聴くほど各フレーズを最も自然に息づかせる絶妙な柔軟性が終始一貫していることに敬服するばかりです。特に第2楽章は、スタインバーグの美学が満載。108小節の弦のピチカートなど、こんな含蓄のある響きを聴いいたことはありません。その直後の弦のテーマにはポルタメントが掛かりますが、こんな古さも汚れもないポルタメントがあり得ることに驚きを禁じえません。思えば1950年代前半は、19世紀的なロマン主義的な演奏スタイルから離脱する過渡期でしたが、オーマンディなどと同様に、現代的アプローチとの折衷スタイルが現れた瞬間としても興味深いものがあります。終楽章後半、全休止後のテーマの斉奏は、これほど弦のボウイングの使い分けを徹底した例を他に知りません。しかもそれを無理強いした痕跡など皆無で、当然のように自然にこなしているのは、この時期オケが既にスタインバーグの音楽性に全幅の信頼を置いていた証でしょう。だからこそ結果的に力技ではない、独特の清々しさを誇る推進力に結実しているのです。
スタインバーグは1952年から20年以上も音楽監督を務め、もちろん歴代最長。そもそも真面目なだけではこれだけの年数を務め上げることなど不可能だということに、もっと早く気づくべきだったと猛省するばかりです。【湧々堂】
 「チャイ5」詳細レヴュー

TRT-007
ジョージ・ハースト
ジョージ・ハースト
ジョージ・ハースト〜シューベルト&チャイコフスキー
シューベルト:交響曲第8番「未完成」*
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
ジョージ・ハースト(指)
デンマーク王立O*、
ハンブルク・プロ・ムジカ

録音:1959年頃(ステレオ)
※音源:英SAGA XID-5029*、STXID-5381 & STXID-5046
◎収録時間:66:25
“ラトルに指揮者になるきっかけを与えたジョージ・ハーストの剛毅な芸風!”
■音源について
この復刻には紆余曲折が。当初、ハインリヒ・ヘラー(Heinrich Heller)指揮による「チャイ5」を復刻するつもりでしたが、この指揮者の経歴が皆目不明。それもそのはず、様々な特徴から、日本の廉価盤によく登場するハンス・ユルゲン・ワルターの録音と全く同じ演奏であることが判明。しかも、H.J.ワルターの録音はステレオなのに、ヘラーは不自然なモノラル。これは、契約の関係でH.J.ワルターの名を別名に変更したというよくあるパターンではなく、無断で音源を流用したことを隠すために指揮者名変更のみならず、わざわざモノラル化したものと思われます。ところが、更に驚いたことに、ここに紹介するジョージ・ハーストの録音も、H.J.ワルターの演奏と全く同じだったのです!ハースト名義のレコードはモノラル盤も含めて何種類も発売されており、ジャケットにも指揮者の経歴がきちんと掲載されていることから、この録音の指揮者はハーストと見て間違いないと思います。
実は、H.J.ワルターのレコードを最初に聴いたとき、過剰で人工的な残響が気になっていました。ハーストのチャイ5は、結局、品番違いで4種ほど聴きましたが、そんな残響はどこにもありません。したがってこの残響付加も、流用の隠蔽としとしか思えません。
それにしても、なぜハーストの録音がカモにされるのか?それに、ヘラー名義のレコードも問題ですが、明らかに実存するH.J.ワルターという人は、どんな了見で仕事をしていたのでしょうか。自分が関わっていないレコードに自分の名前が載っていて、何とも思わなかったのでしょうか?
ここで使用したのは英SAGA盤ですが、プレスが荒いものが多いのが悩みの種です。何種類も購入したものの、必ずどこかに不安定な音が出現します。そのため、最も良質な2種のステレオ盤を使い分けることとしましたが、それでも修正しきれない箇所もあります。ご了承下さい。

★サイモン・ラトルが指揮者になる決意をした最初のきっかけは、少年時代に聴いたジョージ・ハースト指揮によるマーラーの「復活」だったそうです。その演奏がどれほど衝撃的だったか、このシューベルトとチャイコフスキーを聴けば容易に想像出来ます。ハースト(1926-2012)は、イギリス・エジンバラ出身ですが、父はルーマニア人、母はロシア人。第二次大戦が始まるとカナダへ移り、トロント王立音楽院で研鑽を積み、帰国後1958年から10年間、BBCノーザン管(現BBCフィル)の主席指揮者を務めました。その芸風は、血筋からも分かるように英国風の穏健さとかけ離れた直截なダイナミズムを誇り、後年のシャンドス、ナクソスへの録音もありますが、この2曲はその個性が最も強く刻まれた名演として忘れるわけにはいきません。
まずは、「未完成」に仰天!女性的にしっとり奏でられる演奏に喝を入れるという意味では、C・クライバーをはるかに凌ぐうえに、呼吸は大きく深く、第1楽章展開部では、ただでさえ速めのテンポを更に急かせて、暴風雨状態!再現部直前の7:29からのクラリネットのフレージングの陰影にもご注目を。第2楽章も求心力が極めて高く、決して静謐に安住しません。潔癖な声部バランスを保ちながら心の奥底から歌いぬき、決然たる推進力で聴き手を心を鷲掴みにするのです。もう月並みの「未完成」では飽き足らないという方は、特に必聴です!
チャイコフスキーでも、その男性的ダイナミズムに溢れるスタイルは盤石。表面的にフレーズを撫でているだけのシーンなど全くありません。第1楽章でも明らかなように、楽想を内面から抉りすことと、ダイナミックな音像と推進力を導き出すこと、これら全てを共存させた演奏は、説得力絶大です。第2楽章冒頭の低弦の歌わせ方も、指揮者の本気度とセンスが象徴されています。それなりに美しく奏でるだけでも一定の雰囲気は醸し出されますが、ここに聴くような、オケが自発的にフレージを膨らませているような風情は、まさに指揮者の手腕の賜物と言えましょう。終楽章はテンポこそ標準的ですが、音楽の感じ方が半端ではないので、何もしていないようでいて、各ニュアンスが重みと密度を持って迫ります。【湧々堂】 →更なるレヴューはこちら

TRT-008
オーマンディ没後30年記念〜チャイコフスキー&シェーンベルク
シェーンベルク:浄められた夜*
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1950年3月19日アカデミー・オブ・ミュージック(フィラデルフィア)*、1950年11月19日タウン・ホール(フィラデルフィア)
※音源:米COLUMBIA ML-4316*、ML-4400
◎収録時間:77:00
Cover Art Design By Alex Steinweiss
“年々熟成を重ねたオーマンディ・サウンドの原点がここに!”
■音源について
オーマンディの「チャイ5」は、5回のセッション録音のうちの2回目の録音。「浄められた夜」は、1934年に続く2回目の録音。

★オーマンディは、シェーンベルクをこれ以外には「変奏曲」しか録音していないことからも、無調音楽へは共鳴してなかったことは明らかですが、この「浄夜」もあくまでもブラームス、ワーグナーの延長線上の音楽として捉えています。色彩的にはストコフスキーの影響を残しつつも、官能よりも人間的な温かみが優っているのが特徴。しかも、音の求心力が極めて高く、50年代初頭のオーマンディならではの直截な表現意欲が聴き手の心を奪います。トラック1の最後からトラック2に掛けての渾身の波しぶきなど、後年の録音では不可能だったことでしょう。
十八番の「チャイ5」も、古い録音ほど魅力的。前回の41年盤は、オケに染み付いたストコフスキー・イズムを味方につけた解釈だったのに対し、今録音ではオーマンディ自身の解釈として練り上げられており、5種の録音の中で最も発信力の高い名演奏として結実しています。
まずは、リズムのエッジを鋭利に立てないこと、旋律線を明瞭化するために強弱の対比を明確にすること、エキセントリックなテンポの激変を避けること、これらのオーマンディこだわりが、この時期に完全に備わっていることがポイント。これが年を経るに従って安定感重視型に傾き、RCAの録音方法の影響もあると思いますが、リズムも緩めに変質していったのは否めません。その点、ここでのリズムの冴えと響きの凝縮力の高さは実に魅力的です。
ロシア的な民族色や作曲家の真意よりも、オーマンディ自身の美学に基づいて音楽を魅力的に輝かせることこそ使命だということが、溢れかえるニュアンスの端々から感じられ、特に2楽章と終楽章では、奏者にストレスを与えることなく弾かせながら音楽の輪郭を浮き彫りにするアイデアが満載。そのどれもがあざとい演出性など微塵も感じさせないところに、オーマンディの職人芸の奥深さを思い知るとともに、オーマンディの絶頂期は50代だったのでは思えてなりません。録音状態も、音質も古臭さを感じさせません。 【湧々堂】 →更なるレヴューはこちら

TRT-009(2CDR)
カンテッリ〜チャイコフスキー:交響曲集
交響曲第5番ホ短調Op.64*
交響曲第6番ロ短調「悲愴」
グィド・カンテッリ(指)
ミラノ・スカラ座O*、
フィルハーモニアO

録音:1950年9月23-25日*、1952年10月
※音源:W.R.C SHB-52
◎収録時間:44:53+42:53
“ストイックなのに柔軟!作品の魅力を再認識させるカンテッリの天才性!”
■音源について
「第5番」は、英HMVの第1回LP発売の筆頭を飾るレコード(ALP-1001)がとかく珍重されますが、それよりも素直に演奏のニュアンスを感じ取れた、EMI傘下のWRC盤をここでは採用。世界初CD化となった日本盤は第1楽章のピッチが高く、音はこもり気味。「板起し」と思われる処理の不手際も散見されて問題外。それ以降の再発CDと比べても、発信力は雲泥の差。「悲愴」も曇りのない音像を体感していただけると思います。

★ミラノ・スカラ座管は、1950年にサバータ、カプアーナ、カンテッリと共に戦後初めて英国を訪れ、カンテッリは、“モツ・レク”、“ベト7”、“チャイ5”を指揮。ここに収録した「第5番」は、その時に急遽組まれたセッションで、単にイタリア的という言葉では済まない、カンテッリの天性の音楽性が十分に盛り込まれた名演です。第1、第4楽章で顕著なように、本能の赴くままにテンポや表情を施すのではなく、基本的にインテンポを守り、その中で克明に各フレーズのニュアンスを熱い共感を込めながら描き切っているのが特徴です。第2楽章では歌の意味、漫然と流れがちな長いフレーズの中でのアクセントの重要性を痛感させられ、音楽にメリハリを与え、独特の瑞々しい音像を確立するのに効を奏しています。全楽章を通じて最も心の染みるのが第3楽章。軽く流されがちなこの楽章を最初の一音から心の底から奏で、メカニックな響きがどこにもありません。各奏者も十分に音を聴き感じながら音化しているのが手に取るように分かります。この楽章だけでも、カンテッリの天才は疑いの余地はありません!
「悲愴」は、「第5番」の後に聴くと、オケの巧さをつくづく実感。そして実に大人の解釈!しかも、無理に枠に嵌めようとした感がなく、音楽は常に瑞々しく息づいているのですから、説得力は絶大です。第1楽章第2主題でも全く小細工を加えないことでも明らかなように、感覚的な痛快さに傾く素振りさえ見せない真摯さを貫きつつ、伸びやかなフレージングも確保する絶妙さ!そして、再現部13:43以降の決然とした直進力!これが32歳の青年の技でしょうか?第3楽章も表面的な爆演とは無縁。ノリに任せない9分台という演奏時間だからこそ気付かされる音楽的ニュアンスも頻出。ただの行進曲ではありません。終楽章も悲壮感を過剰に煽ることなく、作品のフォルムの美しさを維持したうえでの渾身の歌が横溢。中間部主題の冒頭も、ためらいもなくインテンポで滑り出しますが、内面で結晶化した悲哀が心を打ち続けるのです。【湧々堂】

TRT-010
サヴァリッシュ〜チャイコフスキー
チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」から
 第2幕;情景/第1幕:ワルツ
 第2幕;小さい白鳥たちの踊り
 第2幕;オデットと王子のパ・ダクシオン
 第4幕;情景
交響曲第5番ホ短調Op.64*
ウォルフガング・サヴァリッシュ(指)
フィルハーモニアO、
アムステルダム・コンセルトヘボウO*

録音:1957年9月-1958年2月28日、1962年1月*(全てステレオ)
※音源:仏EMI CVD-955、蘭PHILIPS 835116AY*
◎収録時間:62:53
全盛期のコンセルトヘボウ管の魅力が、意欲満点のサヴァリッシュの棒で大全開!”
■音源について
交響曲は、音にパンチ力のある米初出盤も捨てがたいのですが、力感のみならず、当時のコンセルトヘボウ管ならではの音色の魅力までしっかり感じ取れるオランダ盤を採用しました。日本の初CD化盤では、ニュアンスの焦点が定まらない凡演にしか聞こえなかったのに対し、これはサヴァリッシュの意思がビリビリ伝わり、とても同じ演奏とは思えません。当然、以前のレヴューとは評価は激変しました。

サヴァリッシュのフィリップス録音は名盤揃いですが、この「チャイ5」も例外ではなく、コンセルトヘボウ管のステレオ初期の録音の中でも傑出した名演奏です。オケにはメンゲルベルク、ケンペン時代を知る奏者が残っていたと見え、その残像が随所に垣間見えますが、その余韻とサヴァリッシュの堅実な音作りとが強力に結合して、絶妙な味わいを醸し出しています。スコアに小細工を施さないサヴァリッシュの真摯さは後年と全く変わりませんが、“遊びが無さ過ぎる”という批判はここでは当てはまりません。ロシア的な情緒に拘泥せず、あくまでも絶対音楽として対峙しながら、スコアから感じたニュアンスに確信を持ち、どこまでも音楽が瑞々しく羽ばたくのは、オケがこの作品を十八番としていることを踏まえ、手綱を締めすぎない配慮が効いているのかもしれません。
そのサヴァリッシュの絶妙なコントロールが最大に生きているのが終楽章。土俗性を洗い流し、スコアのテンポ設定を鵜呑みにすることなくすっきりとしとた造型を確立する中で、各奏者の感性が自発的に沸き立ち、結果的に、一発勝負的な熱い演奏に結実しているのです。奏者の感性、技巧の素晴らしさを挙げたらきりがありませんが、必聴はトランペット!そして、後半の全休止後の音楽の突き抜け方!コーダをイン・テンポのままバシッと決める瞬間まで、瑞々しくも芸術的香りを湛えた進行に心奪われます。
思えば、コンセルトヘボウ管が遺した「チャイ5」の録音は、メンゲルベルクからハイティンクまで全てが例外なく歴史的名演で、一つのオケが違う指揮者によってその都度名演を実現している例は、他にはウィーン・フィルくらいでしょう。【湧々堂】

TRT-011
セルのチャイコフスキー&R=コルサコフ
リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲
チャイコフスキー:イタリア奇想曲*
 交響曲第5番ホ短調Op.64#
ジョージ・セル(指)
クリーヴランドO

録音:1958年2月28日&3月14日、1958年2月28日*、1959年10月23-24日#(全てステレオ)
※音源:米EPIC BC-1002、BC-1064#
◎収録時間:76:07
“セルの美学貫徹により初めて思い知る作品の偉大さ!”
■音源について
エピックの金盤のどこかザラッとした感触も捨てがたいですが、ここではセルが志向したと思われるヨーロピアン・サウンドと、既出CDや後期LPで消え去った生き生きとしたニュアンスを最も感じられる青盤を採用。エピック録音のチャイコフスキーの「5番」やドヴォルザークの「8番」は、室内楽な響きに傾きすぎるという印象をお持ちの方も多いと思いますが、私見ではこれは元々の録音の特性であり、その後のコピー・マスターによる再発盤の平板なサウンドが、さらにそのイメージを助長してしまったと思っております。

★土俗趣味には目もくれず、あくまでも音楽のあるべき姿だけを希求するセルの信条をここでも徹底的に貫徹しています。まず特筆したいのが、2つの「奇想曲」の空前絶後の素晴らしさ!セルの厳格さを持ち込むと、これらの作品の伸びやかさが失われて窮屈にしてしまうのでは?という懸念は一切無用。むしろ、そのこだわりが、アンサンブルの引き締めだけでなく、細部のニュアンス形成に注入されてるので、最大公約数的なニュアンス作りでやり過ごした演奏とは雲泥の差の説得力で聴き手に迫るのです。
「スペイン奇想曲」の"ヴァイエーション"(1:12〜)のマイロン・ブルームのホルン・ソロは、清潔で温かみのある歌が心に染み、"ジプシーの歌"(6:58〜)は、フルートからクラリネットとソロが受け継がれるシーンのエキゾチシズム、シンバル一打までの絶妙な間合い、誰もが徹底しきれないホルンのスフォルツァンド効果の貫徹ぶりなど、無敵のニュアンスの連続。
「イタリア奇想曲」も単に陽気な音楽ではないことは言うまでもなく、全体の構成に対する眼力と響きの求心力が尋常ではないので、交響曲を一曲聴くような手応えに恐れ入るばかり。弦のテーマは、その結尾でディミニュエンドとリタルダンドを優しく注ぐ配慮に真の共感が滲み、第3部のティンパニ強打にも惚れ惚れ。最後の追い込みでも、厳格なアーティキュレーションを崩さず、トロンボーンの頭の音を明確に鳴らすのも、他では類を見ません。この2曲がこれほどの名曲であることに、初めて気づく方も多いのではないでしょうか。
「チャイ5」は、セルがクリーヴランド管と録音た唯一のチャイコフスキーの交響曲であり、「純音楽的表現」の魅力という点で、忘れる訳にはいきません。全体に漲る高潔さ、一貫した集中力、精緻を極めたアンサンブル、各ソロパートの巧さは、ムラヴィンスキーと堂々と比肩。特にテンポ、アーティキュレーションの緻密な設定に関しては厳格にこだわりを徹底させ、それが頑固な意地の誇示としてではなく、洗練されたしなやかさを携えて純化しきった音楽として迫るところが、まさにセルの真骨頂!その洗練の奥に熱い共感を込め抜いているからこそ、アンサンブルの美しさが音楽的な感銘に直結するということを思い知らされます。終楽章502小節でのシンバル追加処理は、この演奏だけの特徴。【湧々堂】 →「チャイ5」詳細レヴュー

TRT-012
岩城宏之&N響〜ミュンヘンでの「チャイ5」
リスト:ハンガリー狂詩曲第5番
 ハンガリー狂詩曲第4番
チャイコフスキー:交響曲第5番*
岩城宏之(指)
ウィーン国立歌劇場O、NHK響*

録音:1963年4月-5月バイヤリッシャー・ホール、1960年9月26日ミュンヘン・コングレス・ザールでのライヴ*(全てモノラル)
※音源:日Concert Hall M-2381、日Victor JV-2001*
◎収録時間:70:15
“大和魂炸裂!全てを攻めの姿勢でやり尽くしたN響!”
■音源について
岩城&N響によるチャイコフスキー:交響曲第5番は、モスクワ公演がキングインターナショナルからCD化されましたが、残念ながらマスターの劣化による音の潰れ等が気になりました。こちらはミュンヘン公演のライヴ。当時、公演の模様はバイエルン放送が中継放送をしたそうなので、そのテープをビクターが 買い取ったのかもしれません。もちろん音の安定感は抜群で、しかも使用盤は新品同様!これ程の極 上盤は、もう入手不可能と思われます。 ハンガリー狂詩曲は、ステレオ・バージョンもありますが、ここはあえて音質を統一するためモノラル・バージョンを採用しました。この力感みなぎる音の方を好まれる方も多いと思 います。

★1960年のN響の世界一周演奏旅行は、シュヒターの猛特訓を受けたN響が、その成果のみならず、戦後の復興を成し遂げた日本の文化水準を世界に知らしめたという点でも極めて重要な意味を持っています。まさに国を背負った演奏者側の意気込みも並大抵のものでなかったことは、外山雄三がアンコール用にあの「ラプソディ」を作曲し、岩城は演目に各国に因んだ作品を盛り込むことを提案したことなどからも窺えます。
最初の訪問国のインドから次のソ連に移動したときには、団員の多くが急激な気温差で体調を壊しそうですが、モスクワでの「チャイ5」は、そんな不調を吹き飛ばす勢いで、ロシア情緒とは違う独自のロマンと激情を敢然と表現していました。ただ、やや気負い過ぎの面も無きにしも非ず…。
一方、ツアー中盤の西ドイツにおけるこの演奏は、「有り余るやる気」が良い意味でこなれ、足場を固めながら進行するゆとりが感じられ、全体の統一感も格段に向上しています。とは言え、お行儀の良さはどこにもなく、昨今では誰もやらなくなったテンポの激変、ポルタメント、バランスを破るティンパニ強打など、テンションの高さはやはり尋常ではなく、それらが決して借り物ではない自分たちの流儀として確信的に発せられるので、説得力が半端ではないのです。
第1楽章冒頭クラリネットは、モスクワ公演では異様な遅さが際立ってましたが、ここでは確実に美観が備わり、表情の結晶度が上がっています。第2主題は、綺麗事を許さぬ骨太な推進。副次旋律への移行直前のテンポの落とし方は、この作品を完全に手中に収めている証し。コーダでの骨身を削った猛進も感動的。第2楽章は、何と言っても千葉馨のホルン・ソロが超絶品!これだけ即興性をもってフレージングを行い、同時に音を感じきっている演奏など、古今を通じて殆どありません!これを世界に突きつけただけでも、このツアーの意義は計り知れません。微に入り細に入り、工夫と共感を凝らした岩城のテンポ・ルバートにも脱帽。後年の演奏でこんな絶妙さを感じたことはありません。9:14以降の激情の煽り方は体裁など二の次で、フォルテ4つの頂点までの呼吸の持久力と大きさも、N響による最高の成功例と言えましょう。第3楽章も西洋風のエレガンスに向かわず、どこか農耕民族らしい逞しさを感じます。終楽章も音楽の感じ方が実に直感的で、その表出もストレート。持って回った小賢しさが一切ないので、その迫力たるや壮絶を極めます。終盤10:12からのトランペットの主題斉奏時に、ティンパニが一貫して強打を刻み続けますが、これほどバシッと決まった例は他に思い当たりません。間違いなくN響の、いや日本人によるチャイコフスキー演奏の最高峰に位置する名演です。
「ハンガリー狂詩曲」でも、若き日の岩城の意欲的な表現の魅力を徹底的に思い知ります。コンサートホール・レーベルが、レコード売上実績など全くない日本の無名な若手指揮者を抜擢したのです!その実力だけを確信して。スタッフの誰かが、1960年のN響の演奏を聴いていたのかもしれません。採算しか考えない今のレコード会社にはできない芸当です。【湧々堂】

TRT-013
クーベリック&VPO名演集Vol.1
シューベルト
:交響曲第4番「悲劇的」
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調*
ラファエル・クーベリック(指)VPO

録音:1960年1月14-20日、11月21-24日* ウィーン・ムジークフェライン大ホール(共にステレオ)
※音源:独ELECTROLA C053-00651、STE-91135*
■音源について
クーベリックはステレオ初期(独エレクトローラ)に、ウィーン・フィル、ロイヤル・フィルを使い分けて多くの録音を行なっています。このプロジェクトは、オケと良好な関係を保ちながら進めたからこそ、レコード1〜2枚で終わることなく進行し、「全てが名演」と言う輝かしい成果をもたらしたのだと思います。しかしその後は、不当に冷遇され続けているのはご承知の通り。CD化されても、いつも廉価盤扱い。しかも、養分を削ぎ落とした平板な音では、その真価を知ることなど到底出来ません。ジャケ・デザインは、英国盤。

レコ芸2017年6月号・交響曲・再発盤ページにクーベリック盤のレヴューが載っていましたが、「あまりにも事務的な進行」とか「統率能力不足が甚だしい」など、極端に的外れなコメントに愕然とした方も多いことでしょう。。昔から、単にきちんと演奏されているだけで「推薦」を乱発することは珍しくなく、心ある読者ならそれを額面通りに受けることもないでしょう。しかし、その逆となると断じて看過できません!名演たる要素をふんだんに含む演奏に対し、それを感知できず、ネガティヴにしか捉えられない人のコメントなど、百害あって一利なし!
第一に、クーベリックはデッカにウィーン・フィルと1950年代に集中的に録音を行い、その全てがオケの特性を活かしつつ、独自の感性を確実に刻印した名演揃いであること。第二に、劣化したマスターの使用など、復刻の仕方によっては音の精彩が減じてしまう場合があること。このどちらかさえ認識していれば、たとえその再発盤の音が物足りなくても、本当はもっと説得力の有る音だったかも?と想像力が働くはずですから、こんな事実誤認はあり得ないのです。単に好き嫌いだけでで書いているとしたら、もはや評論ではありません。もしかして、それを自覚しているから「評論家」とは名乗っていなのでしょうか?他にも突っ込みどころ満載の文言が2ページにも渡って載っていますが、いちいち添削しても虚しくなるだけですので、以下にこれらの録音の本当の魅力をお伝えします。
シューベルトは、いわば「ウィーン・フィル側」の音楽ですが、クーベリックはオケに全てを委ねているようでいて、根底で優しく統制を効かせ、清潔なアンサンブルと造形美を獲得。その40歳代後半とは思えぬ懐の深い指揮芸術に感服するばかりです。第1楽章は、過度に深刻さを避けた清らかな歌が横溢。序奏から深いコクを湛えた響きと心を震わせたフレージングが常に訴えかけ、0:55の縦の線の揃い方は、オケがクーベリックの力量に心底心酔し、どこまでも付き従うことの決意表明のよう。主部以降の流れの清らかさは、クーベリックの音楽に対する姿勢がそのまま投影されており、僅かな弦のポルタメントも絶妙な隠し味として作用。第2楽章は、弦のみならず、木管の些細なフレーズまで哀愁が滲ませながら、感傷に溺れない冷静な制御も生き、芸術的に昇華したハイレベルなフレージングの連続。第3楽章はゆったりとしたテンポ感で一貫しながら音楽は弛緩せず、野暮ったさとも無縁なのは、初めからテンポを決めて掛かったのではなく、コーダの最後の一音まで、音の意味を噛み締めて進行し続けた結果ではないでしょうか。終楽章は、かつてもウィーン・フィルの魅力が大全開。物々しく厚い響きで塗り固めた演奏では、こういう木綿の風合いは生まれません。弦の細かいリズムの刻みの全てが、抑えがたい心のときめとして響く演奏など、他にありましょうか?もし全集録音が実現していたら、ケルテス盤以上の不朽の名盤と認識されたことでしょう。
チャイコフスキーの「5番」のウィーン・フィルによる録音はクリップス以降の全てが名演ですが、中でもクーベリック盤が最も地味な存在。そうなってしまった理由は、クーベリクの責任ではないことは賢明なファンならお判りのことでしょう。演奏内容は極めて濃密で、全てがウィーン流儀だったクリップス盤と比べ、ウィーン風の癖を少し抑え、スラブ的な情感を程よく付け加え、一層普遍的な魅力を増した名演となりました。決して音圧による威嚇に走らず、決して前のめりにならない落ち着きの中から、伸びやかなスケール感と風合いを湛えた音像が終始心を捉えて離しません。
第1楽章の展開部開始を告げるホルンは、ただの強奏ではなく強固な意思を湛え、再現部前の内燃エネルギーの高まり具合も、クーベリックとウィーン・フィルと結束の強さを如実に示すもの。第2楽章142小節以降の頂点へ登りつめるまでの熱い一体感も、両者が真に共鳴しあっていなければ到底不可能です。終楽章では、スラブ的な馬力よりも作品の造形への配慮を更に優先させますが、作品への共感度合いはもちろん不変。オケを強引に操作するのではなく、指揮者とオケが完全に納得の行く自然なアプローチに徹したたからこそ、全く惰性的に流れない感動的な演奏に結実したのでしょう。微に入り細に入り、注意深く聴かなければ気づかない、音楽を一層魅力的にする配慮も随所に散りばめ、聴きべ聴くほど唸らされるクーベリックの奥技を是非じっくりと御堪能下さい。【湧々堂】 ★「チャイ5」詳細レヴュー

TRT-014
L.ルートヴィヒ/シューベルト&チャイコフスキー
シューベルト:交響曲第4番「悲劇的」
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調Op.64*
レオポルド・ルートヴィヒ(指)
ウィーンSO、
ハンブルク国立PO*

録音:1960年4月18-21日ウィーン・コンツェルトハウス、1960年3月28-30日ハンブルク・クルトゥアラウム*(共にステレオ)
※音源:独Opera St-1995、St-1916*
◎収録時間:76:47
“S・イッセルシュテット以上にドイツの意地を露骨に誇示した熱き名演!
■音源について
2曲とも極めて入手困難な良質ステレオ盤を使用しています。

★レオポルド・ルートヴィヒは、既に復刻したハイドンやベートーヴェンでも明らかなように、古典的なソナタ形式を備えた作品に対しては、自己主張を抑えて作品のフォルムの再現に徹することが多いですが、このシューベルトでもその姿勢で臨んでおり、ウィーンのオケの純朴な風合いの中に堅実なフレージングを敷き詰め、人間味溢れるシューベルト像を築きます。この演奏を聴くと、ほとんどの演奏がシューベルトを通り越して響きを彫琢し過ぎるのでは?と思えてきます。この飾らない空気感があればこそ、第2楽章の憧れの風情がしみじみと心に染みるのです。終楽章も不純物入り込む余地が無いほど、最後の一音までイン・テンポを貫徹。
これがチャイコフスキーでは激変!徹底的にドイツ流儀で押し通し、女々しいニュアンスを一切排してスリリングな演奏を展開しています。古き佳きドイツの響きと精神力で高揚させる至芸に一度はまったら、抜け出すこととは困難でしょう。とにかく全パートが熱い!弦の中低域をを主体として響きを構築する従来のドイツ流儀に加え、ルートヴィヒは更に管楽器をかなり露骨に強調しているのも特徴的ですが、これもマイク設定の影響などではではないことはすぐに分かりいただけるはず。その管は弦の動きを妨害することなく絶妙にバランスをとり、なおかつ火の中に飛び込むような決死の緊張感が聴き手の腹にずっしりと響くのですからたまりません!場面が変化するたびにテンポを変えるなど野暮、と言わんばかりの直進路線を基本としていますが、そのテンポの背後に「黙って俺について来い」的な凄みと求心力があるので、「はいわかりました」と聴き手を捻じ伏せてしまう強さがあるのです。
まず第1楽章の展開部。表面的な美感は二の次で、これほど全員がしのぎを削って演奏している演奏を聴いてしまうと、他の演奏は生ぬるく感じてしまいます。第2楽章の67小節以降も音が芯から熱しており、美しい旋律を美しく奏でることだけが演奏者の使命でないことを痛感させます。142小節以降の盛り上げ方は、史上屈指の感動の瞬間!これだけでも十分に推薦に値します。終楽章は音量をケチらずに、ワーグナー的な音の奔流に身を委ねてください。金管の咆哮には血がしたたり、「運命動機」の斉奏など、いにしえのドイツ軍楽隊のあの響きを愛する方はたまらないでしょう。
ルートヴィヒは、R・シュトラウスでもマーラーでもこういう大胆さは見せていませんので、チャイコフスキーには何か特別な思い入れがあるのかもしれません。【湧々堂】→
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TRT-015
サージェント/ショスタコーヴィチ&チャイコフスキー
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番
チャイコフスキー:交響曲第5番*
マルコム・サージェント(指)LSO

録音:1959年10月27年、1959年5月20日&6月3日*(共にステレオ)
※音源:米EVEREST_SDBR-3054、日Victor_SRANK-5507*
◎収録時間:71:06
■音源について
サージェントが遺したショスタコーヴィチのセッション録音はこれが唯一。チャイコフスキーは、1955年に続く2回目の録音。ジョン・ハントのディスコグラフィでは1960年の録音と記されていますが、これは初出年と思われるので、ここではショスタコーヴィチ共々、マイケル・グレイ氏のディスコグラフィの表記に従っています。

この「チャイ5」の演奏は、粗悪プレスによる米LPの音で初めて知りました。世間にCDメディアが出現して間もなくCD化され、クリアに刷新された音による新たな発見を期待したのですが、結果は、サージェントは「汚い音を出す人」と印象付けただけ。しかも、シルヴェストリやバティスのように表現欲が旺盛過ぎて、感覚的な美感が後退したのとは違い、ただ「無意味に汚い」としか思えず、もしかしたら、その背後には表面化していない魅力が隠されているのではないか?と妄想するしかありませんでした。
 そして出会ったのが、この良質LPの復刻盤。聴いて驚いたのは、汚いと感じていた音色がむしろ木工品の風合いを思わせ、そこにサージェントのどこかに気の置けない人間臭さとひたむきさが加味されていること。スケール感もあり、心からの歌もあり、色彩的にも独自のカラーで一貫。第2楽章ラストなど徹底して楷書風ながら、真のリリシズムに溢れていること等から、単に「無意味」と一蹴することはできないという思いに至りました。
 ただどうしても解せないのは、必然性が感じられない大幅なカット!同じく展開部にカットを施した他の例(ケンペン、セル=ケルン放送響,等)と異なり、サージェントはやや短いカットに止めてはいますが、緊張感が緩いせいもあって、接続部分の連動が不自然なことは否めません。しかも大胆にも、471小節の全休止後、運命動機の再現を18小節に渡ってごっそりカットするメンゲルベルク版まで持ち込んでいますが、これもメンゲルベルクの強烈な確信力には遠く及びません。
 こうしたカットの問題もなく、作品の性格からも、サージェントの「緩さ」がむしろ味となっているのがショスタコーヴィチ。第1楽章のゆったりとしたテンポ感が素っ頓狂な雰囲気を醸し出し、第2,4楽章も暗い陰影や深刻さよりも滑らかなフレージングを重視し、他にはない後味を残します。
 サージェントは、プロムスの名物男として聴衆の絶大な人気を集めていたとは裏腹に、オケからは二流の烙印を押され、ビーチャムの後任のロイヤル・フィルのシェフ候補として彼の名が挙がったときも、そうなったら辞めると言った団員が続出したとか。サーの称号を授かりながらそのような扱いをされた彼の真の芸風は、もしかしたら英国以外のオケとの共演なら何か見えてくるかもしれません。オケから好かれている指揮者が必ずしも良い指揮者というわけではないのですから。【湧々堂】
 →「チャイ5」の詳細レヴュー

TRT-016
R・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
チャイコフスキー:交響曲第5番*
ロリン・マゼール(指)VPO

録音:1964年5月4-6日、1963年9月13-14&6-18,20日* (全てステレオ)
1964 May 4-6、1963 September 13-14+16-18+20*
※音源:LONDON CS-6376、CS-6376*
◎収録時間:61:48
ウィーン・フィルの伝統美とマゼールの才気が融合したスパイシーな名演!”
■音源について
米LONDONはイギリス・プレス。初期盤SXLでなければならない決定的な理由が見当たらず、音楽のスケール感を余すことなく伝えていると思います。

★第1楽章冒頭の2本のクラリネットがフレーズ結尾(0:19〜)で一本のみを残しているように聞こえ、レガート風に仕上げるところから早速マゼール独自の美学が顔を出し、ロシア趣味とは異なる哀愁を漂わせます。第1主題では管楽器に対して色彩的な背景表出の任務を確実に与え、音像の弛緩を回避。こういう他の指揮者とは目の付け所が違うという点だけで「衒い」と受け取る人もいるようですが、慣習に囚われず音楽の魅力を徹底的に引き出そうとするマゼールの姿勢は、作品への真の共感の証しと言え、どうして白眼視などできましょう。パンチの効いたティンパニ強打も効果絶大。第2楽章はウィンナ・ホルンの魅力を堪能させた後、緊張が緩みやすい6:06あたりからは陰影の濃いフレージングに淀みはなく、緊張感も持続。7:07からの重心を落とした歩みは、ウィーン・フィルだから実現した風格美に結実。終楽章は、ややオンマイク気味の録音がプラスに採用。金管も弦もソリッドな立ち上がりが見事に捉えられており、マゼールの熾烈なアプローチが赤裸々に再現されて痛快です。注目すべきは、採用しているテンポ。高速で煽るスタイルを取らないのは、音と音との空白に詰め込みたい要素が豊富にあるという証拠で、実際に中庸のテンポ感の中でメリハリの効いたニュアンスを敷き詰めて最後まで聴き手を飽きさせないのです。溢れんばかりのイマジネーションを統合しながら全体をバランス良く構築できるだけでなく、聴き手に良い音楽を聴いたというじ実感を確実に与えてくれたマゼールという指揮者、決して頭脳明晰なだけではなかったのです。 
 なお、特に終楽章において、金管が唐突にオンマイク気味で聞こえる箇所がありますが、メータのリスト:「前奏曲」やワーグナーでも同様の現象が見られましたので、録音会場のソフィエンザールの特性か、録音の方式に起因するものと思われます。【2020年10月・湧々堂】

TRT-017
オーマンディのチャイ5(ステレオ第1回目)
ヒンデミット:交響曲「画家マチス」
チャイコフスキー:交響曲第5番*
ユージン・オーマンディ(指)
フィラデルフィアO

録音:1962年1月17日、1959年1月25日*(共にステレオ)
※音源:英CBS 61347、COLUMBIA MS-6109*
◎収録時間:74:46
“何度も味わいたい「画家マチス」の温かみに満ちた響き!”
■音源について
2曲ともオーマンディ&フィラデルフィア管の来日公演で取り上げられた十八番中の十八番。「画家マチス」は4回のセッション録音の最後、「チャイ5」は、5回のセッション録音のうちの3回目のもの。

「画家マチス」は、近代的で洗練された響きを前面に立てた演奏が多い名曲ですが、この録音は、全体に温かでヒューマンなトーンで統一したかけがえのない逸品!ステレオ効果を意識した色彩と、様々な響きの軋轢を避けた穏健路線に浸る前の冴えたリズムも特筆もの。
 第1楽章序奏からハーモニーが熟成され尽くされて美しく煌めき、主部はメカニックな響きと無縁のリズムの弾力と愛の溢れるフレージングで魅了。豊麗なオーマンディ・サウンドがピタリとはまった有機的な響きは比類なく、それはまるで養分をたっぷり与えられた音の粒が嬉しく戯れているかのよう。コーダでの下から突き上げるような金管の量感と、わずかに丸みを帯びたカラフルな音像と噴出力の融合ぶりも見事です。第2楽章の静謐においても色彩の光を絶やさず、終始温かな情愛を漂わせます。深刻さを嫌うオーマンディらしい音作りが最大に活きた好例と言えましょう。ステレオ初期のオーマンディの録音の中には、曲に慣れすぎたせいかルーティンに流れることもありますが、この終楽章の呼吸の深さとテンポの自然な切り換えは、作品への心からの共感なくして成し得ないもの。主部はもちろん鋭利な響きとは無縁。蜜蝋のように艷やかな響きを醸し出すために、最適なテンポの設定と響きの研磨のさじ加減が不可欠であることを思い知らせれます。後半10:00以降の木管の細かい音型のポップな弾け方!それ以降は今更ながらフィラデルフィア管の巧さに惚れ惚れするばかり。最後のファンファーレも大見得を切らず、素直な健康美を貫徹。 とかく感覚的過ぎると軽視されがちなオーマンディですが、その感覚美の中にいかに多くの見識とセンスと経験が凝縮されているかを思い知るとともに、他の有名名盤でこれ程この作品の多面的な魅力を引き出してくれる演奏はなかなかないと思います。
 「チャイ5」は、今までの演奏経験の集大成と言える確信的なアプローチを散りばめながら、特に作品の流麗さと感覚的な甘美さの表出に力点が置かれています。モノラル期までのリズム主体のアグレッシブさはかなり後退していますが、展開分最後(9:18〜)のクレッシェンドでストコフスキーの影響がはっきり出ている点や、第2楽章172小節を始め何箇所もポルタメントを注入するなど表現意欲満々。特に第2楽章では、フィラデルフィアの弦の魅力をとことん堪能できますし、決して無視してよい録音ではありません。ただし、残響はかなり多めに取り入れられています。【2021年5月・湧々堂】 →「チャイ5」の詳細レヴュー

TRT-018
マタチッチのロシア音楽1
ボロディン:「イーゴリ公」より
 序曲/ダッタン人の行進/だったん人の踊り
チャイコフスキー:交響曲第5番*
ロヴロ・フォン・マタチッチ(指)
フィルハーモニアO、チェコPO*

録音:1958年9月、1960年3月12-15日*(全てステレオ)
※音源:仏TRIANON TRI-33114 、独musicaphon BM30SL-1614*
◎収録時間:71:21
““マタチッチの強力なオーラでチェコ・フィル・サウンドが豹変!”
音源について
チャイコフスキーはスプラフォン音源ですが、あえて音に腰の座った安定感があるドイツの重量盤を採用しました。スプラフォン盤のCDでは気づかなかった手応えがここにはあります。

★マタチッチとフィルハーモニア管の「ロシア管弦楽曲集」は、ステレオ初期のありとあらゆる管弦楽曲録音の中でも演奏・音質両面において頂点をなす名演の一つだとと、私は長年確信し続けています。ウィーン・フィルやベルリン・フィルとは違う「無色透明」を旨とするフィルハーモニア管の音色を野性味と重量感のあるサウンドに激変させていることに、まずマタチッチの偉大さを思い知りますが、その演奏内容は奇跡の連続!例えば「だったん人の踊り」。主席のシドニー・サトクリフと思われる有名なオーボエ・ソロ(3:16)は、技術も表現もこれ以上の演奏は不可能と思われるほどで感動的で、そこへそっと身を寄せる弦のシルキーさも空前絶後!これを味わえる喜びと相まって聴くたびに涙がこぼれます。他の魅力まで書けばきりがありませんので、無理やりチャイコフスキーへ移ります。
 そのチャイコフスキーは、N響との共演盤でも十分満足ですが、こちらはこちらで聴き所満載です。相手は伝統的な音色美を誇るチェコ・フィル。さすがのマタチッチもその純朴なサウンドの上にスラブ的な豪放さを植え付けるのに苦労したと見え、技術的にも表現的にも純朴すぎるその「癖」を制御せずにやり過ごしている箇所も散見されます。ただ、それを強引に理想に近づけようとすればオケの美観を失いかねず、説得力のある演奏からも程遠くなってしまうという読みと、スタジオ録音の制約もあって、オケに最重要ポイントのみの徹底に終始したのかも知れません。いずれにせよ、ギリギリまで突き詰めるのではないマタチッチの懐の深さが、音楽のスケール感の確保に繋がっていると思われます。
第1楽章冒頭クラリネットから、クラリネットの2本使用が音色の幅を広げていることを誇示するかのように太い音色で吹かせているのがいかにもマタチッチで、第2主題や副次主題が少しも女々しく傾かず、精神的な強靭さを湛えているのも同様。コーダでトランペットが合いの手を入れる512小節(12:26)の8分音符と16分音符が音価どおりに吹かれることは稀ですが、ここではチェコ・フィルの素朴さがスコアの素の姿を示しており興味深い現象です。
 第2楽章のホルン・ソロは史上屈指の名演で、濃厚なヴィブラートを駆使してオペラ・アリアのように歌いあげる様はあっぱれ!このように思い切り歌わせる姿勢は楽章全体に一貫しており、細かいルバートのタイミングや強弱の加減程度の指示に抑えて、あとは呼吸で勝負するような気宇壮大な空気が横溢。ちまちましたことを言えなくなるほどの説得力は、そこから生まれている気がします。
 第3楽章は小気味良い楽想がチェコ・フィルにピッタリ。終結部の木管の絶妙な浮き出しは、先述のピンポイント的な指示の一つと思われ、その徹底ぶりが尋常ではありません。
 終楽章もマタチッチならではの勇壮な音楽。172小節以降、運命動機を斉奏する金管に木管軍が呼応する際にピッコロを核としたバランスを徹底して光彩陸離たる輝きを注入するいかにもマタチッチらしい趣味で、鄙びたチェコ・フィル・サウンドは跡形もありません。曲の終盤に向けて、チェコ・フィルが伝統の殻を破リ続けてマタチッチ寄りのサウンドにどんどん近づく様はそれだけでもワクワクします。【2022年8月・湧々堂】
「チャイ5」の詳細レヴュー


TRT-020
超厳選!赤盤名演集Vol.7〜シルヴェストリによるスラブ作品集
ボロディン:「イーゴリ公」〜だったん人の踊り*
ブラームス:ハンガリー舞曲第5番/第6番(シュメリンク編)
ドヴォルザーク:スラブ舞曲第1番Op.46-1/第2番Op.46-2
チャイコフスキー:交響曲第5番#
コンスタンティン・シルヴェストリ(指)
パリ音楽院O、フィルハーモニアO#

録音:1961年1月30日-2月1日*、1961年2月2日、1957年2月21-22日#(全てステレオ)
※音源:TOSHIBA WS-23 、WS-20#
◎収録時間:75:31
“実行すべきことをしたに過ぎないシルヴェストリの純粋な狂気!”
■音源について
「ワールド・レコード・クラブ特選」と題されたLP8枚組ボックスから、英COLUMBIAと同一のYAXスタンパーによる赤盤を採用。

★シルヴェストリが遺したチャイコフスキーの三大交響曲の中でも最もその個性を発揮し尽くしたのがこの「5番」。その奇想天外なアイデアだけを捉えて「異常」とか「爆演」とか呼ばれます、ウィーン・フィルのような伝統的な音色を持たずに機能美とセンスを旨とする当時のフィルハーモニア管に、土埃と汗の匂いを注入していることが重要で、シルヴェストリが真の指揮者であることを実証しています。大胆なテンポや強弱の変化が、もしも綺麗に整理されたアンサンブルから飛び出たらどうなるでしょう?テンポもフレージングも音色も全てが不可分であることを理解した上で、音楽を生き生きと再現するという指揮者の使命を純粋に果たしているにすぎないシルヴェストリのアプローチ。そこには個人的な趣味も投影されているとは思いますが、作品への愛が本物であるからこそ、常識離れであっても作品の本質からは逸脱しないのです。
 そのことは、第1楽章冒頭クラリネットと弦のフレージングから明らか。「何となく暗い」雰囲気だけで進行することが多い中、この訥々とした語り口と艶の失せた音色を名手揃いのオケに徹底敢行させ、しかも主体的な表現に結実させています。主部の暗さも遅めのテンポと一体となって醸し出され、1小節ごとにニュアンスを確かめつつトボトボと歩を進めます。第2主題の128小節からの4小節間で顕著なように、レガートを回避して甘美路線に傾くこと戒める意思の強さや、洗練された声部バランスで見通しよく鳴り響く感覚的な心地よさとの決別ぶりは一貫して揺るぎません。
 第2楽章ホルン・ソロはデニス・ブレイン。日頃からソリスティックな吹き方をしないブレインにしてもここでの吹き方はかなり陰影が抑制的なのは、シルヴェストリの指示なのかもしれません。逆に中間のクラリネット・ソロ(バーナード・ウォルトンと思われる)は、涙なしには聴けない切なさ!続くファゴットからポルタメントを含む弦への連なりは、全楽章を通じての白眉!これを聴いてシルヴェストリをまがい物呼ばわりなどできましょうか?ラストシーンでは、独自のアティキュレーションを施しつつ、後ろ髪引かれる風情を醸成。その思い悩んだ気持ちのまま、すぐにワルツで踊るなどあり得ないということでしょうか?続く第3楽章冒頭の音価を引き伸ばすのみならず、4拍子に聞こえるほどリズムの輪郭をぼかす大胆さ!3拍子が拍節が明確化してからも、夢の中をを彷徨うようにテンポは微妙に揺れ続けます。
 終楽章の主部は速めのテンポで突進しますが、アンサンブルは正確無比にも拘らずスマートさは皆無。土埃を立てながら馬車が駆け出すようなこの表現も、シルヴェストリ特有の音色センスの賜物。驚くのは再現部冒頭(6:30〜)の突然のテンポアップ!スコア上ではここでアニマート(生き生きと)の指示がありるので、その意味を汲んで果敢にニュアンス化したわけですが、シルヴェストリにとっては果敢でも何でもなくやるべきことをやったまでのこと。それにしてもこのレスポンスの良さ!オケがフィルハーモニア管で本当に良かったと痛感するばかりです。後半全休止前の猛進も凄まじいですが、504小節のプレスト以降は速さは、未だこれを超えるものはなく、このテンポを言い渡されたフィルハーモニア管の面々の心理、演奏不可能なテンポをあえて要求したシルヴェストリの真意をあれこれ想像するのも一興。
 シルヴェストリの音楽を聴くたびに思うのは、アプローチが十分に常識離れしているにもかかわらず、「常識こそが非常識だ!」などという強い主張を表面化させない凄さ!音楽の魅力を出し切ることにしか興味がないかのようなこの純粋さはマタチッチを彷彿とさせますが、何かに夢中になるということは理屈を飛び超えて人を惹きつけるものだということを聴くたびに再認識させられるのです。
 戦争も体験せず、悩まず苦しまずスマホですぐに答えを導き出せる世の中。しかも、自分自身にどこか自信がなく、人の目ばかりを気にする風潮は世界中のあらゆる分野で見られる現象ですから、昨今のクラシック音楽の演奏が生温いものばかりになってしまったのも必然と言えましょう。そんな中から、シルヴェストリにような「「純粋な狂気」を持つアーチストが生まれるなど考えられませんが、復刻ではあってもこうして、「真の音楽表現」に触れる機会は決して無くならないはずです。それを心から味わいたいと願う聴衆が存在する限り…。【2022年6月・湧々堂】

TRT-021
ミトロプーロス/ボロディン、チャイコフスキー他
ボロディン(R=コルサコフ編):だったん人の踊り*
イッポリトフ=イワーノフ:「コーカサスの風景」組曲第1番**
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調Op.64#
ディミトリ・ミトロプーロス(指)NYO

録音:1953年4月20日*、1952年12月1日**、1954年3月27日# (全てモノラル)
※音源:米COLUMBIA CL-751*,** 、英PHILIPS SBL-5205 #
◎収録時間:79:04
“絶頂時のミトロプーロスのだけが可能な壮絶無比な魂の叫び!”
■音源について
3曲ともミトロプーロス唯一のセッション録音。1日で1曲録音してしまう例は昔は珍しくありませんが、これらはアンサンブルの傷も皆無ではないことからほぼ無編集の一発録りと思われ、閃きが命のミトロプーロスにとって、それはむしろ望ましいスタイルだったと言えるでしょう。チャイコフスキーの音源は、米COLUMBIAの6つ目盤ではなく、あえて英PHILIPS盤を採用。なお、英GuildレーベルのCDも板起こし復刻ですが、ノイズリダクションが強めで音がややこもりがちでした。

★この「チャイ5」は、ニューヨーク・フィルの機能性と自主性を全面的に信頼した上で、ミトロプーロスが全身で感じ取った音楽のイメージをストレートに表現に転化し尽くした驚異的名演!全てのニュアンスが個性的でありながら、全体を俯瞰する構成力と細部の掘り下げとの調合も同時に完全遂行するという離れ業は、絶頂時のミトロプーロスだけが実現可能なものと言えましょう。
 第1楽章序奏部は単なる悲しみを超え、抑えきれない不安がクラリネットの野太い音色に乗せて塊となって押し寄せます。それが主部に入ると洗練味を増し、集中力も加味して見事な推進を見せます。第2主題前の104小節から、管楽器の一斉に抑えて弦だけで高潔な響きを醸し出すという配慮は、理屈を超えたセンスの高さの表れ。第2主題は、楽章全体のビジョンを象徴するかのように呼吸がとてつもなく深いこと!ピン・ポイントでテンポに緩急を付加する場面も頻出しますが、全てが正直な衝動の反映であり、安易な思いつきの印象を与えないのです。
 第2楽章は、ホルンのスコア遵守度の高さがまず印象的。クラリネット・ソロが登場する中間部に至るまでの呼吸のしなやかさと官能美は、間違いなく世界最高峰!マッチョな盛り上がりで煽るロシア流儀とは別世界です。クラリネット・ソロの後はフレーズの結尾を執拗にリテヌートし、その後ろ髪を引かれる風情に心惹かれますが、108小節のピチカート以降は、全体の白眉!もはや神憑り的フレージングと呼ぶしかなく、セッション録音でこれが実現できたのは奇跡!終結部の弱音に頼らない濃密なフレージングにも言葉を失い、背景のホルンのリズムの遠近感も前代未聞で忘れられません。
 第3楽章冒頭第1音は、音価の引き伸ばし方がいかにもミトロプーロス。中間部の強弱対比の鮮やかさはまるで人間のお喋りのようで実にリアル。コーダで運命動機がいきなり飛び込むシーンのドキッとする唐突感は、無敵の瞬発力を誇るミトロプーロスの棒でなければ実現不可能でしょう。
全楽章において、マッシブな造形力がびっしりと張り巡らされていますが、感覚的な馬力や暴力性とは無縁で、全てが心の奥底からの魂の叫びの音化であることがミトロプーロスらしさの所以。終楽章の冒頭や終結部などは、その好例と言えましょう。504小節からの弦の8分音符を装飾音として扱うのも他に類例なし。
 全体に息づく生死にかかわるようなのっぴきならないニュアンスの数々は現代には求めようもなく、いくら机の上でアイデアを凝らしても追いつくものではなく、「やり過ぎ」とか「古臭い」といった上辺の現象だけを捉えて済まされる代物でもないのです!→「チャイ5」の詳細レヴュー
 「コーカサスの風景」も、エキゾチックな魅力を最大に引き出した名演。特に有名な“酋長の行列”は、土俗性と格調がミックスされた独特の雰囲気が、絶妙な粘度を持つリズムと共に迸ります。 【2022年6月・湧々堂】

TRT-022
シュヒター/チャイコフスキー&シベリウス
チャイコフスキー:イタリア奇想曲*
シベリウス:交響詩「フィンランディア」**
 悲しきワルツ#
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調##
ヴィルヘルム・シュヒター(指)
北西ドイツPO

録音:1954年11月25日*、1957年8月29日**、1955年2月22日#、1956年10月22-25日##(全てモノラル)
※音源:伊EMIL QUM-6361、HMV XLP-20009##
◎収録時間:72:31
“シュヒターの厳しい制御が活きた品格漂う名演奏!”
■音源について
全てElectrola - Imperial音源。

★1959〜1962年に常任指揮者としてN響を徹底的に鍛え上げたシュヒターは、人間的にはかなり陰湿だったという証言もありますが、遺されている放送録音を聴く限り、オケとの間に壁など感じず、むしろ品格とスケールを兼ね備えた演奏が多いのは興味深いことです。そして、手兵の北西ドイツ・フィルとの録音でも同様の矜恃を強く滲ませたものが多いのです。
 「イタリア奇想曲」は、まず冒頭テーマのアーティキュレーションの高いセンスに唸らされます。第2部〜第4部にかけてノリに任せず目の詰んだアンサンブルを育む姿勢はまさにシュヒターそのものですが、そこには温かな風情も漂います。最後の第5部に入ってもすぐには加速せず、12:40付近からアクセル全開となるのにはビックリ!
 「フィンランディア」では勇壮さの中に熱い共感を込めた演奏を展開しますが、より感動的な「悲しきワルツ」。冒頭部の機械的なまでのイン・テンポ感が感情を希薄に追い込むほどの苦悩の裏返しのように響き、オケの渋い色彩も手伝って1:44からの明るい楽想でもその絶妙な暗さは持続。2:30のルフト・パウゼも意味深!後半は、テンポを追い込みつつ決然とアゴーギクを敢行。高次元の芸術的昇華を見せるのです。これほどの名演が埋もれたままでよいはずがありません!
 「チャイ5」も間違いなくシュヒターの代表的名演。N響とも演奏した十八番曲だけに、精緻なアンサンブルと入念なニュアンス注入が常にセットで実現されているのを聴くと、身を粉にして作品に奉仕するシュヒターの真摯さが尋常ではないことを痛感するばかり。それがロシア的かどうかなど問題ではなく、とにかく、どの表現も切実に胸に迫るのです。
第1楽章冒頭クラリネットは素朴さを保持したまま声部間のバランスも同時に確保し、オケの特性を十分に知り尽くした上でそれを有効活用し尽くそうとするシュヒターの意思が早速感じ取れます。第1主題のテンポもまさに理想的で、このテンポ以外では全ての楽想が真に息づくことはないと思わせるだけの確信が宿っているのです。4:17からはドイツ流の金管の張り出し方が物を言い、特に、4:30からのトロンボーンがフレーズ末端まで鳴らし切ることの大切さに気付かされます。少しも媚びない第2主題や副次主題は、シュヒターの音楽作りの根底にある品格の現れ。音楽の品位を保とうとすると音楽自体が小さくまとまりがちですが、シュヒターの指揮にはその心配はご無用。
鬱蒼とした森の囁きを思わせる第2楽章のホルンの響きも素敵で、特に最後の一吹きのアクセントはお聴き逃しなく!4:01のルフト・パウゼがこれほど意味を持って響く例も稀。「悲しきワルツ」でも確認できたように、これだけでもシュヒターが厳しいビルダー以上の才能の持ち主だったことの証左と言えましょう。第3楽章の遅いテンポ設定はケンペ&BPO盤でも見られるドイツ流儀の象徴ですが、オケの音色的特徴も含めて楽想との相性は抜群。そのドイツ流儀は、終楽章で更に全開に。テンポこそカラヤンに近いですが、虚飾を排した進行と実直な音の積み上げに安易な感傷の入り込む隙はなく、全く様相は異なります。
 シュヒターは、録音で聴く限りドイツ音楽よりも北欧・スラブ系作品との相性の方が良かったよう思われますが、その真価をこの4曲からもはっきり感じていただけることでしょう。【2023年3月・湧々堂】

TRT-023
モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
チャイコフスキー:スラブ行進曲*
 交響曲第5番ホ短調Op.64#
ジョン・バルビローリ(指)ハレO

録音:1959年3月30日&4月2,5-9日、1959年3月31日*、1959年3月30日-31日#マンチェスター・フリー・トラッド・ホール(全てステレオ)
※音源:Pye GSGC-2038、日TEICHIKU_UDL-3082-Y*,#
◎収録時間:73:42
敵なし!バルビローリならではの怒涛のロマン!!”
■音源について
チャイコフスキーの交響曲は、いわゆる初期の黒金ラベル盤を採用するのが普通の選択だと思いますが、新品同様盤を何枚聴いても音が抜けきらなず、背景のゴロツキも特に第1楽章冒頭で目立つものばかり。そんな中、最も軽視していた日本のテイチク盤を聴いたら、音の太さといい素直な鳴りっぷりといい、大いに納得の行くものでしたので迷わずこれを採用しました。正規CDではとかくオケの技術的な不備が際立って聞こえますが、それ以上に音楽的に不可欠な要素が充満していることも気づかされました。ジャケ写は、英国のモノラルLPをベースにしています。

★NYO盤は、ここぞという箇所以外はテンポの揺れを抑え、逞しい精神が漲る名演でしたが、基本ラインはこちらも同じ。随所に弦のポルタメントを挟むなど、ややロマン的なニュアンスに傾斜していますが、テンポ自体は一層正当的なものになり、過度に感傷的なニュアンスに陥らない配慮も変わりません。第1楽章で、特に展開部に照準を合わせて、テンポ加速とともに激情を過熱させるのもNYOと同じ。全楽章を通じで一貫したコンセプトを感じ、共感の熱さも並々ならぬものを感じます。
 第1楽章第2主題でのテンポを落とさなず一気呵成を貫くのは、聴き手の期待から少しズレたアプローチをするバルビローリらしさですが、副次主題(5:32〜)では、バルビローリならやってくれるだろうという期待以上のむせ返るようなポルタメントの大放出!ただそれが、お上品なのレガートに流れない点にご注目。その直後の猛烈な突進力にも唖然としますが、その勢いを温存したまま弾丸モードで進行する展開部以降は手に汗握ること必至。コーダにおける決死の熱さは、逆に寸分の隙もない高性能なオケだったらなら醸し出されなかったかもしれません。
 第2楽章は、素朴な愛の告白の連続。表面的な美などどこにも存在しません。中間のクラリネット・ソロの後に現れるチェロのフレージング(5:26〜)は絶妙な強弱を交えてリアルに感情を吐露するねど前代未聞。そして、8:47以降のヴァイオリン群の弦が切れんばかりの夢中な歌いっぷり!一流オケによる数々の名盤を思い返しても、これほど音楽の本質を抉ったアプローチはなかったと思います。まさに体裁など二の次のバルビローリ節の真骨頂と言えます。
3楽章は、バルビローリ独自の色彩力が開花。コーダのティンパニを軸とした強烈なパンチ力はこの復刻を通じて初めて認識。
 CDではとかくこのティンパニの音は細身で硬質に感じられましたが、本来はこのように男性的な逞しさを湛えたものだったのです。それをさらに痛感するのが終楽章。テンポこそ中庸ですが、ニュアンスは常に勇猛果敢を貫き通しますが、全休止直前は世界の終わりの如き絶叫!それだけならまだしも、多くの演奏が小さくしぼんでしまう全休止後においても、音の張りと輝きを後退させない凄さたるや他に比類なき成果で、それを実現させているのも愚直な愛だけというところに、本物の芸、本当の美を感じずにはいられません。【2024年6月・湧々堂】
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